気がつけば、彼女が料理をするようになったのはいつからだっただろうか。
子供は、親の知らないところで成長するというのは本当だった。そう嘆くように呟いたとき、伊達にそんなもんだと疲れた顔で肩を叩かれたのは記憶に新しい。今、遥はガスコンロの上にフライパンを置いていた。その傍には、合わせ終わった調味料と、切り終わった野菜と肉。慣れた動作で、それをフライパンに移すと炒めていく。いつの間にそんなことができるようになったのか。そう問い掛けると、嬉しそうに声を立てて笑った。
「ずっと前だよ。隠れて練習してたの」
高い笑い声が響く。ひどく大人びているというのに、声は普通の子供のものと同じ高さだった。エプロンを結び、少しだけ爪先立ちで料理を作っていく。柔らかな湯気が立ち上り、ジュージューという音が続く。穏やかな昼下がりだった。まるで、一年前の事件が嘘だったかのような。
ずっと、二人だけでここで静かに暮らしていたかのような。
そんな錯覚に陥って、後ろからその姿を見つめる。
白くて丸い頬は甘い輪郭を描き、人の肌というより何故か雪を思わせた。
触れれば、溶ける。そんな気がする。
ここにあることが、まるで奇跡のような。
(まだ小さい)
けれども。
(いつの間にか、大きくなった)
一年、まだ経っていない。それでも、子供は育つことに不意に気づく。少しずつ、少しずつ、緩やかに彼女が育っていくことでそれを知る。時が着実に積み重なっていく。
今はまだ小さな後姿を見ながら、育った姿を脳裏に描く。
やがて手が伸びて、足が伸びて、あいまいな、ただ優しいばかりの輪郭が削れて。花が咲くように、蛹が破れるように。あるいは、子犬がしなやかな獣になるように。少女は変わっていく。
いつか、育ちゆく。
彼女のように。
かつて自分の愛した女性の面影が揺れる。長い髪と、細く、けれども凛とした立ち姿と。その光景は切なく、あまりに儚く。僅かに目を逸らせば、光と共に消えていく。振り向いて、笑う。その姿を、思い出そうとして、うまく思い描けない。
そのことに、眩暈を覚えた。
「どうしたの、おじさん?」
視線を感じたのか、遥が振り向いた。それと同時に、重なっていた残像は音も立てずに霧散する。子犬のような大きな目がこちらを見る。一瞬、言葉に詰まり、けれども淀みなく答えた。
「いや――遥も大きくなったなと思ったんだ」
そう言うと、ふふっと彼女は笑った。絶え間なくフライパンを揺すりつつ、小さく胸を張る。
「そうだよ。背だって随分伸びたんだから」
笑顔を返すと、彼女も微笑んだ。同時に、何か油が跳ねる音が響いた。彼女は笑みを消すと、慌ててフライパンに向き直った。火を弱めて、胡椒を手に取る。その姿は慣れきっており、安定感がある。フライ返しを動かす様子も、堂に入ったものだった。そんな彼女の成長が嬉しく思えて目を細める。
「待っててね、もう少しでできるから」
柔らかな声が告げる。
甘い声が嬉しげに言う。
『待っててね、もう少しで―――』
ぐらりと、景色が揺れた。
どこかの酒場で。
緩やかな橙色の灯りの中で。
満たされきった幸福な場所で。
かつて、同じ言葉を、聴いたことがあった。
(失って、失って、失って)
全て空っぽになった先に、この小さな後姿だけが残った。
やわらかく、温かく幼い姿。唯一残された大切な家族だった。
けれども、不意に失った者と背中が重なる。
誰一人として守ることのできなかったこの手を。
擦り抜けて行った儚い姿が。
そのせいで、思案に沈む。後姿を見つめながら思う。
(やがて手が伸びて、足が伸びて)
幼い姿が失われて。
いつか自分以外の誰かを見つけて、生きて、生きていけるまで。
(俺は、お前を守っていけるだろうか?)
小さな後姿に思う。
やがて、この手を離れて、彼女が生きていけるまで。
まるで祈るように、願うことはひとつだけだ。
(お前が、生きて、生きて、幸せになれるように)
そのためならば、この身など。
壊れたとしても構わなかった。
幸 福 論
ただ、幸せにと、まるで祈るように。
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