不謹慎のようにさえ思えた。
しかし慕う心は欺くことはできない。
考えを巡らせつづけ、眠ることが出来なかった。
――泰麒が救出されてからだ。
五体満足とは言えないが、それでも希望が一つ生まれた。
けれどなぜ。
どうしても不謹慎と感じずにはいられない。
「……李斎、まだ起きていたのか?」
「景王……」
極力足音をたてず真夜中に訪れた金波宮の主に驚く。何とか上半身を起き上がらせて李斎は視線を景王陽子へと向けた。
「どうなさいましたか?」
「ようやく落ち着いたんだ、少しだけ会おうかと」
「真夜中に、でございますか?」
「訊ねたいことがあって」
牀榻の傍らに置かれた椅子に腰掛けて息を吐く。
「李斎は……泰王を慕っているのではないか?」
「それは主上であり……」
「そうではないんだ」
李斎が泰麒のことを話す表情は柔らかく優しげなものだった。
泰王も同様で、だがそれ以上の想いを感じ取られた。
「女として」
「私は将でございます」
「想いを欺くか?」
わずかに語気を強める、覇気に李斎は身を竦ませた。
どう返答をすればよいのだろう。
無言の空気が流れ、そしてようやく口を開いた。
「想いは時満ちれば開花する……それだけです」
答えに陽子は微笑し立ち上がる。
「わかった……すまない、変な質問をして」
「いえ」
立ち去る後姿、消えようとしなその時李斎から疑問を投げかけた。
「なぜそのように思われたのですか?」
「私も慕う人物がいるからかもしれない……友がその人物を話す時の私は、本当に幸せそうな表情を浮かべると言った。李斎から泰王の話を聞いた時、幸せそうで……だからそうだと思ったんだ」
その言葉に問いかけようとしたが、許されず陽子は去っていった。
そうなのだろうか、己にはわからない、他者に感じ取れる雰囲気。
泰王――驍宗を慕っている、全てにおいて慕っている、愛されもした。
だが今は己の想いを封じる。
戴を救う、ただそれだけを考えたい。
時が満ちれば開花する。
すなわち戴が救われた時こそ、己の想いを放つ開花の時なのだ――と。
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疲労すれば自然と眠りは襲ってくるものだ。だが今は眠るわけにはいかない。
与えられた官邸、椅子に腰掛けおとなしく李斎は待ちわびていた。部下に指南を終えて、帰宅すれば幼い台輔が待っていた。笑顔で待っていて、と言われ待つこと一刻。疲れた体に眠りは容赦なく襲ってくる。
「……台輔は何をなされるのか」
愛らしい、身分に深く頓着しない台輔――泰麒は心穏やかに導いてくれる。故国では身分差は多少あるものの、ここまで差があるわけでもないようだった。
「駄目だ」
己に言い聞かせる。
しかし瞼は重く――。
扉の開ける音がした、同時に声が響き渡る。
「李斎……あれ?」
卓の上に突っ伏して眠る李斎の横顔を覗き込んだ。硬く閉じた瞳、規則正しい寝息、熟睡しているようだった。
「そんなに長く待たせたかしら?」
「疲れているのだろう」
片割れの後にやってきたのは、その主である驍宗だった。やんわりと微笑み、羽織っていた衣を李斎の背にかけた。
「先程まで指南をしていたようだからな」
「そうなんですね……ふあ……」
眠気に誘われたのか、泰麒は欠伸を漏らした。
「李斎を臥牀に寝かせよう、嵩里も眠るか?」
「でも……驚かないですか?」
「驚くかもしれんがな」
李斎を抱き上げて、臥室へと向かう。行き慣れているのはなぜなのか、と普通ならば気にするところなのだが、泰麒は気にも留めていないようだった。衾褥を捲り上げ、李斎を横たわらせた。
暖かい感触がする。どのくらい前に感じた温もりだろうか。身を全て預けて眠ってしまいたい。心地よい眠りが約束されているのだろうから。
――眠る……いや、私は!
夢から目覚めて瞳を見開き、そして凍りついた。
確か椅子に座り、台輔を待っていたはずだった。
だが今は臥牀の上に横たわり、目の前には泰麒が、頭の下には枕ではなく腕が入り込んでいた。
「主上――!」
「静かにしていろ」
耳元で囁く。吐息がかかって身じろいだ。
「よく眠っている」
「ですが、あの、その」
「動揺するな」
それは無茶な注文というものだろう。あろうことに主の腕を枕にして眠っていたのだ。焦るのは当然だ。
「慣れたものだ」
「いえ、ですが」
「――――静かに」
慌てる李斎を諌めるように囁く。
「余程疲れていたようだな」
「仙でありましても、無尽蔵ではございません」
「確かにな……」
「とにかく静かに動きます、台輔はよく眠られておりま……ぅ」
首を沿ったまま強引に口づけられる。身じろげば動いて泰麒が起きかねない。かといって、この状態が長続きするとは思えない。首も痛むが、何より理性が押さえつけられないような気がする。
「――っあ、おやめくだ……」
静かに眠る泰麒のためなのか、ただ口づけたいのか定かではない。
けれどまだ女怪の添い寝を恋しく思う泰麒に、李斎の胸の中は同様に感じられることだろう。
その時を崩さぬように。
そして偶然にも崩さぬように、口に栓をするために深い口づけを施す。
泰麒が目覚めるまでし続けよう。
瞳が開いたその時こそ、二人の甘い時も終わりを告げるのだから。
「驍宗様、どうなされたのですか?」
「それは私の言葉だな、どうしたその花束は?」
小柄な戴の麒麟、泰麒。その主である泰王驍宗は彼を嵩里と呼んだ。故国での名だ。
「これは李斎にもらったんです、今官邸に仮住まいしていて、お話に言ったんです」
「その庭の花か」
「はい」
小さな腕をいっぱいに広げて抱える、黄金色の花。慌てて花瓶を持ってやってきた女官が花を受け取った。
「ぎ……主上のお部屋にも置きますね」
「いや、いい」
「……そうですか」
しゅんと悲しくうな垂れる泰麒、そうではないと頭を撫でた。
「会う用事があるのでな。私は私の分をもらいに行こう。それに実際見渡したほうが綺麗だろう?」
「……はいっ!」
ぱあっと笑う姿が愛らしく、自然と驍宗の表情も崩れるのだった。
突然の来訪に驚いて、李斎は立ち上がった。珍しいことではないが、風呂上りのこの髪は、いくらなんでも失礼だろう。
「少し待っていただいて……主上」
女官に伝言を申し付けようと思った時には、すでに遅く主は部屋の扉の前に立っていた。
「人払いは済ませたが」
「少々お待ち下さい、髪が……」
「濡れていて何か不都合があるか?」
「主上の前では……っ!」
部屋を飛び出そうとした李斎の腕をつかむ。
「私個人としては喜ばしいのだが」
「……真面目な顔で言わないで下さい」
驍宗の微笑に李斎は頬を赤らめて答えた。
「しかし昼間から風呂か?」
「稽古がありましたので。主上にご挨拶に向かう前に、身を清めようと……帰還しなければなりませんので」
「そうだったな」
腕を解き放ち窓から庭園を眺める。
「あれが嵩里が言っていた花だな」
「台輔が?」
「ああ。李斎に花をもらってきた、と嬉しそうに言っていた。見ても良いか?」
「はい」
庭園に直接通じる扉を開ければ、そこは見渡す限り一面の金色の花で埋め尽くされていた。
「官邸暮らしに慣れますように、と女官たちが奇麗に手入れをしてくれて……見事な花畑となりました」
「確かに見事だ……」
「主上もいかがですか? 花束をお作りします」
「私は良い。眺めることができただけで十分だ、それに……別の花を所望したい」
「別のは……主上!」
言いたいことが理解できて、李斎は一喝するように叫んでしまった。
「主上とのご関係はあります……が……ですが……」
「私にとっては極上の花であることには変わりない」
「私は花のように美しいわけではございません。武人で……」
「戦場で咲く花、なのだろうな」
側に寄り背から濡れ髪に触れて口づける。それだけがひどく恥かしい行為に思えて、李斎は振り返った。
「どこにいようとも、李斎という花は目立つ。私の目からの話だが……己が思うほど目だっていないわけではないのだぞ?」
「私は」
「武人である以上強さは求められる、が以前に女だという意識を失う必要はない。強さの中に、女として細やかな動きも必要だろう。だからこそ、自分を卑下するな。十分美しい」
毅然とした態度で、家臣であり女として諌める言葉を述べられてただ、緋玉の瞳を見つめた。
「だからこそ……」
「……驍宗様」
伸ばされた腕、腰に回されて李斎は名を呼んだ。名はやっと驍宗を男として認めた証拠だった。
「まだ昼間でございますから」
「別に抱こうとしているわけではない。部屋で茶を貰おう。二人で過ごす時間が勿体無い」
「政務はよろしいので?」
「それは先程嵩里に尋ねられた。今日はあらかた片付いた。急することはやめたのでな。多少の余裕ができたかもしれぬ」
微笑む顔は柔らかい。つられて微笑んで李斎もまた腕を伸ばす。
もう躊躇も拒むこともしない。
腕の中にようやく花を抱くことができて、驍宗は満面の笑みを浮かべて愛する花に口づけた――。
「これは……氷?」
「そうです、氷ですよ」
瓶(かめ)に入った冷たい塊に手を触れようと、足を伸ばす。届かなくて転びそうになるところを、抱えあげられて触ることができた。
「この氷どうしたの、李斎?」
「貰い受けてきたのですよ」
笑顔で幼い台輔に答える。
「清水の流れる場所がありまして。冬場は凍りつき、水の流れもとまってしまいますが、塊は多くできます」
「瓶に入れて……溶かすの?」
「はい。溶かして茶などで使おうかと」
「清水だから美味しいだろうね」
「ええ。お酒を飲む方にも重宝されますよ」
床に足がついたのを確認して、手を話す。視線を合わせるように李斎は屈んだ。
「氷を用立てて、茶を用意いたしましょう」
「うん」
李斎自らが氷を割り、氷を溶かす。茶器を運び居間に待つ泰麒の前で茶を点て差し出す。
「……美味しいね」
「お味がおわかりでよかった」
微笑み空になった湯飲みに茶を注ぐ。
「ねえ、李斎」
「はい」
「お酒にはどう使うの?」
「氷を砕きそのまま使うのです。酒を冷たく飲むためですが、ここでは贅沢なものですね。戴は極寒の地です。室内が暖かければ美味に感じますが、民は贅沢と言うでしょう」
「そうだね、外は寒くて、薪も少ないから暖かい飲み物のほうが良いものね」
「はい。それで台輔にお願いがあるのですが」
「お願い?」
「主上にこの氷をお持ちください。酒を所望される方ですから……最近政務にも力が入り、お疲れのご様子も見られますので」
「うん」
笑顔で答えて大きく頷く。
「その必要はない」
低い声に驚き、二人は振り返る。そこには二人の主が立っていた。
「主上、どうなされたので?」
「今宵は参ると言わなかったか、李斎?」
言われて思い出す。忍んでくると告げられ、お控えくださいと言ったはずだった。そんなことは知らない泰麒は二人の顔を見る。
「驍宗様、お酒飲みますか?」
「うん?」
「美味しい氷があるんです」
「ほお、珍しいな。持ち帰ってきたのか?」
「は、はい」
「私も貰おうか」
頼まれて李斎に断る術はない。急ぎ仕度をし、器に氷を割りいれた。冷えた酒を注ぎ、酒は冷たさを増した。
「嵩里、覗いてみるといい」
「お酒をですか?」
「ああ」
椅子に座り、泰麒を抱き上げ膝の上に乗せる。
「透明ですね」
「そうだ、多少でも飲めなくはないが、濁りのある水で作った氷は、白い濁りが浮かぶ。これは純粋な水だ」
器を手に取り口に含む。暖かい室内で、冷たい酒は心から美味いと言えた。
「美味しいですか?」
「ああ。美味い」
主の笑顔に満足そうに、泰麒もまた笑顔を浮かべる。
その様子に李斎もまた笑んで、酒を注ぎなおす。
「ゆっくり休んで下さいね、驍宗様」
「ああ」
「李斎も疲れているから、といって氷を持ち帰ってほし……」
「台輔、それは」
「ならば明日また来る」
立ち上がり、泰麒を降ろす。
「嵩里戻るぞ」
「はい」
先に駆け出す泰麒。姿が消えたのを確認して、驍宗は振り返り李斎の側へと歩み寄り耳元で囁く。
「明日も来る……褥で癒してくれ」
「っ……主上!」
その言葉に李斎は顔を真っ赤に染め上げた。返答も待たずに驍宗もまた姿を消した。
酒に満足した笑みと、明日が待ちきれないと浮かべた表情を李斎の脳裏に残して。
良い口実だ、と思った。官の一人から泰麒の行く先を伝えられた。念のために耳に入れておこうと思ったのだろう。
だがそれは行動を起こすために、好都合すぎた。気を使わせないよう、静かに尋ね扉を開けた。
そこには臥牀の上に座る李斎と、膝の上で寝息をたてる泰麒の姿があった。うつらうつらと首を動かす李斎を見て、長い間膝枕をしていたことを悟る。
かろうじて夜中の室内を照らすのは、蝋燭の明かり。女官が点した物だろう。
「母子のようだな」
ふっ、と目の前の二人の主である驍宗は笑いを零した。
「さすがに解放せねばな」
この体勢で眠っていては、李斎は体を休めることはできないだろう。ゆっくりと泰麒を抱き上げる。起こさないよう気をつけて。
「……しゅ……じょう?」
「すまん、起こしたか?」
気を使った相手は泰麒だけではない、疲弊した李斎もまた気遣った。
「いえ、その……申し訳ございません……」
「何を謝る? 嵩里を休ませていたのだろう。礼は私が言うべきだが」
「そうではなく、寝ぼけておりまして……」
少し呂律の回らない口調で言い訳を募らせる。数回瞬きをし、意識を切り替える。ようやく目が覚め始めて頭を下げた。
「主上」
「どうした?」
頭をあげ、主を見つめる視線は真面目で真剣だった。それを受け止め、李斎の横に座る。
「稀にでもよろしいのですが、そしてこれは甘えかもしれませんが」
眠る幼い台輔の顔を覗く。瞼の下がわずかに赤みを帯びていた。
「台輔は胎果の生まれです。やはり蓬莱の家族が恋しいようです……台輔としてはそれは甘えかもしれません。ですが……聞いてしまったので」
「聞いた?」
「眠っておられる時、無意識に母に会いたいと願う言葉が漏れておりました。まだ二度と会えぬ別離を頭では理解はしていても、心のどこかで会いたいと願う……」
「そうかもしれんな」
漆黒の髪に触れてうつむく。少し考え思いついたように、驍宗は突然李斎の唇を奪った。
「んっ――主上……」
「主である関係を崩すことはできないが、そして家族にはなれんが、寂しさを癒す愛情を注げばいい。注いで欲しい」
心が晴れやかになることを願って、驍宗は言い放った。
「部下としてでも、兄弟でも、母でもいい。接してくれ、愛情をもって」
「主上は……」
「無論私も注ごう。まだ別離の傷は癒えん。癒えるまで……頼みたい」
「それはもちろんです、けれどあの……」
「母のほうがいいな。私は父になろう。勝手なここだけの取り決めだが……夫婦になる」
「主上……」
わずかに驍宗は照れて、顔を近づけて口づけた。李斎のほどいた髪がまとわりつく。手は幼い麒麟に貸している。
「近いうちに夕餉を共にしないか? 嵩里も交えて」
「それはお喜びに……」
「李斎はどうだ?」
「私でございますか?」
「嬉しくはないか」
「そんなことはございません……嬉しい、です……」
胸のうちで勇気を生み出す。ほんの少しでいい。
生み出されたことを確信して、李斎は頬に軽く口づけた。驚いて驍宗は目を見開く。
「李斎」
「主上の愛を一心に、一方的に受け止めるのではなく、私も」
行動に移したい。目の前の主は気を最大限に使っている。真面目な性格を汲み取って、決して己から愛を求めようとしない。それを恐れ多いと思い、頭では取り払ったものでも、それでも体は拒んでいた。
「う……ん、おかあ……さん……」
伸ばされた手は、李斎の布地をつかむ。
「台輔」
決して滑らかではなく、鍛えられた手でそっと包み込むように泰麒の手を握る。
「本当に嬉しいです……」
台輔の喜ぶ顔を思い浮かべるだけで、今二人きりでいられることもまた嬉しくて。
だが李斎にとっては。
やっと自ら主を、いや愛しい男と認識し、身分など考えず、ただ好きだと求められたことに大きな喜びを感じていた――。