『地平線の向こうへ』<3>
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ぐるぐるぐるぐる。
ひたすら逃げ回っている。――そんなつもりは、断じてなかった。
彼は挑戦を宗とする男だし、実際今までどんな困難な状況に陥っても諦めなかった。
だから、これはただ単に元の生活へ戻ろうとしているだけなのだ。
何も無かった生活。それに戻る努力。
少ない貨物仕事をかき集めて、いろんな所へ飛んで。
現地で燃料がなくなれば、そこで日雇いの仕事で稼ぎ、ついでにまた仕事を請け負う。無くてもとりあえず帰らずに、他の場所へ旅立つ。
ボストンに来る仕事は、チャダから無線で連絡を取れば良いし、日雇いの労働は、体力には自信があるため、結構良い稼ぎになる。
そして、我が愛機――ケティにもずっと乗っていられる。…なかなか良い生活なんじゃないだろうか。
ただ、アルフレッドと叔母さんにはかなり心配をかけているようなので、暫くは彼の忠告通りボストンの家へ居ようと思っているが。
あの後、メリッサとは会っていない。
アルフレッドの話からすると、暫く店にも顔を出していないようだ。
『なかったことにしましょう』。
あの態度の意味を、彼の脳内辞書はそう単純に翻訳した。
だけど、それは本当にそうだったのだろうか。
それどころかそのセンテンスは、暗喩も含んでいて、
「二度と顔もみたくないが、一応は大人の対応をとっておく」
というニュアンスを含んでいたのかもしれない。
んなこたぁねえだろ!
自分の中に浮かんでしまった考えに、彼は思わず叫び返す。
大体、そこまで思われる理由は無いはずだ。――はずだ。
その場の勢いと酒の所為もあったものの、あの夜は合意の上だったし。…それは彼の認識の中でだけで、事実は異なっているのかもしれないが。
口頭確認は、一言もしてないのだ。だからもしかしたら――
そこまで考えて、彼は操縦桿を握ったまま、思わず顔をしかめた。
そんなことを考えるのは彼の被害妄想――そんなことは判ってる!
男としてはあるまじき余裕の無さ――判ってるってんだろ!!
10代のガキの様な苛々を沈める為、彼は悪魔の皮肉げな囁き以上の音量で叫び返す。心の中はもうぐちゃぐちゃの大変な騒ぎだ。
そんな自分にいらいらして――悪循環。
全く、なんなんだ俺は。無かった事にしたかったのは、自分もなのに。
…別に。事実に関しては、けして嫌だとは思っていないのだ。惚れた女を自分のものに出来て、嬉しくない男は居ない。
けれど。一応、彼だって――社会的立場というものを、考えていない子供でもないのである。
ソーン家、と簡単に言うが、それは結構大変な名前だ。
まず、当主である父親が某先進国大使を歴任した事もあるとかの立場の人物で。
加えて元々かなりの資産を持っているという。多分、一流新聞社交欄にもよくその名前が挙がることから、昔からの名家の系統を引いているのではないだろうか。
実際、彼女が勤めている「ボストン紙」は実質ソーン家の持ち物の一つなのだそうで。
そこの当主の一人娘といったら――立場は推して知るべし。
彼女は、本来ならば冒険なんかよりも、サロンでおしゃべりしたり花嫁修業したりしているはずの――何で新聞記者なんかやっているのか疑問に思うほどのお嬢なのである。
だからこそ、軽率な真似はできなかった。
この自由な国で、階級制度にこだわるなんてと言う人はいるかもしれないけど――純然たる溝というのは、どこの世界でも必ず存在する。
名も無い若者が、お姫様との恋を実らせてめでたしめでたし、という幻想は、御伽噺かハーレクイン小説の中だけで。自分の力だけではどうしようもないこともある。
挑戦する前から、結果は見えている事象も、世の中にはある。
いくら少年のような心をもった彼でも、そんな世界の摂理は判っているのだ。
こうなると、あのいまいましいゼロ卿でさえ羨ましく見えてくる。
あの男は善良さとか部下運とかは欠如した男だが、今、彼がメリッサを手に入れる為に必要な物は持っているのだから。
まあ、だからといって、いまさら地位とか財産とかが欲しいわけではない。
それを引き換えに、冒険と飛行機を捨てろ、といわれたら――彼は今の生活を選ぶ。
結局の所、彼女と自分は生きていく生息圏が、そして人生において目指すところが違う。
ただ、それだけなのだ。
また、そもそも彼女が自分をどう思っているかも問題だ。
たしかに、今までのことを総合して考えるに、彼女も自分のことを憎からず思っているのだと思う。
これには希望もやや入っているかもしれないが、客観的に見ても、そうだと思うのだ。
だが、彼等は普通の出会い方をしなかった。
世界各地への旅や冒険によって、彼らの距離は縮まったのだ。
ならば、世間知らずな彼女が冒険の際に感じたスリルや楽しさを、彼への好意と絶対に摩り替えていないと言えるだろうか?
人間、緊急事態が起こると近くに居る異性に急に惹かれるという。
好意は単なる勘違いで、――それと同じような現象が、彼女の上にも起こっているのではないのだろうか?
勘違いを真実と見誤って、そのままずるずると進んでいく。
そんな不幸な目に惚れた女を合わせられるほど、彼は冷血ではなかった。
だから、彼はずっとこのままで居ようと思ったのだ。
ありきたりな結論だが、これがたぶん一番の正解なのだ。
典型というのは、それが正しいからこそ皆に普遍的に使われて典型となるのだ――そんなくだらない事を思ったくらいで。
しでかしてしまった事は、もう元には返らないけれど。
お互いが忘れれば、限りなくなかった事になるのは確実。
「……」
彼は黙って、操縦桿を引く。
ぐい、と機体が傾ぎ、雲の下へ出た。
眼下には見慣れたボストンの町が広がっている。
この下にはどれだけのありきたりが詰まっているのだろう――ありきたりな結論を出した男は、そう思って苦笑を噛み殺した。
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