春雷
空は昼間にも関わらず、辺りが薄暗くなるほど厚い雲に覆われていた。自室の襖を開けると、遠くで唸るような音が響いている。
「雷か……」
呟き、大吾は座ったまま部屋の中から庭を眺めた。
ふいに、ぽつりぽつりと降っていた雨が激しくなってくる。このところ晴天続きだったため乾ききっていたた庭が、その雨で一気に
潤されていった。やがて立ちのぼる土と水の臭いは、何故か心を落ち着かせる。久しぶりの休日に雨とは運がないとは思うが
今日はどこにも外出する気分でもなかったため、特に落胆はしていない。
突如、光が辺りを照らし出す。少し遅れて、腹の底に響くような雷鳴。彼は一瞬目を細めたが、再びぼんやりと空を眺めた。
雷は嫌いじゃない、むしろ好きだ。空を駆け抜ける美しい稲妻を見るたび、心拍数が上がるのがわかる。
「ガキみてえだ」
彼は苦笑する。その瞬間、再び雷鳴が轟いた。ふと、大吾は視線を動かす。遠くで小さな声がしたような気がしたのだ。しかし
耳を澄ませても、聞こえてくるのは土砂降りの音だけ。気のせいか、と大吾はまた庭に目を向けた。相変わらず低く唸るような音が
辺りに響き、濡れた木々の若芽が雨に応じて美しく揺れていた。
「……ああ、ちくしょう!」
当分そのままでいた大吾は、吐き捨てるように呟き立ち上がった。彼は髪をかきあげながら、廊下を歩いていく。雨はその激しさを
弱めることもなく、屋根に叩きつけている。
大吾は母屋の端にある洋室の前に立つと、小さく溜息をついた。そして面倒そうにその扉を一回ノックする。しかし、それはノックと
言うよりは、叩いたと言った方がいいようなぞんざいなものだ。そして、ぶっきらぼうに声をかける。
「俺だ」
部屋の中でわずかに物音がする。その後、足音がかけてきたかと思うと、小さく扉が開いた。顔を覗かせたのは、顔を強張らせた遥。
「……どうしたの?」
どうしたのも何も、と大吾は腰に手を当てて首を振った。
「お前、うるさい。雷にキャーキャー言ってんじゃねえよ」
「い、言ってないもん」
強気に返すが、彼女の言葉は少し震えている。大吾は肩を竦め、彼女に背を向けた。
「あ、そ。それなら大丈夫だな」
素っ気無く言い捨て、立ち去ろうとする。遥は慌てたように彼の手を掴んだ。
「やだやだ、お兄ちゃん待って!」
「なんだよ」
溜息混じりに振り向くと、遥は彼を上目遣いに見つめた。
「大吾お兄ちゃんが、雷が怖くて一人でいられないんだったら、一緒にいてあげてもいいよ」
それを聞くなり、大吾は呆れたように首を振った。強がりもここまできたら大したもんだ。
「……もう、この際それでいい」
「やった!」
遥は笑顔を浮かべ、彼を部屋に招き入れる。彼女にあてがわれた部屋は、元々来客用の部屋だった。そのせいか、インテリアは
子供部屋らしからぬ落ち着いたものだ。久しぶりに入った部屋で大吾は中を見回す。寝台が乱れているのは、先ほどまで彼女が
潜りこんでいたからだろう。彼は寝台に寄りかかって床に座った。
「遥、お前家にいる時に雷だったらどうしてんだよ」
すっかり雷が苦手なことを前提に話が成されている。彼女はきまりが悪そうに呟いた。
「家には、いつもおじさんがいるもん」
そう言って、遥は彼の隣に座り、膝を抱えた。
「こんな広いおうちで、一人なんて初めてだったから……こんなことで、迷惑かけちゃダメだと思って」
大吾は苦笑を浮かべ、遥の頭を乱暴に撫でた。
「ガキがそんなこと気にしてんじゃねえよ」
「だって……」
遥が何か言おうとした瞬間、閃光と共にひときわ大きい雷鳴が轟いた。彼女は高い声をあげ、大吾にしがみつく。
「やだやだやだー!」
大吾は驚いたように遥を見下ろしていたが、小さく溜息をつき彼女の背を軽く叩いた。
「つか、なんでお前が雷を嫌がるのかがわかんねえ」
遥は彼から離れずに、顔を上げた。その顔は今にも泣き出しそうだ。
「……だって急に光るし、すごく大きな音がするんだもん」
彼はしばらく窓の外を眺め、雨が窓を叩くのを聞いた。
「雨ってのはな、龍神の仕業だ」
「龍神?」
ああ、と大吾は頷いて見せた。
「龍は雲を呼び、雨を降らす。雷なんてそのおまけみたいなもんだ。お前は龍と呼ばれる人の一番近くにいるのに、龍が呼ぶ
雷が嫌いなんて、おかしいんだよ」
遥は複雑な表情で窓の外を眺める。そして、ぽつりと呟いた。
「なら、今おじさん怒ってるのかな」
「さあな、また喧嘩でもしてんじゃないのか」
「……怪我、しないといいけどな」
消え入るような声で告げ、遥は彼の腕の中に潜り込む。大吾は困ったように彼女を眺めた。
「何してんだよ、もう平気じゃないのか」
「違うよう……おじさんのこと思い出したら、なんか……」
それ以上遥の声は聞き取れなかった。大吾は寝台に頬杖を付く。彼女はさっき『寂しい』と言いたかったのではないだろうか。
そうでなければ『切ない』なのかもしれない。今桐生は遠く離れた場所で、最愛の女と一緒にいる。忘れようとしていても、一度
気にすれば泥沼だ。大人でさえ持て余す気持ちを、どうして幼い遥が処理しきれるだろうか。わずかに彼女が震えているのは
雷のせいだけじゃない。
「あのね」
ふいに声を掛けられ、大吾は窓の外を眺めたまま答える。
「……なんだよ」
いつの間にか顔を上げた遥は、ぎこちなく笑った。
「大吾お兄ちゃんがいてくれて、よかった」
大吾は彼女に気付かれぬよう、わずかに微笑んだ。しかし、すぐにいつもの素っ気無い表情に戻り、彼女に手を出す。
「なに?」
首を傾げる遥に、大吾はぶっきらぼうに告げた。
「ここまでしてやったんだから、礼くらいしろ」
彼の言葉に、遥は目を丸くして声を上げた。
「えー?!もしかして、お金取るの?」
大吾は意地悪く笑うと、もっともらしく頷く。
「とりあえず、即金で500円貰うか。後は貸しにしといてやる。利息はトイチな」
「後は……って、全額いくらなの?500円なんてお小遣いの残りが全部飛んじゃうよー!そ、それにトイチって何?」」
「自分で調べろ。しかし、500円で小遣いの残りが飛ぶって、お前普段いくら小遣い貰ってんだよ、この貧乏人」
「だ、だって今月は買いたいものがいっぱいあったんだもん!あ、そうじゃなくてお金取るなんてひどいよう!」
遥は抗議の声を上げながら、両拳で彼を叩く。大吾はそれを受け流しながら、声を上げて笑った。
「誰もが善人と思ったら大間違いだぞ。高い授業料だったな、ご愁傷様!」
抗議で息を切らしつつ、珍しく遥が考え込む。それを興味深く眺める大吾に、遥は伏目がちに呟いた。
「……それなら、仕方ないよね」
その思い詰めたような表情に、少しからかいすぎたかな、と大吾が今までの言葉を取り消そうとした時だった。
遥は真剣な表情で顔を上げた。その瞬間、雷光が部屋の中を照らし出す。
「残りの借金は、体で払うよ!」
「………………あ?」
何かとんでもないことを聞いたような気がする。大吾は自分の耳を疑った。誰が、何で払うって?
ぽかんとしている彼に、遥は大きく頷く。
「そうだよね、お礼はちゃんとしないといけないよね。私、なんでもするから。好きにして!」
どうやら、聞き間違いや幻聴の類ではない。にわかに大吾は顔色を変え、彼女から後ずさった。
「ななな、何言ってんだ!ガキのくせして!」
「私は大丈夫だよ、どんなことでも嫌って言わないから!」
「そういう問題じゃない!お前、自分が何言ってるかわかってんのか?!」
激しく拒絶する大吾に、遥はそっと俯いた。
「もしかして、お兄ちゃんおじさんに遠慮してるの?」
「え、遠慮?!そんなわけあるか!そもそも人として駄目だ!そんなことは!」
このままでは埒が明かないと思ったのか、遥は彼の手を強く引いた。
「わけがわからないよ。しょうがないなあ。それじゃ、私がしてあげる」
「お、おい、馬鹿、引っ張るな!」
「大丈夫だよ~、おじさんにも評判いいんだから。気持ち良いんだよ」
「評判いいって…何やってんだよお前は!つか、桐生さん見損なったぞ!」
「どうしたの?変なお兄ちゃん」
遥は首を傾げつつ、お泊り用の鞄から小さなポーチを取り出す。彼女はそこを探り、何やら取り出した。
「ほらほら、横になって」
「だから、何をする……!」
隙を突かれ、無理やり引き倒された大吾は慌てて遥を見上げる。彼女は細長い棒を持って、きょとんとしていた。
「ん?耳かきだよ」
「耳かき……」
事の真相がやっと理解でき、大吾は疲れたように脱力した。遥は驚いたように彼を覗き込む。
「あとはねー、してあげられることといったら、洗った髪を乾かしてあげたりとか、爪切ってあげたりとか……」
「グルーミングかよ……」
力なく呟く大吾が不満げに思えたのか、遥はまた考え込んだ。
「うーん。他に、他に……そうだ、お風呂で背中流してあげる!」
「それは、絶対いらねえ!」
即答され、ちぇ、と遥は口を尖らせる。まったく、冗談じゃない。大吾は溜息をついた。
「もういい。あれは冗談だ」
冗談?遥は驚き彼を見下ろしている。大吾は彼女の髪に触れた。ふと、前にもこういうことがあったな、と思い苦笑する。
その時、遥が笑った。
「前にも、こうやって触ってくれたね」
「そうだな」
「すごく嬉しかったのに、お兄ちゃん、後ですごく悲しいこと言った」
「……悪かった」
他愛ない会話をしながらぼんやりと髪を弄ぶ大吾に、遥は目を細めた。
「私ね、桐生のおじさんが好きだったんだ」
彼は視線を移す。彼女の瞳は穏やかに澄んでいる。
「でもね、私は小さいし、おじさんには薫さんがいるでしょう?すごく切なくて、どうしようもないときに、弥生さんに言われてここに来たの。
あの時、お兄ちゃん本部の会長室にいたよね」
「ああ、そうだったな。知らないガキが平然と組員に茶出してて、びっくりした」
遥はふふ、と笑って頷いた。さらさらと彼女の黒髪が肩から流れる。
「今は自分の気持ちから逃げてもいいって、お兄ちゃん言ってくれた。それですごく楽になったの」
「……まだ、逃げるのか」
問われ、彼女は視線をめぐらせた。
「うーん。本当はね、最近はおじさん達のことを考えても、あまり苦しくないの」
「そうなのか?」
驚く大吾に、遥は微笑んだ。
「だって、私はおじさんが薫さんのところに行っても、一人じゃないもの」
静かに見返す大吾に、遥は嬉しそうに呟いた。
「大吾お兄ちゃんが、いてくれるでしょ?」
あどけない笑顔は、最初に会った時のままだ。20も歳の離れた少女なのに、時折こうやって殺し文句を口に出してくるのは
計算してやっているようにしか思えない。これが天然なのだとしたら、末恐ろしい。大吾は苦笑を浮かべた。
「悪女」
「え、どういうこと?」
「なんでもねえよ。ほら、耳かきしろよ。それで今日のことはチャラにしてやる」
「あ、うん!」
遥は大吾の頭を膝に乗せ、楽しそうに手を動かし始める。気がつけば雷は通り過ぎたらしく、雷鳴は遠くなっていた。
依然雨は優しく降り続けている。心地よい雨垂れの音を聞きながら、彼はそっと目を閉じた。
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