母の日―紅―
「姐さん!私悔しい~!」
堂島家の居間で、女が号泣していた。彼女は幹部衆の妻の一人で、弥生とも懇意にしている。今日は夫が浮気をしたと、泣きながら
飛び込んできたのだ。とりあえず、家に入れたものの、泣いたままで埒が明かない。前に座った弥生は頭が痛むように額に手を当てた。
「悔しいも何も、極道やってりゃ浮気の一つや二つ、しょうがないだろう」
あくまでも冷静に諭してはみるが、女には逆効果だったらしい。涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げて叫んだ。
「でも姐さん!あの人もう浮気はしないって、土下座して言ったんですよ!その舌の根も乾かないうちに、女囲ってマンションや車まで
買ってやって!しまいには二人で海外旅行まで!もう、絶対許せません!姐さんからも、何とか言ってやってください!」
こんな興奮状態では、説得も聞きはしないだろう。溜息をついたとき、廊下から声がした。
「お茶を持って来ました」
「ああ、すまないね。お入り」
弥生に許可を得、礼儀正しく正座して遥は襖を開けて入ってくる。それまで泣いていた女は驚いたように遥を目で追った。
「どうぞ」
目の前に茶を出され、女は戸惑いながら頭を下げる。
「あ、ありがとう……」
いいえ、と遥は微笑む。彼女は遥と弥生を交互に眺め、恐る恐る問いかけた。
「あの……この子、姐さんの?」
「そう思うかい?」
微笑む弥生に、女は目を丸くした。
「え、そうなんですか?いつの間に……じゃない、もしかして再婚でも?!」
「馬鹿だね、そんなわけないだろう。この子は遥といってね。うちでちょっと預かってるんだよ」
女はしげしげと遥を見つめる。その興味本位の視線に耐えかねて、遥は乾いた笑みを浮かべた。
「あの、お話続けてください……私もう行きますから」
「いや、遥ちゃんも女なら聞いて!極道の妻になんてなるもんじゃないわよ!絶対!」
「……はあ」
わかったようなわからないような顔をしている遥を見て、弥生が告げた。
「ちょっと、子供にそんなこと言うのはおよし」
「いいえ!こういうことは小さい頃から知っておかないと駄目なんです!女遊びの激しい男に引っかかったらろくなことにならないん
だから!いい?最初は好きだの愛してるだの言ってても、手に入ったら満足して、見向きもしなくなるんだから!責めても『浮気は
男の勲章だ!』なんて開き直っちゃって、ああもう、悔しい!だからね、遥ちゃんは真面目でしっかりした普通の男を探しなさい!
わかった?」
詰め寄られ、遥は身を引きながら何度も頷いた。
「えーと……よくわかんないけど、わかりました」
「でも、遥ちゃんはしっかりしてるから、大丈夫だよ。それよりあなたの話を……」
このままでは遥にどんな話をされるかわからない。弥生が話の矛先を修正しようとするのを、女は怪訝に見つめた。
「……遥ちゃんにえらくご執心じゃないですか」
「そりゃあ、大切なお嬢さんだから。変な事を教えたら後々困るだろう?」
女はしばらく考え、ふと何かを思いついたように顔を上げた。
「そういえば、姐さんには跡目継がれる息子さんが……さては、この子を理想通りに育て上げて、ゆくゆくは嫁にとお考えじゃ!」
「嫁……?」
きょとんとする遥を見て、弥生は慌てて女を一喝した。
「そ、そんなわけないだろう!変な勘繰りはおよし!」
「……冗談です」
思い詰めたような表情で呟く女を、遥は心配そうに覗き込んだ。
「おば……お姉さん。私、わかったから。ちゃんと、言うとおりにするから。だから元気出して」
「遥ちゃん……あなたって、なんていい子なの!」
女は遥を力いっぱい抱きしめたかと思うと、すごい勢いで泣き始めた。ぽかんとする遥と目をあわせ、弥生は大きく溜息をついた。
この分だと当分遥は解放されそうにない。
それから、なだめて説得して数時間。やっと女は機嫌を直して堂島家を去っていった。遥は茶碗を片付けてしまうと、驚いたように告げる。
「すごい人でしたね。でも何だか大変そう」
弥生は苦笑して遥に手を振った。
「ああ、大丈夫。あの子はいっつもあんな感じなんだよ。何かあると泣いて別れるだの、もう駄目だの言って、最後にはけろっとして
帰るんだから」
へえ、と遥は頷き、ふと笑顔を浮かべた。
「でも、弥生さんって慕われてるんですね。あんなふうに相談しに来られるなんて」
「なんだかねえ、いいんだか悪いんだか。何かあるとこうやって手間かけさせられて、困ってしまうよ」
困ったように微笑む弥生を遥は頼もしく思った。どんな時でも男達の中で毅然としている弥生。関西との抗争の折にも、あの龍司と
対峙して、一歩たりとも引かなかったという。遥はそんな弥生が大好きだった。
「それじゃ、本部に行くとしようか。あの子の旦那にも、ああ泣きつかれた手前言って聞かせないと」
遥は頷き、彼女の後について行く。弥生は今日も何かと忙しそうだ。
本部で遥はカレンダーを見て、短く声を上げる。それを聞いた構成員が彼女に声をかけてきた。
「どうしたんです?」
「母の日なの、今日」
「母の日ねえ……」
男はぴんとこないような顔でカレンダーを眺めた。遥は少し考える。
「弥生さんにお花でも買おうかな」
「姐さんに?」
驚く構成員に、遥は頷いた。
「だって、いつもお世話になってるもん。ちょっと行ってくるよ!」
「あ、遥さん!ちょっと待った!」
呼び止められ、遥は振り返る。すると男はポケットから小銭を取り出した。
「俺も出しますから、姐さんへの花、一本追加してください」
「えー、自分で買ったらいいのに!」
「いや、自分どうも花屋は行きにくくて…」
照れたように告げる男に、遥はしょうがないな、と笑ってお金を受け取った。男に別れを言って彼女が廊下に出ると、彼女の顔が
嬉しそうに見えたのか、他の構成員達が話しかける。
「どうしたんです?いいことでもありましたか?」
「あのねー、母の日だから、弥生さんにカーネーションを買おうかと思って。今行くところ!」
「へー……」
「姐さんに……」
彼らは顔を見合わせ、しばらく考えていたようだったが、慌てて遥を追いかけた。
「ちょ、ちょっと!遥さん!」
「何?」
男達を見上げる遥に、彼らはそれぞれ金を出しながら、声をそろえた。
「俺達の分も買ってきてください!」
その様子を珍しそうに眺めていた他の構成員達も、その声を聞きつけてやってきた。
「何やってんだ?」
「母の日だってよ」
「姐さんにカーネーション送るんだって」
「お、それ俺も乗った!一本追加!」
「それじゃ、俺も追加で!」
次々に追加を頼まれ、遥は悲鳴のような声を上げた。
「もう、みんなして私をあてにして~!」
「楽しそうだな、何をやってるんだ?」
穏やかな声がして、皆はその人物が誰かわかるや、慌てて頭を下げた。遥はほっとしたように声の主に駆け寄る。
「柏木のおじさん、みんなずるいの。私が弥生さんにカーネーション買うって言ったら、私に追加で買って来いって言うんだよ!」
「カーネーション?」
彼は少し考え、やがて、ああ、と思い出したように微笑んだ。
「母の日か」
「そう、いつもお世話になってるから」
柏木は遥の頭を撫で、頷いた。
「確かに、姐さんはこいつらの母親みたいなもんかもな。いいじゃないか、買ってきてやってくれないか」
彼の頼みなら断れるはずもない。遥は苦笑を浮かべた。
「うん、わかった。それじゃみんなの分も買ってくるよ」
「ああ、遥それなら…」
柏木の声に、遥は嫌な予感を感じて見上げる。すると彼は紙幣を取り出して彼女に渡した。
「私の分も追加だ。よろしく」
脱力したように遥はそれを受け取る。とはいえ、これだけの額の花束だと彼女だけでは持ちきれない。そこで、構成員の一人に車を
回してもらうように頼むと。彼女は会長室に向かった。
「大吾お兄ちゃん」
遥が入ってくるのを見て、大吾は素っ気無く告げた。
「仕事中だぞ」
「少しだけ。あのね、今から他の人たちに頼まれた分と一緒に、弥生さんに母の日の花を買いに行くんだけど、お兄ちゃんはどうする?」
「母の日~?」
大吾は露骨に面倒そうな顔をする。そんなものをした覚えは、記憶に残っている限りでは全くない。
「別に、勝手にやればいいだろ」
どうでも良さそうな大吾の言葉に、遥は寂しそうな顔をした。
「だって、弥生さんはお兄ちゃんのお母さんなのに」
「あのな、いい年して今更母の日もないだろ。恥ずかしいっつの!ほら、行けって」
追い払うように手を振られ、遥は渋々彼に背を向ける。そして、部屋を出ようとして彼女は振り返った。
「喜ぶと思うけどなあ、弥生さん。私、お兄ちゃんが羨ましいよ。感謝の気持ちを、いつでも伝える事ができるんだから」
そういえば、遥の母親はもうこの世にいなかったのだ。大吾は思い出し、落ち着きなく乱暴に髪をかきあげる。そして遥に歩み寄り
ポケットの小銭入れからいくらか遥に手渡した。
「ああ、わかったよ!ほら、これで一番しぼんだ奴買って来い。あと、このことお袋には言うなよ」
「うん!」
彼女は嬉しそうに笑顔を浮かべ、去っていく。大吾はそれを見送り、苦笑を浮かべて溜息をついた。
「まったく……ガラにもねえ」
それから遥は、一軒の花屋のカーネーションをほとんど使って大きな花束を作ってもらい、意気揚々と帰ってきた。彼女は丁度
本部に帰ってきた弥生をホールで見つけ、その花束を彼女に渡すことにした。
「弥生さん、これ私とここのみなさんから!」
「どうしたんだい?こんな立派な花。誕生日でもないし……」
戸惑う弥生に、遥は声を上げて笑った。
「母の日だよ。いつもありがとう、弥生さん!」
彼女は驚いたように花束を見つめていたが、やがて呆れたように叫んだ。
「まったく、こんな大きな花束なんて、私にはどれだけ沢山の子供がいるんだろうね。ちょっと、あんたたち!遥ちゃんに任せてないで
少しは顔出しな!」
遠巻きに見ていた構成員達は、きまりが悪そうな顔で姿を現す。彼女は彼らを見回すと、やれやれという風に笑みを浮かべた。
「とにかく、礼は言っておくよ。ありがとうね。あんたたちは、これからも気を引き締めてしっかりやりな」
皆が弥生に頭を下げ、弥生はその中を遥を連れて歩いていく。その後姿を構成員達はどこか嬉しそうな顔で見送った。
大きな花束と共に彼女が会長室に入ると、部屋の中は柔らかな香りに包まれる。弥生は中にいた柏木に声をかけた。
「お前もこの企みに加担したんだって?なんだかすまないね」
「いえ、いつも世話になってるからという遥の言葉に、もっともだと思っただけです」
その様子を憮然とした表情で大吾は眺める。遥は彼のところに行くと、そっと囁いた。
「約束通り、言ってないからね」
「当たり前だろ」
大吾は噛み付くように告げる。弥生はここに礼だけ言いに来たらしい。そのまま後はよろしくと二人に告げ、遥を伴って踵を返した。
「ああ、そうそう」
彼女は振り向くと、優しい顔で大吾を見つめた。
「大吾も、ありがとうね」
「なんのことだよ」
ぶっきらぼうに告げる彼に何も答えず、弥生は会長室を出た。遥は驚いたように弥生に話しかける。
「え、え、どうして?弥生さんは、なんでお兄ちゃんも私に頼んだ事知ってるの?」
「とりあえず、遥ちゃんなら、間違いなく大吾も巻き込んでるだろうと思ったからかね。大当たりだったみたいだけど」
視線を向けられ、遥は思わず口を押さえる。その様子を、弥生はおかしそうに声を上げて笑った。
「さ、帰ってこれを生けようか。遥ちゃんも手伝っておくれ」
はーい、と遥は元気良く返事をする。弥生は遥の頭を撫で、嬉しそうにもう一度花を眺めた。
強く、美しき女極道に、心からの敬愛を。
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