それに、貴方を
建設業を表の生業にしている真島は、ふだんからわりと忙しかった。
それを感じさせないほど桐生の家に通っているのは、ほとんど寝ずに仕事を済ませ、家にも帰らずに桐生の家へ直行しているからだ。
それを桐生も薄々感じてはいたが、言って聞くような人ではなし。
何より…会えるのが嬉しかったから…何も、気づいていない振りをした。
けれどここ最近、真島が家にくる回数が減っていて。
遥が用意した夕飯が、毎回のように一人分余るようになっていた。
いつもなら何が何でもやってきて、遥とはしゃいで、桐生をからかって…そんな人だったのに。
騒がしい真島がいないだけで、夕飯の時間が暗くなるようだった。
「真島のおじさん、今日も来ないのかな?」
キッチンで夕飯の用意をしていた遥が、リビングの桐生に声をかけた。
夕飯の時間が迫ってきていて。
だけど、真島が来る気配もなく。
作るだけで、食べる相手のいない料理にラップをかけるのは…寂しかった。
だから今日も来ないようなら、作らないでおこうかと桐生に相談しようとしたのだが。
リビングにいるはずの桐生から、返事が返ってこない。
気になって顔を出してみれば、桐生はうわの空で…ついているテレビも、頭に入っていないようだった。
「おじさん?」
少し強く呼ばれ、桐生ははっとしたように振り返る。
そしていぶかしげな遥に、慌てて笑顔を作った。
「わ、悪い。何だ?」
「…うん、お夕飯の事なんだけど…」
真島の分をどうしようか、と聞こうとしてやめた。
こんなに寂しそうな顔をしている桐生に、真島の事を聞けない。
遥も真島がいなくて寂しい思いをしていたが、桐生の寂しいはもっと違う何かなのだ。
桐生のことは誰よりもよく知っているから、わかる。
「今日は外で食べようよ。たまには気分転換で。いいでしょ?」
遥の提案に、桐生は微笑んで頷いた。
ここ最近、桐生の家に行けなかった。
本業にしている建設業で面倒が起こり、その後始末に駆けずり回っていたからだ。
舎弟の一人が不渡りの手形を掴まされてくるわ、耐震偽造の余波が押し寄せてくるわ、散々な日々だった。
真島は社長として表では駆けずり回り…裏では存分に拳をふるい…なんとか、乗り切ることができた。
ヘマをやらかした舎弟も本当なら半殺しにしてやりたいところだったが、今は少しでも早く桐生に会いたかった。
「桐生ちゃん、いま会いに行くからなー!!」
疲れて床にぶっ倒れている舎弟たちを踏みつけ、真島は意気揚々と事務所を飛び出す。
向かうは、桐生の家。
会えば真っ先に抱き締めて、頬ずりの一つでもしてやろう。
遥がいる時はちょっぴり過度なスキンシップしかできないけれど、それくらいは許されるだろう。
だって、本当に久しぶりなのだから。
真島は自慢のムスタングを走らせて、桐生のマンションへと向かう。
遥の作る食事も久しぶりだ。
忙しい間はずっと、食事をゼリー飲料で済ませてきた。
味気ない、と感じるようになったのは…三人で夕飯を食べるようになってから。
「あー…でも、ワシの分、用意しとってくれとるかな?」
もともと、連絡をしなくても真島の分は用意されていた。
けれどここ数日、行かなかったから…
「無いかもなー…それも寂しいわー…」
なら、ケーキでも買っていこうか。
食事は仕事先で済ましてきたわー、とか言って。
一緒にケーキを囲むだけでも、十分自分の心を癒す団欒ができる。
真島はハンドルを切ると、桐生が好きだと言っていたケーキ屋へ車を走らせた。
制限速度を無視してつっ走り、四輪ドリフトで店の前に駐車する。
スモークをはった車相手だと、レッカー移動も駐禁もやってこないから安心だ。
真島は自分相手に青ざめる店員ににっこり、邪悪な笑みでショートケーキをホールで注文した。
店員は大急ぎでケーキを包装していき…真島はその様子をショーケースにもたれかかって見ていて。
ふと、ケースの上に置かれたカゴが目に止まる。
入っているのは、マジパンで作られた動物たちだった。
その一つに…真島の頬がゆるむ。
「おい、ネェちゃん!」
声をかけられ、店員は派手にびくつく。
「これ、追加頼むわ」
久々の外食は楽しかった。
手軽なイタリアンを楽しんで、ゲーセンに行ってゲームを対戦。ぬいぐるみも取った。
「楽しかったー!たまにはこういうのもいいね!」
「ああ、そうだな」
手を繋いでの帰宅。
ほんのり頬を赤らめた遥は桐生を引っ張るように廊下を歩き…ふいに、足を止める。
桐生も立ち止まり、玄関の前に座り込む人に目が釘付けになった。
「兄さん!?」
遥の手を離し、桐生は走りだしていた。
ずっと、会いたかった人の姿に、胸が痛いほど跳ねる。
ドアにもたれかかるように体を丸めていた真島は桐生の声に、はっと顔をあげた。
「…桐生ちゃん…どこ行っててん」
まだ夜は寒い季節。
かじかんだ舌のせいで、少しろれつが回らない。
「すみません…出かけていて」
「ワシ、一時間くらい待っとってんで?」
「今日も…こないと思ってて」
「仕事、今日でカタついたから。また明日から来るよって…そない、泣きそうな顔せんといてや」
知らず知らずのうち、桐生の目からは涙が溢れていた。
寂しかった。
お互いに。
また、長い間、会えなくなるんじゃないかと…怖かった。
真島の手が涙をぬぐい、そのまま桐生を抱き締める。
「会いたかったわー…桐生ちゃん。…遥ちゃんもな?」
追い付いてきた遥を見上げれば、華のような笑顔があって。
「私もだよ。おかえりなさい、真島のおじさん」
「ただいまぁ」
「ほれ、桐生ちゃん。おみやげvv」
「はい?」
ぽんと手のひらにのせられたビニールの包み。
「それ、桐生ちゃんにそっくりやと思てん」
「………」
クマのマジパン人形に、桐生は真っ赤になって顔を背けた。
ケーキを切り分けていた遥はそれを見てクスクス笑い…
さっき、桐生に取ってもらったぬいぐるみを真島に見せた。
青い、トカゲのぬいぐるみ。
「これ、真島のおじさんに似てるって桐生のおじさんが取ってくれたんだよ」
一緒だね。
そう遥が笑えば…桐生と真島はお互いを見つめて、赤面した。
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1月の大阪は、冷たい北風が吹いていた。長く伸びる遊歩道の、両側に聳える広葉樹の木々は、全ての葉を落として、寒々と晴天の空を指していた。
その下を、龍司はゆっくりと歩いていく。それは、隣を歩く女性に合わせたものだった。
横には、黒いコートの女性がいた。同じように歩く、黒い髪。見上げる瞳は冬の夜空のように輝き、寒さのせいか、両頬は林檎のように赤かった。化粧一つしなくても、その美しさは際立っているな、と龍司は思う。
まだ高校3年生の彼女は、大阪の某有名私立大学に推薦入試で合格した。今日は入学手続きのために、わざわざ大阪まで来たのだ。
「ゴメンね。面倒な事につき合わせちゃって」
あざやかな笑顔。軽やかなステップで歩く足。出会った頃は、まだあどけない小学生だったのに、少し見ないうちに、すっかり大人になっていた。東京に仕事で出かけたときにちょくちょく会っていたが、こんなに綺麗になるとは思わなかった。
「遥。昼飯はウチですき焼きや。お祝いやからな」
言えば、彼女は軽く頷く。関東の東城会四代目の、あの『堂島の龍』の娘が、目の前にいる澤村遥だった。
いつものリムジンで、龍司は遥を家に招いた。近江連合六代目の龍司の家は、実は南北朝時代から繋がる古いの家系だ。純日本家屋のお屋敷に、遥は何度か来た事があった。今では勝手知ったる他人の家だ。
いつもの、庭を見渡せる部屋に座卓を出し、カセットコンロと鉄鍋を出す。組の者が用意してくれた、野菜やら肉やらを机いっぱいに並べ、二人だけの合格祝いは始まった。
「美味しいね。関東の割り下も好きだけど、関西のも大好き!」
遥は幸せいっぱいの笑顔でねぎをつまむ。龍司はそれを見て、少しだけ心が痛んだ。
「遥は、学部は何や?」
龍司が聞くと、
「法学部。前も言ったジャン」
「そうやったな。私立だと、学費とかかかるやろ。金、大丈夫なんか?」
龍司が見る限り、桐生の家に金があるとは思えない。もし、奨学金なんか受けるくらいなら、一億くらいポンと出してやるつもりだった。それくらいしか、龍司にできる事は無い。
だが、遥は首を左右に振り
「大丈夫。おじさんがね、お父さんの遺産、手付かずで残しておいてくれたから」
「お父さん?」
龍司は思わず聞き返す。遥の口から初めて聞く言葉だった。
「うん。お父さん。神宮京平って言う名前で、代議士だったの・・・もう、死んじゃったけど」
遥は何でもないかのように言った。龍司には、覚えのある名前だった。随分昔の話だ。
「でね。戸籍上、お父さんの名前とかないんだけど、お父さんの奥さんって人がね、神宮家とは関係ありませんって念書を書く代わりに、一千万くれたの。おじさん、それをずっと取っといてくれたんだって。大学とか、結婚とかで必要になるだろうからって」
「そうかぁ」
肉を口に運びながら、龍司は言った。これで、憂いは無い。もう、何も考えないで済む。今日が最後の日だから。
食後のお茶が来て、遥は足を投げ出しながら窓の外を見ていた。木々の葉が落ちて、寒々とした庭に、さざんかの赤だけが目立った。
「この庭、雪降ったら綺麗だろうね。見に来てもいい?」
真っ直ぐな足をを撫でながら、遥が言う。
「雪降ったら、ここまで来るだけで大変やで?」
龍司が答えれば、遥はショボンと項垂れる。白いうなじが目にまぶしい。
「でもさ、こっちに住むんだから、近いよ?」
「車じゃなきゃ、来れんだろうが。雪の日に車なんて、危ないで?」
「そっか」
目を細める表情。黒く揺れる髪。龍司は深く息をはいた。
高校までは、自分が周りにいても問題無いと思っていた。だが、大学、就職と続く彼女の明るい未来に、極道である自分はいらない。遥は、光り輝く道を行く。その道に、影を落とすわけにはいかない。闇の中を生きる自分が、汚すわけにはいかない。
「遥。そろそろ帰らんと、遅くなるで。新大阪まで送るさかい、準備してな」
「うん」
遥は立ち上がった。龍司は目を伏せた。それから、意を決すると立ち上がった。
玄関で、遥がコートを着る。黒いコートは去年、龍司と一緒に出かけたとき買ったものだ。見つめながら、龍司は左手に持った日本刀を握り締めた。
その動きに、遥が顔を上げた。
「どうしたの?一緒に行かないの?」
見上げてくる視線が苦しい。龍司は、遥を睨んだ。
「遥とは、ここまでや」
「ここまでって?」
遥は、ただ見上げている。
「もう、ここへ来るな」
静かに、しかし強く龍司は言った。大抵の人間が怯む眼なのに、遥はまったく目を逸らす事無く、龍司を見つめた。
「どうして、来ちゃ駄目なの?」
問いかける声が、小さく響く。
「法律を勉強するんや。わかるやろ?」
これで全てが終わる。龍司は奥歯を強く噛んだ。
「そんなの、わからないよ」
遥が言う。龍司を見上げる、黒曜石の瞳。本当なら手放したくない。出来る事なら、永く共にありたかった。だが、それは許されない。許されないのだから。
「もう、来るな」
龍司は息をはき、刀の鯉口を切った。ゆっくりと抜き払い、きらりと輝く刃を遥に突きつける。
「遥。もう二度と、ワシの家の敷居を跨ぐな。跨いだら、お前でも叩き出す」
刃の向こうで、遥は首を左右に振った。
「嫌。そんなの嫌。絶対に嫌。それじゃあ、大阪の学校に入る意味がないもん」
「遥。お前のためや」
「そんなの、ちっとも私のためにならないよ」
美しい瞳に、涙が溜まる。透明な雫が頬を濡らす。
「私、少しでも側にいたいの。だから大阪の学校に入るの。だから、法律の勉強するの。少しでも側にいたいの・・・お願い」
訴える声。龍司は刀を引くと、鞘に収めた。
「遥。ワシは・・・」
「もう、言わないで!」
空いていた数歩の距離を飛び超え、遥が胸に飛び込んできた。龍司の背中に手を回し、しがみついてくる。
「・・・お願い・・・」
ぴたりと張り付く冷たい身体。小さな肩が震えていた。
「お願い・・・近くにいたいの・・・側にいたいの・・・」
涙声で言われて、龍司は深く息を吸う。開いている右腕で、細い肩を強く抱きしめた。
「アカン。ワシの居る世界は闇の中や。お天道様の下を歩けん、闇の世界や」
そっと囁けば、彼女は顔を上げた。
「そんな事知ってるよ・・・それでもいいの」
真っ赤になった眼と、真っ赤になった鼻と、涙で赤くなった頬。何も塗らなくても、紅に染まる唇。
「そばに居られれば、それでいいの。側にいたいの。私も同じ闇の中にいたいの」
「遥。ワシかてそうや」
龍司は眼を細め、一つ呼吸をしてから
「せやけど、住んでる世界が違うんや。ワシは、遥に、まっとうに生きてほしいんや」
まるで自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言う。だが、遥は首を左右に振り
「絶対、側にいる。龍司兄ちゃんが許さなくても、私はここに帰ってくる」
「遥・・・」
美しく輝く、強い意志を秘めた瞳。龍司は天井を見上げ、それから遥を見つめた。
「ワシと居ると、辛いで?」
「側にいられないほうが辛いよ」
遥が即座に答える。
「そうかぁ。なら、しゃーないな」
龍司は左手の刀を床に投げた。重い音に、遥が首を捻ったとき、その手で遥を抱きしめた。
「やっぱり嫌や言うても、後の祭りやで?」
「言わないよ」
両腕の中で、宝珠が鼻を啜る。長い間、欲しくて欲しくて、追い続けた珠。きっと、これが欲しかったから、自分は龍に生まれついたのではないかと思うほど、焦がれたものが両腕にある。
「覚悟は、ええな?」
改めて聞けば、彼女は強く頷いた。見上げてくる、赤く涙の痕の残る頬に、そっと唇を寄せる。
「くすぐったいよう」
遥が声を上げた。顔を離せば、服を掴んでいた手を離し、見上げたまま、眼を閉じた。
たぶん、自分はもう、この珠を離さないだろう。光の中に帰りたいというまで、決して手を離さない。
龍司は背中を丸め、ゆっくりと唇を重ねた。
その下を、龍司はゆっくりと歩いていく。それは、隣を歩く女性に合わせたものだった。
横には、黒いコートの女性がいた。同じように歩く、黒い髪。見上げる瞳は冬の夜空のように輝き、寒さのせいか、両頬は林檎のように赤かった。化粧一つしなくても、その美しさは際立っているな、と龍司は思う。
まだ高校3年生の彼女は、大阪の某有名私立大学に推薦入試で合格した。今日は入学手続きのために、わざわざ大阪まで来たのだ。
「ゴメンね。面倒な事につき合わせちゃって」
あざやかな笑顔。軽やかなステップで歩く足。出会った頃は、まだあどけない小学生だったのに、少し見ないうちに、すっかり大人になっていた。東京に仕事で出かけたときにちょくちょく会っていたが、こんなに綺麗になるとは思わなかった。
「遥。昼飯はウチですき焼きや。お祝いやからな」
言えば、彼女は軽く頷く。関東の東城会四代目の、あの『堂島の龍』の娘が、目の前にいる澤村遥だった。
いつものリムジンで、龍司は遥を家に招いた。近江連合六代目の龍司の家は、実は南北朝時代から繋がる古いの家系だ。純日本家屋のお屋敷に、遥は何度か来た事があった。今では勝手知ったる他人の家だ。
いつもの、庭を見渡せる部屋に座卓を出し、カセットコンロと鉄鍋を出す。組の者が用意してくれた、野菜やら肉やらを机いっぱいに並べ、二人だけの合格祝いは始まった。
「美味しいね。関東の割り下も好きだけど、関西のも大好き!」
遥は幸せいっぱいの笑顔でねぎをつまむ。龍司はそれを見て、少しだけ心が痛んだ。
「遥は、学部は何や?」
龍司が聞くと、
「法学部。前も言ったジャン」
「そうやったな。私立だと、学費とかかかるやろ。金、大丈夫なんか?」
龍司が見る限り、桐生の家に金があるとは思えない。もし、奨学金なんか受けるくらいなら、一億くらいポンと出してやるつもりだった。それくらいしか、龍司にできる事は無い。
だが、遥は首を左右に振り
「大丈夫。おじさんがね、お父さんの遺産、手付かずで残しておいてくれたから」
「お父さん?」
龍司は思わず聞き返す。遥の口から初めて聞く言葉だった。
「うん。お父さん。神宮京平って言う名前で、代議士だったの・・・もう、死んじゃったけど」
遥は何でもないかのように言った。龍司には、覚えのある名前だった。随分昔の話だ。
「でね。戸籍上、お父さんの名前とかないんだけど、お父さんの奥さんって人がね、神宮家とは関係ありませんって念書を書く代わりに、一千万くれたの。おじさん、それをずっと取っといてくれたんだって。大学とか、結婚とかで必要になるだろうからって」
「そうかぁ」
肉を口に運びながら、龍司は言った。これで、憂いは無い。もう、何も考えないで済む。今日が最後の日だから。
食後のお茶が来て、遥は足を投げ出しながら窓の外を見ていた。木々の葉が落ちて、寒々とした庭に、さざんかの赤だけが目立った。
「この庭、雪降ったら綺麗だろうね。見に来てもいい?」
真っ直ぐな足をを撫でながら、遥が言う。
「雪降ったら、ここまで来るだけで大変やで?」
龍司が答えれば、遥はショボンと項垂れる。白いうなじが目にまぶしい。
「でもさ、こっちに住むんだから、近いよ?」
「車じゃなきゃ、来れんだろうが。雪の日に車なんて、危ないで?」
「そっか」
目を細める表情。黒く揺れる髪。龍司は深く息をはいた。
高校までは、自分が周りにいても問題無いと思っていた。だが、大学、就職と続く彼女の明るい未来に、極道である自分はいらない。遥は、光り輝く道を行く。その道に、影を落とすわけにはいかない。闇の中を生きる自分が、汚すわけにはいかない。
「遥。そろそろ帰らんと、遅くなるで。新大阪まで送るさかい、準備してな」
「うん」
遥は立ち上がった。龍司は目を伏せた。それから、意を決すると立ち上がった。
玄関で、遥がコートを着る。黒いコートは去年、龍司と一緒に出かけたとき買ったものだ。見つめながら、龍司は左手に持った日本刀を握り締めた。
その動きに、遥が顔を上げた。
「どうしたの?一緒に行かないの?」
見上げてくる視線が苦しい。龍司は、遥を睨んだ。
「遥とは、ここまでや」
「ここまでって?」
遥は、ただ見上げている。
「もう、ここへ来るな」
静かに、しかし強く龍司は言った。大抵の人間が怯む眼なのに、遥はまったく目を逸らす事無く、龍司を見つめた。
「どうして、来ちゃ駄目なの?」
問いかける声が、小さく響く。
「法律を勉強するんや。わかるやろ?」
これで全てが終わる。龍司は奥歯を強く噛んだ。
「そんなの、わからないよ」
遥が言う。龍司を見上げる、黒曜石の瞳。本当なら手放したくない。出来る事なら、永く共にありたかった。だが、それは許されない。許されないのだから。
「もう、来るな」
龍司は息をはき、刀の鯉口を切った。ゆっくりと抜き払い、きらりと輝く刃を遥に突きつける。
「遥。もう二度と、ワシの家の敷居を跨ぐな。跨いだら、お前でも叩き出す」
刃の向こうで、遥は首を左右に振った。
「嫌。そんなの嫌。絶対に嫌。それじゃあ、大阪の学校に入る意味がないもん」
「遥。お前のためや」
「そんなの、ちっとも私のためにならないよ」
美しい瞳に、涙が溜まる。透明な雫が頬を濡らす。
「私、少しでも側にいたいの。だから大阪の学校に入るの。だから、法律の勉強するの。少しでも側にいたいの・・・お願い」
訴える声。龍司は刀を引くと、鞘に収めた。
「遥。ワシは・・・」
「もう、言わないで!」
空いていた数歩の距離を飛び超え、遥が胸に飛び込んできた。龍司の背中に手を回し、しがみついてくる。
「・・・お願い・・・」
ぴたりと張り付く冷たい身体。小さな肩が震えていた。
「お願い・・・近くにいたいの・・・側にいたいの・・・」
涙声で言われて、龍司は深く息を吸う。開いている右腕で、細い肩を強く抱きしめた。
「アカン。ワシの居る世界は闇の中や。お天道様の下を歩けん、闇の世界や」
そっと囁けば、彼女は顔を上げた。
「そんな事知ってるよ・・・それでもいいの」
真っ赤になった眼と、真っ赤になった鼻と、涙で赤くなった頬。何も塗らなくても、紅に染まる唇。
「そばに居られれば、それでいいの。側にいたいの。私も同じ闇の中にいたいの」
「遥。ワシかてそうや」
龍司は眼を細め、一つ呼吸をしてから
「せやけど、住んでる世界が違うんや。ワシは、遥に、まっとうに生きてほしいんや」
まるで自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言う。だが、遥は首を左右に振り
「絶対、側にいる。龍司兄ちゃんが許さなくても、私はここに帰ってくる」
「遥・・・」
美しく輝く、強い意志を秘めた瞳。龍司は天井を見上げ、それから遥を見つめた。
「ワシと居ると、辛いで?」
「側にいられないほうが辛いよ」
遥が即座に答える。
「そうかぁ。なら、しゃーないな」
龍司は左手の刀を床に投げた。重い音に、遥が首を捻ったとき、その手で遥を抱きしめた。
「やっぱり嫌や言うても、後の祭りやで?」
「言わないよ」
両腕の中で、宝珠が鼻を啜る。長い間、欲しくて欲しくて、追い続けた珠。きっと、これが欲しかったから、自分は龍に生まれついたのではないかと思うほど、焦がれたものが両腕にある。
「覚悟は、ええな?」
改めて聞けば、彼女は強く頷いた。見上げてくる、赤く涙の痕の残る頬に、そっと唇を寄せる。
「くすぐったいよう」
遥が声を上げた。顔を離せば、服を掴んでいた手を離し、見上げたまま、眼を閉じた。
たぶん、自分はもう、この珠を離さないだろう。光の中に帰りたいというまで、決して手を離さない。
龍司は背中を丸め、ゆっくりと唇を重ねた。
「おじさん、本当にいいの?」
遥が、少し心配そうに自分を見上げていた。携帯電話の機種変更と新規契約。変更は桐生のもの。新規は遥のもの。カウンターに並んで座り、奥で契約のために動いている店員を前に、桐生は遥の髪を撫でた。
「ああ。遥も携帯があった方が便利だろう?」
「そうだけど、本当にいいの?」
「持っててくれ。その方が俺が安心できるからな」
そういえば遥は、うん、と頷いた。その笑顔に、桐生は内心ため息をついた。
それは、昨晩の事だった。週末、仕事を終えて戻ってきた桐生が一服していたところに、大阪から電話がかかってきた。ディスプレイに出る番号に、桐生は嫌なものを覚えたが、通話ボタンを押した。
「龍司か?」
台所にいる遥に聞こえないように小さく言えば、電話の向こうの相手は陽気に
『そうや。オッサン、元気かあ?』
能天気さに思わずため息をついて、桐生は低く問う。
「用件は何だ?」
『ちょっと、遥と代わってくれや』
「断る」
殆ど脊髄反射で桐生は答えた。自分でも何故そう言ったのかわからなかった。だが、電話の向こうでは
『そう言わんと。なあ、遥と代わってえな』
「用件を言え」
『オッサンがウチの妹と遊んでる間に、ワシが遥を守ってやるさかい、話くらいさせてくれてもええやろ?』
そういわれると、前回預けた手前、無碍に断れない。桐生は龍司に聞こえるくらい大きくため息をつき、
「わかった。待ってろ」
携帯を保留にすると、台所に立つ遥を呼んだ。
「おじさん、なに?」
可愛らしいブルーのエプロンをつけた遥は、手を拭きながら居間に来た。桐生はムッとしたまま携帯電話を差し出し、
「龍司からだ。話がしたいそうだ」
「え、お兄ちゃんから?」
ぱあっと笑顔になる遥に、桐生はますますムッとした。恐らく表情を隠しきれていないだろう。しかし、遥はそんな事に気付かないのか、嬉しそうに電話に出た。
「あ、お兄ちゃん?遥です」
そういいながら、頬を紅く染めつつ遥が台所に移動する。
「うん・・・ホント?・・・楽しそうだね!」
桐生が聞き耳を立てるなか、遥の嬉しそうな声が響く。
「うん・・・私が?うーん。やっぱり、富士急ハイランドかな・・・フジヤマ乗れないの?じゃあやめようかな・・・」
その声を聞きつつ、桐生はだんだんイライラしてきた。タバコに火をつけて落ち着こうと思うが、どうしても引き戸の向こうの遥の会話が気になって、すぐに消してビールを飲む。
「お兄ちゃんは?・・・私、それでもいいよ?一回しか行ったことないから・・・うん。じゃあ、約束ね。おやすみなさい」
ようやっと話し終えた遥が居間に帰ってきた。桐生に携帯を差し出して
「お兄ちゃんがお話ししたいって」
桐生は無言で受け取った。
「まだ何かあるのか?」
強烈な刺のある言い方になってしまったが、電話の向こうの龍司は飄々と
『オッサン、そんなツンケンすんなや。遥が大事なのはわかるけどな』
「何だと?」
『ワシなら、遥の事、大切にするで?』
「・・・そういう問題じゃねえだろう」
呆れたように桐生が言うと、電話の向こうの声は一つ笑い、
『そんじゃ、オヤスミ、お・と・う・さ・ん』
プチっと音がして電話が切れた。瞬間、桐生は携帯電話を壁に叩きつけた。ガシャンと金属の壊れる音がして、携帯電話は真っ二つに折れ、床に転がった。
「おじさん!」
驚いた遥が叫ぶ。その声に、桐生はハッと我に返った。
「あ・・・」
視線の先で、遥が壊れた携帯電話を拾っている。
「おじさん、どうしたの?お兄ちゃんに何か言われたの?」
「・・・龍司にからかわれただけだ。驚かせてすまなかったな」
桐生は、安心させようと笑顔を見せたつもりだった。だが、それはうまくいかなかった。遥が心配そうな顔で見つめてくる。その視線から逃れるように桐生はタバコに火をつけて
「遥にも、携帯が必要だな。明日買いに行くか」
「え、でも・・・」
遥が口ごもる。だが、桐生はもう龍司からの電話を取りたくなかった。その度にあんな事を言われてはたまらない。
「俺が持たせたいんだ。携帯も買いなおさなきゃいけないしな」
「・・・うん」
遥は小さく頷いた。
携帯の入った箱をを手にして、遥は嬉しそうに道を歩く。
「ふふふ。携帯買ったの、みんなに教えなくちゃ」
輝くような笑顔に桐生はホッとする。だが、次に遥から出た言葉にビクッとなった。
「ひなちゃんと、けいちゃんと、あとりゅうちゃんにも」
「・・・リュウチャン?」
瞬間的に、不敵に笑う龍司を思い出し眉間に皺を寄せる。
「うん。クラスの劉ちゃん。この間写真見せたジャン」
「あ、ああ。その子か」
桐生は思わず苦笑した。龍司からの電話を直通するために買い与えたのに、龍司から電話がかかってきたら嫌だと思う自分は矛盾している。『遥に彼氏が出来たら、酔っ払って暴れるだろう』との龍司の予測は、以外と外れていないのかもしれない。
しかし、と桐生は考え直した。自分は、遥を真っ当に育てていかねばならない。遥には、普通に学校を出て、普通に就職して、普通に結婚して、普通の幸せを掴んでもらわなければ、由美や、錦や、風間の親っさんに申し開きできないではないか。だから、龍司のような極道者がウロウロしているのは良くないのだ。ピリピリして当然だ。
「おじさん。もしかして、お兄ちゃんにヤキモチ焼いてる?」
小首を傾げ、ニコッと笑って言う遥の言葉に、桐生は息を飲んだ。次の言葉が上手く出てこなかった。
「おじさん、大丈夫だよ。龍司お兄ちゃんに番号教えなければいいんでしょ?おじさん、お兄ちゃんから電話かかってくると怒るもんね」
クスクスと笑う表情は、まだまだ子供のもの。
「違うな。心配しているだけだ」
タバコに火をつけて、桐生は答えた。たぶん、本当は遥の言う事が正解だろう。
「私、ずっとおじさんの側にいるからね」
繋ぐ手が、小さく細い。黒く輝く大きな瞳に桐生は微笑み
「ああ。そうしてくれ」
ひとこと、答えた。
遥が、少し心配そうに自分を見上げていた。携帯電話の機種変更と新規契約。変更は桐生のもの。新規は遥のもの。カウンターに並んで座り、奥で契約のために動いている店員を前に、桐生は遥の髪を撫でた。
「ああ。遥も携帯があった方が便利だろう?」
「そうだけど、本当にいいの?」
「持っててくれ。その方が俺が安心できるからな」
そういえば遥は、うん、と頷いた。その笑顔に、桐生は内心ため息をついた。
それは、昨晩の事だった。週末、仕事を終えて戻ってきた桐生が一服していたところに、大阪から電話がかかってきた。ディスプレイに出る番号に、桐生は嫌なものを覚えたが、通話ボタンを押した。
「龍司か?」
台所にいる遥に聞こえないように小さく言えば、電話の向こうの相手は陽気に
『そうや。オッサン、元気かあ?』
能天気さに思わずため息をついて、桐生は低く問う。
「用件は何だ?」
『ちょっと、遥と代わってくれや』
「断る」
殆ど脊髄反射で桐生は答えた。自分でも何故そう言ったのかわからなかった。だが、電話の向こうでは
『そう言わんと。なあ、遥と代わってえな』
「用件を言え」
『オッサンがウチの妹と遊んでる間に、ワシが遥を守ってやるさかい、話くらいさせてくれてもええやろ?』
そういわれると、前回預けた手前、無碍に断れない。桐生は龍司に聞こえるくらい大きくため息をつき、
「わかった。待ってろ」
携帯を保留にすると、台所に立つ遥を呼んだ。
「おじさん、なに?」
可愛らしいブルーのエプロンをつけた遥は、手を拭きながら居間に来た。桐生はムッとしたまま携帯電話を差し出し、
「龍司からだ。話がしたいそうだ」
「え、お兄ちゃんから?」
ぱあっと笑顔になる遥に、桐生はますますムッとした。恐らく表情を隠しきれていないだろう。しかし、遥はそんな事に気付かないのか、嬉しそうに電話に出た。
「あ、お兄ちゃん?遥です」
そういいながら、頬を紅く染めつつ遥が台所に移動する。
「うん・・・ホント?・・・楽しそうだね!」
桐生が聞き耳を立てるなか、遥の嬉しそうな声が響く。
「うん・・・私が?うーん。やっぱり、富士急ハイランドかな・・・フジヤマ乗れないの?じゃあやめようかな・・・」
その声を聞きつつ、桐生はだんだんイライラしてきた。タバコに火をつけて落ち着こうと思うが、どうしても引き戸の向こうの遥の会話が気になって、すぐに消してビールを飲む。
「お兄ちゃんは?・・・私、それでもいいよ?一回しか行ったことないから・・・うん。じゃあ、約束ね。おやすみなさい」
ようやっと話し終えた遥が居間に帰ってきた。桐生に携帯を差し出して
「お兄ちゃんがお話ししたいって」
桐生は無言で受け取った。
「まだ何かあるのか?」
強烈な刺のある言い方になってしまったが、電話の向こうの龍司は飄々と
『オッサン、そんなツンケンすんなや。遥が大事なのはわかるけどな』
「何だと?」
『ワシなら、遥の事、大切にするで?』
「・・・そういう問題じゃねえだろう」
呆れたように桐生が言うと、電話の向こうの声は一つ笑い、
『そんじゃ、オヤスミ、お・と・う・さ・ん』
プチっと音がして電話が切れた。瞬間、桐生は携帯電話を壁に叩きつけた。ガシャンと金属の壊れる音がして、携帯電話は真っ二つに折れ、床に転がった。
「おじさん!」
驚いた遥が叫ぶ。その声に、桐生はハッと我に返った。
「あ・・・」
視線の先で、遥が壊れた携帯電話を拾っている。
「おじさん、どうしたの?お兄ちゃんに何か言われたの?」
「・・・龍司にからかわれただけだ。驚かせてすまなかったな」
桐生は、安心させようと笑顔を見せたつもりだった。だが、それはうまくいかなかった。遥が心配そうな顔で見つめてくる。その視線から逃れるように桐生はタバコに火をつけて
「遥にも、携帯が必要だな。明日買いに行くか」
「え、でも・・・」
遥が口ごもる。だが、桐生はもう龍司からの電話を取りたくなかった。その度にあんな事を言われてはたまらない。
「俺が持たせたいんだ。携帯も買いなおさなきゃいけないしな」
「・・・うん」
遥は小さく頷いた。
携帯の入った箱をを手にして、遥は嬉しそうに道を歩く。
「ふふふ。携帯買ったの、みんなに教えなくちゃ」
輝くような笑顔に桐生はホッとする。だが、次に遥から出た言葉にビクッとなった。
「ひなちゃんと、けいちゃんと、あとりゅうちゃんにも」
「・・・リュウチャン?」
瞬間的に、不敵に笑う龍司を思い出し眉間に皺を寄せる。
「うん。クラスの劉ちゃん。この間写真見せたジャン」
「あ、ああ。その子か」
桐生は思わず苦笑した。龍司からの電話を直通するために買い与えたのに、龍司から電話がかかってきたら嫌だと思う自分は矛盾している。『遥に彼氏が出来たら、酔っ払って暴れるだろう』との龍司の予測は、以外と外れていないのかもしれない。
しかし、と桐生は考え直した。自分は、遥を真っ当に育てていかねばならない。遥には、普通に学校を出て、普通に就職して、普通に結婚して、普通の幸せを掴んでもらわなければ、由美や、錦や、風間の親っさんに申し開きできないではないか。だから、龍司のような極道者がウロウロしているのは良くないのだ。ピリピリして当然だ。
「おじさん。もしかして、お兄ちゃんにヤキモチ焼いてる?」
小首を傾げ、ニコッと笑って言う遥の言葉に、桐生は息を飲んだ。次の言葉が上手く出てこなかった。
「おじさん、大丈夫だよ。龍司お兄ちゃんに番号教えなければいいんでしょ?おじさん、お兄ちゃんから電話かかってくると怒るもんね」
クスクスと笑う表情は、まだまだ子供のもの。
「違うな。心配しているだけだ」
タバコに火をつけて、桐生は答えた。たぶん、本当は遥の言う事が正解だろう。
「私、ずっとおじさんの側にいるからね」
繋ぐ手が、小さく細い。黒く輝く大きな瞳に桐生は微笑み
「ああ。そうしてくれ」
ひとこと、答えた。
あれから七年の歳月が流れた。大阪の、郷田龍司の自宅には、一人の少女が訪ねてきていた。
夏の終わりの暑い季節。彼女は縁側に座って、紅く燃える空を見つめ、冷たい麦茶を一口飲んだ。
「今日で、大学見学も終わりよ」
見事な東京の言葉。それもそのはず、彼女は生まれも育ちも東京だ。名前を、澤村遥という。
「そうか」
隣では、近江連合六代目会長の郷田龍司が、同じように麦茶を一口飲んだ。
「で、遥は、こっちの大学を受験するんか?」
低い声で聞かれて、彼女はニコッと微笑んだ。
「うん。そのつもり」
「桐生のオッサン、がっかりするで?」
龍司は正面を見つめたまま言う。トンボが、すっと庭を横切った。
「うん。でも、これ以上おじさんと一緒にいたくないから」
手の中で、ガラスのコップを揺らしながら彼女は言った。
「一緒に居ったらええやん」
「ううん。もう駄目なの」
遥が俯き、龍司は初めて遥を見た。長く伸びた髪が頬にかかる。まだ若いはずの横顔に憂いが走る。
「お兄ちゃん。私、もう駄目なの」
「何でや?」
「・・・もう、おじさんと一緒にいるのが辛いの」
小さな肩が小刻みに震える。
「お兄ちゃん。私、もう駄目なの。おじさんが好きなの。どうしても、おじさんが好き。もう、どうしていいか解らないの」
上げた顔は微笑もうとしていたが、黒い瞳には涙が溢れる。
「だから、おじさんと離れるの。苦しくて苦しくて、仕方がないから」
「そうか」
龍司の太い腕が、彼女の体を引き寄せる。胸の中に仕舞い込む様に、大きく強く抱きしめた。
「遥。そんなに辛いんやったら、ワシの側に居ればええ」
小さな体を包み込み、龍司は長い髪に触れる。腕の中で、彼女は震えながら涙を堪えていた。
「人の子の世は、儘ならんモンや」
本当に欲しいものは、何時だって手に入らない。龍司はそう思う。今こうして彼女を抱きしめていても、この輝く宝石は、決して自分を振り返ってはくれないのだから。
「今日は、思いっきり泣けばええ。オッサンの前では笑ってられるようにな」
小さく言えば、彼女が頷く。もう一度宝物を抱きしめて、龍司は沈む夕日を眺めた。
夏の終わりの暑い季節。彼女は縁側に座って、紅く燃える空を見つめ、冷たい麦茶を一口飲んだ。
「今日で、大学見学も終わりよ」
見事な東京の言葉。それもそのはず、彼女は生まれも育ちも東京だ。名前を、澤村遥という。
「そうか」
隣では、近江連合六代目会長の郷田龍司が、同じように麦茶を一口飲んだ。
「で、遥は、こっちの大学を受験するんか?」
低い声で聞かれて、彼女はニコッと微笑んだ。
「うん。そのつもり」
「桐生のオッサン、がっかりするで?」
龍司は正面を見つめたまま言う。トンボが、すっと庭を横切った。
「うん。でも、これ以上おじさんと一緒にいたくないから」
手の中で、ガラスのコップを揺らしながら彼女は言った。
「一緒に居ったらええやん」
「ううん。もう駄目なの」
遥が俯き、龍司は初めて遥を見た。長く伸びた髪が頬にかかる。まだ若いはずの横顔に憂いが走る。
「お兄ちゃん。私、もう駄目なの」
「何でや?」
「・・・もう、おじさんと一緒にいるのが辛いの」
小さな肩が小刻みに震える。
「お兄ちゃん。私、もう駄目なの。おじさんが好きなの。どうしても、おじさんが好き。もう、どうしていいか解らないの」
上げた顔は微笑もうとしていたが、黒い瞳には涙が溢れる。
「だから、おじさんと離れるの。苦しくて苦しくて、仕方がないから」
「そうか」
龍司の太い腕が、彼女の体を引き寄せる。胸の中に仕舞い込む様に、大きく強く抱きしめた。
「遥。そんなに辛いんやったら、ワシの側に居ればええ」
小さな体を包み込み、龍司は長い髪に触れる。腕の中で、彼女は震えながら涙を堪えていた。
「人の子の世は、儘ならんモンや」
本当に欲しいものは、何時だって手に入らない。龍司はそう思う。今こうして彼女を抱きしめていても、この輝く宝石は、決して自分を振り返ってはくれないのだから。
「今日は、思いっきり泣けばええ。オッサンの前では笑ってられるようにな」
小さく言えば、彼女が頷く。もう一度宝物を抱きしめて、龍司は沈む夕日を眺めた。
桐生が薫との遠距離恋愛を行う上で、最も問題になるのが遥の事だった。刑事の薫は休みが不規則で、たまに桐生と休みが重なった時くらいしか会う事ができない。今回、東京で会う予定なのだが、遥をどうするかで悩む事になった。
薫は薫で
「遥ちゃんも連れてくればいいじゃない」
と言い、遥は遥で
「ヒマワリに行くから、おじさんは薫さんとデートしてきなよ」
と言い出す始末だ。
そんな事で遥をヒマワリに送り出すのは嫌だし、かといって遥を連れてとなると、色々問題もある。板挟みの桐生は、自分で結論を出す事ができず、悶々と考え込む事になるのだった。
いつまでも結論が出ず、日付だけが進む。遂に薫が切れて、喧嘩になりかけたその日の夜、桐生の携帯に見慣れぬ番号の着信が来た。番号の最初が『06』から始まっているから、大阪からの固定電話であることは間違いない。不審に思いながら通話ボタンを押す。
「桐生だ」
低く言えば、
『ワシや。郷田龍司や』
更に低く、陽気な声が戻ってきた。現在も郷龍会会長として、そして近江連合六代目就任予定の男として、関西極道界に君臨する彼に、桐生は携帯番号を教えた覚えは無かった。
「お前、何でこの番号を知っている?」
眉間に皺を寄せて、脅すような声で問う。だが、電話の相手は
『薫の携帯から、ちょっとな。まあ、妹の携帯くらいイジってもええやろ』
相変わらずの調子に、桐生はため息をついた。まさか、薫から龍司にこの番号が伝わるとは思わなかった。恐らく、この事は薫自身も知らないはずだ。
「で、何か用か?」
呆れる思いを隠して聞いてみる。
『あのな、今度、薫と東京で会うんやろ?』
「まあな」
『そん時、遥はどないすんねん』
「まだ決めていない」
『そんなら、ワシに預けてくれや』
「何だと?」
『ワシが入院してる間、世話になった礼も兼ねて、遊びに連れてってやるわ。その間、オッサンは薫と遊べるやろ』
喜々とした龍司の声に、桐生は黙り込んだ。その様子に、遥が心配そうな顔をして見上げている。この時、桐生は疲れていて、判断を誤った。携帯を保留にして、遥に聞いたのだ。
「遥、龍司が入院中に世話になったから礼がしたいそうだ。会ってみるか?」
すると、遥の表情がぱあっと明るくなった。
「ホント?私、お兄ちゃんに会いたい!」
しっかりと頷く様に、桐生は保留ボタンを解除して、龍司に言った。
「遥が会うと言ってるからな。お前の話に乗ろう」
『よっしゃ。薫が新幹線で行くより前に、そっちに行くようにするわ。それと、遥にディズニーランドに行くからって言っといてな』
「ああ。わかったよ」
『そんじゃ、またな』
呑気な大阪からの電話が切れ、桐生はまたため息をついた。その向こうでは、遥が嬉しそうな顔で台所に立っていた。よくよく考えてみれば、龍司の下が一番安全かもしれない。まさか郷龍会会長の手元から、遥を誘拐できるほどの人間はいないだろう。そう考えると悪い選択肢ではないはずだ。桐生は、そう思うことにした。
土曜日、桐生がアパートのベランダでタバコをふかしていると、建物の前の細い通りに、バカでかい、真っ白なリムジンが曲がってくるのが見えた。しかも、一度で曲がりきれず、切り返しをしている。
「遥。龍司が来たぞ」
振り返って声をかければ、カーゴスカートにボーダーシャツ、上からスカジャンを羽織った遥は、ニッコリ笑顔で靴を履き
「おじさん、薫さんと喧嘩しないでね。いってきます!」
靴音も高らかに飛び出していった。
アパートの鉄の階段を駆け下りて、遥は停まっているリムジンへ近づいた。長さだけなら、薫が運転しているワンボックスより大きいだろう。アパートの門から出ると、運転手役らしい、如何にも若い筋モノの男が、後部座席のドアを開けてくれた。
「よう。元気やったか?」
中には、龍司がドンと座っていた。スーツではなく、ラフなジーンズ姿で、髪も手ぐしでかき上げているだけのようだ。これならパッと見た感じ、ディズニーランドでも悪目立ちしないだろう。
遥は、よいしょと掛け声をかけて車に乗り、龍司の隣に座った。それから精一杯の笑顔で
「うん。お兄ちゃんも元気だった?」
「ま、ワシは丈夫がとりえやからな」
龍司がニコッとすると、子供っぽい表情になった。そして、車が静かに動き出した。遥が振り返れば、ベランダで桐生が見送っていた。それが今生の別れのように思えて、遥は俯いた。寂しさが足元から湧き上がり、グッと奥歯を噛み締めたとき、龍司の大きな手が遥を引き寄せた。
「遥。今日は一日遊ぼうや」
見上げれば、龍司は優しそうに笑ってくれた。
「うん」
小さく頷いて、遥は寂しいと思う自分を追い払おうとした。今日は龍司が側にいるのだ。寂しいとか考えては申し訳ない。
「お兄ちゃんは、ディズニーランドに行った事あるの?」
素朴な疑問をぶつけてみる。遥は『ヒマワリ』の遠足で来た事があるし、桐生とも一度だけ来た事がある。
「ワシはそうやな。一応行った事はあるで。でもあんま詳しくはないな」
「そうなんだ」
「せやから、遥に案内してもらわんとな」
肩を抱いたまま、顔を覗き込んで龍司は言う。遥は頷き
「任せておいてよ!」
と、カラ元気でそういった。
冬のディズニーランドは、寒空の下でもやはり混んでいた。その中を、龍司と遥は並んで歩く。そして、遥は龍司も悪目立ちすることを痛感した。背が高すぎるのだ。遥の知る限り、桐生より背が高い人は、龍司ぐらいしかいない。
遥が乗り物に乗りたいといえば、龍司はそこへ連れて行けと言ってくれた。
パーク内を歩いていると、赤い車が停まっていて、甘い匂いが漂ってくる。
「あ、お兄ちゃん!あれ、美味しいんだよ!」
遥は龍司の手を引いて、そのワゴンへ駆け寄った。
「お兄ちゃんも食べる?」
見上げれば、龍司は
「勿論や。ワシの分も買うてや」
すぐに千円札を手渡してくれた。
「いいの?」
それを持って遥は小首を傾げて問いかける。
「それで買うてや。頼んだで」
「うん」
遥はワゴンの中のお姉さんから二つ貰うと、龍司が待つ所へ戻った。シナモンのたっぷりかかったチュロスを手渡して、自分の分にかぶりつく。
「美味しい~」
小さく言えば、龍司もかぶりつき
「結構うまいのう」
ニパッと笑う。桐生は甘い物が嫌いだから、こういう所でも絶対に食べない。
「お兄ちゃんは、甘い物は平気なの?」
遥はそっと聞いてみる。もし、自分に合わせてくれていたなら申し訳ないと思うからだ。だが、龍司は
「ワシか?ワシは甘いモンも好きやで」
別に何でもないかのように言った。
「そうなんだ。あわせてもらってるのかと思っちゃった」
ぺロッと舌をだして言えば、龍司は目を細め
「そないな事あるかい。ワシが食べたいから食べるんや」
と言ってくれた。
お昼はパークでピザを食べ、キラキラ光るパレードを見て、それからアトラクションに乗る。どんどん日が西に傾いても、遥は元気に龍司を連れまわした。だが、日が落ちればさすがに疲れてくる。
「お兄ちゃん。疲れてない?」
手をつないでいる龍司を振り返り、遥は聞く。
「遥は、疲れたか?」
逆に聞かれて、遥は首を左右に振った。
「ううん。疲れてない」
「嘘つけ。本当はクタクタなんやろ」
ニシシッと笑って龍司は言う。それから、遥の顔を覗き込み
「ワシ、今日は舞浜のホテル取ってるんや。そこで休もう」
「うん」
遥が頷くと、龍司はその手を引いて、出口へ歩き始めた。
駐車場でリムジンに乗り込むと、すぐにホテルに着いた。正面入り口にリムジンが停まると、明らかにホテルの従業員が目を見張っていた。係の人にドアを開けられ、遥は自分が何処かのお姫様になったような気分だった。しかし、龍司は慣れているのか、別段何でも無いように歩いていく。遥は慌てて後についていった。
ロビーの高い天井。ピカピカの床。チェックイン中の龍司の側で、遥は口を開けたままぐるりと見渡しため息をつく。
「遥、行くで」
声をかけられて、遥は急いで龍司について行く。大きなエレベーターに乗り、見事なドアのある部屋の前についた。今まで、ホテルに泊まった経験が無い遥は、どうしてもキョロキョロしてしまう。薄暗い廊下に敷かれた絨毯は柔らかいし、扉は重厚は雰囲気だ。
そして、部屋に入った遥は、本当に唖然とさせられた。
入った正面に、ガラスのテーブルと豪華なソファ。その向こうには、大きなテーブルと白い椅子。これでもかと飾られた、大きな花瓶と溢れんばかりの花。
「お兄ちゃん・・・なんか、すごいんだけど」
立ち尽くす遥の前で、龍司は足を投げ出すようにソファに座り
「そうか?これくらい当たり前や」
そういわれても、遥には返す言葉が無い。
「ちょっと、部屋の見学でもさせてもらえばええ」
龍司が顎で促してくる。遥はキョロキョロしながら、部屋の奥へ進んだ。木の扉が開いていて、その奥にはかなり大きなベッドが二つ並んで置かれていた。
「お兄ちゃん、何かすごいよ、ここ。ウチより広いかもしれないよ」
慌てて龍司の所に帰ると、彼はテーブルの上に置かれたフルーツバスケットから蜜柑をとって食べていた。遥が隣に座ると、蜜柑を一つ手渡してから、例のニパッと笑う顔で
「ワシ、狭い所はアカンのや。こんなナリやさかい、ベッドがでかくないと足がはみ出るんや」
「・・・そうなの?」
蜜柑をむきながら遥は首を傾げる。
「そうなんや。ベッドが狭いと落ちるしな。せやから、ホテル取るときは、でかいベッドがあるところにしてるんや」
そんなものだろうか?と遥は思った。
夕飯はレストランで、くだらない話をしながら中華料理を食べた。遥の学校の事、桐生との生活の事などを話せば、龍司は笑って聞いてくれた。たったそれだけの事だったが、遥はとても嬉しかった。
部屋に戻って、今度はお風呂の前で遥は固まった。一人で入るには広い湯船だった。たぶん、家の風呂の倍はあるだろう。だが、龍司は笑って
「よくアメリカのテレビにある、泡風呂に出来るんやで」
と、やり方を教えてくれた。
真っ白な泡が広がる風呂に浸かって、遥は本当にお姫様のようだと思った。こんな経験は初めてだ。大きな車、綺麗なホテル、泡のお風呂。思わずクスクスと笑ってしまう。そして、こんなお風呂におじさんを入れたらどうなるだろうと、一人思った。
風呂から上がれば、龍司は電話で誰かと話をしていた。深刻なのか、眉間に皺を寄せ、窓の外を睨みつけている。邪魔をしてはいけないと、ベッドルームに戻って、大きなベッドに転がると、ふんわりと包まれるようで心地いい。今日一日歩き疲れた体は急激に眠りの世界へ引き込んでいく。
「遥。寝るんやったら、布団に入れ」
龍司の声が聞こえて、遥はもぞもぞと毛布の下に潜り込み、目を閉じた。
真っ白な世界が広がっていた。乳白色の霧の中、遥はぽつんと立っていた。どこだろうとキョロキョロしていると、桐生の姿が見えた。慌てて駆け寄ると、目の前の桐生は無表情に遥を見つめていた。
その瞳は、恐ろしいほど冷たかった。
立ち尽くす遥の前で、桐生が踵を返し、歩き出した。ついて行こうと、桐生の手を掴もうとした時、別の手が桐生の手を引いていた。
(誰なの?)
見上げれば、それは薫だった。優しい笑顔で桐生を見つめ、どんどん連れて行ってしまう。
(おじさん、待ってよ)
必死で走っているのに、もう少しで桐生の服に手が届きそうなのに、どうしても掴む事が出来ない。
もう一歩、もう一歩でと思った瞬間、白いドアが閉じて、遥は立ち止まった。
それは、新幹線のドアだった。見れば、東京駅の新幹線ホームで、遥は東海道新幹線を見上げていた。もう閉ざされたドアの向こうで、桐生が寂しそうに微笑み、薫の身体を抱き寄せた。
(おじさん、置いていくの?やっぱり、私の事、置いて行っちゃうの?)
列車の発車ベルが鳴り響く。桐生を乗せた列車が動き出す。
(お願い!おじさん、置いていかないで!)
叫びたいのに、喉が押しつぶされたように声が出ない。涙はどんどん溢れてくるのに、どうしても言う事が出来ない。走り去る列車が遠ざかり、遥は大きく息を吸い込んだ。
「嫌!」
瞬間、ばっと目が覚めた。見えたのは暗い天井だった。涙が耳に入ってくすぐったい。混乱する頭で、夢だったのかと思った時、ベッドサイドのランプが灯った。
「どないしたん?」
声をかけられ、遥は隣のベッドを見た。龍司が、ベッドの中から自分を見つめていた。
「何でもないの」
無理に笑顔を作れば、龍司の眉間に皺がよる。
「泣いとるくせに、なんでもない訳ないやろ」
「本当に、何でもないの。夢、見ただけだから」
涙を拭いて、一生懸命取り繕う。すると、龍司は笑って、自分の毛布をまくり上げ
「怖い夢でも見たんやろ。こっち来るか?」
白いTシャツが目に入り、遥は慌てて目を逸らす。
「こっち来いや」
低い声が飛ぶ。
「平気だもん」
遥が拒むと、龍司はクククと喉を鳴らし
「遥が来んのやったら、ワシがそっち行くわ」
「え?」
見れば龍司はにやあっと笑っている。仕方なく、遥はベッドを降りて、龍司の胸の中に転がり込んだ。少し甘い、洋酒の匂いがした。
「お兄ちゃん、お酒飲んだの?」
遥が見上げれば、龍司は上からそっと毛布をかけて
「そうや。ま、睡眠薬代わりやな」
静かな声が響く。温かい毛布の中で、遥はもう一度涙を拭いた。それから
「お兄ちゃん。おじさん達、今頃どうしてるかな?」
「もう寝とるやろうなぁ」
「そっか。そうだよね」
自分で言いながら、夢を思い出して涙が溢れる。
「お兄ちゃん。もし、薫さんとおじさんが結婚したら、私、やっぱり『ヒマワリ』に帰るのかな」
「何でそう思うんや?」
「だって、私、邪魔しちゃうし。きっと、おじさんだってそう思ってるよ。私、また置いていかれちゃうのかな」
グズグズと泣き出すと、龍司はティッシュを取ってくれた。
「ワシは、そないな事ないと思うで。今日かて、ワシが遥を誘わなければ、オッサンは遥を連れて薫と会っとったやろな」
大きな手が、遥の髪を撫でていく。
「オッサン、遥が大切やから、絶対『ヒマワリ』に行かせたくないはずや。それに、『ヒマワリ』かて、安全やないしな。せやから、遥をワシに預けたんや」
「どうして?」
涙に濡れる瞳で見れば、龍司はニコッと笑い
「ワシに、やないな。近江連合の六代目会長に預けたんや。ワシん所なら、遥を守りきれると思うたんやろ」
「守る?」
「そうや。これはワシらの世界の一般論や。ワシの意見やないけどな」
龍司はそう前置きをして、大きく息を吐いた。
「オッサンは、ワシらの世界じゃ生きる伝説や。せやから、跳ね返りどもが、一旗上げようとする時は、オッサンを狙うやろ。そん時、オッサンを焚きつける餌には、遥が一番なんや」
「私を、餌に・・・」
「ワシかて、東城会と戦争する時はその事を考えた。『ヒマワリ』の間取りからなにから調べさせたしな。実際、千石は遥を誘拐して、餌にした」
遥は息を飲んだ。あの日、遥はヒマワリの庭で、下の子達と遊んでいた。その時、突然黒い車から男達が飛び出してきて、遥を横抱きにすると車に押し込んだのだ。
「オッサンは、遥に危害が加えられることを一番恐れとる。せやから、ワシの申し出を受けて、遥を預けてくれたんや」
龍司の大きな手が、遥の涙をふき取った。
「オッサンは、遥を放すことはないやろ。それでも、オッサンの側に居るんが辛いときは、ワシを頼ってな」
大きな腕の中に閉じ込められて、遥は小さく頷くと目を閉じた。温かい世界で、今度は夢を見ないで済みそうだった。
明るい太陽の光が眩しくて、遥はゆっくり目を覚ました。真っ白な天井を見上げ、それからがばっと起き上がった。隣に寝ていたはずの龍司はもういない。ベッドから滑り降りて、隣の部屋へ行くと、既に着替えた龍司がのんびりテレビを見ていた。
「おはよう」
遥が声をかけると龍司は振り返り
「おはようさん。朝飯、届けてもらうさかい、顔洗っておいで」
「うん」
遥は顔を洗い、服を着替えて龍司の所へ戻った。テレビが天気予報を伝えていて、それによると今日も東京は晴天らしい。
「遥、目が痛くないか?」
龍司が心配そうに聞いてくる。昨日の夜、泣きながら寝てしまった事に、遥はちょっと恥ずかしいと思いつつ
「平気。もう大丈夫だよ」
にこっと笑えば、龍司は頷き
「まあ、あまり無理せんと、ワシには頼ってな」
その時、部屋の呼び鈴が鳴り、龍司がドアを開けた。
テーブルの上は、貴族の朝食だった。トースト、ワッフル、サラダにオムレツ。ガラスの器のオレンジジュース。
「食べよか」
促されてテーブルについた遥にはため息しか出ない。だが、これも龍司には当たり前のようだった。
「何や、食わんのか?」
「ううん。食べる。けど、何か驚いちゃった」
「驚く?」
トーストにバターを厚く塗りながら龍司が聞いてくる。
「何だか、お姫様になったみたい。お部屋もすごいし、お風呂もすごいし、ご飯だってすごいんだもん」
「そっか。まあ、これがワシ流のおもてなしやと、思ってな」
「うん」
遥は頷き、小さく笑った。
白いリムジンは、昨日と同じ時間に同じ場所へ戻ってきた。桐生のアパートの前の細い道。今日は道行く人がリムジンをまじまじと見つめているが、龍司にはそんなことは関係ないようだ。
昨日と同じように運転手にドアを開けてもらい、遥は車を降りた。ドアが閉まると、龍司は窓を開けて
「遥。また兄ちゃんと遊んでくれるか?」
「うん。またね」
手をふれば、龍司は一瞬寂しそうに眼を細め、それから笑顔で手を振ってくれた。
白い車が走り出し、遥はそれが見えなくなるまで見送った。昨日と、今日の楽しい思い出を、早く桐生に伝えたい。遥は足取りも軽く階段を駆け上った。
遥にとって、楽しいディズニーランドデートから数日が過ぎた。
桐生が仕事から戻り、一服しているときだった。テーブルの上の携帯が鳴りだし、大阪の番号を知らせてくる。一瞬、嫌だと思ったが、桐生は通話ボタンを押した。
「桐生だ」
『ワシや』
陽気な声は、郷田龍司のモノ。
『こないだは、遥を借りてすまんかったのう』
「お前、遥をどこに連れて行ったんだ?」
怪訝な声で聞けば、電話の向こうの声は太く笑い
『ディズニーランドや』
「その後だ」
『ホテルのスイートに泊まったわ。喜んどったやろ?』
「・・・それでか」
桐生は深くため息をついた。遥は桐生にホテルに泊まった事を一生懸命話した。泡の風呂、大きなベッド、朝食のルームサービス。掻い摘んで聞かされた桐生は、いったい龍司と遥はどこに泊まったのだろうと疑問に思っていたのだ。
「で、用件は何だ」
『次、薫と会うのはいつや?』
「何故、そんな事を聞く?」
『ワシがちょくちょく薫に会うと、薫がクビになりかねんからのう。オッサンに聞いたほうが早いと思うたんや』
「・・・まだ、決めてない」
『そうかぁ。なら決まったら教えてや。それから』
「まだ何かあるのか?」
『オッサン、あと八年したら、ナンボや?』
「46だ」
『ワシは、今のオッサンと同じくらいやで』
電話の声が弾み、桐生は眉間に皺を寄せる。
「何が言いたい」
『その頃、遥は別嬪さんになってるやろな。そん時はワシが遥を貰ってもええか?』
「・・・てめぇ、何言ってるのか、わかってるのか?」
思わず凄みのある低いで言ってしまい、遥が心配そうに台所から顔を出した。慌てて桐生は背を向ける。電話の向こうの声は相変わらず飄々と
『わかっとるで。せやから考えといてな。それと』
「まだ何かあるのか」
『遥に、次どこに行きたいか聞いといてな。ほな』
一方的な電話が切れて、桐生は大きくため息をつく。ただ事ではない気配を感じた遥が駆け寄ってきた。
「おじさん、どうしたの?」
「龍司だ。次にどこに行きたいか聞いてきた」
「ホント?じゃあ、富士急ハイランド!」
遥が嬉しそうに笑う。桐生はこめかみがズキズキと痛む思いだった。
「おじさん、お兄ちゃんにそう言ってくれる?」
屈託の無い笑顔。桐生としては、遥には堅気のままでいて欲しいのに、よりによって相手はいまや日本最大の極道組織のトップだ。
「遥、それでいいのか?」
眉間を押さえて聞けば、遥はキョトンとして
「何で?私、まだ富士急ハイランド行った事ないんだモン。行ってみたいな」
「俺が連れて行こうか?」
桐生が言えば遥は首を左右に振り
「ううん。ウチにそんなお金ないでしょ?だからお兄ちゃんに連れて行ってもらうの」
ニッコリ笑顔はちゃっかり者の顔だ。これなら、龍司に引っ張られる心配は無いかもしれない。だが、何時取られてしまうかと思うと、不安もある。
「富士急ハイランド、楽しみ!」
元気な遥に、桐生は少し微笑み
「そうか、なら龍司に言っておこう」
桐生はとりあえず、遥が幸せならそれでいい、と思うことにした。
薫は薫で
「遥ちゃんも連れてくればいいじゃない」
と言い、遥は遥で
「ヒマワリに行くから、おじさんは薫さんとデートしてきなよ」
と言い出す始末だ。
そんな事で遥をヒマワリに送り出すのは嫌だし、かといって遥を連れてとなると、色々問題もある。板挟みの桐生は、自分で結論を出す事ができず、悶々と考え込む事になるのだった。
いつまでも結論が出ず、日付だけが進む。遂に薫が切れて、喧嘩になりかけたその日の夜、桐生の携帯に見慣れぬ番号の着信が来た。番号の最初が『06』から始まっているから、大阪からの固定電話であることは間違いない。不審に思いながら通話ボタンを押す。
「桐生だ」
低く言えば、
『ワシや。郷田龍司や』
更に低く、陽気な声が戻ってきた。現在も郷龍会会長として、そして近江連合六代目就任予定の男として、関西極道界に君臨する彼に、桐生は携帯番号を教えた覚えは無かった。
「お前、何でこの番号を知っている?」
眉間に皺を寄せて、脅すような声で問う。だが、電話の相手は
『薫の携帯から、ちょっとな。まあ、妹の携帯くらいイジってもええやろ』
相変わらずの調子に、桐生はため息をついた。まさか、薫から龍司にこの番号が伝わるとは思わなかった。恐らく、この事は薫自身も知らないはずだ。
「で、何か用か?」
呆れる思いを隠して聞いてみる。
『あのな、今度、薫と東京で会うんやろ?』
「まあな」
『そん時、遥はどないすんねん』
「まだ決めていない」
『そんなら、ワシに預けてくれや』
「何だと?」
『ワシが入院してる間、世話になった礼も兼ねて、遊びに連れてってやるわ。その間、オッサンは薫と遊べるやろ』
喜々とした龍司の声に、桐生は黙り込んだ。その様子に、遥が心配そうな顔をして見上げている。この時、桐生は疲れていて、判断を誤った。携帯を保留にして、遥に聞いたのだ。
「遥、龍司が入院中に世話になったから礼がしたいそうだ。会ってみるか?」
すると、遥の表情がぱあっと明るくなった。
「ホント?私、お兄ちゃんに会いたい!」
しっかりと頷く様に、桐生は保留ボタンを解除して、龍司に言った。
「遥が会うと言ってるからな。お前の話に乗ろう」
『よっしゃ。薫が新幹線で行くより前に、そっちに行くようにするわ。それと、遥にディズニーランドに行くからって言っといてな』
「ああ。わかったよ」
『そんじゃ、またな』
呑気な大阪からの電話が切れ、桐生はまたため息をついた。その向こうでは、遥が嬉しそうな顔で台所に立っていた。よくよく考えてみれば、龍司の下が一番安全かもしれない。まさか郷龍会会長の手元から、遥を誘拐できるほどの人間はいないだろう。そう考えると悪い選択肢ではないはずだ。桐生は、そう思うことにした。
土曜日、桐生がアパートのベランダでタバコをふかしていると、建物の前の細い通りに、バカでかい、真っ白なリムジンが曲がってくるのが見えた。しかも、一度で曲がりきれず、切り返しをしている。
「遥。龍司が来たぞ」
振り返って声をかければ、カーゴスカートにボーダーシャツ、上からスカジャンを羽織った遥は、ニッコリ笑顔で靴を履き
「おじさん、薫さんと喧嘩しないでね。いってきます!」
靴音も高らかに飛び出していった。
アパートの鉄の階段を駆け下りて、遥は停まっているリムジンへ近づいた。長さだけなら、薫が運転しているワンボックスより大きいだろう。アパートの門から出ると、運転手役らしい、如何にも若い筋モノの男が、後部座席のドアを開けてくれた。
「よう。元気やったか?」
中には、龍司がドンと座っていた。スーツではなく、ラフなジーンズ姿で、髪も手ぐしでかき上げているだけのようだ。これならパッと見た感じ、ディズニーランドでも悪目立ちしないだろう。
遥は、よいしょと掛け声をかけて車に乗り、龍司の隣に座った。それから精一杯の笑顔で
「うん。お兄ちゃんも元気だった?」
「ま、ワシは丈夫がとりえやからな」
龍司がニコッとすると、子供っぽい表情になった。そして、車が静かに動き出した。遥が振り返れば、ベランダで桐生が見送っていた。それが今生の別れのように思えて、遥は俯いた。寂しさが足元から湧き上がり、グッと奥歯を噛み締めたとき、龍司の大きな手が遥を引き寄せた。
「遥。今日は一日遊ぼうや」
見上げれば、龍司は優しそうに笑ってくれた。
「うん」
小さく頷いて、遥は寂しいと思う自分を追い払おうとした。今日は龍司が側にいるのだ。寂しいとか考えては申し訳ない。
「お兄ちゃんは、ディズニーランドに行った事あるの?」
素朴な疑問をぶつけてみる。遥は『ヒマワリ』の遠足で来た事があるし、桐生とも一度だけ来た事がある。
「ワシはそうやな。一応行った事はあるで。でもあんま詳しくはないな」
「そうなんだ」
「せやから、遥に案内してもらわんとな」
肩を抱いたまま、顔を覗き込んで龍司は言う。遥は頷き
「任せておいてよ!」
と、カラ元気でそういった。
冬のディズニーランドは、寒空の下でもやはり混んでいた。その中を、龍司と遥は並んで歩く。そして、遥は龍司も悪目立ちすることを痛感した。背が高すぎるのだ。遥の知る限り、桐生より背が高い人は、龍司ぐらいしかいない。
遥が乗り物に乗りたいといえば、龍司はそこへ連れて行けと言ってくれた。
パーク内を歩いていると、赤い車が停まっていて、甘い匂いが漂ってくる。
「あ、お兄ちゃん!あれ、美味しいんだよ!」
遥は龍司の手を引いて、そのワゴンへ駆け寄った。
「お兄ちゃんも食べる?」
見上げれば、龍司は
「勿論や。ワシの分も買うてや」
すぐに千円札を手渡してくれた。
「いいの?」
それを持って遥は小首を傾げて問いかける。
「それで買うてや。頼んだで」
「うん」
遥はワゴンの中のお姉さんから二つ貰うと、龍司が待つ所へ戻った。シナモンのたっぷりかかったチュロスを手渡して、自分の分にかぶりつく。
「美味しい~」
小さく言えば、龍司もかぶりつき
「結構うまいのう」
ニパッと笑う。桐生は甘い物が嫌いだから、こういう所でも絶対に食べない。
「お兄ちゃんは、甘い物は平気なの?」
遥はそっと聞いてみる。もし、自分に合わせてくれていたなら申し訳ないと思うからだ。だが、龍司は
「ワシか?ワシは甘いモンも好きやで」
別に何でもないかのように言った。
「そうなんだ。あわせてもらってるのかと思っちゃった」
ぺロッと舌をだして言えば、龍司は目を細め
「そないな事あるかい。ワシが食べたいから食べるんや」
と言ってくれた。
お昼はパークでピザを食べ、キラキラ光るパレードを見て、それからアトラクションに乗る。どんどん日が西に傾いても、遥は元気に龍司を連れまわした。だが、日が落ちればさすがに疲れてくる。
「お兄ちゃん。疲れてない?」
手をつないでいる龍司を振り返り、遥は聞く。
「遥は、疲れたか?」
逆に聞かれて、遥は首を左右に振った。
「ううん。疲れてない」
「嘘つけ。本当はクタクタなんやろ」
ニシシッと笑って龍司は言う。それから、遥の顔を覗き込み
「ワシ、今日は舞浜のホテル取ってるんや。そこで休もう」
「うん」
遥が頷くと、龍司はその手を引いて、出口へ歩き始めた。
駐車場でリムジンに乗り込むと、すぐにホテルに着いた。正面入り口にリムジンが停まると、明らかにホテルの従業員が目を見張っていた。係の人にドアを開けられ、遥は自分が何処かのお姫様になったような気分だった。しかし、龍司は慣れているのか、別段何でも無いように歩いていく。遥は慌てて後についていった。
ロビーの高い天井。ピカピカの床。チェックイン中の龍司の側で、遥は口を開けたままぐるりと見渡しため息をつく。
「遥、行くで」
声をかけられて、遥は急いで龍司について行く。大きなエレベーターに乗り、見事なドアのある部屋の前についた。今まで、ホテルに泊まった経験が無い遥は、どうしてもキョロキョロしてしまう。薄暗い廊下に敷かれた絨毯は柔らかいし、扉は重厚は雰囲気だ。
そして、部屋に入った遥は、本当に唖然とさせられた。
入った正面に、ガラスのテーブルと豪華なソファ。その向こうには、大きなテーブルと白い椅子。これでもかと飾られた、大きな花瓶と溢れんばかりの花。
「お兄ちゃん・・・なんか、すごいんだけど」
立ち尽くす遥の前で、龍司は足を投げ出すようにソファに座り
「そうか?これくらい当たり前や」
そういわれても、遥には返す言葉が無い。
「ちょっと、部屋の見学でもさせてもらえばええ」
龍司が顎で促してくる。遥はキョロキョロしながら、部屋の奥へ進んだ。木の扉が開いていて、その奥にはかなり大きなベッドが二つ並んで置かれていた。
「お兄ちゃん、何かすごいよ、ここ。ウチより広いかもしれないよ」
慌てて龍司の所に帰ると、彼はテーブルの上に置かれたフルーツバスケットから蜜柑をとって食べていた。遥が隣に座ると、蜜柑を一つ手渡してから、例のニパッと笑う顔で
「ワシ、狭い所はアカンのや。こんなナリやさかい、ベッドがでかくないと足がはみ出るんや」
「・・・そうなの?」
蜜柑をむきながら遥は首を傾げる。
「そうなんや。ベッドが狭いと落ちるしな。せやから、ホテル取るときは、でかいベッドがあるところにしてるんや」
そんなものだろうか?と遥は思った。
夕飯はレストランで、くだらない話をしながら中華料理を食べた。遥の学校の事、桐生との生活の事などを話せば、龍司は笑って聞いてくれた。たったそれだけの事だったが、遥はとても嬉しかった。
部屋に戻って、今度はお風呂の前で遥は固まった。一人で入るには広い湯船だった。たぶん、家の風呂の倍はあるだろう。だが、龍司は笑って
「よくアメリカのテレビにある、泡風呂に出来るんやで」
と、やり方を教えてくれた。
真っ白な泡が広がる風呂に浸かって、遥は本当にお姫様のようだと思った。こんな経験は初めてだ。大きな車、綺麗なホテル、泡のお風呂。思わずクスクスと笑ってしまう。そして、こんなお風呂におじさんを入れたらどうなるだろうと、一人思った。
風呂から上がれば、龍司は電話で誰かと話をしていた。深刻なのか、眉間に皺を寄せ、窓の外を睨みつけている。邪魔をしてはいけないと、ベッドルームに戻って、大きなベッドに転がると、ふんわりと包まれるようで心地いい。今日一日歩き疲れた体は急激に眠りの世界へ引き込んでいく。
「遥。寝るんやったら、布団に入れ」
龍司の声が聞こえて、遥はもぞもぞと毛布の下に潜り込み、目を閉じた。
真っ白な世界が広がっていた。乳白色の霧の中、遥はぽつんと立っていた。どこだろうとキョロキョロしていると、桐生の姿が見えた。慌てて駆け寄ると、目の前の桐生は無表情に遥を見つめていた。
その瞳は、恐ろしいほど冷たかった。
立ち尽くす遥の前で、桐生が踵を返し、歩き出した。ついて行こうと、桐生の手を掴もうとした時、別の手が桐生の手を引いていた。
(誰なの?)
見上げれば、それは薫だった。優しい笑顔で桐生を見つめ、どんどん連れて行ってしまう。
(おじさん、待ってよ)
必死で走っているのに、もう少しで桐生の服に手が届きそうなのに、どうしても掴む事が出来ない。
もう一歩、もう一歩でと思った瞬間、白いドアが閉じて、遥は立ち止まった。
それは、新幹線のドアだった。見れば、東京駅の新幹線ホームで、遥は東海道新幹線を見上げていた。もう閉ざされたドアの向こうで、桐生が寂しそうに微笑み、薫の身体を抱き寄せた。
(おじさん、置いていくの?やっぱり、私の事、置いて行っちゃうの?)
列車の発車ベルが鳴り響く。桐生を乗せた列車が動き出す。
(お願い!おじさん、置いていかないで!)
叫びたいのに、喉が押しつぶされたように声が出ない。涙はどんどん溢れてくるのに、どうしても言う事が出来ない。走り去る列車が遠ざかり、遥は大きく息を吸い込んだ。
「嫌!」
瞬間、ばっと目が覚めた。見えたのは暗い天井だった。涙が耳に入ってくすぐったい。混乱する頭で、夢だったのかと思った時、ベッドサイドのランプが灯った。
「どないしたん?」
声をかけられ、遥は隣のベッドを見た。龍司が、ベッドの中から自分を見つめていた。
「何でもないの」
無理に笑顔を作れば、龍司の眉間に皺がよる。
「泣いとるくせに、なんでもない訳ないやろ」
「本当に、何でもないの。夢、見ただけだから」
涙を拭いて、一生懸命取り繕う。すると、龍司は笑って、自分の毛布をまくり上げ
「怖い夢でも見たんやろ。こっち来るか?」
白いTシャツが目に入り、遥は慌てて目を逸らす。
「こっち来いや」
低い声が飛ぶ。
「平気だもん」
遥が拒むと、龍司はクククと喉を鳴らし
「遥が来んのやったら、ワシがそっち行くわ」
「え?」
見れば龍司はにやあっと笑っている。仕方なく、遥はベッドを降りて、龍司の胸の中に転がり込んだ。少し甘い、洋酒の匂いがした。
「お兄ちゃん、お酒飲んだの?」
遥が見上げれば、龍司は上からそっと毛布をかけて
「そうや。ま、睡眠薬代わりやな」
静かな声が響く。温かい毛布の中で、遥はもう一度涙を拭いた。それから
「お兄ちゃん。おじさん達、今頃どうしてるかな?」
「もう寝とるやろうなぁ」
「そっか。そうだよね」
自分で言いながら、夢を思い出して涙が溢れる。
「お兄ちゃん。もし、薫さんとおじさんが結婚したら、私、やっぱり『ヒマワリ』に帰るのかな」
「何でそう思うんや?」
「だって、私、邪魔しちゃうし。きっと、おじさんだってそう思ってるよ。私、また置いていかれちゃうのかな」
グズグズと泣き出すと、龍司はティッシュを取ってくれた。
「ワシは、そないな事ないと思うで。今日かて、ワシが遥を誘わなければ、オッサンは遥を連れて薫と会っとったやろな」
大きな手が、遥の髪を撫でていく。
「オッサン、遥が大切やから、絶対『ヒマワリ』に行かせたくないはずや。それに、『ヒマワリ』かて、安全やないしな。せやから、遥をワシに預けたんや」
「どうして?」
涙に濡れる瞳で見れば、龍司はニコッと笑い
「ワシに、やないな。近江連合の六代目会長に預けたんや。ワシん所なら、遥を守りきれると思うたんやろ」
「守る?」
「そうや。これはワシらの世界の一般論や。ワシの意見やないけどな」
龍司はそう前置きをして、大きく息を吐いた。
「オッサンは、ワシらの世界じゃ生きる伝説や。せやから、跳ね返りどもが、一旗上げようとする時は、オッサンを狙うやろ。そん時、オッサンを焚きつける餌には、遥が一番なんや」
「私を、餌に・・・」
「ワシかて、東城会と戦争する時はその事を考えた。『ヒマワリ』の間取りからなにから調べさせたしな。実際、千石は遥を誘拐して、餌にした」
遥は息を飲んだ。あの日、遥はヒマワリの庭で、下の子達と遊んでいた。その時、突然黒い車から男達が飛び出してきて、遥を横抱きにすると車に押し込んだのだ。
「オッサンは、遥に危害が加えられることを一番恐れとる。せやから、ワシの申し出を受けて、遥を預けてくれたんや」
龍司の大きな手が、遥の涙をふき取った。
「オッサンは、遥を放すことはないやろ。それでも、オッサンの側に居るんが辛いときは、ワシを頼ってな」
大きな腕の中に閉じ込められて、遥は小さく頷くと目を閉じた。温かい世界で、今度は夢を見ないで済みそうだった。
明るい太陽の光が眩しくて、遥はゆっくり目を覚ました。真っ白な天井を見上げ、それからがばっと起き上がった。隣に寝ていたはずの龍司はもういない。ベッドから滑り降りて、隣の部屋へ行くと、既に着替えた龍司がのんびりテレビを見ていた。
「おはよう」
遥が声をかけると龍司は振り返り
「おはようさん。朝飯、届けてもらうさかい、顔洗っておいで」
「うん」
遥は顔を洗い、服を着替えて龍司の所へ戻った。テレビが天気予報を伝えていて、それによると今日も東京は晴天らしい。
「遥、目が痛くないか?」
龍司が心配そうに聞いてくる。昨日の夜、泣きながら寝てしまった事に、遥はちょっと恥ずかしいと思いつつ
「平気。もう大丈夫だよ」
にこっと笑えば、龍司は頷き
「まあ、あまり無理せんと、ワシには頼ってな」
その時、部屋の呼び鈴が鳴り、龍司がドアを開けた。
テーブルの上は、貴族の朝食だった。トースト、ワッフル、サラダにオムレツ。ガラスの器のオレンジジュース。
「食べよか」
促されてテーブルについた遥にはため息しか出ない。だが、これも龍司には当たり前のようだった。
「何や、食わんのか?」
「ううん。食べる。けど、何か驚いちゃった」
「驚く?」
トーストにバターを厚く塗りながら龍司が聞いてくる。
「何だか、お姫様になったみたい。お部屋もすごいし、お風呂もすごいし、ご飯だってすごいんだもん」
「そっか。まあ、これがワシ流のおもてなしやと、思ってな」
「うん」
遥は頷き、小さく笑った。
白いリムジンは、昨日と同じ時間に同じ場所へ戻ってきた。桐生のアパートの前の細い道。今日は道行く人がリムジンをまじまじと見つめているが、龍司にはそんなことは関係ないようだ。
昨日と同じように運転手にドアを開けてもらい、遥は車を降りた。ドアが閉まると、龍司は窓を開けて
「遥。また兄ちゃんと遊んでくれるか?」
「うん。またね」
手をふれば、龍司は一瞬寂しそうに眼を細め、それから笑顔で手を振ってくれた。
白い車が走り出し、遥はそれが見えなくなるまで見送った。昨日と、今日の楽しい思い出を、早く桐生に伝えたい。遥は足取りも軽く階段を駆け上った。
遥にとって、楽しいディズニーランドデートから数日が過ぎた。
桐生が仕事から戻り、一服しているときだった。テーブルの上の携帯が鳴りだし、大阪の番号を知らせてくる。一瞬、嫌だと思ったが、桐生は通話ボタンを押した。
「桐生だ」
『ワシや』
陽気な声は、郷田龍司のモノ。
『こないだは、遥を借りてすまんかったのう』
「お前、遥をどこに連れて行ったんだ?」
怪訝な声で聞けば、電話の向こうの声は太く笑い
『ディズニーランドや』
「その後だ」
『ホテルのスイートに泊まったわ。喜んどったやろ?』
「・・・それでか」
桐生は深くため息をついた。遥は桐生にホテルに泊まった事を一生懸命話した。泡の風呂、大きなベッド、朝食のルームサービス。掻い摘んで聞かされた桐生は、いったい龍司と遥はどこに泊まったのだろうと疑問に思っていたのだ。
「で、用件は何だ」
『次、薫と会うのはいつや?』
「何故、そんな事を聞く?」
『ワシがちょくちょく薫に会うと、薫がクビになりかねんからのう。オッサンに聞いたほうが早いと思うたんや』
「・・・まだ、決めてない」
『そうかぁ。なら決まったら教えてや。それから』
「まだ何かあるのか?」
『オッサン、あと八年したら、ナンボや?』
「46だ」
『ワシは、今のオッサンと同じくらいやで』
電話の声が弾み、桐生は眉間に皺を寄せる。
「何が言いたい」
『その頃、遥は別嬪さんになってるやろな。そん時はワシが遥を貰ってもええか?』
「・・・てめぇ、何言ってるのか、わかってるのか?」
思わず凄みのある低いで言ってしまい、遥が心配そうに台所から顔を出した。慌てて桐生は背を向ける。電話の向こうの声は相変わらず飄々と
『わかっとるで。せやから考えといてな。それと』
「まだ何かあるのか」
『遥に、次どこに行きたいか聞いといてな。ほな』
一方的な電話が切れて、桐生は大きくため息をつく。ただ事ではない気配を感じた遥が駆け寄ってきた。
「おじさん、どうしたの?」
「龍司だ。次にどこに行きたいか聞いてきた」
「ホント?じゃあ、富士急ハイランド!」
遥が嬉しそうに笑う。桐生はこめかみがズキズキと痛む思いだった。
「おじさん、お兄ちゃんにそう言ってくれる?」
屈託の無い笑顔。桐生としては、遥には堅気のままでいて欲しいのに、よりによって相手はいまや日本最大の極道組織のトップだ。
「遥、それでいいのか?」
眉間を押さえて聞けば、遥はキョトンとして
「何で?私、まだ富士急ハイランド行った事ないんだモン。行ってみたいな」
「俺が連れて行こうか?」
桐生が言えば遥は首を左右に振り
「ううん。ウチにそんなお金ないでしょ?だからお兄ちゃんに連れて行ってもらうの」
ニッコリ笑顔はちゃっかり者の顔だ。これなら、龍司に引っ張られる心配は無いかもしれない。だが、何時取られてしまうかと思うと、不安もある。
「富士急ハイランド、楽しみ!」
元気な遥に、桐生は少し微笑み
「そうか、なら龍司に言っておこう」
桐生はとりあえず、遥が幸せならそれでいい、と思うことにした。