貝と少女と父親たちと
袖口にレースがあしらわれた真っ白なワンピースを揺らし、夢中になって砂浜に打ち上げられた貝殻を集めている。少女の白い肌を日差しから守る大きなつばの麦わら帽子が風に飛ばされ、ロイヤルミルクティの巻き毛が踊った。
少女の後ろにいたセルバンテスが砂浜につばを立てて転がる麦わら帽子を軽やかに捕まえた。
「はい、サニーちゃん」
「あ、セルバンテスのおじさま、ありがとうございます」
笑顔で差し出せば少女は先月5歳になったばかりだというのに大人がするような丁寧なお辞儀をして麦わら帽子を受け取った。ボリュームのある巻き毛を押さえつけるように麦わら帽子を被るが、また風に飛ばされそうだ。
「いっぱい集めたねぇ、お土産に持って帰るのかい?」
「はい、皆さんに」
少女の言う皆さんというのは自分の同僚たちなのであるが。セルバンテスは小さな手から零れ落ちそうな貝殻に目をやった。様ざまな形の様ざまな色、それはちょっとした宝石のようでもあった。なんとなく誰がどの貝殻をこの少女から受け取るのか想像してみる。
ここはエーゲ海に囲まれた無人島。大富豪オイル・ダラーことセルバンテスの彼の莫大な個人資産で手に入れた小さな島。生い茂る緑は日を浴びて輝き、オリーブを実らせる、遠浅が続き緩やかな波は混じりけのない白い砂浜を洗う、喧騒であふれる俗世間から切り取ったかのような穏やかな島。つまり、貴重な休日を楽しむには最高の場所だった。
海からの風をテラコッタ色の肌に受け、心地良さげにセルバンテスは腕を伸ばし身体を大きく反らせた。彼のトレードマークと言うべきゴーグルも白いクフィーヤも今日ばかりは身に付けていない、ライトグレーのサマーセーターと綿と麻の七分丈のチノパン、足元はスケルトンタイプのビニルサンダル。そして色の薄いサングラス。ダラーでもなくBF団のセルバンテスでもない、今日は少女のおじさんだった。
「いやいやここを買って正解だったね。おーいアルベルト、君もこっちへ来てはどうだね、風が気持ちいいぞぉ」
少女の父親である彼の友人は大きな日陰を作るパラソルの下、ラタン製の長いすに身を横たえ英字新聞を広げている。ボタンをひとつ開けた薄いスカイブルーのシャツに黒の綿スラックス、皮のサンダルは無造作に長いすの下で重なっている。セルバンテスの声にアルベルトは少しだけ顔をあげ眉も上げたが彼の意見は却下されたらしく再び新聞へと顔が戻された。
「やれやれ、せっかくの親子の休日だというのに、ねぇサニーちゃん」
苦笑して少女の貝拾いを手伝うことにした。
優しく砂浜を撫でる波。
鼻をくすぐる潮の香り。
宝石を集める少女の手。
ゆっくりとした時間が流れる。
これがいつもの日常なのではないかと錯覚しそうなほど穏やかな時間だった、
「サニー様、セルバンテス様お茶の用意が整いました」
声をかけられ後ろを振り向けば、パラソルの下にあった丸いテーブルはいつの間にか海と同じブルーのテーブルクロスを被り、揃えられたカップからは湯気が立っていた。
「イワン君、君もせっかくの休日なのだからそんなことまでしなくてもいいのだよ?」
律儀で忠実なアルベルトの部下を笑って嗜めるがイワンは手際よく紅茶を注ぐ。
「いえ、私は十分休日を楽しませていただいております。さ、どうぞアルベルト様とセルバンテス様にはダージリンをサニー様にはレモネードをご用意いたしました」
「まぁ、私としてはイワン君がいれてくれた美味しーい紅茶を飲めるのは嬉しいんだけどね。それじゃサニーちゃんお茶にしようか」
「はい」
麦わら帽子に入れられた色とりどりの宝石を大事そうに少女は抱える。それを落さないようにテーブルへと駆けより、紅茶を飲む父親の前に差し出した。
アルベルトは相変わらず眉間に険の入った顔で麦わら帽子に収められた貝殻に視線を落した。少女は照れたような笑顔で父親の反応を期待していたが父親にとって貝殻は何ら興味が湧く対象ではなかった。見せられたところでどう反応していいのかわからない。
「貝殻か」
見たままのとおりの事だけを言う。素っ気無い反応でも嬉しかったらしく少女は笑顔で頷いた。そんな親子のやりとりを横で眺めていたセルバンテスは小さく溜息をついた。
親子らしい会話をすることもない、顔を合わせることも少ない、そもそも父親から一方的に親子の縁を切られている。特殊な立場を考えれば致し方ないのかもしれないが、ともかくまっとうな親子関係を築けていない父娘2人。おせっかいを好むセルバンテスはこの2人を誘って休暇を楽しむことにした。もちろん仕事人間である父親のアルベルトは渋い顔をしてなかなか首を立てに振らなかったが半ば強引に連れて来た。
---君はもう少しサニーちゃんを可愛がりたまえよ
---あれとは親子の縁は切ってある
---それは君の都合だ、子どもには関係無い、それくらい君もわかっているはずだ
---この私に父親のまねなぞできるか
---父親なんだからまねなんかしてどうするんだい
ここまで来る前のBF団本部内での不毛なやりとりを思い出し、もう一度溜息をついた。少女は冷えたレモネードを縞模様の入ったストローで美味しそうに飲んでいる。セルバンテスと目が合いはにかんだ笑顔を向けるがそれが救いのように思えた。
アフタヌーンティーをのんびりと楽しんだ後セルバンテスはアルベルトと入れ替わり長いすに横たわって昼寝をむさぼっている。
そしてアルベルトはテーブルの上に置かれているたくさんの貝殻をなんとなく摘み上げる。平べったい二枚貝、トゲのようなものを纏った貝、薄い桜色の小さな貝・・・そしてヤドカリを宿した巻貝。その小さなヤドカリは険の入ったアルベルトの機嫌を伺うかのように巻貝から顔を出したり引っ込めたりしている。それを何度か繰り返し、テーブルに置かれたアルベルトの指に向ってのっそりと歩み出した。
---ふん
海に目をやれば娘は彼の部下の男と一緒に波打ち際を歩いていた。何が楽しいのか娘は上気した顔を輝かせ、夢中に波を追いかけている。そして部下の男はそれを見守るように微笑んでいる。
あの部下の位置に本来ならば自分がいるはずなのだろうか、そして、ああして笑って見守っているのだろうか。遠い、他人事のような光景をアルベルトはぼんやりとした不思議な気持ちで見つめていた。自分にあんなまねができるわけもない。できる人間であるはずがない。
ぴーぴーぴー
突如長いすにかけられた無線にコールが入り、アルベルトの思考は絶たれた。
無線を取ったのは眠っているはずのセルバンテスだった。
「現在この無線は使われておりません、もう一度番号を・・・」
機械音を気取っているのか妙な口調で応答している。しかしコールを送った主はまったく無視して常と変わらぬ態度でいるのが目に見えるようだった。
『お休みのところ申し訳無いのですがイスタンブールへアルベルト殿と共に大至急飛んでいただきたい』
「・・・君ね、死ぬ思いしてようやく取った休暇、まだ三日あるの忘れたのかね。年のせいで物忘れがひどくなったのかい、それに申し訳無いなんて微塵も思っちゃいないだろう」
『ええ、ええ、覚えておりますとも。そんなことより作戦を完了された幽鬼殿が撤収中に国際警察機構の九大天王のうち「豹子頭林冲」「ディック牧」の2名に追跡を受け現在交戦しております。いかに十傑と言えど九大天王2人を相手には・・・』
「ちょっと待て、千手先を読む男が九大天王の動向を知らずに幽鬼一人に任務を遂行させたわけか?」
『ふふふ、私としたことが読み間違えましたかな?それでは至急幽鬼殿の救援、頼みましたぞ』
会話が最後まで続かないうちに無線はプッツリと切れた。
「孔明め、せっかっくの休暇を・・・」
GPS機能を搭載し、地球上の先端を行くBF団の技術で作られた無線はセルバンテスの手から発せられた熱によって溶解した。
「孔明はご丁寧に迎えまで遣したらしいぞ」
アルベルトが顎をしゃくった方を見やればパラソルの影から頭を覗かせ音も無く現れた甲冑姿の赤マント、そして無表情の鉄仮面。セルバンテスは呆れて頭を振る。
「エンシャク・・・君ほど青い海と白い砂浜が似合わない奴もいないよ・・・」
コ・エンシャクはセルバンテスの嘆きやアルベルトのトゲのある視線をまったく意に介さないで青い海と白い砂浜をバックに無言でただそこにいる。
異変を察知したのか砂浜で遊んでいた2人が駆け寄ってきた。
「おしごと?」
少女が曇った表情で遠慮がちに訪ねる。
「うーん・・・ごめんよサニーちゃん、お父さんと2人でちょーっとだけお仕事に行って来るよ。なぁにディナーまでには帰ってくるから、皆で一緒に美味しい料理を食べようね。だから安心してイワン君と遊んでいてくれたまえ」
「アルベルト様、セルバンテス様。サニー様は私にお任せください」
「うむ、任せたよ」
コ・エンシャクが両の手を高く上げるとマントが左右に大きく広がる。闇色のその内側にセルバンテスは身を埋めた。アルベルトは俯いている娘を横目に見る。自分も何か言うべきなのか迷ったが、彼もまた戦場へと赴くべくマントに身を埋めた。
「すぐ戻る」
たった一言だけ、娘に言い残して。
マントを巻きつけるように回るとコ・エンシャクはパラソルの影に沈んでいった。
今回の作戦で国際警察機構が雄、梁山泊の九大天王が相手になるのは聞いてはいない、ましてや十傑と唯一互角に渡り合える彼らが二人も同時に。幽鬼は間髪いれず繰り出される棒術の嵐と、電撃・衝撃・火炎・催眠など性質の異なる多様な攻撃が入り乱れる中、防戦を強いられている状況に歯噛みした。何度も己の身を羽虫の群れに変えては敵を翻弄し、ギリギリのところで攻撃をかわしてはいたがディックの火炎が身を焼き、林冲の棒が脇を掠めて流血。孤軍奮闘していた十傑はついに地に膝をついた。
九大天王の両名は2対1という十傑を凌ぐ滅多にない状況を逃すつもりはない。しつこく追いまわし、この際最強と謳われる十傑集を捕縛するつもりでいる。林冲が天高く棒を投げるとそれは瞬く間に七本に分散し幽鬼を囲むように地に突き刺さった。
「ディック!今だ、奴をを捕らえるぞ」
呼びかけに呼応してディックは電撃を放つと。幽鬼を囲む七本の棒に避雷針の如く落雷。しかしその一瞬、切り裂くような7発の銃声とともに7本の棒が全て折れた。
「そこまでにしてもらおうか、国際警察機構の諸君」
鉄のモーゼルからあがる細い紫煙。セルバンテスは休暇モードから一転、純白のクフィーヤとゴーグル、ドクロが染め抜かれた黒のネクタイを形良く締めた「いつもの」スーツスタイルで鉄塔の先から身を躍らせた。
「貴様、十傑集・眩惑のセルバンテス!」
「いやはや・・・正義の国際警察機構が2対1とは、少々卑怯ではないのかね?」
犬歯を剥いて敵に挑戦的な笑みをぶつけ、悠然と肩で息をする幽鬼のもとに立った。
「眩惑の・・・どうした休日出勤とは随分仕事熱心ではないか」
「だろう?うふふ・・・参ったよ、青い海と冷えたビールが恋しくて仕方がない」
「ならば孔明に注文するんだな、生憎ここには無いぞ」
クフィーヤを大きく翻し手負いの幽鬼を包みこむ、そして地を蹴り高く飛翔する。それを追う九大天王の2人も高く飛翔した、しかし彼らは真横からの衝撃波を受け鉄筋コンクリートに激しく叩き付けられた。2人を中心に放射線状にヒビが入り小さく吐血したが直に衝撃波が放たれた方向に身を構える。
「衝撃のアルベルト!」
アルベルトもまた黒スーツに身を包み、ネクタイを完璧な形に締め上げた「いつもの」のスタイル。両の腕には赤黒い衝撃の奔流が不気味に纏わりついている。口に咥えられた葉巻の先が鋭い小さな音とともにこそげ落ち、そこに火が点く。うまそうに紫煙を吐き出すが赤い目は敵を射殺すように睨む。
「さあどうする、これで2対3だ」
「・・・っく・・・十傑集が3人とは」
気がつけば3人に囲まれる形となっていた。九大天王の2人にとって絶好の好機が一転、深刻な不利的状況に陥ってしまった。
「これ以上貴様らとやりあうつもりはない、用は済んだのだから撤収させてもらうぞ」
幽鬼の口笛が鋭く鳴ると黒い絨毯のような羽虫の群れが2人の視界を遮った。その場から離れようとしたがディックと林冲の足に鞭が絡まる。足元を見ると影から赤マントの怪人がぬるりと姿を現した。
高度2千メートルを維持しながら、BF団の小型飛空挺はトルコとエーゲ海に挟まれたダーダネルス海峡を抜けようとしていた。
無機質な機器類で覆われている船内の一室、幽鬼はスーツの上着を脱ぎ脇腹の傷口に羽虫を集めていた。唸りのような羽音とともに羽虫は傷に溶け込んでいく、どうやら治癒しているらしい。その様子を見ながらセルバンテスは思考をめぐらす。
孔明はおそらく、いや確実に今回の状況を読んでいたに違いない。国際警察機構にとってまたとない十傑捕縛の好機、人数的有利から徹底的に追い攻め立てる。しかし突如新たな十傑2名が出現したことで奴等の深追いを防いだ。奴等とて馬鹿ではない、好機が一転し読めない状況化に陥った中撤収する我々と無用な交戦を行う必要はない。そしてエンシャクの影を使って駆ければ自分たちが休暇を楽しむ位置からは半時で救援に向かえる。その程度の時間なら幽鬼も不利な状況化でも持ちこたえることはできる。距離とタイミングを計った上で最初から自分たち2人を途中投入する予定でいたのだろう。もちろん休暇中であることなどおかまいなしであるが。
やはり孔明は全て把握したうえで作戦を立てていた。
ただ、相変わらず作戦情報の一部を、その肝心な部分を知らせる事はない。
休暇が明けたらどうやって孔明に嫌がらせをしてやろうか。せっかくの貴重な時間を事も無げに潰してくれた白面の策士、そして彼の人を見下したかのような笑みが頭に浮かぶ。セルバンテスは苦々しげに口の端を上げた。
「おい、エンシャクいるんだろう。出て来い」
アルベルトは短くなった葉巻を手で揉み潰し小さな衝撃波で塵に変えた。少し煤けたスーツの上着を脱ぎ、そしてそれを計器類の影から現れたコ・エンシャクに無造作に投げつけた。スーツを頭から被る形となったコ・エンシャクは相変わらず動じることもない。アルベルトはさらに手早くネクタイを緩め、遠慮無しにそれもまた投げつけた。
「先に行ってるぞ」
そう言うや否や飛空挺のドアロックを解除し、アルベルトは何ら躊躇することなく高度2千メートルの空に落ちていった。
あっという間に消えたアルベルト。
唖然とするセルバンテスと幽鬼が顔を見合わせる。
「くはははは、お父さん忙しいねぇ『すぐ戻る』なんて言っちゃったからかな。さて、私も休暇の続きを楽しむとするとしようか。エンシャク、クリーニングに出しておいてくれたまえ」
愉快そうに笑いながらセルバンテスもまた薄汚れてしまったクフィーヤを脱ぎ捨てゴーグルと一緒にアルベルトの黒スーツを頭から被ったコ・エンシャクに引っ掛ける。スーツの上着にドクロのネクタイも容赦無くその上から被せて「それじゃ」と幽鬼に手を振って背後から空に身を預けた。
幽鬼は無言で佇む洋服掛けにたまらず吹きだす。
そして自分のスーツの上着も引っ掛けてやった。
夕日がエーゲの海に沈んでいく。
白い砂浜がゆっくりと朱に染まる。
夕日が沈みきる前に帰りを待つ少女の笑顔が輝いた。
「エンシャク殿、なんですかなその格好は」
けったいな物でも見るかのように白羽扇で口元を隠し目を歪ませる。自分の目の前に現れた甲冑の赤マントは洋服掛けの姿のまま孔明の前に立っていた。無造作に頭から掛けられた戦いの余韻が残るスーツ、ネクタイ、クフィーヤ、一目してそれらが誰のものであるかわかる。
「まったく・・・」
汚い物でも触るように指で摘んで積み重なったスーツをめくる。ふと、黒スーツのポケットに何か小さな固まりがあるのに気づく。孔明はなんとなく手を入れて探ってみた。
「・・・!」
指先にわずかな痛みが走った。
ポケットから手を取り出してみる。
小さなヤドカリが小さな小さな鋏で孔明の指を挟んでいた。
END
袖口にレースがあしらわれた真っ白なワンピースを揺らし、夢中になって砂浜に打ち上げられた貝殻を集めている。少女の白い肌を日差しから守る大きなつばの麦わら帽子が風に飛ばされ、ロイヤルミルクティの巻き毛が踊った。
少女の後ろにいたセルバンテスが砂浜につばを立てて転がる麦わら帽子を軽やかに捕まえた。
「はい、サニーちゃん」
「あ、セルバンテスのおじさま、ありがとうございます」
笑顔で差し出せば少女は先月5歳になったばかりだというのに大人がするような丁寧なお辞儀をして麦わら帽子を受け取った。ボリュームのある巻き毛を押さえつけるように麦わら帽子を被るが、また風に飛ばされそうだ。
「いっぱい集めたねぇ、お土産に持って帰るのかい?」
「はい、皆さんに」
少女の言う皆さんというのは自分の同僚たちなのであるが。セルバンテスは小さな手から零れ落ちそうな貝殻に目をやった。様ざまな形の様ざまな色、それはちょっとした宝石のようでもあった。なんとなく誰がどの貝殻をこの少女から受け取るのか想像してみる。
ここはエーゲ海に囲まれた無人島。大富豪オイル・ダラーことセルバンテスの彼の莫大な個人資産で手に入れた小さな島。生い茂る緑は日を浴びて輝き、オリーブを実らせる、遠浅が続き緩やかな波は混じりけのない白い砂浜を洗う、喧騒であふれる俗世間から切り取ったかのような穏やかな島。つまり、貴重な休日を楽しむには最高の場所だった。
海からの風をテラコッタ色の肌に受け、心地良さげにセルバンテスは腕を伸ばし身体を大きく反らせた。彼のトレードマークと言うべきゴーグルも白いクフィーヤも今日ばかりは身に付けていない、ライトグレーのサマーセーターと綿と麻の七分丈のチノパン、足元はスケルトンタイプのビニルサンダル。そして色の薄いサングラス。ダラーでもなくBF団のセルバンテスでもない、今日は少女のおじさんだった。
「いやいやここを買って正解だったね。おーいアルベルト、君もこっちへ来てはどうだね、風が気持ちいいぞぉ」
少女の父親である彼の友人は大きな日陰を作るパラソルの下、ラタン製の長いすに身を横たえ英字新聞を広げている。ボタンをひとつ開けた薄いスカイブルーのシャツに黒の綿スラックス、皮のサンダルは無造作に長いすの下で重なっている。セルバンテスの声にアルベルトは少しだけ顔をあげ眉も上げたが彼の意見は却下されたらしく再び新聞へと顔が戻された。
「やれやれ、せっかくの親子の休日だというのに、ねぇサニーちゃん」
苦笑して少女の貝拾いを手伝うことにした。
優しく砂浜を撫でる波。
鼻をくすぐる潮の香り。
宝石を集める少女の手。
ゆっくりとした時間が流れる。
これがいつもの日常なのではないかと錯覚しそうなほど穏やかな時間だった、
「サニー様、セルバンテス様お茶の用意が整いました」
声をかけられ後ろを振り向けば、パラソルの下にあった丸いテーブルはいつの間にか海と同じブルーのテーブルクロスを被り、揃えられたカップからは湯気が立っていた。
「イワン君、君もせっかくの休日なのだからそんなことまでしなくてもいいのだよ?」
律儀で忠実なアルベルトの部下を笑って嗜めるがイワンは手際よく紅茶を注ぐ。
「いえ、私は十分休日を楽しませていただいております。さ、どうぞアルベルト様とセルバンテス様にはダージリンをサニー様にはレモネードをご用意いたしました」
「まぁ、私としてはイワン君がいれてくれた美味しーい紅茶を飲めるのは嬉しいんだけどね。それじゃサニーちゃんお茶にしようか」
「はい」
麦わら帽子に入れられた色とりどりの宝石を大事そうに少女は抱える。それを落さないようにテーブルへと駆けより、紅茶を飲む父親の前に差し出した。
アルベルトは相変わらず眉間に険の入った顔で麦わら帽子に収められた貝殻に視線を落した。少女は照れたような笑顔で父親の反応を期待していたが父親にとって貝殻は何ら興味が湧く対象ではなかった。見せられたところでどう反応していいのかわからない。
「貝殻か」
見たままのとおりの事だけを言う。素っ気無い反応でも嬉しかったらしく少女は笑顔で頷いた。そんな親子のやりとりを横で眺めていたセルバンテスは小さく溜息をついた。
親子らしい会話をすることもない、顔を合わせることも少ない、そもそも父親から一方的に親子の縁を切られている。特殊な立場を考えれば致し方ないのかもしれないが、ともかくまっとうな親子関係を築けていない父娘2人。おせっかいを好むセルバンテスはこの2人を誘って休暇を楽しむことにした。もちろん仕事人間である父親のアルベルトは渋い顔をしてなかなか首を立てに振らなかったが半ば強引に連れて来た。
---君はもう少しサニーちゃんを可愛がりたまえよ
---あれとは親子の縁は切ってある
---それは君の都合だ、子どもには関係無い、それくらい君もわかっているはずだ
---この私に父親のまねなぞできるか
---父親なんだからまねなんかしてどうするんだい
ここまで来る前のBF団本部内での不毛なやりとりを思い出し、もう一度溜息をついた。少女は冷えたレモネードを縞模様の入ったストローで美味しそうに飲んでいる。セルバンテスと目が合いはにかんだ笑顔を向けるがそれが救いのように思えた。
アフタヌーンティーをのんびりと楽しんだ後セルバンテスはアルベルトと入れ替わり長いすに横たわって昼寝をむさぼっている。
そしてアルベルトはテーブルの上に置かれているたくさんの貝殻をなんとなく摘み上げる。平べったい二枚貝、トゲのようなものを纏った貝、薄い桜色の小さな貝・・・そしてヤドカリを宿した巻貝。その小さなヤドカリは険の入ったアルベルトの機嫌を伺うかのように巻貝から顔を出したり引っ込めたりしている。それを何度か繰り返し、テーブルに置かれたアルベルトの指に向ってのっそりと歩み出した。
---ふん
海に目をやれば娘は彼の部下の男と一緒に波打ち際を歩いていた。何が楽しいのか娘は上気した顔を輝かせ、夢中に波を追いかけている。そして部下の男はそれを見守るように微笑んでいる。
あの部下の位置に本来ならば自分がいるはずなのだろうか、そして、ああして笑って見守っているのだろうか。遠い、他人事のような光景をアルベルトはぼんやりとした不思議な気持ちで見つめていた。自分にあんなまねができるわけもない。できる人間であるはずがない。
ぴーぴーぴー
突如長いすにかけられた無線にコールが入り、アルベルトの思考は絶たれた。
無線を取ったのは眠っているはずのセルバンテスだった。
「現在この無線は使われておりません、もう一度番号を・・・」
機械音を気取っているのか妙な口調で応答している。しかしコールを送った主はまったく無視して常と変わらぬ態度でいるのが目に見えるようだった。
『お休みのところ申し訳無いのですがイスタンブールへアルベルト殿と共に大至急飛んでいただきたい』
「・・・君ね、死ぬ思いしてようやく取った休暇、まだ三日あるの忘れたのかね。年のせいで物忘れがひどくなったのかい、それに申し訳無いなんて微塵も思っちゃいないだろう」
『ええ、ええ、覚えておりますとも。そんなことより作戦を完了された幽鬼殿が撤収中に国際警察機構の九大天王のうち「豹子頭林冲」「ディック牧」の2名に追跡を受け現在交戦しております。いかに十傑と言えど九大天王2人を相手には・・・』
「ちょっと待て、千手先を読む男が九大天王の動向を知らずに幽鬼一人に任務を遂行させたわけか?」
『ふふふ、私としたことが読み間違えましたかな?それでは至急幽鬼殿の救援、頼みましたぞ』
会話が最後まで続かないうちに無線はプッツリと切れた。
「孔明め、せっかっくの休暇を・・・」
GPS機能を搭載し、地球上の先端を行くBF団の技術で作られた無線はセルバンテスの手から発せられた熱によって溶解した。
「孔明はご丁寧に迎えまで遣したらしいぞ」
アルベルトが顎をしゃくった方を見やればパラソルの影から頭を覗かせ音も無く現れた甲冑姿の赤マント、そして無表情の鉄仮面。セルバンテスは呆れて頭を振る。
「エンシャク・・・君ほど青い海と白い砂浜が似合わない奴もいないよ・・・」
コ・エンシャクはセルバンテスの嘆きやアルベルトのトゲのある視線をまったく意に介さないで青い海と白い砂浜をバックに無言でただそこにいる。
異変を察知したのか砂浜で遊んでいた2人が駆け寄ってきた。
「おしごと?」
少女が曇った表情で遠慮がちに訪ねる。
「うーん・・・ごめんよサニーちゃん、お父さんと2人でちょーっとだけお仕事に行って来るよ。なぁにディナーまでには帰ってくるから、皆で一緒に美味しい料理を食べようね。だから安心してイワン君と遊んでいてくれたまえ」
「アルベルト様、セルバンテス様。サニー様は私にお任せください」
「うむ、任せたよ」
コ・エンシャクが両の手を高く上げるとマントが左右に大きく広がる。闇色のその内側にセルバンテスは身を埋めた。アルベルトは俯いている娘を横目に見る。自分も何か言うべきなのか迷ったが、彼もまた戦場へと赴くべくマントに身を埋めた。
「すぐ戻る」
たった一言だけ、娘に言い残して。
マントを巻きつけるように回るとコ・エンシャクはパラソルの影に沈んでいった。
今回の作戦で国際警察機構が雄、梁山泊の九大天王が相手になるのは聞いてはいない、ましてや十傑と唯一互角に渡り合える彼らが二人も同時に。幽鬼は間髪いれず繰り出される棒術の嵐と、電撃・衝撃・火炎・催眠など性質の異なる多様な攻撃が入り乱れる中、防戦を強いられている状況に歯噛みした。何度も己の身を羽虫の群れに変えては敵を翻弄し、ギリギリのところで攻撃をかわしてはいたがディックの火炎が身を焼き、林冲の棒が脇を掠めて流血。孤軍奮闘していた十傑はついに地に膝をついた。
九大天王の両名は2対1という十傑を凌ぐ滅多にない状況を逃すつもりはない。しつこく追いまわし、この際最強と謳われる十傑集を捕縛するつもりでいる。林冲が天高く棒を投げるとそれは瞬く間に七本に分散し幽鬼を囲むように地に突き刺さった。
「ディック!今だ、奴をを捕らえるぞ」
呼びかけに呼応してディックは電撃を放つと。幽鬼を囲む七本の棒に避雷針の如く落雷。しかしその一瞬、切り裂くような7発の銃声とともに7本の棒が全て折れた。
「そこまでにしてもらおうか、国際警察機構の諸君」
鉄のモーゼルからあがる細い紫煙。セルバンテスは休暇モードから一転、純白のクフィーヤとゴーグル、ドクロが染め抜かれた黒のネクタイを形良く締めた「いつもの」スーツスタイルで鉄塔の先から身を躍らせた。
「貴様、十傑集・眩惑のセルバンテス!」
「いやはや・・・正義の国際警察機構が2対1とは、少々卑怯ではないのかね?」
犬歯を剥いて敵に挑戦的な笑みをぶつけ、悠然と肩で息をする幽鬼のもとに立った。
「眩惑の・・・どうした休日出勤とは随分仕事熱心ではないか」
「だろう?うふふ・・・参ったよ、青い海と冷えたビールが恋しくて仕方がない」
「ならば孔明に注文するんだな、生憎ここには無いぞ」
クフィーヤを大きく翻し手負いの幽鬼を包みこむ、そして地を蹴り高く飛翔する。それを追う九大天王の2人も高く飛翔した、しかし彼らは真横からの衝撃波を受け鉄筋コンクリートに激しく叩き付けられた。2人を中心に放射線状にヒビが入り小さく吐血したが直に衝撃波が放たれた方向に身を構える。
「衝撃のアルベルト!」
アルベルトもまた黒スーツに身を包み、ネクタイを完璧な形に締め上げた「いつもの」のスタイル。両の腕には赤黒い衝撃の奔流が不気味に纏わりついている。口に咥えられた葉巻の先が鋭い小さな音とともにこそげ落ち、そこに火が点く。うまそうに紫煙を吐き出すが赤い目は敵を射殺すように睨む。
「さあどうする、これで2対3だ」
「・・・っく・・・十傑集が3人とは」
気がつけば3人に囲まれる形となっていた。九大天王の2人にとって絶好の好機が一転、深刻な不利的状況に陥ってしまった。
「これ以上貴様らとやりあうつもりはない、用は済んだのだから撤収させてもらうぞ」
幽鬼の口笛が鋭く鳴ると黒い絨毯のような羽虫の群れが2人の視界を遮った。その場から離れようとしたがディックと林冲の足に鞭が絡まる。足元を見ると影から赤マントの怪人がぬるりと姿を現した。
高度2千メートルを維持しながら、BF団の小型飛空挺はトルコとエーゲ海に挟まれたダーダネルス海峡を抜けようとしていた。
無機質な機器類で覆われている船内の一室、幽鬼はスーツの上着を脱ぎ脇腹の傷口に羽虫を集めていた。唸りのような羽音とともに羽虫は傷に溶け込んでいく、どうやら治癒しているらしい。その様子を見ながらセルバンテスは思考をめぐらす。
孔明はおそらく、いや確実に今回の状況を読んでいたに違いない。国際警察機構にとってまたとない十傑捕縛の好機、人数的有利から徹底的に追い攻め立てる。しかし突如新たな十傑2名が出現したことで奴等の深追いを防いだ。奴等とて馬鹿ではない、好機が一転し読めない状況化に陥った中撤収する我々と無用な交戦を行う必要はない。そしてエンシャクの影を使って駆ければ自分たちが休暇を楽しむ位置からは半時で救援に向かえる。その程度の時間なら幽鬼も不利な状況化でも持ちこたえることはできる。距離とタイミングを計った上で最初から自分たち2人を途中投入する予定でいたのだろう。もちろん休暇中であることなどおかまいなしであるが。
やはり孔明は全て把握したうえで作戦を立てていた。
ただ、相変わらず作戦情報の一部を、その肝心な部分を知らせる事はない。
休暇が明けたらどうやって孔明に嫌がらせをしてやろうか。せっかくの貴重な時間を事も無げに潰してくれた白面の策士、そして彼の人を見下したかのような笑みが頭に浮かぶ。セルバンテスは苦々しげに口の端を上げた。
「おい、エンシャクいるんだろう。出て来い」
アルベルトは短くなった葉巻を手で揉み潰し小さな衝撃波で塵に変えた。少し煤けたスーツの上着を脱ぎ、そしてそれを計器類の影から現れたコ・エンシャクに無造作に投げつけた。スーツを頭から被る形となったコ・エンシャクは相変わらず動じることもない。アルベルトはさらに手早くネクタイを緩め、遠慮無しにそれもまた投げつけた。
「先に行ってるぞ」
そう言うや否や飛空挺のドアロックを解除し、アルベルトは何ら躊躇することなく高度2千メートルの空に落ちていった。
あっという間に消えたアルベルト。
唖然とするセルバンテスと幽鬼が顔を見合わせる。
「くはははは、お父さん忙しいねぇ『すぐ戻る』なんて言っちゃったからかな。さて、私も休暇の続きを楽しむとするとしようか。エンシャク、クリーニングに出しておいてくれたまえ」
愉快そうに笑いながらセルバンテスもまた薄汚れてしまったクフィーヤを脱ぎ捨てゴーグルと一緒にアルベルトの黒スーツを頭から被ったコ・エンシャクに引っ掛ける。スーツの上着にドクロのネクタイも容赦無くその上から被せて「それじゃ」と幽鬼に手を振って背後から空に身を預けた。
幽鬼は無言で佇む洋服掛けにたまらず吹きだす。
そして自分のスーツの上着も引っ掛けてやった。
夕日がエーゲの海に沈んでいく。
白い砂浜がゆっくりと朱に染まる。
夕日が沈みきる前に帰りを待つ少女の笑顔が輝いた。
「エンシャク殿、なんですかなその格好は」
けったいな物でも見るかのように白羽扇で口元を隠し目を歪ませる。自分の目の前に現れた甲冑の赤マントは洋服掛けの姿のまま孔明の前に立っていた。無造作に頭から掛けられた戦いの余韻が残るスーツ、ネクタイ、クフィーヤ、一目してそれらが誰のものであるかわかる。
「まったく・・・」
汚い物でも触るように指で摘んで積み重なったスーツをめくる。ふと、黒スーツのポケットに何か小さな固まりがあるのに気づく。孔明はなんとなく手を入れて探ってみた。
「・・・!」
指先にわずかな痛みが走った。
ポケットから手を取り出してみる。
小さなヤドカリが小さな小さな鋏で孔明の指を挟んでいた。
END
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