関東極道の総本山。東城会の本部前に車が横付けされ、運転手が扉を開けた。
降り立ったのは小さな赤い靴。
元気に地面に降り立って、トテトテと覚束ない足取りで門を潜る。
その背中に、威勢のいい声が投げられた。
「ああ、皐月ちゃん。走ったら転ぶよ。走らないで歩いてお行き」
軽く叱る言葉は、けれども優しい。
極道の総本部にはとうてい似つかわしくない赤い靴の少女は、その声に、勢い良く振り返った。手には真っ白な兎のぬいぐるみをしっかり抱き締めて。
「だいじょうぶだもん!さつき、かけっことくいだもん!!」
幼児特有の舌足らずな発音。黒髪は真っ直ぐで艶やかだ。目は黒目がちで大きく、涙が溢れていないにも拘らずいつでも潤んでいる様に見える。
ただ、難点を言えば目の力が強すぎるところだろうか。野生の光を宿したその目は、意志の強さをはっきりと表していた。
皐月と呼ばれた少女は、そう言うとまた駆け出した。
車から降りた弥生は、やれやれと言わんばかりに小さく溜め息を吐いた。
「こんにちは」
とある扉の前まで来て、皐月はそこに立っている男に挨拶をする。
目の前の扉は皐月には大きくて、手を伸ばしてもドアノブに届かないのだ。
「今日は何処かに行ってらっしゃっていたんですか?」
幼児に対して敬語を使う男に、皐月は特に疑問も持たず満面の笑みでうんと頷いた。
「きょうはね、おばあちゃんといっしょにお買い物に行ったの。うさちゃん買ってもらっちゃった」
そう言って、腕に抱いている白兎を誇らしげに見せた。
組員は大きく頷いて、ドアノブに手を掛けた。
「それは良かったですね」
「うん!パパにも早く見せたいの」
無邪気に早く開けろとせがまれ、組員は苦笑いを浮かべた。そして、軽くノックをした後、中から了承の声を聞いてから扉を開けた。
扉が全て開くのがもどかしいのか、皐月はその前に既に小さな身を僅かな隙間に滑り込ませる様にして、中へと入ってしまった。
「パパーーッ!!」
中では二人の男が話し合いながら、書類に目を通していた。が、場に似合わない高い幼児の声に、ふと顔を上げ、声の先へと視線を送る。
「おや?皐月ちゃんじゃないか?」
「こんにちは、柏木のおじいちゃん」
スカートの裾を持って、おしゃまな素振りで挨拶をする。その姿に柏木は相好を崩した。
が、それに反して椅子に座っている男は仏頂面である。
「何しに来たんだ、お前は?」
「こら、大吾。子供に向かってそんな事を言うんじゃない」
ぶっきらぼうに言うのを柏木が慌てて嗜めるが、皐月は臆することなく、トコトコと机を回って男の前へやって来ると、両手を懸命に伸ばし、抱っこをせがむ。
「お前なぁ……」
嘆息しつつも、取り合えず脇の下に手を入れ、膝の上に抱いてやる。
「あのね、これね。きょう、おばあちゃんが買ってくれたの。それとね、パパにわすれ物もって来たの」
「忘れ物だぁ?」
「そうなの」
皐月は神妙な顔で頷く。
そして、不意に大吾の頬に手を伸ばすと、精一杯に伸びをして頬に軽く口を付けた。
「だぁぁぁ!!何するんだ、お前は!!」
慌ててひっぺがえそうとして、バランスを崩す。と、膝の上に乗った皐月もコロンッと落ちそうになり、慌てて体勢を整えた。
「朝ね、行ってらっしゃいのチューしてなかったの。でも、まだダメなの。これはさつきの分なの。でも、ママの分がまだなの」
「分った。分ったから、もういい。つーか、止めてくれ」
「なんだ大吾。熱烈に愛されているじゃないか、もっと素直に喜んだらどうだ?」
この勢いでは更に、家庭内の事情を暴露されそうだ。冗談じゃないと言いたげに大吾は低く呻き、頭を抱えた。
その時、会長室の扉が再度開かれた。中に入って来たのは弥生。
皐月はその姿を確認するや否や、大吾の膝の上からピョンッと飛び降りて、弥生の許へ駆け、その足に纏わりつく。
「だめだろ、皐月ちゃん。走ったら危ないって、私は言ったじゃないか。転んで怪我したら泣くのは皐月ちゃんだよ」
「さつき、泣かないもん」
きっぱりと言い切る皐月に弥生は首を振った。
「やれやれ、誰に似たのだか。まったく、頑固な子だよ」
「頑固な所は大吾に似たんじゃないのか?」
「はぁ?」
「さつき、パパに似ているの?ママじゃないの?」
大人達のとりとめのない会話に、皐月は俄かに不安気な顔をする。
どうやら、パパ似よりもママ似と言われた方が嬉しいようだ。
「皐月ちゃんはママ似がいいのかい?」
「うん」
「どうして?」
「だってぇ……」
皐月は俯き、足で床にのの字を書いた。
「まじまのおじいちゃんが、『ママがきれいでええなぁ~。さつきちゃんもきれいなママで自慢できてええやろ~』って言うの……。さつきもママに似ていれば、きれいになれるでしょ?」
あのジジイ。と、大吾は口の中で罵る。
それに、皐月の口真似がかなり特徴を掴んでいる。これはもしかしたら、結構頻繁に会っているんじゃなかろうか?
俄かに湧き立つ不安を抑えつつ、大吾は努めて冷静に問い掛ける。
「皐月、お前。俺に内緒で真島さんに会っているんじゃないだろうな?」
「え~~」
「桐生さんにも止められているだろ?真島さんにはなるべく会うなって」
「でも~~」
「でもじゃない。今度、内緒で会ったらお尻ペンペンだからな!」
条件反射で皐月はお尻に手を当てた。
どうやら、大吾は日頃から厳しく躾けているらしい。
それにしても、今の今まで東城会六代目を崩さないように努力をしていた彼なのに、娘が危険人物に会っていると知るや否や父親の顔になったのには、柏木も驚いた。
つっけんどうな態度をしていても、やはり一人娘は可愛いのだろう。無理に怖い顔を作ってみせているせいか、口許が微かに痙攣を起こし始めている。
柏木は短く『休憩だ』と言って、部屋を出て行った。
「柏木のおじいちゃん、行っちゃうの?」
名残惜しげな皐月の目と声に、後ろ髪を引かれる思いはかなりあったが、これ以上、ここにいたら大吾の顔がおかしな事になる。絶対に。
――それは、困るからな。
肩越しに振り返ると、親子三代水入らずの光景が柏木の目に飛び込んで来た。
組員に暫くはここに近付かないよう言い残して、静かに扉を閉めた。
降り立ったのは小さな赤い靴。
元気に地面に降り立って、トテトテと覚束ない足取りで門を潜る。
その背中に、威勢のいい声が投げられた。
「ああ、皐月ちゃん。走ったら転ぶよ。走らないで歩いてお行き」
軽く叱る言葉は、けれども優しい。
極道の総本部にはとうてい似つかわしくない赤い靴の少女は、その声に、勢い良く振り返った。手には真っ白な兎のぬいぐるみをしっかり抱き締めて。
「だいじょうぶだもん!さつき、かけっことくいだもん!!」
幼児特有の舌足らずな発音。黒髪は真っ直ぐで艶やかだ。目は黒目がちで大きく、涙が溢れていないにも拘らずいつでも潤んでいる様に見える。
ただ、難点を言えば目の力が強すぎるところだろうか。野生の光を宿したその目は、意志の強さをはっきりと表していた。
皐月と呼ばれた少女は、そう言うとまた駆け出した。
車から降りた弥生は、やれやれと言わんばかりに小さく溜め息を吐いた。
「こんにちは」
とある扉の前まで来て、皐月はそこに立っている男に挨拶をする。
目の前の扉は皐月には大きくて、手を伸ばしてもドアノブに届かないのだ。
「今日は何処かに行ってらっしゃっていたんですか?」
幼児に対して敬語を使う男に、皐月は特に疑問も持たず満面の笑みでうんと頷いた。
「きょうはね、おばあちゃんといっしょにお買い物に行ったの。うさちゃん買ってもらっちゃった」
そう言って、腕に抱いている白兎を誇らしげに見せた。
組員は大きく頷いて、ドアノブに手を掛けた。
「それは良かったですね」
「うん!パパにも早く見せたいの」
無邪気に早く開けろとせがまれ、組員は苦笑いを浮かべた。そして、軽くノックをした後、中から了承の声を聞いてから扉を開けた。
扉が全て開くのがもどかしいのか、皐月はその前に既に小さな身を僅かな隙間に滑り込ませる様にして、中へと入ってしまった。
「パパーーッ!!」
中では二人の男が話し合いながら、書類に目を通していた。が、場に似合わない高い幼児の声に、ふと顔を上げ、声の先へと視線を送る。
「おや?皐月ちゃんじゃないか?」
「こんにちは、柏木のおじいちゃん」
スカートの裾を持って、おしゃまな素振りで挨拶をする。その姿に柏木は相好を崩した。
が、それに反して椅子に座っている男は仏頂面である。
「何しに来たんだ、お前は?」
「こら、大吾。子供に向かってそんな事を言うんじゃない」
ぶっきらぼうに言うのを柏木が慌てて嗜めるが、皐月は臆することなく、トコトコと机を回って男の前へやって来ると、両手を懸命に伸ばし、抱っこをせがむ。
「お前なぁ……」
嘆息しつつも、取り合えず脇の下に手を入れ、膝の上に抱いてやる。
「あのね、これね。きょう、おばあちゃんが買ってくれたの。それとね、パパにわすれ物もって来たの」
「忘れ物だぁ?」
「そうなの」
皐月は神妙な顔で頷く。
そして、不意に大吾の頬に手を伸ばすと、精一杯に伸びをして頬に軽く口を付けた。
「だぁぁぁ!!何するんだ、お前は!!」
慌ててひっぺがえそうとして、バランスを崩す。と、膝の上に乗った皐月もコロンッと落ちそうになり、慌てて体勢を整えた。
「朝ね、行ってらっしゃいのチューしてなかったの。でも、まだダメなの。これはさつきの分なの。でも、ママの分がまだなの」
「分った。分ったから、もういい。つーか、止めてくれ」
「なんだ大吾。熱烈に愛されているじゃないか、もっと素直に喜んだらどうだ?」
この勢いでは更に、家庭内の事情を暴露されそうだ。冗談じゃないと言いたげに大吾は低く呻き、頭を抱えた。
その時、会長室の扉が再度開かれた。中に入って来たのは弥生。
皐月はその姿を確認するや否や、大吾の膝の上からピョンッと飛び降りて、弥生の許へ駆け、その足に纏わりつく。
「だめだろ、皐月ちゃん。走ったら危ないって、私は言ったじゃないか。転んで怪我したら泣くのは皐月ちゃんだよ」
「さつき、泣かないもん」
きっぱりと言い切る皐月に弥生は首を振った。
「やれやれ、誰に似たのだか。まったく、頑固な子だよ」
「頑固な所は大吾に似たんじゃないのか?」
「はぁ?」
「さつき、パパに似ているの?ママじゃないの?」
大人達のとりとめのない会話に、皐月は俄かに不安気な顔をする。
どうやら、パパ似よりもママ似と言われた方が嬉しいようだ。
「皐月ちゃんはママ似がいいのかい?」
「うん」
「どうして?」
「だってぇ……」
皐月は俯き、足で床にのの字を書いた。
「まじまのおじいちゃんが、『ママがきれいでええなぁ~。さつきちゃんもきれいなママで自慢できてええやろ~』って言うの……。さつきもママに似ていれば、きれいになれるでしょ?」
あのジジイ。と、大吾は口の中で罵る。
それに、皐月の口真似がかなり特徴を掴んでいる。これはもしかしたら、結構頻繁に会っているんじゃなかろうか?
俄かに湧き立つ不安を抑えつつ、大吾は努めて冷静に問い掛ける。
「皐月、お前。俺に内緒で真島さんに会っているんじゃないだろうな?」
「え~~」
「桐生さんにも止められているだろ?真島さんにはなるべく会うなって」
「でも~~」
「でもじゃない。今度、内緒で会ったらお尻ペンペンだからな!」
条件反射で皐月はお尻に手を当てた。
どうやら、大吾は日頃から厳しく躾けているらしい。
それにしても、今の今まで東城会六代目を崩さないように努力をしていた彼なのに、娘が危険人物に会っていると知るや否や父親の顔になったのには、柏木も驚いた。
つっけんどうな態度をしていても、やはり一人娘は可愛いのだろう。無理に怖い顔を作ってみせているせいか、口許が微かに痙攣を起こし始めている。
柏木は短く『休憩だ』と言って、部屋を出て行った。
「柏木のおじいちゃん、行っちゃうの?」
名残惜しげな皐月の目と声に、後ろ髪を引かれる思いはかなりあったが、これ以上、ここにいたら大吾の顔がおかしな事になる。絶対に。
――それは、困るからな。
肩越しに振り返ると、親子三代水入らずの光景が柏木の目に飛び込んで来た。
組員に暫くはここに近付かないよう言い残して、静かに扉を閉めた。
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