AM:05:00
「サニー様を迎えに行かなくては」
ベットから半身を起こし、イワンはまだ動かない頭でぼんやり思った。
上司である“衝撃のアルベルト”の娘、サニーは先月やっと二歳になったばかりである。
十傑集の中で唯一所帯持ちの上司はしかし半年前あのバシュタールの惨劇で伴侶を亡くし、忙しい身である為娘の世話を新入りの部下である自分に任せていた。
といっても、自分はメカニックを専門としているB級エージェントであって、決して育児担当エージェントでは無い。
まだ小さいサニーの面倒を見ることは半分手探りでこの半年やってきている。
「もう起きた頃だろうか」
いかにも貴族然とした分厚く黒い扉の向こうでサニーが泣き出す様子が目に浮かぶ。アルベルトの屋敷はどう見ても幼子とは無縁の造りをしている、とイワンは常々思っていた。
出来ればあの重苦しいプルシャンブルーの壁紙を全部引き剥がして、可愛い風船柄、もしくは花柄にしてしまいたい。
そんな衝動に駆られる事もしばしばあったが、今はとにかく、テレパシーにより精神が繋がるあの親子の事、サニーが一度泣き出せば上司の機嫌も悪くなる事を思い出し、イワンはテキパキと身支度を整え部屋を出た。
バベルの塔(BF団本部)近くにある上司の屋敷にはいつも明け方にかけてうっすらと白い霧が辺りを覆い、不気味ささえ感じられた。
唯一黄赤色に輝く玄関先の灯が人の居る気配を僅かに漂わせている。
イワンはそこへ車を付けると渡されている合い鍵でなるべく音を起てないよう慎重に重い扉を開けた。
その隙間にするりと体を滑り込ませ、中を覗く。
屋敷の奥まで続く長い廊下にはいつもと変わらず灯りがポツポツと等間隔で点いていた。
音と言えば広間にある柱時計の秒針がコチコチと時を刻む以外、物音の一切立たない静かな屋内。
主人の寝息までもが聞こえてきそうな気がした。
(まだ寝てらっしゃるのだ)
イワンはホッと胸を撫で下ろし、足音を立てないよう廊下を進んだ。
奥から二番目の扉、サニーの部屋へ向かう。
しかし、扉の前でやっと気が付いた。
(中に誰かいる)
自分と上司、そして上司の娘しかいないはずのこの屋敷の中で、サニーの居る部屋に第三者の気配がした。
時刻はぴったり6時。
後10分もすれば上司も起き出す頃だが。
腰の銃を確認して、ドアノブに手をやった。何故だかそのヒンヤリとした感触が不気味でならない。
(もしサニー様に何かあれば)
その思いだけがイワンを奮い立たせる。
意を決して次の瞬間、扉を開けた。
が
「イワン」
そこにあったのは少し呆れたような上司の姿。
「扉越しに殺気を飛ばすな」
「アルベルト様…」
お早うございます、とまだ訳の分からない様子でイワンは応えた。その予感は頭に過ぎったはずだったが、何故だかどっと力が抜ける。
「目は覚めたか」
皮肉っぽく口角を上げ、アルベルトは部屋の前で立ち尽くすイワンにその腕に抱いていた赤ん坊をそっと預けた。
その瞬間、漸くイワンは全てを悟った。
「ア、アルベルト様…!!サニー様はもうご起床なさっていたのですか!!」
部屋を出ていこうとする上司は立ち止まり後ろ頭で頷く。
「1時間程前に頭痛がして起きてみれば、サニーが泣いていたのでな」
「で、ではずっとサニー様を…」
改めてよく見ると上司は昨日本部で別れた時と同じ服装をしている。
その後も上司にはまだ任務があった。
この所眠る暇も無いくらい忙しい事を誰よりも近くにいたイワンはよく知っている。
思う所、帰宅後シャワーも浴びずにベットへ倒れ込んだのだろう。
「申し訳ありません…」
気まずさに俯けば幸せそうに眠るサニーの寝顔が目に入る。
「イワン」
「はッ」
上司の声で半ば反射的に顔を上げると、無表情な上司の顔と目が合った。
罵倒されるだろうか。
上司の気丈の荒さは他の十傑集を圧倒する程だ。
「何をビクビクしておる」
「…はぁ」
責めるような口調にまたも目が合わせられず、視線を上司の靴先に移した。
「怒鳴ったりはせん」
眠った子を起こさぬよう、静かに上司は切り出す。
「咎めるつもりもない」
「し、しかし…貴重なお時間が…」
「イワン、お前は時間通りにここへやってきた、それより前は勤務時間外だ」
上司はそこまで言うと腕組みをしてため息をひとつついた。
「大体、泣く子をあやすのは親の仕事ではないか」
そもそも本来ならば部下に小守をさせているのも間違いだろう、と上司はまだ無表情なままイワンを見つめる。
「確かにそうかもしれませんが…しかし…」
イワンは二、三語口の中でモゴモゴと呟くと上司へ顔を上げた。
「私は…私は一向に構わないのです」
「………」
「…サニー様のお世話は私が責任を持って成し遂げると亡くなった奥様に誓ったのですから」
思っていた事をすっかり吐露し、ぐっと口元に力を入れた。いつもなら言わないような強気な発言にイワン自身驚いている。
上司はそうか、と呟くと口元だけで笑った。
イワンは暫くそうしていたが腕の中でサニーがぐずりだしたのに気付き、慌てて腕の時計を確認する。
「アルベルト様!!時間がありません、今朝は会議があったのでは!?」
「うむ、そうだったな」
アルベルトも急に現実に戻されたように不機嫌になる。
「孔明め…わしが忙しくなると朝っぱらから会議を開きおって」
「お急ぎ下さい」
「わかっておるわ」
イワンの急かす声に少しは慌てたのか、上司は早い歩調で部屋を後にした。
サニーは父親と離れるのが分かるのか顔を歪めて今にも泣き出しそうだ。
イワンは困ったように笑う。
「泣かないで下さい、サニー様。私がいるではありませんか」
悪の組織とは縁の無さそうな、腕の中のぬくもりにイワンは救われている気がしていた。
END
「サニー様を迎えに行かなくては」
ベットから半身を起こし、イワンはまだ動かない頭でぼんやり思った。
上司である“衝撃のアルベルト”の娘、サニーは先月やっと二歳になったばかりである。
十傑集の中で唯一所帯持ちの上司はしかし半年前あのバシュタールの惨劇で伴侶を亡くし、忙しい身である為娘の世話を新入りの部下である自分に任せていた。
といっても、自分はメカニックを専門としているB級エージェントであって、決して育児担当エージェントでは無い。
まだ小さいサニーの面倒を見ることは半分手探りでこの半年やってきている。
「もう起きた頃だろうか」
いかにも貴族然とした分厚く黒い扉の向こうでサニーが泣き出す様子が目に浮かぶ。アルベルトの屋敷はどう見ても幼子とは無縁の造りをしている、とイワンは常々思っていた。
出来ればあの重苦しいプルシャンブルーの壁紙を全部引き剥がして、可愛い風船柄、もしくは花柄にしてしまいたい。
そんな衝動に駆られる事もしばしばあったが、今はとにかく、テレパシーにより精神が繋がるあの親子の事、サニーが一度泣き出せば上司の機嫌も悪くなる事を思い出し、イワンはテキパキと身支度を整え部屋を出た。
バベルの塔(BF団本部)近くにある上司の屋敷にはいつも明け方にかけてうっすらと白い霧が辺りを覆い、不気味ささえ感じられた。
唯一黄赤色に輝く玄関先の灯が人の居る気配を僅かに漂わせている。
イワンはそこへ車を付けると渡されている合い鍵でなるべく音を起てないよう慎重に重い扉を開けた。
その隙間にするりと体を滑り込ませ、中を覗く。
屋敷の奥まで続く長い廊下にはいつもと変わらず灯りがポツポツと等間隔で点いていた。
音と言えば広間にある柱時計の秒針がコチコチと時を刻む以外、物音の一切立たない静かな屋内。
主人の寝息までもが聞こえてきそうな気がした。
(まだ寝てらっしゃるのだ)
イワンはホッと胸を撫で下ろし、足音を立てないよう廊下を進んだ。
奥から二番目の扉、サニーの部屋へ向かう。
しかし、扉の前でやっと気が付いた。
(中に誰かいる)
自分と上司、そして上司の娘しかいないはずのこの屋敷の中で、サニーの居る部屋に第三者の気配がした。
時刻はぴったり6時。
後10分もすれば上司も起き出す頃だが。
腰の銃を確認して、ドアノブに手をやった。何故だかそのヒンヤリとした感触が不気味でならない。
(もしサニー様に何かあれば)
その思いだけがイワンを奮い立たせる。
意を決して次の瞬間、扉を開けた。
が
「イワン」
そこにあったのは少し呆れたような上司の姿。
「扉越しに殺気を飛ばすな」
「アルベルト様…」
お早うございます、とまだ訳の分からない様子でイワンは応えた。その予感は頭に過ぎったはずだったが、何故だかどっと力が抜ける。
「目は覚めたか」
皮肉っぽく口角を上げ、アルベルトは部屋の前で立ち尽くすイワンにその腕に抱いていた赤ん坊をそっと預けた。
その瞬間、漸くイワンは全てを悟った。
「ア、アルベルト様…!!サニー様はもうご起床なさっていたのですか!!」
部屋を出ていこうとする上司は立ち止まり後ろ頭で頷く。
「1時間程前に頭痛がして起きてみれば、サニーが泣いていたのでな」
「で、ではずっとサニー様を…」
改めてよく見ると上司は昨日本部で別れた時と同じ服装をしている。
その後も上司にはまだ任務があった。
この所眠る暇も無いくらい忙しい事を誰よりも近くにいたイワンはよく知っている。
思う所、帰宅後シャワーも浴びずにベットへ倒れ込んだのだろう。
「申し訳ありません…」
気まずさに俯けば幸せそうに眠るサニーの寝顔が目に入る。
「イワン」
「はッ」
上司の声で半ば反射的に顔を上げると、無表情な上司の顔と目が合った。
罵倒されるだろうか。
上司の気丈の荒さは他の十傑集を圧倒する程だ。
「何をビクビクしておる」
「…はぁ」
責めるような口調にまたも目が合わせられず、視線を上司の靴先に移した。
「怒鳴ったりはせん」
眠った子を起こさぬよう、静かに上司は切り出す。
「咎めるつもりもない」
「し、しかし…貴重なお時間が…」
「イワン、お前は時間通りにここへやってきた、それより前は勤務時間外だ」
上司はそこまで言うと腕組みをしてため息をひとつついた。
「大体、泣く子をあやすのは親の仕事ではないか」
そもそも本来ならば部下に小守をさせているのも間違いだろう、と上司はまだ無表情なままイワンを見つめる。
「確かにそうかもしれませんが…しかし…」
イワンは二、三語口の中でモゴモゴと呟くと上司へ顔を上げた。
「私は…私は一向に構わないのです」
「………」
「…サニー様のお世話は私が責任を持って成し遂げると亡くなった奥様に誓ったのですから」
思っていた事をすっかり吐露し、ぐっと口元に力を入れた。いつもなら言わないような強気な発言にイワン自身驚いている。
上司はそうか、と呟くと口元だけで笑った。
イワンは暫くそうしていたが腕の中でサニーがぐずりだしたのに気付き、慌てて腕の時計を確認する。
「アルベルト様!!時間がありません、今朝は会議があったのでは!?」
「うむ、そうだったな」
アルベルトも急に現実に戻されたように不機嫌になる。
「孔明め…わしが忙しくなると朝っぱらから会議を開きおって」
「お急ぎ下さい」
「わかっておるわ」
イワンの急かす声に少しは慌てたのか、上司は早い歩調で部屋を後にした。
サニーは父親と離れるのが分かるのか顔を歪めて今にも泣き出しそうだ。
イワンは困ったように笑う。
「泣かないで下さい、サニー様。私がいるではありませんか」
悪の組織とは縁の無さそうな、腕の中のぬくもりにイワンは救われている気がしていた。
END
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