そして彼は彼女の手を離す
その日の東城会はどこか緊張感が漂っていた。手伝いに来ていた遥は前もって表に出ることを許されず、専ら内々の雑務をこなす
ことと指示された。そういえば、今日は何かあったはずだ。遥は近くにいた構成員に問いかけた。
「今日は、何か大切なことがあるんだよね」
「そうですね。今日は次期会長の承認がありますから」
承認、遥は首をかしげて呟いた。
「これで大吾お兄ちゃんは会長になるの?」
「ちがいますよ。跡目相続はちゃんとしたしきたりに則って行うんですけど、それとは別に幹部の承認を前もって取っておくんですよ。
これが通らないと、会長にはなれません。かなり重要な会議なので、遥さんは会議室には近寄らないでくださいね」
構成員は丁寧に教えてくれる。遥は神妙な顔で頷いた。
「わかりました。あ、それなら邪魔しないように買出しに行こうかな。頼まれ物もあるし、神室町まで行ってくるよ」
「助かります。それではお願いしますね」
慌しい事務所で、構成員の一人が買出しリストを書いて渡してくれる。遥はそれに目を通してうん、と呟いた。
「それじゃ、いってきまーす!」
「承認会議は午後からなので、ゆっくりでいいですから。行ってらっしゃい」
数人の男達に見送られ、遥は出かけた。子供の自分がいれば何かと邪魔になる。遥は気を遣って駅まで駆け出した。
今からなら午後にはゆっくり間に合うだろう。
しばらく歩いただろうか、遥はふと後をつけてくる車の存在に気付いた。それが異常なことに今までの経験ですぐわかった。
少し足取りを速める。それに合わせて車は動く。気持ち悪くなり、彼女はかけだした。車は一度彼女を追い越し、彼女の目の前で停まる。
中から何人かの男が出てくると、あっという間に彼女を車に押し込んだ。
「出せ」
後部座席の男が冷たく指示する。車は通りを猛スピードでかけぬけて行った。
その頃、大吾は堂島家で会議の支度をしていた。着慣れないスーツにネクタイを締めながら、いつもならうるさく付きまとってくる遥が
いないのに気付く。
「あれ、あいついないのか」
「遥ちゃんなら、一足先に本部で手伝いをしてるよ。いいって言ってるのに、働き者だねえ」
彼の支度を見ながら弥生が溜息混じりに呟く。大吾は舌打ちして告げた。
「今日はあいつにちょろちょろされたら困るってのに……まあいい。俺、後から行くから、お袋は先に行ってくれよ」
「はいはい、わかりました。あなたも早く来なさいよ」
弥生は肩をすくめ、家を出て行く。大吾は小さく溜息をつき、煙草に火をつけた。
「ついに今日、か」
実質会長就任の決定は今日にかかっている。柏木によれば、余程のことがない限り決定の方向だと聞いた。しかし、緊張することに
変わりはない。大吾は煙を吐いた。
「……携帯、か?」
彼の普段着のポケットから着信音が流れてくる。こんな時間に誰だろう、と彼は携帯を取り出した。番号は非通知、しかしずっとかかり
続けている。大吾は電話に出ることにした。
「誰だ」
『堂島大吾だな』
何の感情も感じられない声、大吾は不審に思い返事をしない。相手はそれに構わず話を続けた。
『用件を簡潔に言う、お前の家に出入りしている女の子を預かった』
「おい……それはどういうことだ!」
流石に聞き流せない話に大吾は声を荒げる。相手は笑いを堪えながら告げた。
『神室町、中道通り裏の空き地で待ってるぜ。一人で来い。もし来なかったら……あのお嬢ちゃんは、大変なことになるだろうよ』
「ふざけんな。そんな脅しに乗ると思ってんのか」
『いいんだぜ、信じなくても。だが、後悔するのはお前だ。うちにはちょっとおかしな趣味の奴も多いからな』
余裕のある声は、嘘を言っているとは思えない。心なしか、遠くで少女の声が聞こえたような気がした。大吾は叫ぶ。
「てめえ、誰だ!」
『昔、お前に世話になった人間さ。早く来ないと……知らねえぞ』
それだけ言うと、電話は一方的に切れる。大吾はすぐに本部へと電話をかけた。しかし、遥は買出しに行ったという。
あながち嘘でもないわけか。彼は庭に煙草を投げ捨てた。
「くそ……」
時計を見ると、10時を回っている。大吾は窓に寄りかかり、頭を抱えた。
遥は空き地の隅で男達に囲まれていた。以前攫われたのとはわけが違う。異常な雰囲気が彼らを取り巻いていた。
伺うように視線を動かすと、その中の一人が彼女のもとに寄ってきた。遥はこの男が嫌いだった。生理的嫌悪感とでも言うのだろうか
自分を見る目が他の誰とも違う。
「お嬢ちゃん、どうしたの?怖い?怖いよね~」
「……来ないで」
気丈に告げると、男は何がおかしいのか気の障る笑い声を上げた。
「かーわいーい。なあ、この子貰っていい?好きにしていい?」
奥で壁に寄りかかっていたリーダー格の男は、唾を吐き捨てると首を振った。
「まだだ。どんな関係か知らないが、こいつは堂島大吾への切り札だ。手え出すんじゃねえ」
目の前の男は露骨にがっかりした声を上げる。そして、遥に手を伸ばすとおもむろに彼女の髪を撫でた。
全身が総毛立つような気色の悪い感覚。そこから自分が汚れていくようで遥は嫌悪感を露にした。
「お兄……大吾さんは来ないもん。あんた達の為に来るわけないもん!」
「元気だな、ガキ」
冷たい目で取り合わない男に、遥は睨みつけた。
「今日は大切な日なんだから!あなたに構ってる暇ないんだから!絶対来ないよ。残念でした!」
「それは不幸だったな。大吾にとっても、お前にとっても」
「……え」
目を見開く遥に、先ほどの男が後ろから抱きつく。その感覚がひどく気持ち悪い。遥は叫んだ。
「放して!」
「なあ、もういいだろ?まさかあいつか来るまでお預け?」
男は舌打ちし、首を振った。
「ガキが来ないと言ってんだから、来ないんだろ。好きにしろ」
男は歓声をあげ、遥を抱き上げる。彼女は暴れるが、この男には全く効いてないらしい。遥はうち捨てられた車の後部座席に
押し込まれた。男の手が迫る。何かは分からない、しかし何かひどく恐ろしいことが起きることだけはわかった。
「嫌……!」
悲鳴のような声をあげ、遥は瞳を閉じた。
「おい!来たぞ!」
見張りの男が叫ぶ。遥を襲おうとした男の手が止まる。その場にいた若者達が視線を向ける。そこには息を切らして立ち尽くす
大吾がいた。走ってきたのだろう、大吾は荒い息を整えながらゆっくりと皆を睨みつけた。
「来たぞ……遥は、どうした」
リーダー格の男は口の端に笑みを浮かべ、顎で遥の方を促した。
「そっちでお楽しみだ」
「……お兄ちゃん」
男に押し倒され、泣きそうな顔を向けた遥を見、大吾は表情を変えた。その目は憤怒に彩られる。
「返せ……こいつは、俺の女だ」
その場にいた若者達は、大吾に気圧されたようにその場を動けない。リーダー格の男は冷ややかに告げた。
「断る。てめえはここで死ね!」
促すと、若者達は金属バットや木刀を持ち出してくる。あっという間に大吾は取り囲まれた。
「やめて!お兄ちゃん、逃げて!」
「黙ってな!」
遥を押し倒していた男は彼女を羽交い絞めにすると、ナイフを突きつける。遥は言葉を失った。
「相変わらず、汚ねえ手を使いやがる」
大吾は吐き捨てるように告げた。リーダー格の男は声を上げて笑った。
「覚えてたのか、説明する手間が省けたな!さあ、抵抗すればガキの顔に傷が付くぞ。お前ら、やれ!」
若者達は一斉に彼に襲い掛かる。次の瞬間、遥の耳に次々と鈍い音が聞こえてきた。
「嫌!やめて、やめてよ!」
刃物を突きつけられていることさえ忘れ、叫び暴れる遥に面食らったのか、男は怒声を上げた。
「おい!ガキ、暴れるな!」
遥は視線を彷徨わせ、男の足元に目をやった。そして思い切ったように大きく息を吸うと、渾身の力を込めて向こうずねを踵で蹴った。
「ぐぁ……!」
男は思わず手を緩める。遥はナイフに構わず飛び出した。異変を感じて手を止めた若者達の間をすり抜け、遥は大吾のもとへ駆け寄る。
しかし、足がもつれ遥はあと少しのところで転倒してしまう。
「このガキ!」
近くの若者が遥を捕まえようと手を伸ばした。が、その腕が何者かに掴まれる。若者が嫌な気配を感じ視線を動かすと、目に飛び込んで
きたのは今まさに大吾が拳を振り下ろす瞬間だった。
「こいつに触んじゃねえ!」
若者は顔を歪ませ、次の瞬間地を這った。皆、何が起こったのかわからず立ち竦む。彼は遥の顔を確認すると、口の端に滲んだ血を
袖で拭いた。白いシャツが赤く染まる。
「馬鹿野郎……お前、攫われすぎなんだよ」
「ごめんなさい…私のせいで……」
大吾はスーツの泥を払い、ゆっくり立ち上がる。その鬼気迫る気迫に誰もが後ずさった。
「形勢逆転だ。用意はいいな」
言い放つと不意を付くように大吾は近くの男の鳩尾をを蹴り上げる。その男が取り落とした木刀を掴み、一人、二人と一撃の下に
叩きのめしていく。戦意を喪失した若者たちに勝機はない。残るは二人、リーダー格の男と、遥を襲った男だ。
「昔のことを、いつまでも根に持ちやがって……どこまでも陰気な奴だよ、お前らは」
この男達とは、大吾と昔からの因縁のようだ。折れた木刀を投げ捨てる大吾に、リーダー格の男は殴りかかった。
「うるせえ!死ね!」
酷い怪我を負わされているとは思えないほどの素早さで、大吾は拳を後ろに避ける。と、同時に隙の出来た腹部に拳を叩き込む。
痛みで態勢を崩した男の首に、容赦なく組んだ両手を振り下ろした。間髪入れず下から膝で顔面を蹴り上げる。やがて男は動きを止めた。
勝敗は決した。
「次はお前か」
遥を襲った視線を向ける。男は状態をかがめ、大吾にナイフを向けた。
「な、なんだよ。ちょっとあの子と遊んだだけじゃねえかよ」
大吾は拳を握り締めた。先程の光景が彼の頭にこびりついて離れない。ゆっくり近付くと、大吾は呻くように呟いた。
「お前だけは、絶対許さねえ」
「言ってろ!」
男のナイフは真直ぐ大吾に向かってくる。大吾はそれを避けず、あえて腕でそれを受け止めた。
「嫌!」
悲鳴のような遥の声が響く。ナイフの切っ先は大吾の右腕に突き刺さる。避けるかと思っていた男は、大吾の思わぬ行動にナイフを
放棄した。彼はそれを見逃さず、左拳を男の顔面に叩き込む。呻き声と共に壁に吹き飛ぶ男を、大吾はまだ許さない。
「あいつに何をした」
横たわる男の腹部を蹴り上げる。男は血を吐きながら咳き込んだ。
「な、なにも……」
「何もだと…それを信じると思ってんのか!」
大吾の足が男の顔にめり込む。男は後ずさりながら何度も首を振る。
「本当だ!何にもしてねえ!もう何もしねえ!」
「当たり前だ、下衆野郎」
吐き捨てるように告げ、二、三度蹴りを食らわせる。男が意識を失ったのに気付き、大吾は攻撃をやめた。
「大吾お兄ちゃん!」
振り向いた大吾に、遥は抱きついてきた。泣いているのか、少し震えている。
「……大丈夫か」
遥は頷き、ふと思い出したように声を上げた。
「お兄ちゃん、腕!」
「腕?」
驚いていると、遥は彼のシャツを捲る。そういえば、刺されたのだなと今気付いた。思ったより傷は浅いが、出血が酷い。
遥はポケットからハンカチを取り出し、腕に巻いた。
「血、止まるかな……ごめんなさい」
ハンカチを結ぶ指が震えている。彼は遥を手伝いながら、問いかけた。
「時間がない。東城会に帰るぞ」
先に立って歩くと、遥の足取りがおかしい。片足を庇っているようだ。
「足、どうかしたのか」
突然の指摘に驚き、遥は慌てて首を振った。
「ううん。大丈夫!早く行こう!」
転んだ時に足を捻ったのか。大吾は彼女に歩み寄り片腕で担ぎ上げた。
「い、いいよ!大吾お兄ちゃん怪我してるのに」
困った顔をする遥を無視し、大吾は歩き出した。
「うるせえ、お前に合わせてるといつまでたっても帰れねえだろ」
「駄目だって、ねえ!下ろして~!」
わめく遥を叱りつけながらしばらく歩くと、聞きなれた声がする。振り向くと大吾の昔の仲間だった。
「兄貴!どうしたんですその格好…!」
「いや、これは……」
なんでもない、と言おうとして大吾は思い出したように仲間に詰め寄った、
「そうだ、お前車乗ってたな!今出せるか?!」
「は、はい!」
「乗せてくれ!東城会だ!」
その頃、東城会本部の会議室ではピリピリしたな雰囲気が漂っていた。何の報告もなく次期会長が会議を欠席。しかも行方も
わからないでは、何かあったと考えるのが妥当だろう。
「こいつはおかしいぜ」
幹部の一人が口を開く。他の幹部達も視線をめぐらせた。
「まさか、ヒットマンに……」
「およし!」
弥生は叫ぶ。おかしい、たとえ次期会長を狙ったとしても、今事を起こして利を得る組がどこにある。何か理由があるはずだ、何か……
顔色が悪い弥生に、柏木は囁いた。
「姐さん、組のもんに探させましょう。何かあってからでは」
「……今、事を荒立てたくない。もう少し待つ。いいね」
皆は顔を見合わる。その時だった、会議室の扉が荒々しく開いた。
「申し訳ありません。遅れました!」
皆は大吾の姿を見て唖然とする。顔の傷、汚れ、所々裂けたスーツ。見ただけで何かあったとわかる。
「だ、大吾!お前どこで何をしてたんだい!」
弥生が思わず立ち上がり、叫ぶ。しかし大吾は表情も変えず、淡々と告げた。
「喧嘩しておりました」
「喧嘩……」
幹部達がざわめく。流石に柏木も眉をひそめた。幹部の一人が怒気をはらんだ声を上げた。
「こんな重要な日に、連絡もなしに行方をくらませ、挙句の果てに喧嘩してた、だと。それがどういうことか、わかっているんだろうな!」
「申し訳ありません」
大吾は深々と頭を下げる。弥生は眩暈を起こしたように力なく座り込んだ。
「情けない……こんな子だったとは思わなかった」
大吾の様子を眺めていた柏木は大きく溜息をつき、弥生に告げた。
「仕方ありませんね。今日のところは承認会議は中止ということに。大吾の会長就任の承認は無期延期。これでよろしいですか」
「異議なし」
「やれやれ、とんでもねえ跡目だなこれは」
「元気がありあまっとるのはいいが、会長の椅子狙っとる連中に餌ぁ与えるような真似するなよ」
皆は口々に不満を漏らし、去っていく。残された大吾、弥生、柏木は黙りこくった。先に沈黙を破ったのは弥生だ。
「理由があるんじゃないのかい」
「喧嘩は喧嘩だ。売られたから買った。それだけだ」
取り付く島もない。彼女は首を振り大吾を追い払うしぐさをした。
「……もういい。大吾、お前は家で謹慎。傷の手当てもしておくんだよ。このことで跡目の話、覚悟しておくんだね」
「はい」
大吾は踵を返し、部屋を出て行く。弥生は大きな溜息をついた。
「一体どうしちまったんだろうね。あの子は……」
「姐さん……」
柏木が彼女を気遣った時、小さく扉が開いた。顔を覗かせたのは、遥。
「ああ、遥ちゃん。今はちょっとかまってやれないんだよ……出て行っておくれ」
遥は唇を噛み、俯く。その尋常でない雰囲気に二人は顔を見合わせた。やがて遥は震える声で話し出した。
「弥生さん。今日のお兄ちゃんが会議に来られなかったの……私のせいなの」
「なんだって……?」
「ごめんなさい。今日が大事な日だって知ってたのに、私、私……!」
ぽろぽろと涙を零す遥に、弥生と柏木はは駆け寄った。
「どういうことなんだい?泣かないで、教えておくれ」
遥は小さく頷くと、今日あった出来事を話し始めた。自分が攫われたこと、大吾はそれで呼び出され怪我をしたこと、泣きながらでは
あるが、彼女なりに分かりやすく説明した。弥生は何度も頷き、彼女の肩を叩く。
「遥ちゃん、教えてくれてありがとう。でも、遥ちゃんが悪いわけじゃないよ。本当に怖かったね、ごめんね」
「大吾お兄ちゃんは?お兄ちゃんどうなるの?」
柏木と弥生は顔を見合わせる。先に口を開いたのは柏木だった。
「大吾の会長就任は先延ばしになったよ」
遥は思わず顔を上げ、柏木を見つめる。彼女が一番恐れていたことが起きてしまったようだ。弥生は苦笑する。
「ごめんね、遥ちゃん。こればっかりはしょうがないんだよ。あなたは心配しないで今日はもうお帰り。良かったら、大吾の手当てを
してやっておくれ」
「……はい」
遥は肩を落として部屋を出て行く。弥生は腕を組み、溜息をついた。
「まったく、あの子は何にも言わないで……ええかっこしいなんだから」
「さて、どうします。こんな理由では幹部連中は納得しませんよ」
そうだね、と弥生は眉をひそめる。そして苦笑を浮かべた。
「ほとぼりが冷めるのを待って、あの子に詫びを入れさせるよ。それからまた当分は会長修行だね。それで認められないなら……
仕方ないね」
「わかりました。こちらからも幹部達には話してみます」
「……悪いね、柏木。あんな馬鹿息子に」
申し訳なさそうに視線を落とす弥生に、柏木は苦笑を浮かべ、首を横に振った。
「いいえ、こういう役回りは慣れてますから」
家に帰ってから、大吾は一度も外に出ることなく部屋に引きこもっていた。後から戻った遥は、弥生に言われたように手当てをするため
救急箱を持ち大吾の部屋に向かった。
「お兄ちゃん、入るよ」
中からは返事もない。遥はゆっくり襖を開いた。視線を動かすと、寝室で大吾が大の字になっている。寝てはいないようだ。
「なんだよ」
近くに座る遥を見もせず、ぶっきらぼうに告げる大吾に遥は言葉を詰まらせた。
「怪我の手当てしなくちゃ」
大吾はゆっくりと起き上がり、近くの壁にもたれかかった。さすがに体が痛む。
「お前、足はどうした。そっちの方が大変だろ」
そうだった、と遥は足を伸ばす。白い足首は少し腫れていた。
「後でやるよ。最初はお兄ちゃんね」
遥はそう言うと薬をつけ始め、腕には包帯を巻いていく。上手とは言えないが、一生懸命なのはわかる。ふと、彼は遥の首筋に
目をやる。
「おい、お前も怪我してんじゃないか」
「え?」
大吾が彼女の首に触れる。ちり、と痛みが走り、遥は顔をしかめた。
「あれ……本当だ」
近くの鏡に映して改めて驚く。恐らく、突きつけたナイフがかすったのだろう。遥は小さく笑った。
「あはは…忘れてました」
「忘れてたじゃないだろ。痕になったらどうするんだ、見せてみろ」
大吾が彼女の首の手当てを始める。遥は思わず身を竦ませた。
「しみるよ~」
「我慢しろ」
幸い、そう大きな傷ではない。大吾はほっとしていた。痕に残る怪我などさせたら、自分自身が許せない。大吾は溜息をつき、彼女に
絆創膏を張った。
「ありがとう」
遥は礼を言い、不意にくすくすと笑い始めた。
「なんだよ」
「なんか、おかしくなっちゃった。お兄ちゃんも私もなんかボロボロなんだもん」
「……そうだな」
二人は顔を見合わせ、珍しく声を上げて笑い始めた。笑いもおさまり、遥は足に湿布を貼っている。やがて、できた、と微笑む
彼女の顔がぎこちない。やはり痛むのだろうか、彼は眉をひそめた。
「どうした?他にも痛む所があるのか」
遥は慌てて首を振ると、自分の体を抱きしめた。
「……ううん。大丈夫。なんか、今頃怖くなっちゃった」
「遥…」
「あの人、すごく嫌だった。よくわからないけど、すごく気持ち悪かった。なんでだろう、いままで攫われて怖くても、こんなこと
思わなかったのに」
それは恐らく、あからさまな男の本能に晒されたからだろう。女である自分を蹂躙される恐怖は、大人でも恐ろしいという。
彼女は何も分かっていない。それが大きなトラウマになるかもしれないと思った時、大吾は自分の拳を握り締めていた。
深刻な表情を心配しているのか、顔を覗き込む遥に、大吾は言葉を選びながら問いかけた。
「その……あいつには……何も、されなかったか?」
遥は思い出したくない様子で考えていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……された」
「なんだと!?」
大吾は思わず身を乗り出す。遥は彼から視線を逸らし、重い口を開いた。
「触られたの」
「触られた?……いや、もういい。これ以上は言いたくないなら、いい」
彼は口ごもる。何かあったのなら、これ以上彼女に思い出させるのは酷だ。あの野郎、でまかせ言いやがって。大吾は呻くように呟く。
遥は消え入るような声で告げた。
「髪……触られた」
「は?」
間の抜けた声を上げる彼に、遥は汚いものを見るように自分の髪を摘み、眺めた。
「髪を触られたの。ここだよ。気持ち悪い。切っちゃいたい」
髪か。大吾はほっとしたように大きく息を吐く。考えていたことよりは物事は深刻じゃないようだ。
「お前…髪くらい」
「違うもん!」
突然怒りの声を上げる遥の勢いに気圧され、彼は身を引く。彼女は大吾から目を離さない。
「私は、嫌いな人に髪なんて絶対触らせたくない。髪はすごく大切なんだから。絶対嫌!」
「おいおい……」
大吾は苦笑を浮かべる。そんな大げさな、そう思った。しかし、彼女は真剣だ。
「……やっぱり切る!」
「え」
遥は救急箱の鋏を手に取り、髪を一房掴む。彼は驚き、慌てて彼女から鋏を奪った。
「おまえ、急に何してんだよ!馬鹿!」
「だって、本当に嫌なんだもん!」
遥はぽろぽろと涙を零す。そこまで思い詰めてたのか、大吾は溜息をついた。
「遥には、短い髪は似合わねえよ」
そう言うと、先ほど遥が摘んでいた髪に触れた。遥は驚いたように顔を上げた。
「嫌か」
思わず離そうとする彼の手を握り止め、遥は首を振った。
「……平気」
「そうか」
「嬉しい」
涙の残る瞳で遥は微笑む。大吾は穏やかな顔で、艶やかな髪を弄んでいたが、やがて呟いた。
「……お前、もう俺に近付くな」
突然の言葉に、遥は驚いたように大吾を見つめる。彼の瞳は真剣だ。
「俺の周りにいれば、またこんなことが起こる。その度にお前は傷つくだろう。お袋がうるさいから、家にいるのは構わない。勝手にしろ。
だが、東城会や俺には一切関わるな。いいな」
「お兄ちゃ……」
何か言おうとする遥を遮るように、大吾は話を続ける。
「今日のことでよくわかった。俺は桐生さんみたいに、完璧にお前を守ってやれない。そんな余裕もない。そんなんでお前に近くに
いられたら迷惑なんだよ。もう、兄妹ごっこは終わりだ。誰が何と言っても、俺はもう、お前に関わらない」
大吾は話し終えると、急に掴んでいた髪を引っ張る。
「痛…」
眉をひそめ、遥は引かれるがまま彼に近付く。大吾はしばらく遥を見つめ、おもむろに彼女の髪に口付けた。
「じゃあな。遥」
大吾は髪を手離し、部屋から出て行く。遥は呆然としていたが、慌てて追いかけた。いや、追いかけようとしたが足が言うことを
きかなった。
「大吾お兄ちゃん!」
彼女の呼びかけに、何も返ってはこなかった。邸内は静寂に包まれ、寂寥感だけが残る。遥は大吾の触れていた髪を握り締め
いつまでもその場を離れなかった。
その日、大吾は部屋には戻らなかった。
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