キャンドルに火が点けられ、部屋の灯りが消されると、部屋は暖色の薄暗闇に包まれる。だからラルフが浮かべた薄い笑みは、他の誰にも気付かれなかった。
どこか溜息に似た笑みだ。ラルフにしてはらしくない、と言われる類の笑みだろう。
この席にも似合わない笑みだった。ラルフの30何度目かの誕生日の祝いの席だ。気の良い傭兵たちが基地の食堂にビールをカートンで持ち込み、肴がわりに軽い料理を並べている。無礼講だ。
誰だこんな馬鹿でかいの買ってきたのは、とラルフをあきれさせたケーキには、ご丁寧にも歳の数だけキャンドルを突き立っている。並みのサイズだったら針鼠になってしまっていただろう。そう考えると、このサイズで良かったのかもしれない。
誰かが音頭を取って、ハッピーバースデーの歌が始まる。歌が終わるまでの、1分にも満たない薄暗闇。その闇に隠して、ラルフは薄く笑っていた。
ケーキの横にはいかにも彼好みのナイフや酒瓶や、冗談めかしたポルノビデオといったプレゼントの山が積まれている。その中に、ちょっと変わった贈り物があった。
グローブだ。野球のグローブ。いくら草野球がラルフの趣味とは言え、30いくつの男には少々幼すぎるプレゼントだろう。
昨年は飛行機の玩具だった。ショーウィンドウに誇らしげに並んでいるようなやつ。その前の年は60色の色鉛筆、更にその前の歳は、履くだけで早く走れそうな気がするようなスニーカー。どれもこれも、ラルフが子供の頃にはいくら望んでも手に入らなかったものだ。
とはいえ、今では別に高価なものではない。価格だけなら酒1本の方が上だろう。ポケットの中の小銭だけで、いつでも買えるようなものばかりだ。
だがそれを自分で買おうとはラルフは思わない。いや、思えない。
そういう子供時代の宝物は、手の届くものになった時点で既に輝きを失っているのだ。小さな甥だとか姪でもいれば、自分の子供時代を重ね合わせてその輝きを思い出すこともあるのだろうが、あいにくラルフは天涯孤独である。
ラルフだけではない。傭兵稼業なんかやっている者は、みんな似たり寄ったりの境遇だ。
誰がどんなに願っても、四半世紀を越えて子供時代がやり直せるはずもない。だがせめて、あの頃得られなかった宝物を「同じような子供時代を送った誰か」に贈ることで、何かを取り戻せるのではないかと、そんな錯覚に陥るのだろう。傭兵たちの誕生日には、いつもたいていそんな贈り物が混じっている。
悪くない習慣だと思うし、ラルフは結構それに感謝している。
だが、溜息のような笑みは自然と湧き出た。これはそういう類の贈り物だった。
子供の頃のラルフは、こんなものなど欲しくはなかった。いや違う、欲しくなかったのではなくて、こういうものが世の中にあるということさえ知らなかったのだ。知りもしないものを欲しがることはできない。
昼間は汗が煮えるほど暑く、夜は体の芯まで凍えるような砂漠の国。長年続いた内戦で国は疲弊しきって貧しく、戦死者と餓死者が同数だった。
そんな国で生まれたラルフの子供の頃の記憶は、乾きと飢えに満ちている。絶えず銃弾が飛び交う空の下、砲撃に怯えながら、銃と空腹を抱えて眠った。義勇軍の少年兵と言えば聞こえは良いが、その実態は1日1杯の薄いスープにありつくためには、銃を持つしか選択肢がなかっただけのことだ。そんな子供時代をラルフは思い出す。
暖かい毛布。一杯の水。ひとかけらのパン。
あの頃、ラルフが本当に欲しかったのはそんなものだ。故国がついに滅びて、戦火の中で知り合った傭兵が何を気に入ったのか身寄りのない少年兵を自分の古巣――合衆国に連れて来なければ、ラルフはプラスチックの玩具も、華やかな絵本も、冗談のようなサイズと甘さと色彩の菓子も知りはしなかった。
そしてそういうものを知る頃には、ラルフはそれを欲しがる歳ではなくなっていた。というよりはそういうものを欲しがっては格好悪いと、無理に大人びようとする年頃になっていたのである。せっかく内戦から抜け出したというのに、また軍隊なんかに入ったせいかもあったかもしれない。だが、ラルフにできることといったら戦争しかなかったのだ。
それも遠い昔の話だ。ラルフを故国から連れ出したあの傭兵も既に亡く、未だに銃弾の飛び交う下で横になることはあるが、あの頃のような絶望も孤独も飢えもない。戦場から戻れば分厚い肉がいくらでも食えて、スプリングの効いたマットレスに新しいシーツ、柔らかい毛布に包まって眠れる。
何もかも手に入れた。あの頃欲しかったものは何もかも手に入れた。
それなのに何が足りない? 何がこんな溜息をつかせる?
ラルフは小さく首を振った。もうすぐハッピーバースデーの歌が終わる。深呼吸してキャンドルの火を吹き消せば、この優しい薄暗闇は消える。
だからラルフは、薄笑いを別の笑顔の裏に押し込んだ。
++++++++++++++++++++++++++++++
キャンドルに火が点けられ、部屋の灯りが消されると、部屋は暖色の薄暗闇に包まれる。
馬鹿でかいケーキも、刺されるキャンドルが39本にもなるとさすがに異様な針鼠になりつつあって、年齢の10の桁は上がる来年にはケーキのサイズも上げるかという話も出ていた。
誰かが音頭を取って、ハッピーバースデーの歌が始まる。歌が終わるまでの、1分にも満たない薄暗闇。
ケーキの横にはいかにも彼好みのナイフや酒瓶などの、プレゼントの山が積まれている。昨年辺りまではそれに混じっていたはずの、卑猥な写真集や冗談めかしたポルノビデオがないのは、同席している18歳の少女への遠慮だろうか。もはや毎年恒例となった年齢不相応の贈り物は、今年は日本製の携帯ゲーム機とそのソフトだった。
それに目を留めた時、ラルフはあの薄い、溜息のような笑みが出ないことに気付いて驚いた。驚きが顔に出ていたのだろう、青い髪の少女がキャンドルの火超しに、不思議そうな顔をしてこちらを見ている。
鼻の奥辺りが一瞬傷んだ。もしかしたら泣きたかったのかもしれない。
子供時代に手に入れられなかった宝物。飢えにも乾きにも怯えることのない暮らし。暖かい毛布に包まって眠れる家。そして、たぶんあの頃本当に欲しかったもの。
ラルフは小さく首を振った。もうすぐハッピーバースデーの歌が終わる。深呼吸してキャンドルの火を吹き消せば、この優しい薄暗闇は消える。
だからラルフは低い声で呟いた。誰にも気付かれないように。
あの頃、傍にいて欲しかった「誰か」をようやく俺は手に入れたのか、
どこか溜息に似た笑みだ。ラルフにしてはらしくない、と言われる類の笑みだろう。
この席にも似合わない笑みだった。ラルフの30何度目かの誕生日の祝いの席だ。気の良い傭兵たちが基地の食堂にビールをカートンで持ち込み、肴がわりに軽い料理を並べている。無礼講だ。
誰だこんな馬鹿でかいの買ってきたのは、とラルフをあきれさせたケーキには、ご丁寧にも歳の数だけキャンドルを突き立っている。並みのサイズだったら針鼠になってしまっていただろう。そう考えると、このサイズで良かったのかもしれない。
誰かが音頭を取って、ハッピーバースデーの歌が始まる。歌が終わるまでの、1分にも満たない薄暗闇。その闇に隠して、ラルフは薄く笑っていた。
ケーキの横にはいかにも彼好みのナイフや酒瓶や、冗談めかしたポルノビデオといったプレゼントの山が積まれている。その中に、ちょっと変わった贈り物があった。
グローブだ。野球のグローブ。いくら草野球がラルフの趣味とは言え、30いくつの男には少々幼すぎるプレゼントだろう。
昨年は飛行機の玩具だった。ショーウィンドウに誇らしげに並んでいるようなやつ。その前の年は60色の色鉛筆、更にその前の歳は、履くだけで早く走れそうな気がするようなスニーカー。どれもこれも、ラルフが子供の頃にはいくら望んでも手に入らなかったものだ。
とはいえ、今では別に高価なものではない。価格だけなら酒1本の方が上だろう。ポケットの中の小銭だけで、いつでも買えるようなものばかりだ。
だがそれを自分で買おうとはラルフは思わない。いや、思えない。
そういう子供時代の宝物は、手の届くものになった時点で既に輝きを失っているのだ。小さな甥だとか姪でもいれば、自分の子供時代を重ね合わせてその輝きを思い出すこともあるのだろうが、あいにくラルフは天涯孤独である。
ラルフだけではない。傭兵稼業なんかやっている者は、みんな似たり寄ったりの境遇だ。
誰がどんなに願っても、四半世紀を越えて子供時代がやり直せるはずもない。だがせめて、あの頃得られなかった宝物を「同じような子供時代を送った誰か」に贈ることで、何かを取り戻せるのではないかと、そんな錯覚に陥るのだろう。傭兵たちの誕生日には、いつもたいていそんな贈り物が混じっている。
悪くない習慣だと思うし、ラルフは結構それに感謝している。
だが、溜息のような笑みは自然と湧き出た。これはそういう類の贈り物だった。
子供の頃のラルフは、こんなものなど欲しくはなかった。いや違う、欲しくなかったのではなくて、こういうものが世の中にあるということさえ知らなかったのだ。知りもしないものを欲しがることはできない。
昼間は汗が煮えるほど暑く、夜は体の芯まで凍えるような砂漠の国。長年続いた内戦で国は疲弊しきって貧しく、戦死者と餓死者が同数だった。
そんな国で生まれたラルフの子供の頃の記憶は、乾きと飢えに満ちている。絶えず銃弾が飛び交う空の下、砲撃に怯えながら、銃と空腹を抱えて眠った。義勇軍の少年兵と言えば聞こえは良いが、その実態は1日1杯の薄いスープにありつくためには、銃を持つしか選択肢がなかっただけのことだ。そんな子供時代をラルフは思い出す。
暖かい毛布。一杯の水。ひとかけらのパン。
あの頃、ラルフが本当に欲しかったのはそんなものだ。故国がついに滅びて、戦火の中で知り合った傭兵が何を気に入ったのか身寄りのない少年兵を自分の古巣――合衆国に連れて来なければ、ラルフはプラスチックの玩具も、華やかな絵本も、冗談のようなサイズと甘さと色彩の菓子も知りはしなかった。
そしてそういうものを知る頃には、ラルフはそれを欲しがる歳ではなくなっていた。というよりはそういうものを欲しがっては格好悪いと、無理に大人びようとする年頃になっていたのである。せっかく内戦から抜け出したというのに、また軍隊なんかに入ったせいかもあったかもしれない。だが、ラルフにできることといったら戦争しかなかったのだ。
それも遠い昔の話だ。ラルフを故国から連れ出したあの傭兵も既に亡く、未だに銃弾の飛び交う下で横になることはあるが、あの頃のような絶望も孤独も飢えもない。戦場から戻れば分厚い肉がいくらでも食えて、スプリングの効いたマットレスに新しいシーツ、柔らかい毛布に包まって眠れる。
何もかも手に入れた。あの頃欲しかったものは何もかも手に入れた。
それなのに何が足りない? 何がこんな溜息をつかせる?
ラルフは小さく首を振った。もうすぐハッピーバースデーの歌が終わる。深呼吸してキャンドルの火を吹き消せば、この優しい薄暗闇は消える。
だからラルフは、薄笑いを別の笑顔の裏に押し込んだ。
++++++++++++++++++++++++++++++
キャンドルに火が点けられ、部屋の灯りが消されると、部屋は暖色の薄暗闇に包まれる。
馬鹿でかいケーキも、刺されるキャンドルが39本にもなるとさすがに異様な針鼠になりつつあって、年齢の10の桁は上がる来年にはケーキのサイズも上げるかという話も出ていた。
誰かが音頭を取って、ハッピーバースデーの歌が始まる。歌が終わるまでの、1分にも満たない薄暗闇。
ケーキの横にはいかにも彼好みのナイフや酒瓶などの、プレゼントの山が積まれている。昨年辺りまではそれに混じっていたはずの、卑猥な写真集や冗談めかしたポルノビデオがないのは、同席している18歳の少女への遠慮だろうか。もはや毎年恒例となった年齢不相応の贈り物は、今年は日本製の携帯ゲーム機とそのソフトだった。
それに目を留めた時、ラルフはあの薄い、溜息のような笑みが出ないことに気付いて驚いた。驚きが顔に出ていたのだろう、青い髪の少女がキャンドルの火超しに、不思議そうな顔をしてこちらを見ている。
鼻の奥辺りが一瞬傷んだ。もしかしたら泣きたかったのかもしれない。
子供時代に手に入れられなかった宝物。飢えにも乾きにも怯えることのない暮らし。暖かい毛布に包まって眠れる家。そして、たぶんあの頃本当に欲しかったもの。
ラルフは小さく首を振った。もうすぐハッピーバースデーの歌が終わる。深呼吸してキャンドルの火を吹き消せば、この優しい薄暗闇は消える。
だからラルフは低い声で呟いた。誰にも気付かれないように。
あの頃、傍にいて欲しかった「誰か」をようやく俺は手に入れたのか、
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