「いいか、2月14日というのは女が男にチョコレートを捧げねばならん日なのだ」
突然呼び止められて何を言い出すのかと思ったら・・・。
「チョコレートを?どうしてですか?ねぇレッド様」
「どうして?・・・どうして・・・そんなことはどうでもいい。とにかくチョコレートだ。いいな、私は酒が入ったのは好かぬ、白いのも好かぬ、それ以外ならピーナッツが入ったのは大歓迎だありがたく受け取ってやろう。いいか2月14日だ、忘れるなよ」
レッドは忍者らしく霞のようにサニーを残して消え去った。
「2月14日って・・・どうしよう、もう明後日なのに」
「そりゃあサニーちゃん『バレンタインデー』ってやつだよ」
「『ばれんたいんでー』?」
セルバンテスの執務室で出された大きなモンブランを頬張りながらサニーは初めて聞く言葉に首をかしげた。
「起源はかなり古くって遡れば古代ローマ帝国の時代らしい、チョコレートが出てくるのは最近になってからでヨーロッパで恋人がチョコを贈るという習慣をもとに他の地域でも広まった。中でも東洋の島国である日本で何故か非常に受け入れられてね。よっぽど製菓メーカーが上手く宣伝したんだろうねぇ」
アジアや日本での活動を頻繁に行うレッドがバレンタインという習慣を知っているのもうなずける。しかしサニーにチョコレートを請求するところをみるとチョコをどういった意味を込めて贈るのかまでは知らなかったらしいとセルバンテスは苦笑した。
「日本では女性が大切で大好きな男性にあげるのが「本命チョコ」と言って・・・それが一番なのだろうけど、最近は「義理チョコ」って言って好きじゃないけど日頃お世話になってるから付き合いで贈る場合も多いそうだよ。この義理っていう道義はいかにも日本的かもしれないね」
セルバンテスが視線を前に向ければサニーは何か考えている様子だ。
「ん?もしかしてサニーちゃん誰かにチョコをあげるのかい?」
「はい!いつもお世話になっている皆さんにです。もちろん「本命チョコ」です!」
きっぱり言い切ったサニーにセルバンテスは大笑いした。
オムレツを作れるようになったサニーがチョコレートも手作りで、と思うのは当然の流れでセルバンテスはサニーのために高品質のカカオを使ったチョコレートペーストや砂糖、作るのに必要となる諸々の材料や道具を全て用意してやることにした。
次の日の早朝。
明日をその日に控えてサニーは真っ白いフリルがついたエプロンを戦闘服にしてキッチンに仁王立ちになる、そう、彼女はやるき満々。セルバンテスが「大変だろう?おじ様も手伝おうか?」と気を利かせてきたが彼女はやんわりと断った。バレンタインのチョコ作りを男に手伝ってもらっては女がすたる、バレンタインの意味を知った以上まだ子どもであっても彼女の「女としての意地」がそうさせたのだ。
アルベルトが任務で不在だったので彼の屋敷のキッチンを借りて、セルバンテスに用意してもらった材料や道具を並べてみる。手作りチョコの基本がわかるお菓子の本も開いて準備万端。
「ええと十傑集の皆様に・・・イワンと孔明様と・・・」
数が多いが絶対手は抜かない。普段自分が周りから大切にされているのをよくわかっているからこそこんな時には気持ちを込めてお礼をしたいとサニーは考えていた。
贈る人に合わせて心を込めてそれぞれ異なるチョコを作るつもりでいるので大変な作業となるだろう。それは望むところで一日中キッチンに篭城する気で彼女は腕をまくった。
最後の一個のラッピングが終えたのが夜の10時を過ぎた頃。樊瑞にはアルベルトの屋敷に泊まると伝えてあるので今日は父親のアルベルトのベッドに潜り込んだ。お風呂に入っても自分の身体からほのかに香るチョコの甘い香り、そして父親の葉巻の香りに包まれてサニーは直ぐに眠りに落ちていった。
当日。
「はい、セルバンテスのおじ様」
「いやぁ!これはこれは!ありがとうサニーちゃん」
「おじ様が一番最初ですよ?だっておじ様のお陰で作ることができたのですもの」
「本当かい?ははは嬉しいねぇ」
サニーが上手くチョコを作れるかどうか心配してはいたが手にある籠には山盛りいっぱいのチョコレートを思わしき袋や箱。子どもであるのに良くコレだけのことを成し遂げられるものだと正直彼は驚いた。
サニーから手渡されたのは銀箔の模様が入った白い包装紙に青い花のコサージュがつけてあるバレンタインチョコ。
「なんだかワクワクするねぇ」
丁寧に開けてみるとホワイトチョコを被ったトリュフが4つ、その一つを取って口に放り込んだ。丹念に裏ごしを重ねたのがわかるほど滑らかな舌触り、大きく抱擁するようなおおらかな甘さ。それは作った人間の心根が表れているのかふくよかで優しい味わいのチョコだった・・・。
「ホワイトチョコはセルバンテスのおじ様をイメージしてみたんです、どうですか?」
「私にはもったいないくらい美味しいチョコだよ。味もさることながらサニーちゃんの気持ちが伝わる本当に美味しいチョコだ。しかし、ついこの前まで私の腕に小さく収まっていたと思っていたが・・・オムレツといいサニーちゃんは素敵な女性になっていくね・・・私は嬉しいよ」
「良かった・・・おじ様にそう言って頂けると自信を持って皆さんに配ることができます」
セルバンテスにクフィーヤで包み込むような抱擁を受けて賞賛してもらう。俄然自信が湧いてきたのか重いはずなのに山盛りの籠を力強く抱えなおし、サニーはセルバンテスの執務室を後にした。
一人残ったセルバンテスはもう一個チョコを口にいれ、青い花のコサージュをスーツの胸ポケットに差し込んだ。そして背伸びをひとつ、面倒なペーパーワークだがチョコを味わいながらであれば鼻歌混じりで彼は取り掛かり始めた。
「執務室にいらっしゃらなかったのできっとココだと・・・あ、十常寺のおじ様も」
本部の図書室の一番奥、壁一面を覆う本棚を前に木製の脚立に腰掛けながら残月が分厚い量子力学の本を読んでいた。その下には十常寺が床に腰を降ろし、何が書かれているのかわからない巻物を背中を丸めて読んでいる。
「やあ、サニー。私に用かな?」
「残月様と十常寺のおじ様にバレンタインチョコレートを・・・」
「ばれんたいん・・・とは?」
頭を捻ったのは十常寺だった。
「そうか今日は2月14日だったな。バレンタインとは一般的には女性が好意もしくは感謝の念を込めて男性にチョコを贈る習慣日のことだ。十常寺は知らなかったのか?」
「ふむ・・・斯様な習慣あるとは。されど我が人生、一度たりとも「ちょこれいと」を女子より貰った試し無し」
「じゃあ私が最初なんですね?はい!十常寺のおじ様、私の手作りです」
十常寺が手にしたのは錦模様の巾着、中を広げてみればひとつひとつラミネートに包まれた美しい新緑色の抹茶の生チョコが3つ。彼は物珍しそうに見つめてから恐る恐る口にしてみた。まず抹茶の香りが広がり、ゆったりとチョコの甘さが舌に溶けていく。普段洋菓子の類を食べつけない彼でもすんなりと染み入る味だった。
「斯くも美味なる菓子があったとは・・・むむむ」
目を見開いて驚く様に苦笑しながら残月もまたサニーから貰ったチョコを開けてみる。濃紺のリボンがついたシャンパンゴールドの筒状のケースの中にはアーモンドスライスが乗っかった薄い板状のチョコが6枚。噛み砕けばアーモンドの香ばしさに上質なカカオの風味、それに甘さを控えたややビターな味わいが残月の好みにマッチした。
「ふむ、これが手作りとは驚きだ。凄いなサニー」
「ありがとうございます!・・・でもバレンタインチョコを貰うの、残月様はきっと初めてじゃないですよね?うふふ」
「ん?さて・・・どうだろうな、ふふ」
少女の嬉しそうな悪戯っぽい笑みに同じ笑みを返してやる。
「もちろんお2人とも「本命チョコ」ですよ!ではこれで失礼します」
再び籠を抱え直し、サニーは次のターゲットを探しに行く。
「白昼大人、『ほんめいちょこ』とはこれ如何に」
「世の男にとって「光栄の極み」ってところだ」
男2人はチョコを口にしてサニーの小さいながらも頼もしい背中を見送った。
突然呼び止められて何を言い出すのかと思ったら・・・。
「チョコレートを?どうしてですか?ねぇレッド様」
「どうして?・・・どうして・・・そんなことはどうでもいい。とにかくチョコレートだ。いいな、私は酒が入ったのは好かぬ、白いのも好かぬ、それ以外ならピーナッツが入ったのは大歓迎だありがたく受け取ってやろう。いいか2月14日だ、忘れるなよ」
レッドは忍者らしく霞のようにサニーを残して消え去った。
「2月14日って・・・どうしよう、もう明後日なのに」
「そりゃあサニーちゃん『バレンタインデー』ってやつだよ」
「『ばれんたいんでー』?」
セルバンテスの執務室で出された大きなモンブランを頬張りながらサニーは初めて聞く言葉に首をかしげた。
「起源はかなり古くって遡れば古代ローマ帝国の時代らしい、チョコレートが出てくるのは最近になってからでヨーロッパで恋人がチョコを贈るという習慣をもとに他の地域でも広まった。中でも東洋の島国である日本で何故か非常に受け入れられてね。よっぽど製菓メーカーが上手く宣伝したんだろうねぇ」
アジアや日本での活動を頻繁に行うレッドがバレンタインという習慣を知っているのもうなずける。しかしサニーにチョコレートを請求するところをみるとチョコをどういった意味を込めて贈るのかまでは知らなかったらしいとセルバンテスは苦笑した。
「日本では女性が大切で大好きな男性にあげるのが「本命チョコ」と言って・・・それが一番なのだろうけど、最近は「義理チョコ」って言って好きじゃないけど日頃お世話になってるから付き合いで贈る場合も多いそうだよ。この義理っていう道義はいかにも日本的かもしれないね」
セルバンテスが視線を前に向ければサニーは何か考えている様子だ。
「ん?もしかしてサニーちゃん誰かにチョコをあげるのかい?」
「はい!いつもお世話になっている皆さんにです。もちろん「本命チョコ」です!」
きっぱり言い切ったサニーにセルバンテスは大笑いした。
オムレツを作れるようになったサニーがチョコレートも手作りで、と思うのは当然の流れでセルバンテスはサニーのために高品質のカカオを使ったチョコレートペーストや砂糖、作るのに必要となる諸々の材料や道具を全て用意してやることにした。
次の日の早朝。
明日をその日に控えてサニーは真っ白いフリルがついたエプロンを戦闘服にしてキッチンに仁王立ちになる、そう、彼女はやるき満々。セルバンテスが「大変だろう?おじ様も手伝おうか?」と気を利かせてきたが彼女はやんわりと断った。バレンタインのチョコ作りを男に手伝ってもらっては女がすたる、バレンタインの意味を知った以上まだ子どもであっても彼女の「女としての意地」がそうさせたのだ。
アルベルトが任務で不在だったので彼の屋敷のキッチンを借りて、セルバンテスに用意してもらった材料や道具を並べてみる。手作りチョコの基本がわかるお菓子の本も開いて準備万端。
「ええと十傑集の皆様に・・・イワンと孔明様と・・・」
数が多いが絶対手は抜かない。普段自分が周りから大切にされているのをよくわかっているからこそこんな時には気持ちを込めてお礼をしたいとサニーは考えていた。
贈る人に合わせて心を込めてそれぞれ異なるチョコを作るつもりでいるので大変な作業となるだろう。それは望むところで一日中キッチンに篭城する気で彼女は腕をまくった。
最後の一個のラッピングが終えたのが夜の10時を過ぎた頃。樊瑞にはアルベルトの屋敷に泊まると伝えてあるので今日は父親のアルベルトのベッドに潜り込んだ。お風呂に入っても自分の身体からほのかに香るチョコの甘い香り、そして父親の葉巻の香りに包まれてサニーは直ぐに眠りに落ちていった。
当日。
「はい、セルバンテスのおじ様」
「いやぁ!これはこれは!ありがとうサニーちゃん」
「おじ様が一番最初ですよ?だっておじ様のお陰で作ることができたのですもの」
「本当かい?ははは嬉しいねぇ」
サニーが上手くチョコを作れるかどうか心配してはいたが手にある籠には山盛りいっぱいのチョコレートを思わしき袋や箱。子どもであるのに良くコレだけのことを成し遂げられるものだと正直彼は驚いた。
サニーから手渡されたのは銀箔の模様が入った白い包装紙に青い花のコサージュがつけてあるバレンタインチョコ。
「なんだかワクワクするねぇ」
丁寧に開けてみるとホワイトチョコを被ったトリュフが4つ、その一つを取って口に放り込んだ。丹念に裏ごしを重ねたのがわかるほど滑らかな舌触り、大きく抱擁するようなおおらかな甘さ。それは作った人間の心根が表れているのかふくよかで優しい味わいのチョコだった・・・。
「ホワイトチョコはセルバンテスのおじ様をイメージしてみたんです、どうですか?」
「私にはもったいないくらい美味しいチョコだよ。味もさることながらサニーちゃんの気持ちが伝わる本当に美味しいチョコだ。しかし、ついこの前まで私の腕に小さく収まっていたと思っていたが・・・オムレツといいサニーちゃんは素敵な女性になっていくね・・・私は嬉しいよ」
「良かった・・・おじ様にそう言って頂けると自信を持って皆さんに配ることができます」
セルバンテスにクフィーヤで包み込むような抱擁を受けて賞賛してもらう。俄然自信が湧いてきたのか重いはずなのに山盛りの籠を力強く抱えなおし、サニーはセルバンテスの執務室を後にした。
一人残ったセルバンテスはもう一個チョコを口にいれ、青い花のコサージュをスーツの胸ポケットに差し込んだ。そして背伸びをひとつ、面倒なペーパーワークだがチョコを味わいながらであれば鼻歌混じりで彼は取り掛かり始めた。
「執務室にいらっしゃらなかったのできっとココだと・・・あ、十常寺のおじ様も」
本部の図書室の一番奥、壁一面を覆う本棚を前に木製の脚立に腰掛けながら残月が分厚い量子力学の本を読んでいた。その下には十常寺が床に腰を降ろし、何が書かれているのかわからない巻物を背中を丸めて読んでいる。
「やあ、サニー。私に用かな?」
「残月様と十常寺のおじ様にバレンタインチョコレートを・・・」
「ばれんたいん・・・とは?」
頭を捻ったのは十常寺だった。
「そうか今日は2月14日だったな。バレンタインとは一般的には女性が好意もしくは感謝の念を込めて男性にチョコを贈る習慣日のことだ。十常寺は知らなかったのか?」
「ふむ・・・斯様な習慣あるとは。されど我が人生、一度たりとも「ちょこれいと」を女子より貰った試し無し」
「じゃあ私が最初なんですね?はい!十常寺のおじ様、私の手作りです」
十常寺が手にしたのは錦模様の巾着、中を広げてみればひとつひとつラミネートに包まれた美しい新緑色の抹茶の生チョコが3つ。彼は物珍しそうに見つめてから恐る恐る口にしてみた。まず抹茶の香りが広がり、ゆったりとチョコの甘さが舌に溶けていく。普段洋菓子の類を食べつけない彼でもすんなりと染み入る味だった。
「斯くも美味なる菓子があったとは・・・むむむ」
目を見開いて驚く様に苦笑しながら残月もまたサニーから貰ったチョコを開けてみる。濃紺のリボンがついたシャンパンゴールドの筒状のケースの中にはアーモンドスライスが乗っかった薄い板状のチョコが6枚。噛み砕けばアーモンドの香ばしさに上質なカカオの風味、それに甘さを控えたややビターな味わいが残月の好みにマッチした。
「ふむ、これが手作りとは驚きだ。凄いなサニー」
「ありがとうございます!・・・でもバレンタインチョコを貰うの、残月様はきっと初めてじゃないですよね?うふふ」
「ん?さて・・・どうだろうな、ふふ」
少女の嬉しそうな悪戯っぽい笑みに同じ笑みを返してやる。
「もちろんお2人とも「本命チョコ」ですよ!ではこれで失礼します」
再び籠を抱え直し、サニーは次のターゲットを探しに行く。
「白昼大人、『ほんめいちょこ』とはこれ如何に」
「世の男にとって「光栄の極み」ってところだ」
男2人はチョコを口にしてサニーの小さいながらも頼もしい背中を見送った。
PR
胸の奥に、柔らかいものが触れた気がした。
ああもうそんな時間かと、壁の時計を見やる。バーには珍しく、振り子が揺れるアンティークな作りの時計だ。
「だからね、…ってどうかしたかい、退屈?」
グラスを手に熱弁を振るっていた盟友は目敏くその視線に気付いたらしい。
「いや」
唇から放した葉巻を軽く振って、話の続きを促す。
今日限り親子の縁を切ると、言い渡したその時に娘は不思議そうに小首を傾げて言った。判りました、でも、それでもお父様はお父様ですわ、と。
「それとももうお眠かい、アルベルト?」
話の続きを聞きたくてそうした訳ではない事を感じ取ったのか、セルバンテスが身を乗り出す。
「誰がだ」
それはもう、当人は素直に言葉に従うつもりだったようだが、実質は真っ向から逆らっているようにしか思えない対応で。少女というのはこういうものかと。
「ああそう。それで、っとどこまで話したかな?…えーと」
いささか呆れている父親の目を、黒目がちの瞳で見上げ。
だからいつでもご無事を祈っております、と宣言した。そうしてかつてその母がしていたように、眠る前の一時をその祈りに振り当てている。
それがおよそ日に一度心に触れる柔らかな何か。今よりも遥かに幼い日、甘えて頬に触れてきたあの掌に似た、感触。規則正しい生活を偲ばせる、その祈りを感じる度に。
夜まだ浅いあの島の有様を、思い出す。
ああもうそんな時間かと、壁の時計を見やる。バーには珍しく、振り子が揺れるアンティークな作りの時計だ。
「だからね、…ってどうかしたかい、退屈?」
グラスを手に熱弁を振るっていた盟友は目敏くその視線に気付いたらしい。
「いや」
唇から放した葉巻を軽く振って、話の続きを促す。
今日限り親子の縁を切ると、言い渡したその時に娘は不思議そうに小首を傾げて言った。判りました、でも、それでもお父様はお父様ですわ、と。
「それとももうお眠かい、アルベルト?」
話の続きを聞きたくてそうした訳ではない事を感じ取ったのか、セルバンテスが身を乗り出す。
「誰がだ」
それはもう、当人は素直に言葉に従うつもりだったようだが、実質は真っ向から逆らっているようにしか思えない対応で。少女というのはこういうものかと。
「ああそう。それで、っとどこまで話したかな?…えーと」
いささか呆れている父親の目を、黒目がちの瞳で見上げ。
だからいつでもご無事を祈っております、と宣言した。そうしてかつてその母がしていたように、眠る前の一時をその祈りに振り当てている。
それがおよそ日に一度心に触れる柔らかな何か。今よりも遥かに幼い日、甘えて頬に触れてきたあの掌に似た、感触。規則正しい生活を偲ばせる、その祈りを感じる度に。
夜まだ浅いあの島の有様を、思い出す。
サニーは、BF団の本拠地であるバベルの塔を囲む、深い森の中にいた。顔色が幾分青く見えるの
は、陽が木々によって遮られているからばかりではない。彼女は魔法の訓練用に使う薬草を取りに来た
途中で、道に迷っている最中なのである。
いつも来ている場所だから、と油断していたのだ。
「どうしよう……どうしたらいいのかしら……」
深緑たる樹海を見上げながら、サニーは呟いた。
助かる方法なら、無くはないのだ。
精神リンクで結ばれている父、アルベルトに助けを求める、というものである。
だが、この案はサニーの心の中で既に却下済みだった。
小さい頃からBF団の一員として育ち、いつでも父のように誇り高くありたいと願うサニーの心に芽
生えていた小さなプライドが、その父を頼る事を許さなかったのである。
曲がり形にも十傑集、衝撃のアルベルトの娘。
なのに、自分はこんなにも未熟だ。
知らず涙が零れそうになったが、サニーは寸前でそれを堪えた。
アルベルトは、泣かない子どもが好きだった。だがセルバンテスや樊瑞などは、逆にもっと泣けと云
う。しかし、いつも彼等を頼れる訳でもなかった。泣かないのは辛い。だが、誰からも憐れみを受けず
に泣くことの方が、もっと辛かった。
だからサニーはやめたのだ。随分前から、泣くことを。
「…………っ!?」
木の葉を踏み鳴らす音で、サニーは躰を強張らせた。誰かが近付いてくる。サニーはそっと、胸元に
忍ばせた護身用のナイフを手に取った。そしてじっと、音のする方向を睨んだ。暫くして見えてきた人
物はサニーを、思わずナイフを取り落とさせるほどに愕かせた。
そしてそれは、近付いてきた人物も、同様であった。
「えぇ……っ!?」
「これは――どうしたことです。何故、貴女が此処にいるのですか、サニー・ザ・マジシャン」
「孔明……さま……?」
目の前まで来た男性は、BF団の軍師にしてビッグ・ファイア様の代理人、策士諸葛亮孔明であった
のだ。本部の塔内ですら、執務室にこもり、その姿を殆ど人前に晒さない人物が、何故このような場所
にいるのか。
あまりの出来事に茫然自失の状態のサニーに、孔明は軽い溜息をついてから、木の葉の上に落ちたナ
イフを拾い上げ、先程と同じ質問を繰り返した。
「何故此処にいるのか、と訊いているのですよ。フロイライン」
「は、はいあの、薬草を取りに――」
「成る程。ですがこの森は、貴女のような幼い者が不用意に近付いて良い場所ではありません。早々に
お戻りなさい」
孔明は、柄を外側に向けたナイフをサニーに手渡しながら、淡々とした口調で云った。サニーは慌て
てそのナイフを受け取った。
「はい……いえ、あの、その……」
「……どうしたのです?」
「実は、道に、迷ってしまって――」
「そうですか」
自分の失態を語るのは酷く恥ずかしく、サニーは顔を上げることが出来なかった。孔明から侮蔑なり
叱責なりの言葉が来ることを予想していたが、そのどちらもサニーの耳には届かなかった。恐る恐る顔
を見上げると、孔明は顎に手を当てた仕草で考え事をしているようだった。
この反応は、サニーにとっては意外なものであった。
「……私はこの先に用があります。それが済めば、バベルの塔まで送って差し上げられますから、少々
私にお付き合いいただきましょう。宜しいかな?」
「あ……は、はい」
「では参りましょう」
そう云うと孔明はサニーを追い越し、すたすたと森の奥へ歩き出していた。サニーは駆け足でその後
を追った。追い着いたところで、先程からの疑問を口にした。
「あの、孔明さま。手に持っていらっしゃる花束は、一体なんですか?」
この森で出逢った時から、彼が常に持ち歩く羽扇とともに胸に抱いていたのは、ピンクの薔薇を基調
にコーディネートされた見事な花束だったのだ。この夏、最後の薔薇であろう。
「この先に行けば、解りますよ」
やはり意外な答えが返ってきた。
内容が、ではない。
その口調が、である。
サニーは父や十傑集たちから聞いた話で、諸葛亮孔明とは他人を見下し嘲り笑うような人物だと思っ
ていた。事実、会議室前や執務室前を通る時に、孔明と十傑集との遣り取りが聞こえてくることがあ
り、お世辞にも美しいとは云えない言葉の数々が飛び交うのを苦々しく思ったのは、一度や二度のこと
ではなかった。
だが、自分に向けられた言葉から、サニーは誠意の有り様を感じ取った。何故、と云う疑問が頭の中
を駆け巡っているが、それを口には出せなかった。
「そういえば……」
「は、はいっ!?」
突然声を掛けられて、サニーは思わず上擦った声を上げた。
そして再び顔を赧らめた。
孔明はその様子に再び小さく溜息をついたが、やはりそれを皮肉るようなことはしなかった。
「……箒は、どうしたのです?」
「あの、一昨日、壊してしまって、今修理中なんです」
「修理は貴女がやっているのですか?」
「いえ、セルバンテスさまがやろうか、って云って下さったのですけど、結局イワンに頼みました」
「そうでしたか」
サニーは昔の物語に登場する魔女のように、移動手段として箒を使う。最初は憧れというか、興味本
位だったのだが、訓練としては適当であろうと判断され、実行することが可能になった。
だが、その箒にも相性があり、良ければ普通に使うことができるが、悪ければ操作不能で叩き落され
ることもある。能力のコントロールが未完全であるが故の弊害なのだが、完全に能力が開花したとて改
善されるかは解からない。魔法という分野は、あらゆる意味で不透明な部分が多過ぎるのだ。
暫くの間、孔明から魔法に関する質問が幾つか続いた。それに対して、サニーも精一杯の解答を用意
する。今現在のサニーの持つ実力、訓練の内容や成果などは、定期的に樊瑞が提出している報告書を見
れば解る筈だが、どうにも自身で情報を収集したがる癖があるのだと、孔明はぽつりとサニーに打ち明
けてくれた。
それほど長く孔明と話していたわけではないが、気が付けば周囲が明るくなっていた。サニーの歩調
に合わせてくれていた孔明の足取りが、次第に速くなる。サニーは置いて行かれまいと必死でその後を
追った。森の終わりが見える。その先は、光が溢れていて見ることが叶わない。
木々の先にあったものは――。
サニーが訊ねる。
「ここは――?」
「我等BF団の為に命を落とした者達を、弔う場所です」
そう、確かに此処は墓地だった。
「でも孔明さま――」
「解っています、貴女の御母上は、此処ではない場所に葬られているのでしょう?」
「はい……」
「それは、アルベルト殿がそう望んだからですよ」
淡々とした口調で、孔明が云った。
「この地は、一丈青殿が生きて眠っていた場所であって、死した後に瞑る場所ではないと、そう考えて
おられたのだと思います――」
孔明の顔に翳りが生じたことにサニーは気付いたが、声を掛けることは憚られた。それ以上のことを
孔明も語らず、足早に墓地を歩き始めていた。少し遅れて、サニーも後に続く。
不思議な場所だった。墓地ではあるのだが、古今東西、ありとあらゆる形式の墓石が混在し、まるで
博物館のような体を成している。それなりに広さもあるようなのだが、墓石は綺麗に磨かれているし、
草も伸びている様子がない。手入れはしっかりと行き届いていた。
突然に、孔明が足を止めた。
白い墓石の前だった。
『趙雲子龍』
碑銘はそう読めた。
誰かは解らない。
孔明がその墓の前に花束を置いた。
祈りを捧げるわけでもなく、ただ墓石を見つめていた。
サニーはふと思い出して、籠の中から小さな白い花を取り出した。薬草と一緒に摘んでおいたもの
だった。
なんでもいい。
この下に瞑る人物に、なにかを手向けたかった。
そっと、花束の横に、その白い花を置いた。
相応しい祈りの作法など解る筈もないので、いつものように胸の前で十字を切り、手を組んで祈りを
捧げた。
「フロイライン……?」
「あ――」
声を掛けられ顔を上げた。墓石を見つめていたあの睛で、サニーを見ている。
サニーには、見覚えがあった。
母の墓石を孔明と同じ睛で、父が見ていたことがある。
「何故……?」
「あの、なにか、お供えしたかったんです。だって、此処に瞑っている方は、孔明さまにとって、大切
な方なんですよね?」
「え、ええ……」
「だから、その、なにかして差し上げたくて。こんなものしかないのですけど……」
その辺に生えていた、野草でしかないのだが。
そう思い、ばつが悪くなったサニーの声は段々と小さくなっていった。
「……カモミールですよ」
「え?」
「花言葉は『逆境に負けぬ強さ、親交』……。死者への手向けとして、問題のある花ではないでしょ
う」
「……孔明さまは、なんでも知ってらっしゃるんですね」
「無駄な知識でしかありませんよ」
孔明の表情は変わらない。だが、声には十分な柔らかさがこもっていた。
その声に、サニーの表情も和らいでいった。
強い風が墓地を吹き抜けた。
マントがなびく音がして、サニーは樊瑞がいるのかと思い、周囲を見渡した。そこに立っていたのは
コ・エンシャクだった。赤い血色のマントが風に揺れている。なんの表情もたたえていないその仮面
が、サニーには恐ろしかった。思わず、孔明の袖口を強く握った。
「では、戻りますよ。フロイライン」
コ・エンシャク、と孔明がその名を呼ぶ。
一歩一歩、近付いてくる。
二人の目の前、一歩手前で止まったコ・エンシャクが、マントの中にサニーと孔明を包み込んだ。
マントはすぐに外された。
そこは、バベルの塔のバルコニーだった。
もう既に、コ・エンシャクの姿は見えない。
あまりに早い展開に、サニーは目を丸くするしかなかった。
「……フロイライン、着きましたよ」
暫くしてから、呆然としたサニーを見兼ねたように、孔明が声を掛けた。もう大丈夫だとでも云うよ
うに、左腕にしがみ付いているサニーの指を、右手で優しく解いてくれた。あれからずっと、孔明の袖
口を握ったままだったのだ。
はしたない振舞だ。
そう思った途端、頬はおろか頸まで赧くなってしまった。恥ずかしさのあまり、口元を両手で覆いな
がら俯いた。
「ご、ごめんなさい……っ」
「いえ――」
「サニーお嬢さまっ!?」
良く通る美しい女性の声がバルコニーに流れる。烏羽色の髪をした、黒いチャイナドレス姿の女性。
「……ローザ?」
「一体どうなさったのですか。ご心配しており、ま、した――こ、これはっ、諸葛亮様っ!」
近くまできて漸く孔明の存在を認識したらしいローザは、孔明に対し恐縮した表情で敬礼した。右手
の拳を胸に当てて、頭を下げる。孔明はそれを一瞥しただけですぐにバルコニーから姿を消した。孔明
の姿が完全に見えなくなるまで、サニーとローザは身動きひとつしなかった。ローザの場合は動けな
かったと云った方が正しいだろうが。
二人きりになってやっと、ローザはサニーに向き直った。
「帰りが遅いと、樊瑞様が心配なさっていましたよ。せめてご連絡のひとつもいただかないと」
「うん。ごめんなさい、ローザ」
「わたくし如きにお謝りになられる必要はございませんわ。てっきりお作法の勉強からお逃げになった
のかと思っておりましたもの」
そうローザが笑った。
しかしサニーはその言葉に顔を赧くしてしまった。
作法の勉強は必要なこととはいえ、サニーとは相性が悪いのである。
「しかし――」
ローザが不安そうに尋ねた。
「何故、諸葛亮様と?」
少し躊躇った後、サニーは答えた。
「――森の奥で、道に迷ってたところを、助けていただいて、ここまで、送ってくださったの……」
「え、まさか……っ!?」
ローザは信じられないと云った顔で絶句した。
その内容を口にしたサニー自身、自分の身に起こった事が只事ではなかったことを、今更ながらに痛
感した。
「十傑集ですら駒として斬り捨てるほど冷厳、酷薄なあの方が人助け、ですか……」
「ローザも、そう思うの?」
「噂だけなら、山のように聞きますから。正直、サニー様のお話でなかったら、信じなかったと思いま
すわ」
「そう、でも――」
今日の孔明は、いつもと違う。
だからきっと、あそこまで優しい――。
「……サニー様?」
「ああ、いた。やっと見つけたよ、レディ方」
「セルバンテス様。と――」
早足でこちらに近付いてくる軽い調子の声に、サニーは思考を中断し、顔を上げた。
そして、白い人影の奥に見えるその人物の姿に、睛を見開いた。
「お、父さま――?」
「アルベルト、ほら」
「ああ、解かっている……」
セルバンテスに横から小突かれ、アルベルトは咥えていた葉巻を手に持ってから軽い咳払いをし、少
し躊躇ってから、赧らんだ顔をサニーに向けた。
「……サニー、今夜の予定は、空いているか?」
問われたサニーも呆然としたまま、微動だにしなかった。すかさずローザが声を掛ける。
「さぁ、サニー様。お返事を」
「は……は、はいっ、空いてますっ!」
「そうか。ならば、お前たちと夕食を共にしたい。十八時頃に、イワンを迎えに寄越すので、それなり
の格好で来い」
それだけ云うとアルベルトは踵を返し、バルコニーから続く階段を降りて、帰って行った。それを見
ていたセルバンテスとローザは、そろって苦笑混じりの溜息を吐いた。
「……相変わらずですね。アルベルト様は」
「全くだよ。もっと気の利いた台詞を用意してあげたのにさぁ。ホンット不器用なんだから」
「しかし、突然のお話ですわね。それなりの格好と云われても、こう唐突では御用意できませんわ」
「ああ、それなんだけど――そう、リトル・ミス、ちょっと聞きたいんだが」
「は、はい」
「君は孔明と親しいのかい?」
「え?」
このセルバンテスの言葉に、サニーもローザもきょとんとした表情で返す。
「どういうことですか?」
「いやなに、今日アルベルトが、ビッグ・ファイア様直々に、もう少し娘さんと接する時間を持ったら
どうだ、ってな御小言をいただいたらしくてね。それがしかも、孔明からの進言だと仰ったらしいんだ
よ」
「孔明さま、から……?」
「ああ、ビッグ・ファイア様のお言葉でなければ、とてもじゃないが信じられな――どこへ行くんだい
リトル・ミス?」
「孔明さまのところに。すぐ戻るわローザ!」
サニーはセルバンテスの言葉を聞き終わる前に走り出していた。ローザの横をすり抜けて塔内へと向
かっていた。
「なんなんだろうね、あれは。どうやらサニーは、孔明に好意を持ってるみたいだけど」
「森の奥で道に迷ってたところを、助けていただいたそうですわ」
「ふぅん、そうか……」
「それにしても、わたくしに解せないのは、諸葛亮様の言動です。一体どういった風の吹き回しで」
「彼もまた、アルベルトと同じだよ」
「……は?」
「彼もまた、愛する者の為に、涙を流している。私に解かるのはこれだけだ」
墓地から戻った孔明は、真っ先に自身の執務室へ向かった。そこには先客がいた。
十傑集マスク・ザ・レッド。
彼は書類作成の為の資料を探しに、孔明の執務室に来ていたのだ。
孔明の執務室は、ほとんどのスペースを本が占領している。それでも蔵書は溢れるので、今では蔵書
の半分を本部内の書庫に置いているという有様なのだ。
書庫内で探している資料を見つけ出せなかったレッドが、孔明の執務室を訪ねるのは当然なのだが。
「何故、私まで資料探しを手伝う羽目に……」
「元はといえばお前が、どこに仕舞ったか覚えてないのが原因だろうが」
「ですが私にも仕事が……」
「少しは部下を労おうとかいう気持ちになれ――っと、これか?」
分厚い革張りの書物を一冊手に取ったレッドが、ぺらぺらとその本のページをめくる。本棚に備え付
けられた梯子から降りた孔明が、レッドの手元を覗き込んだ。
「ありましたか?」
「ああ……これだ、間違いない」
「やれやれ、これで漸く仕事に取り掛かれる」
しかし、孔明が望む時間が訪れることはなかった。
胡桃材のデスクに腰を落ち着けた瞬間、来客を告げる電子音が軽快に鳴り、スライド式の自動扉が開
いたのだ。
「失礼――致します――」
前方に向けて優雅に一礼し、部屋へと一歩を踏み出した少女を、孔明は愕きの表情で迎えた。
「フロイライン――?」
「突然の来訪を、お許し下さい。あの、孔明さまに、お伺いしたいことがあって――」
「私に、ですか?」
「ええと――」
それきり、サニーは何を喋っていいのか、解からなくなってしまったようだった。孔明も孔明で、突
然の事に頭が回転しない。二人の間に助け舟を出したのは、レッドだった。顔には、面白くて仕様がな
いといった表情を湛えていたが。
「立ち話もなんだ、席を勧めてはどうだ孔明? 茶なら私が煎れてやる」
「そうですか――ならば、お願い致します。どうぞ、フロイライン」
「はい――」
サニーは勧められるままに、孔明のデスクの前にあるソファに腰掛けた。孔明はその向かいに腰掛け
る。程なく紅茶の香りが、執務室に満ちてきた。
「良い香りですね」
「レッド殿はあれでいて、紅茶に五月蝿いのですよ。意外だと思われるでしょうが」
「そうなのですか……」
他愛のない会話は、豊かな香りの力も合間って、急速に親和力を増しているようだった。
「勝手に茶器を借りたぞ」
そう云ってレッドが煎れてきた紅茶は、絶賛に値するほどの出来だと、一目で解かるほどだった。茶
菓子などという洒落た品は期待できんが、と一言余計に付け加えることも忘れずに、レッドは二人の前
にソーサーを置いた。
孔明はレッドが執務室から退室するのを確認してから、サニーに声を掛けた。
「して、フロイライン。私に話とは――?」
「あ、はい。あの――」
恐縮した表情で、サニーは居住まいを正した。
「セルバンテスさまからお聞きしました。お父さまに対する進言について」
「そのことですか」
「なぜ、あのようなことを――?」
孔明は、それまで手元に持っていたソーサーを、机の上に置いた。
かちゃりという、陶器独特の音がした。
「樊瑞殿からの報告書を拝見しました。最近は、どうにも訓練に集中できていないご様子ですな」
「それは――父の、父の所為ではありません。全てわたくしが悪いんです。わたくしが訓練を怠ってい
るから、だから――」
「落ち着きなさい、フロイライン。解かっています」
「はい――も、申し訳ありません」
「……私が云いたいのは、貴女が、追い詰められているのではないか、ということなのですよ」
サニーの肩が小さく揺れた。
紅茶を一口含む。
咽を潤してから、孔明は再び喋り出した。
「貴女が辛抱強い性格なのは解かります。しかし、いずれは限界を迎えるでしょう。そしてその時、貴
女のエージェントとしての可能性も、同時に潰えることになる。私は貴女に期待しているのです。むざ
むざとその芽を潰してしまうのは惜しい。ですから、貴女に気付いて欲しいのです。誰かに自分を委ね
ること、誰かを頼ることを」
「ですが――誰が、身内でもないわたくしに、無償の援助をしてくれるというのですか? 樊瑞のおじ
さまも、セルバンテスさまも、ローザやイワンだって、お仕事や任務があります。皆さまの重荷にはな
りたくないんです。それに――今までだって、自分の力でどうにかして答を出してきたんです。自分の
力で、切り抜けて来たんです。わたくしのことを知りもしないで、わたくしの将来を勝手に極め付けな
いで下さい」
今にも泣きそうな表情だった。
だが、涙を流す様子は見られない。
それだけ、彼女は強いのだ。
「そのようなつもりで云ったわけではありませんよ、フロイライン。それに、貴女にはお父上がいらっ
しゃるでしょう」
「父は――父は、わたくしを愛してはいらっしゃいません。いいえ、セルバンテスさまやローザだって
きっと――」
「何故、そうお思いになる?」
「……母は、多くの人に愛されていました。でもわたしを出産して、母は体調を崩してしまった。そし
て、そのまま――。父さまたちにとってかけがえのない、大切な人と引き換えに、わたしは生まれてき
たんです。みんな、心の中で、きっとわたしを憎んでる――」
小さく、孔明は溜息を付いた。
あの男は、一体どう云う育て方をしたのだろう。彼女が此処まで自分を追い詰めていようとは思わな
かった。あの男の配慮が足りなかったからに違いない。
「それは貴女の思い違いですよ、フロイライン」
「だったらどうして、お父さまは、わたしを――っ」
「無論、ビッグ・ファイアの為に」
「――っ!」
「だが、それだけではない」
「え……?」
「私から話すべきではないだろうが――扈三娘殿の両親、つまり貴女の祖父母は、扈三娘殿が亡くなっ
た後、貴女を強引に引き取ろうとしたのです。元々、アルベルト殿との結婚を快くは思っていなかった
そうですから、可愛い娘の遺児を、そんな男の元に置いてはおけないと思ったのでしょうな。ですが、
アルベルト殿は決してそれを許さなかった。そして、自分やセルバンテス殿の元よりも、確実に安全で
あろう樊瑞殿の元に、貴女を託したのです。樊瑞殿に預けてからの一年間は、貴女を守るために、アル
ベルト殿もセルバンテス殿もかなり奮闘なさったそうですよ。ですから、貴女は憎まれてなどいないの
です。むしろ貴女は、多くの者に愛されている――フロイライン?」
「あ――」
言葉を切り、孔明が顔を上げた先には、大粒の涙を流すサニーの姿があった。
「わたし――わたし――ずっと、みんながわたしを憎んでいると思ってたんです。わたしなんか、生ま
れてこなければ良かったんだって――でも、違ったんですね」
孔明はサニーに、白いハンカチを手渡した。
少し躊躇してから、サニーはそれを受け取った。
「貴女は、貴女に向けられる言葉や微笑みを、素直に受け止めれば良いのですよ」
サニーは、溢れる涙をハンカチで拭いながら、大きく頷いた。
「ありがとうございます、孔明さま。それと、ごめんなさい」
「気にしてはおりませんよ。それより、そろそろ陽も暮れます。ご用事がおありなのでは」
「あ、ローザを待たせてます」
「ならば、尚のことお急ぎなさい」
「はい、それでは孔明さま、失礼致します」
慌てて立ち上がったサニーが、扉の前で一礼し退出するのを見届けてから、孔明は盛大な溜息を付い
た。
そのまま目を閉じて、暗闇に身を任す。
暫くは、考えることすら放棄したかった――。
「随分とお疲れのご様子だ」
声のする方向が判断できない。
すぐ近くのような気も、ずっと遠くからのような気もする。
「何用ですか……」
気だるい声で応えれば、くつくつと笑い声が響いた。
近くにいる。すぐ側に。
そう思って睛を開ければ、彼が自分を見下ろしていた。
赤いスカーフが睛に痛かった。
「随分と面白いやり取りを見せてもらった。お前、相変わらず子供に弱いのだな。いや――」
レッドの顔が、ニヤリと歪む。
品の良い笑い方ではないが、この男には嫌になるほど似合っている。
「あの小娘に、自分の過去の姿でも重ねたのか――?」
やはりそうきたか。
「云うと思ってましたよ――」
これだから、この男は。
「ならばどうだと仰るのです?」
返事はなかった。
もういちど暗闇の中に戻ろうとした時、レッドに口を塞がれた。
抵抗する気力も時間もなく、何かを口の中に注がれた。
孔明はそれをあっけなく飲み干した。
小さく舌打ちする音が聞こえた。抵抗することを期待していたらしいが、そんなものに素直に応える
義理などない。
すぐに頭がふらついた。
視界がおぼろげだ。
「ただの睡眠薬だ。怒鬼から頼まれたんだよ。それで暫く、夢すら見ずに眠れるぜ――」
――子龍? ああ、十傑集の趙雲子龍様か――
――この間の作戦で、亡くなられたんだよ。知らなかったのか――
――国際警察の九大天皇と死闘を繰り広げた末だと、さ――
――残念な事だよ。実力は十傑集の中でも随一だったのに――
知らない。
そんなことは、知らない。
――もし、某からの連絡が途絶えたその時は、某は死んだものと思ってくれ。
そう云われた時は、軽く頷いただけだった。
そんな事あるわけない、と、笑いながら。
「嘘だ!! 子龍、貴方が死ぬなんて!!」
鬱蒼とした森の中を、ただ走り続けていた。
髪留が外れ、長い黒髪が鬱陶しくなびく。
だが孔明には、そんなことに構っている余裕はなかった。
白い墓石。
刻まれた文字。
『趙雲子龍』と――。
不思議と、哀しみはなかった。
ただ、現実感がないだけだった。
それでも涙は流れた。
――諸葛亮――
誰。
――ずっと、君を待っていたよ――
私を……。
――ずっと君を見ていたんだ。ずっと、待ち続けていた――
何故。
――君だけが、僕を受け止められるから。君だけが、僕を救ってくれるから――
――僕の元に、来ておくれ。諸葛亮、孔明――
「……なにが、夢すら見ずに眠れる、ですか」
しっかりと見てしまったではないか。それも悪夢に分類されるであろうほどの夢だ。
ソファで意識を失ったままであったから、躰中が軋んでいる。
ゆっくりと上半身を持ち上げると、愁いを帯びた睛と、視線が交わった。
「怒鬼様……?」
――起こしてしまっただろうか、義父さん――
「いえ、大丈夫ですよ」
怒鬼は、自分の製作者である孔明すらも父と呼ぶ。遺伝上の父親が健在なのにもかかわらず、だ。恐
れ多いことでもあり、出来ることなら改めて欲しいと思うのだが、確実に意見を聞き入れてもらえそう
にはないので、本人の意志に任せているのが現状だった。
――嫌な夢を、見たのか?――
彼の父親と同じく、テレパシーでの会話。孔明の身を案じていることが、彼の言葉とともに如実に伝
わってくる。
その優しさに、微笑みで報いたかった。
だが、僅かな微笑ですら、今の孔明には浮かべることができなかった。
――……俺は、どうすればいい?――
そう問われて、孔明は自分でも決して予期することのなかった言葉を掛けた。
「……帰らないで、ここにいてください」
「今夜は、ひとりでいることに、耐えられそうにないのです。お願いです、私をひとりにしないでくだ
さい……」
やがて、叩き付ける勢いで降り出した雨と、白銀に光り轟く雷鳴がバベルの塔を包んだ。
巷間では長い夏が、終わりを告げようとしていた。
2005年8月18日 脱稿
あとがきと云うか、補足と云うか。
相変わらず粗い文章で真に申し訳なく思う次第でありますが、いかがだったでしょう。
自分としては、孔明を書くつもりでいたのですが、気が付いたらどんどんサニーちゃんのことを書い
ておりましたよ。キャラとして大好きなのもありますが、設定が自分好みであったことも一因になって
いるかと。
日はお父様のお友達に民族衣装を着せて貰いました。
「いやあ可愛いねえサニーちゃん。よく似合ってるよ」
「そ、そうですか?(照 」
「ああ本当だとも。このまま連れ帰って私のハレムに入れたいくらい
ドゴォ
「お、お父様?! お友達相手に衝撃波は!」
「いやあ可愛いねえサニーちゃん。よく似合ってるよ」
「そ、そうですか?(照 」
「ああ本当だとも。このまま連れ帰って私のハレムに入れたいくらい
ドゴォ
「お、お父様?! お友達相手に衝撃波は!」
「おじ様、いらっしゃいますか?」
こんこん、という軽いノックの音に、樊瑞は眼を覚ました。うっかりと机に突っ伏して寝入ってしまったらしい、腕の下で書類がくしゃくしゃになってしまっているのに、樊瑞は『拙い』と肩を竦める。こんな書類を提出すればあの潔癖症の策士がどんな顔をするか――。
書き直すか。そう潔く思い直すと、目を覚まさせてくれた相手に『うむ。居るぞ』と云ってぐしぐしと顎の辺りを擦った。
よだれや紙の痕など――残っていなければ良いのだが。
机の上をざっと片付け、序でに先月のままになっていた卓上カレンダーをべりっと捲る。
いかにも『周囲の状況を省みる間も無い程忙しいです』という格好では――彼女に気を使わせてしまうかもしれない。
『失礼します』と云いながら入って来た、一服の清涼剤のような存在に樊瑞は双眸を眇めた。
サニー・ザ・マジシャン。自らが後見人を務める少女。年若く(実際自分にこれくらいの娘がいても可笑しくない)愛らしい彼女はちょこん、と可愛らしく膝を折って足音を立てずにそっと自分の前に立った。
疲れが癒されるような笑顔だ、と思う。久し振りに見るとその想いも強い。
昨日まで遠方へ出張に出ていて、朝方に帰って来、そのまま報告書を作成していた身には――本当ならば雑談等はちょっと辛いものがあるのだが。
サニーならば。樊瑞もにこりと努めて柔らかく笑うと少女を出迎えた。
「お帰りなさいませ、おじ様。出張お疲れ様でした」
「うむ。長きの留守の間変わった事は無かったか?」
「ええ」
にこにこり。少女が笑っている。釣られて樊瑞も笑うのだが――さて、一体どうした事か。
何か用があってのおとないだろうに、一向にサニーは用件を切り出そうとはしない。
かと云って自分から促すのもまるで『早く帰れ』と云っているようで気が悪い。うーむ、と考え込んでいると『うふふ』とサニーが可愛らしく笑って、つ…と机を回り込み、樊瑞の真横に立つ。
「おじ様」
「な、何だ?」
「私――」
じっと見つめられて、何故か狼狽してしまう自分が情けない、とは思うものの、この純真その物の瞳で凝視されれば、大多数の人間が自分と同じ反応を示すだろう。あう、と根を上げながらサニーの言葉の続きを待つ――と。
「私、おじ様の事、大ッ嫌いですわ」
「――は?」
にっこり。笑顔の果てに落とされた言葉に、樊瑞は咄嗟に反応する事が出来なかった。
『大嫌い』…『大嫌い』って――とっても『嫌い』という意味の『大嫌い』なのか?
ぐるぐる、と頭の中で回る言葉に翻弄されていると、サニーが
「では、失礼致しますわね」
と云って軽やかに部屋を出て行く。
その背中を見送りながら何も云えず、樊瑞はただ呆然と立ち竦んでいた。
頭の中でひっきりなしに『何故?』を繰り返しながら。
◇◆◇
しかしいつまでも放心状態のままではいられない。
涙で霞む視界を拭いながら必死に報告書を仕上げ、樊瑞は執務室を出た。
この報告書を孔明に提出したら、ゆっくり寝よう。そしてもう一度サニーと話をしよう。
自分が気付かぬ間に何か仕出かして彼女を傷付けていたのなら――謝らねばならない。
笑顔にて『大嫌い』と云うなんて、彼女はどれ程の怒りを抱えていたのだろう。自分のショックはさて置き、サニーの心中を勝手に思いやれば申し訳なく思う気持ちが溢れてくる。
「サニー…」
未練がましくもぽつり、呟いてコンコンと孔明の執務室の扉を叩いた。
「はい」
中からの返事はいつもの如く不機嫌そうに――いや、いつもとは様子が違い、何故か妙に機嫌良く聞こえて、一瞬背筋をふるりと震わせながら中に入る。
と、其処には先客が来ていた。しかも、此処で顔を合わせるのは一番避けたい人物が。
「おお、じっ様もお出ででしたか」
「うむ。孔明に作戦概要を貰いに、な」
カワラザキが手にした書類をヒラヒラさせながらにこり、笑っていた。
『笑う』――?
あのカワラザキが孔明の部屋で笑っている、そのそぐわなさがますます樊瑞を怯えさせる。
一体此処で何が起こっているのだろう、と。
「ああ、樊瑞殿。報告書ですか。いつもながら手早い処理、本当に有難う御座います。1ヶ月間、お疲れ様に御座いました」
孔明もにこり、と笑って――笑って!――自分に手を差し伸べた。何か悪い物を食べたのだろうか。本心で心配しながら樊瑞は、それでも鉄壁の精神力で何とか平静を装い、彼に書類を手渡した。
「う、うむ…す、すまんな。少々紙がよれておる上に、若干悪筆なのだが――」
ぱらりと目の前で孔明が書類を捲るのに合わせ、樊瑞は自己申告をしておく。いつもならば書き直して持ってくるのだが、サニーショックにより今日ばかりはその気力もなかったので。
再提出かな、そう覚悟をしていると
「いえいえ、とんでもありません、樊瑞殿。実に完璧な報告書です。これくらいの事、大した事ではありませんよ。どうぞお気になさいますな」
再びの笑顔に、今度こそ樊瑞の背筋が凍りついた。
怖い、なんてもんじゃない。天変地異の前触れかもしれない。一体自分を放って、世界はどうなってしまったんだろう――ガタプルと震えていると、更に目の前で恐ろしい光景が繰り広げられる。
「ではカワラザキ殿、こちらをお持ち下さい。本来ならば私が足を運ばねばならぬところ、わざわざお出で頂きまして申し訳御座いません」
「いやいや、何を云うか孔明。お主は日頃より何かと忙しない身。このような事で時間を取らせるのも申し訳無いでな。気にするな」
「本当にカワラザキ殿はお心の深い――この孔明、感じいって言葉も御座いませんよ」
「なぁに、お主には敵わぬよ」
うふふ。ははは。笑い声が孔明とカワラザキの間で起こっている。労わり合う二人なんて構図は、とんでもない破壊力だった。
樊瑞は『関わりたく無い!』と心を決めると、挨拶も早々にその場を立ち去る。あの二人の間にどんな思惑があるのかは知らないが、狐と狸のバカし合いに付き合って、寿命を縮めるのはゴメンだと思いながら。
しかし、孔明の執務室を出たところで悪夢が覚める訳ではなかった。ちらりと寄ったラウンジでは、寄ると触ると小競り合いばかりのレッドとヒィッツカラルドがにこやかに談笑し(しかも美辞麗句を連ねているのではなく、本心から互いを称え合っているように聞こえた)、その光景に恐れをなして立ち去れば今度は廊下でイワンとローザが腕を組み、楽しげに歩いているのを発見してしまう。
どうなっているのだ。ほんの少しの転寝の間に、自分は異世界へと――普段と全く逆の感情で構成されている世界へと迷い込んでしまったのだろうか。
ほうほうの体で執務室へとこけつまろびつしつつ帰ると――そこには
「ざっ…残月っ…!」
表情の読めない彼を、これほど有り難く思った事があろうか。半ば縋り付くように樊瑞は残月に泣きついた。
「一体何が起こっておるのだっ!頼む、お主が誠に残月ならば――儂が誠に『儂』であるとするならば、状況を説明してくれ!!」
耐え切れない――確かにカワラザキ翁と孔明の仲の悪さ(勿論自分と孔明の場合も含める)、レッドとヒィッツカラルドの小競り合い、イワンとローザの確執、そういったものに自分は普段から心を痛めてきた。
けれど慣れとは恐ろしいもので、いざ願い通りに上手く纏まってしまうと――怖いのだ。
良い、今までのままで良い。だから平穏を返して欲しい。
ひーん、と泣き付くと、ふとマスクの美丈夫が空気を震わせた。
――笑っている、らしい。
「ざ…残月?」
「樊瑞…そう云えばお前はここ一月程留守にしていたのだったな」
くっくっ…と肩を揺らしながらぽむ、と宥めるように頭を撫でられ、樊瑞は戸惑いながらもやや安堵した。これは、間違いなく残月だ。様子に変わったところも見られない。
尤も、サニーもカワラザキも、最初は『変わっている』ようには見えなかったのだが。
「まぁ落ち着け、樊瑞。ゆっくりと深呼吸をしてから、今日が一体いつなのか思い出してみろ」
云われるままに樊瑞は深い呼吸を繰り返して――そして残月の『ヒント』通り、今日の日付を思い出す。先程カレンダーを捲ったばかりだから記憶に新しい。
今日は――4月の1日、だ。
――4月1日?
「……え…?」
「お前が作戦に出ている間にな、毎度の事ながらビッグファイア様からの下知が飛んだんだ。――あのクリスマスやヴァレンタインの大騒動の時と同じ様に、な」
「……何…?」
曰く、4月1日は全世界的に『嘘をつく日』に認定されている。我々BF団も、何れは世界征服をする身なれば、このような行事は進んで取り入れるべきだ――。あの主の云いように、誰が反対出来るだろうか。
BF団は、策士をも含め皆ペテンの集団と化し、お陰で樊瑞は、異世界に迷い込んだかのような混乱を来たしたのである。先程見た光景は、何もかもが嘘偽りだったのだ。
「万愚節…か……?」
「その通りだ」
これは『嘘』じゃないからな、と笑った残月に、安堵と脱力でへなへなと樊瑞は膝を折った。
良かった、嘘で。
十傑集のリーダーとしての矜持を保とう、と意識していなければ、きっと泣き崩れてしまったに違いない。両膝をぺたんと床につくという、今でも十分に情けない格好でほぅ…と息をついて樊瑞は、はっとある事に気付く。
サニーが自分に向かって『大嫌い』と云ったのは万愚節の一環だとすれば、彼女の気持ちは――。
「ざ、残月」
「何だ?」
「すまん、用件は後回しにしてくれ!儂は行かねばならん!!」
云うや否や、彼の用件も、序でに返事も聞かずに部屋を飛び出す。向かうはサニーの居室。
彼女の言葉が『嘘』だとすれば、彼女がその言葉に乗せて云いたかった感情は。
そして――自分は。
「サニー!!」
ばたんっ!とドアを蹴破らん勢いで開けると、樊瑞はずかずかと部屋に入っていった。
目当ての人物は窓際のロッキングチェアで本を読んでいる――。
「お…おじ様?どうなさいましたの?慌てて…」
「サニー!」
「きゃあっ!」
わしっ!と肩を掴んでぐいと彼女を引き寄せると、樊瑞は彼女の顔を無理矢理自分の胸に預けさせ、そして――云った。
「儂も…お前が『大嫌い』だぞ、サニー…」
「お…じ様…」
きゅう、と背中にサニーの腕が廻される。温もりがゆっくりと伝染してくる。
嘘で、本当に良かった。この幸せこそが『嘘』でなくて良かった。
何よりも自分を幸せにしてくれる存在が、自分を否定しているのでなくて、本当に良かった。
こんな少女に自分を委ねているという事実は少し情けなくもあるけれど。
でも情けなくて良い。感情を左右する程の大きな存在。それがすぐ傍らにあるという事。
その存在が自分と同じ気持ちでいてくれるという事。
矜持も、自尊心も、何もかもどうでも良くなる。
「…ふふっ…」
「……ははは…」
顔を起こし、眼と眼を見交わして――擽ったく眼を細めて二人は抱き合ったまま笑った。
少女の部屋の掛け時計が、軽やかなワルツを奏でながら正午を告げる。
おりしも窓の外ではほろほろと櫻のはなびらが、廻りながら散っていた。
まるで――二人と――世界と一緒にダンスをしているように。
◇◆◇
甚だしく余談ではあるのだが。
「…残月、これは?」
「孔明が持ってきた。一両日中に手直しして持ってこなかったら、必ずひどい目に合わせる、と云っていたぞ」
誤解が解け、機嫌良く執務室に戻った樊瑞を出迎えたのが、残月と――先刻『万愚節』中に孔明に提出した筈の、大量の報告書であった事は、云うまでも無い。
『万愚節』の期限は午前中だったな――そんな事を思い出しながら樊瑞は、書類のリライトに勤しむのであった。
■おわり■
2000HIT代替リクは相方さんから。樊サニでした。ちゃんと樊サニになっているかは謎です。
個人的ににこにこ策士様が書けて幸せだった一品。阿呆です…すみません。