G B 3 ~よい夢を~(TRIGUN)
夜が、明けて来ていた。
チチチ……チチチ……
白みかけた空を見上げてメリルは欠伸を噛み殺した。くるりと振り返ると、目の下に隈の出来た顔でにへらと笑う後輩、ミリィの顔がある。
「……終わりまして?」
力なく笑いを返したメリルに、ミリィは笑いながら消え入りそうな声で答えた。
「もう、少しです~」
暫く二人は無言で見詰め合った。
きぃんと耳鳴りのように静けさが耳を打つ。
唐突に、かつ機械的にメリルがぽそりと呟いた。
「―――もう少し、頑張りましょうか」
「はい~」
正気と机に戻った二人の娘は再び猛然と作業を再開した。休む事なきペンの音、床に散乱した書類の山、その合間に転がった栄養ドリンクの空瓶が今の二人の体力を物語っている。
だが休むわけには行かない。
明日には、ベルナルデリ協会の「監査」があるのだ。
さらに数十分が過ぎ、起き出した街の宿の一室で無気味な笑いがこだました。
「ふふ……やりましたわ……」
「終わりましたね…センパイ」
中には歓喜に肩を震わせる保険屋の娘二人。
ミリィとメリルは憔悴した顔に目だけを爛々と輝かせている。さしずめゾンビかマミーの様に。
もし外の鳥たちがこの表情を見たとしたら逃げ出したかもしれない凄まじさであった。
「後は、本日一日ヴァッシュさんを逃がさないようにするだけですねぇ~~」
「ええ。そうですわね……」
半ば邪悪にさえ見える疲労感溢れた笑みを浮かべた二体のゾンビに自分が狙われている事など赤コートの死神は知る由もない。
そして、口の端を緩ませた二人は同時に立ち上がった。
「そろそろ朝御飯にしますか~?」
ゆらり、と危険な足取りでミリィが歩き出す。早寝早起き信条の規則正しい生活を営むミリィに数日の徹夜はかなり堪えているらしかった。同意に苦笑を浮かべながら後に続いたメリルの表情が、不意にコマ送りのように変貌し―――
ぐらり
「……ぇ?」
ぐらぁり
「……ぇえ!?」
「きゃあああああ――――――――――――――!」
ドサリ
倒れかかるミリィの背中に避ける間も体力も有ろう筈がなく、爽やかな街の朝を保険屋片割れ(小)の悲鳴が引き裂いた。
保険屋稼業とは、かくも過酷なものなのである。
シャアアアア―――
火照った躯の熱を汗と共に水が流していく。男は目を閉じて身を任せた。外した義手の代りにタオルの端を咥えて片方の腕で背中に回し軽く擦る。所々引っ掛かるギミックにも、もう慣れた。器用に片手だけでタオルを絞り、脇へ掛けた頃には朝の訓練の気だるさはすっきりと洗い流されている。ぽたぽた雫の滴る金髪をかきあげながら元600億$$の賞金首、ヴァッシュ・ザ・スタンピードは少し浮かれ気分だった。爽やかな朝の空気、澄んだ水。さっきから匂ってくるのは朝食だろうか。
鼻歌交じりにコックを閉めているときに―――それは起こった。
隣室からの悲鳴に弾かれたようにヴァッシュはドアを見やる。
(今―――のは……!)
一瞬、神経を研ぎ澄ますが、もう何も聞こえない。静まり返る空気が不安を胸に上らせた。
剥ぎ取る勢いでシャワーカーテンを引き開け、ヴァッシュは手近な服を引っ掴んできながら飛び出す。だん、とドアの脇に手を付いてノブを回すのももどかしく隣室に飛び込んだ。
鍵は、かかっていなかったようだ。
「……どうしたんだ!!!」
叫んだ後で彼は一瞬硬直した。
なぜか脳内を遥かな昔に聞いた一言が、しかもエコー付きで過ぎった。
『ヴァッシュ……パンダは我が子を圧死させることもあるのよ…のよ……』
(レム……パンダって何だっけ…)
埒もない事を考えながら虚ろな視線で室内の惨状を暫く眺めて……はた、と彼は気がついた。
一応、事態は切迫していたのだ。
「―――!!」
駆けより様、ミリィの腕を引き上げる。なぜか彼女は天使のように安らかな表情で寝て居た。そして、その下から現れたメリルは対照的に地獄でも見たかのような表情で意識を飛ばしている。
呼吸を確かめて、脈を取る。規則正しい返答に安堵の息をついて、彼は改めて周囲を見渡した。疲れきった二人の表情、大量の書類の山、ゴミ箱の容量を遥かに越えた紙屑の中に所々突き出す瓶の首。
何となく予想がついて男は困ったような、仕方の無さそうな笑みを浮かべた。
「あんまり…無茶すんじゃねぇぞ」
こつん、と拳を二人の額に当て、聞こえない程の声量で呟いて立ち上がる。
本音は彼らがおきている時などには言えよう筈もなくて。
彼女達の強さは知っている。
危険を恐れぬ勇気と大胆さと、それに見合うだけの実力を笑顔の裏に秘めていることを本当は分かっているのだが。
(ど―も危なっかしいんだよなぁ……)
だから目が離せねぇんだ、と心中一人ごちてヴァッシュは膝を伸ばした。何はともあれ思っていたような不穏な事態ではなかった事で柔らかい安心感が全身を包む。
ほてほてとそのままドアへ向かいながら彼は軽く眉を顰めた。
身体を拭く暇もなく服を着た為に、ぺたぺたと全身に張り付く布地がどうしようもなく気持ちが悪い。
少しでも状態の緩和を目指して服を引き剥がしながらドアに手をかけた瞬間、力を加えても無いのに唐突にそれが開いた。
見つめあう。
ヴァッシュとドアのあった空間を挟んで視線を交わすのは近所のおばちゃんを始めとする野次馬連中であった。どうやら悲鳴を聞きつけてやってきたらしい。
へらり、と条件反射で笑みを浮かべるヴァッシュ。不審そうな表情の野次馬達。
沈黙は、暫く続いた。
先頭のおばちゃんの目がぎぎぃ、と奥に向けられて彼は何とはなしにそれを追う。
そこに在るのは、倒れた二人の女。
そのままその視線は自分に向けられてヴァッシュはつられる様に自分を見下ろした。ボタンの外れたジーンズに辛うじて引っ掛けただけのシャツ。裸の胸をつう~っと水滴が伝って床を打った。
ピチャン……
スローモーションに聞こえたその音を境に、揃い過ぎた嫌な符号が徐々に、頭の中で噛み合っていく。
悲鳴。気絶した女。乱れた服の男。
結論は―――「最悪」だ。
「こ……これは……違……」
「―――――――痴漢よぉおおお!!!!!!!!」
最大瞬間風速に吹き飛ばされそうな甲高い声が街を揺るがせたかに見えた。そして当然ながらヴァッシュの弁明が聞こえた者は居なかった。俄かにざわざわと騒ぎ出した街の中に男の叫びが響く。
「誤解だ!誤解なんだぁあああああ!!」
折り良く、人込を掻き分けて保安官が姿を現す。
「訳は後でじっくり聞いてやる」
ガチャリ、と叫ぶ男の手首に死刑宣告のように手錠が架けられた。
そして
この星一番の不幸なガンマンは無実を叫びながら留置場への一本道を引き摺られているのだ。
何処の留置場も大体作りは同じである。
3K。つまり、クサイ、汚い、暗い。出来る事なら長居はしたくない空間だ。
ましてや机を挟んで座っているのが髭面の男ならなおさらである。
「さて、婦女暴行犯」
「……!」
立ち上がりかけたヴァッシュの肩は両側から押さえられ、彼は憮然とした表情で椅子に逆戻りした。
「名前は」
「・……ヒミツ」
「歳は」
「……アンタよりは上かな」
「―――職業は」
「強いて言えば愛という名のカゲロウを追い求める平和の狩人……みたいなカンジ?」
バン!
叩かれたボロ机から書類やペンが空に舞った。肩を竦めたヴァッシュの足元にバラバラと落ちる。
「叩き込んどけ」
予想通りの答えに涙が出そうだ。
ゴウ―――ン
重い音を立てて閉まる牢の扉を水の滴るぼさぼさの髪の間から男はぼんやりと眺めていた。
「何で……こんな事になっちまったんだ……」
「なんっでこんな事になってるんですの―――!!」
同時刻、留置所の外で叫んでいるのは小さい保険屋さんことメリル・ストライフである。気が付くとなぜかヴァッシュは留置場に行ったという。近くの人から事情を聞きだしたミリィとメリルはその足で留置所に向かった。小さい肩を精一杯いからせながらずかずかと中に入る後ろ姿にを大柄なミリィが続く。
「お邪魔いたしますわ!!」
ぴしりと言い放つ声に其処で机に肘をついて半眠り中だった男は目を擦りつつ慌てて口を開いた。
「誰だ?」
「ベルナルデリ保険協会のメリル・ストライフです」
「ミリィ・トンプソンです~」
ぽかりと口を開いた男に詰め寄る保険屋二人組。彼らは憔悴した自分の表情の怖さを知らない。
ずずい、と詰め寄った二人に男の顔が蒼白になる。
「な・・・何なんだ!あんた達!!」
「本日ここに収容された男の方を出して貰いに来ました」
「明日までに居ないと上司に怒られちゃうんです~~」
びくりと引き攣った男は狼狽しながら手元の書類を捲りだした。
「な・・・…名前は」
「ええ。ヴァ………」
ぴくん。
言いかけたままメリルの唇が固まった。ここで騒ぎを起こすのはまずい。彼がヴァッシュ・ザ・スタンピードだとばれた日にはここは一気に惨状だ。ミリィに目を移すとミリィも同じ表情で。
にっこり、と保険屋の娘二人は笑いあう。そして同時にその笑顔のままでのたまった。
「ジョン・スミスさんです~」
『嘘つきは泥棒の始まり』である。
夜が、ふけてきていた。
僅かな格子の隙間から差し込む光は朧げな月光だ。幾つかの月が照らすこの星で、外では幾重にも出来る影が牢内ではたった一つで、壁に凭れる男の影を長く伸ばしている。
ごろり、と頭の後ろに手を組んだまま、男はそのまま横になった。腕の枷が邪魔にならぬよう片腕を上に肘で頭を挟み込んで、影が闇の中に没す。
開いていた青碧の瞳が静かに帳を下ろした。
そして、数刻。
ただならぬ気配に彼は静かに片目を開いた。腐ってもヴァッシュ・ザ・スタンピードと言う所か。
薬でも使われない限り、いつ何時とも彼が真の眠りを貪る事はない。それは危険と隣り合わせの日常が彼に与えた「習性」だ。
微かな動きで戦闘態勢に入る。傍目には判らない程の些細な動きだが、一瞬で隙は消えていた。
闇に慣れた眼がゆっくりと眼前の空間を探る。尖らせた神経の先、引っ掛かるのは足音で。
コツン コツン コツン
リズムの違いが、来る者は二人だと囁く。
敵か。……味方、か。
薄く開いた視界、牢の外に黒に包まれた足が二対。徐々に視界を上げていって、そしてヴァッシュは悲鳴を飲み込んだ。
「――――――!!!」
第一印象。こんな生き物は見た事が無い。
かっと光る光源は等間隔で並んだ対が二つの計四つだ。それが目だということを認識するのに一拍を要した。黒づくめの二人が牢の外で自分を見下ろしているのだと気付くのに更に一拍。
無理矢理に落ち着かせた男の動悸は、次の瞬間跳ね上がる。
「助けに来ましたわ。ヴァッシュさん!」
ざっと、前方の黒子が覆面を下ろす。卵形の白い顔は見慣れたもので。
止めのように後方の黒子が覆面を下ろしてにっこりと笑った。
―――メリル・ストライフ
―――ミリィ・トンプソン
一見可愛い保険屋さん。だがそれは、彼の疫病神の名でもあった。
「な・・・な・・・何でキミタチがここに!」
「……一撃でしたわ」
牢番のことを聞いた訳ではない。だから、そういう訳では無く……。
「こ・こ・に、何しに来たかを聞いてるんだ!」
「声が大きいですよぉ~」
シーッ、という仕草をしたミリィが幾つかの錠前の中から選び出した鍵で牢を開ける。
「センパイが今言った通り、助けに来たんですよ~」
(助け…?)
半眼で腕を縛める鎖が外れるのをヴァッシュは見下ろした。これはどうみても、助けと言うより…。
「これって……『脱獄』に見えるんだケド…?」
「そうとも言いますね」
にこり、と返されたミリィの笑顔に邪気は無く。
「嫌だ!俺は脱獄なんてしねえぞ!!まっとうに生きるんだ―――!」
これ以上罪状が加わるのは御免だとばかりにヴァッシュはべたりと壁に身を貼り付けた。どうせたいした罪状ではない。二日三日もここに居れば自動的に出される筈なのだ。だが、脱獄となると話は別である。
「なんで脱獄なんだ―――!」
「明日までにあなたが居ないと困りますのよ!!」
「そりゃまたどういう了見……」
2対1の押し問答は長く続かなかった。
駆けつける足音にヴァッシュの顔が強張る。服を引っ張る二人を見下ろして、迷う暇もないと一瞬で決断する。今、この二人まで捕えさせる訳にはいかない。つまり、自分にはこの脱獄に付き合うしか道は残されていないのだ。
(……無茶苦茶だ……)
走り出す二人に諦めて後を追う。予想通り後ろから聞こえるのは銃声だ。
足元を掠めた銃弾に血相を変えてヴァッシュは速度を増し、前方の二人に並んだ。
ズキューン
「あのさ?」
「はい?」
チュイン
「どういうこと?」
「何がですかぁ~?」
ズガーン
「明日までにって」
「監査がありますのよ!何が何でもあなたには居て頂かないと」
ヴァッシュは怪訝そうな顔をした。
「監査ってキミタチ前に一ヵ月後に延期になったって言ってなかった?」
「・……はい?」
はたり。
止まった娘二人につんのめるようにして静止したヴァッシュの頬のすぐ脇を弾が飛んでいく。
「待ちやがれ脱獄犯―――!」
不穏当なムサイ声が容赦なく背後に迫る。
血の気が引くほど焦りながらヴァッシュは保険屋の二人組みを急かした、が彼女達は動かない。
「そういえばそうでしたね~センパイ」
「何が『そう』なんだ!」
「ええ、そうでしたわ。ミリィ」
「だから!何がそうなんだ!そんな事より早く行ってくれ―!」
(―――早くしねぇと捕まっちまう!)
足踏みをしながら蒼白の男の目の前で、至極穏やかにミリィとメリルは会話を交わす。
「あんな苦労する事も無かったんですね」
「気が抜けてしまいましたわ」
「安心したら眠くなってきちゃいました~」
「私もですわ」
「あああ!状況わかってんのか―――!」
距離にして逮捕まであと10数秒といった所だろうか。怒号がまるで耳元で聞こえているようだ。
咄嗟に二人の腰の辺りを掴んでヴァッシュ・ザ・スタンピードは走り出す。
重い。はっきり言ってとんでもなく。どうしてこんな目に合わなければならないのか。
ぜはーぜはーぜはー
目の前が白くなる。呼吸が苦しい。全身の血管が判る程に心臓が脈打っている。少し距離を引き離した辺りでヴァッシュは口を開いた。
「・・…そろそろ……っ・…自分の足で走って……」
と、腕の中を見下ろして唖然とする。
抵抗がない事がおかしいと最初から気付くべきだった。
其処には。
すうすうと安らかな寝息を立てる二体の天使が居た。
ヴァッシュはくるり、と後ろを振り返る。鬼面の形相をした男達が銃を構えて追ってきている。
もう一度腕の中を見る。天使の顔をした可愛い彼の疫病神。
「追え―!追えー!!」
「回り込め―!」
パパパパパパパパパ・……
「ひょえええ!!どうして僕がこんな目にあうのママン! 何も悪い事してないのに皆が僕を狙うよママン!」
フランセ語で泣きをいれながら元600億$$の賞金首は走る。
全力疾走 五里霧中。
そして。
この星最初の災害指定を受けたガンマンは、腕の中でどうやら良い夢を見ているらしい二人の疫病神を腕に脱獄中なのであった。
「お前達いい加減に起きてくれぇえええ~~~~」
パパパパパパン ドガガ ドパパパパパパ・・・・・・・
「わああああ~~!」
彼が良い夢を見られる日はまだ遠いようである。
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