野望というのには、ささやかな願いだな、と一人呟いた。
「何か、仰いました?」
李斎が、赤茶の髪を揺らし、振り返った。
「いや、何でもない」
「そうですか」
そう言って、李斎はまた書棚の整理を始めた。
ここは李斎の官邸だ。
ふと思い立って書棚の整理を始めたのはいいが、夢中になり過ぎて収拾がつかなくなった、と笑っていた。
驍宗は、用意された酒の杯を片手で玩びながら、李斎の背中を見ていた。
棚には、書籍だけでなく、何かの小箱やら、小さな花を挿したほっそりとした花瓶やらも詰めている。
折角、詰めたものをもう一度、取り出しては、また詰めたりとしている為、今夜中には終わらないんじゃないか?と思うが、言ってしまっては、李斎がふくれてしまう事が想像出来て、驍宗は口に出さないでいた。
しん、と静まり返った中、李斎が動くたびに衣擦れや、書籍などと書棚がこすれる音がする。
まるで、この世に二人きりしかいないようだ、と思いながら驍宗は酒を口に含んだ。
たまに訪れるこの李斎の官邸は、いつも静かでいて、温かい。
そして、過ごす時間は、穏やかな時間だ。
驍宗は取り立てて何も語らないし、李斎もまた、問い詰めたりはしない。
時間を共に共有するだけ。
そうやって、李斎は何も言わずに驍宗を受け入れる。それが、言葉に言い表せないほど嬉しい、と驍宗は思う。
どれだけ自分の事を理解しているのか、分からないけれど、確かに全てを受け入れてくれるというのは、本当に嬉しいものだ。
出会った頃、泰麒を挟んで色んな話をした。
泰麒がいない所でも、様々な事を語り合った。
あの時、新鮮に感じたものだ。
泰麒と一緒にいる時には、優しい表情を常につけていたが、いない時には、本当にさっぱりとした物言いで、辛辣だった。二重人格者かと思ったが、今になって思い返すとあれは、泰麒に対する母性愛とか、そういうものがあったのだろう。そして、自分には、本音を見せてくれていたのだろう。泰麒に対してとは違う本当の姿を。
あの頃、話していても退屈を覚えなかった。
今では、取り立てて話さなくても、気詰まりを感じたりする事がない。
きっとそれは、二人の間に、遠慮とかそういうものがあまりない、という事なのだろう。
驍宗は酒を杯に注ぎ、くいっ、と呑み干した。
たん、と卓に杯を置き、立ち上がる。
「どうかなさいました?」
驍宗が立ち上がったのに気づいたのか、李斎が振り返る。両腕に抱えた書籍が零れ落ちそうだった。でも、李斎はそれらを落とさなかった。驍宗がいきなり行動を起こしても。
「何をなさるんです……?」
上目遣いで李斎は驍宗を睨んだ。
書棚に押し付けながら、驍宗は李斎の体を抱き締め、唇を奪っていた。
「離れて下さい。ここが片付かないです」
「野望があるのだ」
「はい?」
驍宗は李斎の非難を軽く無視し、李斎の赤茶の髪を掻き揚げた。さらり、と髪が肩の上で踊った。
「野望というのには、ささやかなものだが、私にとっては野望なのだ」
「そうですか。頑張って下さい」
「冷たいな、もっと応援してくれてもいいではないか」
「何を仰るのです。主上の事ですから、自力で叶えてみせるでしょう」
李斎はふいっ、と横を向いてそう言った。
その頬に一つ、唇を落とす。
次第に赤くなる頬を見ながら驍宗は、耳元で囁いた。
「自分一人で叶えれるものならば、とっくにそうしている。自分一人では無理だから言っているのだ」
野望というには、あまりにもささやかな願い。
このまま、ずっと時を過ごせればいい。
一つの時間を共有し、喜びも悲しみも、そして苦しみも、全て共有出来ればいい。
ずっと。
~了~
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くるり、と指先に長い髪を巻きつける。赤茶の髪が、太く長い指に幾重にも巻かれ、そして、はらり、と流れ落ちる。
李斎はそんな男の指を殊更見ないふりをして、手にした書面に目を落とす。
指先で髪を一房取ると、今度は軽く引っ張って、口元へ持っていき、軽く口づける。
それでも、李斎は何も知らないふりをして、書面を捲る。
「つまらん」
驍宗は音を上げ、李斎の髪を放り出し、今度は李斎の顎に触れ、ゆっくりと指を這わせた。
「主上…、今日中にこれを読み、頭の中へ入れておけ、そう仰ったのは主上でございましょう?何故、邪魔をするのです?」
李斎の頬を驍宗の指が這っていく。その手付きが大事なものを扱うかのように優しい。
「主上!」
榻から立ち上がり、李斎はきっ、と睨む。
だが、その頬はいつになく赤い。
「蒿里は、今頃、どの辺りだろう?」
「主上?」
台輔である泰麒が、漣へ向けて出立した。
その行程は、騎獣を使っているとはいえ、長い道のりだ。
「蒿里がここへ帰ってくるまでに、全てを終えておかなくてはならない。だが……」
立ったままの李斎の手首を掴み、榻に再び座らせる。
「だが、これで本当に良いのか、考えてしまう」
「……主上?」
「一通り、それを読んだか?」
李斎は頷いた。ざっと目を通しただけだが、この作戦には、多数の血が流れるだろう。公にするには厄介な罪人たちの血が。 この計画を知らされた時、微かな驚きを感じた。 表に出さず、裏で実行するという事は、裁判を行わない、という事だ。
勅命とはいえ、それはかなり荒っぽい事だ。
「蒿里は、この事を知れば悲しむだろう。だが、やつらを生かしておく訳にはいかない。蒿里が帰って来るまでに全てを終えておかなくてはならない」
李斎の掴んだ手首を離し、背凭れに体重をかけ、天井を見上げた。
「辛い役目を負わせてしまう。だが、こうするのが一番良いのだ。いや、そう思いたいのだ」
李斎はそんな驍宗を見詰めて、そして、再び書面に目を落とした。
幾人もの罪人の名。
そこには、罪状は書いていない。
だが、知っている。
どんな非道を行っていたのか。
それによって、何人もの人々が破滅したのか。
李斎はその書面を頭に叩き込んでしまうと、火炉の中に入れてしまう。
徐々に端から黒ずんでいき、火が点く。
ふわり、と熱気で紙が浮き、めら…、と音を立てて燃え広がり、そして、その一瞬の後、崩れ落ちる。後に残されたのは、炭の上に元は紙だった、燃え滓のみ。
李斎は、火炉をじっと見ていた。
漆で塗られた火炉の中、時折炭が赤く燃えるのを見ているのが好きだった。
それは、火炉、という小さな世界の中、暖かい火の色を眺めるのは、安心するからだ。 そして、この火炉をこの国に例えると、火炉の中の燃える炭はやはり―――。
「辛いからといって、逃げるのはわたしの趣味ではございません。辛くても、それが、後々、良い事に変わる。だから、わたしは逃げません」
小さく、だが、はっきりと李斎は告げた。
願わくば、泰麒が帰ってくるまでに、この王宮に血の匂いが残っていませんように――。そう願いながら李斎は目を閉じた。再び髪をもてあそぶ指を感じながら。
李斎はそんな男の指を殊更見ないふりをして、手にした書面に目を落とす。
指先で髪を一房取ると、今度は軽く引っ張って、口元へ持っていき、軽く口づける。
それでも、李斎は何も知らないふりをして、書面を捲る。
「つまらん」
驍宗は音を上げ、李斎の髪を放り出し、今度は李斎の顎に触れ、ゆっくりと指を這わせた。
「主上…、今日中にこれを読み、頭の中へ入れておけ、そう仰ったのは主上でございましょう?何故、邪魔をするのです?」
李斎の頬を驍宗の指が這っていく。その手付きが大事なものを扱うかのように優しい。
「主上!」
榻から立ち上がり、李斎はきっ、と睨む。
だが、その頬はいつになく赤い。
「蒿里は、今頃、どの辺りだろう?」
「主上?」
台輔である泰麒が、漣へ向けて出立した。
その行程は、騎獣を使っているとはいえ、長い道のりだ。
「蒿里がここへ帰ってくるまでに、全てを終えておかなくてはならない。だが……」
立ったままの李斎の手首を掴み、榻に再び座らせる。
「だが、これで本当に良いのか、考えてしまう」
「……主上?」
「一通り、それを読んだか?」
李斎は頷いた。ざっと目を通しただけだが、この作戦には、多数の血が流れるだろう。公にするには厄介な罪人たちの血が。 この計画を知らされた時、微かな驚きを感じた。 表に出さず、裏で実行するという事は、裁判を行わない、という事だ。
勅命とはいえ、それはかなり荒っぽい事だ。
「蒿里は、この事を知れば悲しむだろう。だが、やつらを生かしておく訳にはいかない。蒿里が帰って来るまでに全てを終えておかなくてはならない」
李斎の掴んだ手首を離し、背凭れに体重をかけ、天井を見上げた。
「辛い役目を負わせてしまう。だが、こうするのが一番良いのだ。いや、そう思いたいのだ」
李斎はそんな驍宗を見詰めて、そして、再び書面に目を落とした。
幾人もの罪人の名。
そこには、罪状は書いていない。
だが、知っている。
どんな非道を行っていたのか。
それによって、何人もの人々が破滅したのか。
李斎はその書面を頭に叩き込んでしまうと、火炉の中に入れてしまう。
徐々に端から黒ずんでいき、火が点く。
ふわり、と熱気で紙が浮き、めら…、と音を立てて燃え広がり、そして、その一瞬の後、崩れ落ちる。後に残されたのは、炭の上に元は紙だった、燃え滓のみ。
李斎は、火炉をじっと見ていた。
漆で塗られた火炉の中、時折炭が赤く燃えるのを見ているのが好きだった。
それは、火炉、という小さな世界の中、暖かい火の色を眺めるのは、安心するからだ。 そして、この火炉をこの国に例えると、火炉の中の燃える炭はやはり―――。
「辛いからといって、逃げるのはわたしの趣味ではございません。辛くても、それが、後々、良い事に変わる。だから、わたしは逃げません」
小さく、だが、はっきりと李斎は告げた。
願わくば、泰麒が帰ってくるまでに、この王宮に血の匂いが残っていませんように――。そう願いながら李斎は目を閉じた。再び髪をもてあそぶ指を感じながら。
戴では植物の種類が少ない。
それは、気候が悪く、土壌に恵まれていないからであろう。
けれど、その代わりとでもいうかのように、花が咲くと辺り一面、その花だらけになる。
それは、代々の王が、あまりに花が少ないのを寂しく思い、天に願った為なのか。
それとも、天が、厳しい冬を憐れみ、心が弾むような花を恵んだのか。
どちらにしても、戴国に住まう者達は、数少ない花を大切にする。
「李斎が瑞州の将軍になるって本当ですか?」
パタパタと幼い子供が前置きもなくそう走り寄って来て問う。
驍宗はその子供に微笑みかけると抱き上げ、榻に座り、膝の上に子供を乗せた。
「ああ。そうだ。もう暫くすれば承州から引っ越してくるぞ」
嬉しそうに子供、泰麒は笑う。
あれだけ李斎に懐いていたのだ。嬉しく思って当然だろう。
その手放しに喜ぶ泰麒を見て、驍宗もまた笑った。
「本当に嬉しそうだな。李斎が瑞州の軍に入って、そんなに喜ぶとは」
「はい。僕、嬉しいです。李斎も飛燕も大好き、ですから」
そう言って、泰麒はますます笑った。
よく笑う子供だ、と思いながら驍宗は泰麒の頭を撫でる。
「だったら、李斎がこっちに引越しが終えたら、祝いをやらないとな」
「お祝い、ですか?」
「ああ。何がいいか、考えておきなさい。私の分も一緒にな。そう、御庫を漁ってみるとよい」
そう言うと、泰麒は顔を難しげに歪めた。
「僕、こういう時、何を贈ればよいかわかりません……」
「なに、そういう時は、正頼に聞けば良い。あれは、泰麒の知らない事を教えてくれる先生だからな」
但し、時には泰麒を騙そうとするから、気をつけるんだぞ、と続けると弾けた様に笑った。もう既にその被害にあっているのだ。泰麒は。
「そうですね。正頼は酷いんです。傅相の事を子守、って言って笑ったりするんです」
正頼を非難しておきながらも、泰麒の笑顔は曇らない。
どこまでが良いのか、どこからが悪いのか、正頼にはもう判断がついているのだろう。この人選には一抹の不安がよぎっていたが、これで良かったのだ、と驍宗は胸を撫で下ろした。
「あの、それで、驍宗さま。お願いがあるんですけど……」
「何だ?」
もじもじと、膝を泰麒が見下ろしている。言い難そうなことらしい。
「蓬莱では、お祝い、といえば、お花なんです。僕、李斎にお花をあげたいので……」
「花?」
「そうです。きれいなお花を贈るんです。特に女の人には何かあれば、お花を贈るのがあちらの習慣なんです」
「ふむ……。そうか。だったら、ここの花を持っていきなさい」
「え!?いいんですか?僕、買ってこようと思ったんですが……」
「城下といえど、もう冬に入ったのだ。花は売られていないだろう。幸い、この白圭宮には、花が沢山あるのだ。好きなだけ持っていきなさい。ああ、そうだ。だったら、二人で花を選ぼうか」
驍宗がそう言うと、泰麒は驍宗の膝の上から飛び降り、嬉しそうに飛び跳ねた。
「はい!李斎が引っ越してきたら直ぐに選びましょう!」
先王は美しいものを好んだ。
細工が施された宝玉。
煌びやかな衣装。
様々な歌舞音曲。
そして美しい女人など……。
色鮮やかに咲き誇る花もその中の一つだ。
花の名前など知らぬが、こうして大輪の花を見ていると花が羨ましいと思う。
驍宗は手にした花鋏を、泰麒にねだられるまま使いながらそう思った。
庭を管理する者達はさぞこの花苑を誇りにしているだろう。
種から、苗から育て、花を開かせて。
そして、誰しも『うつくしい』という言葉が口から出る。
素直にそう言える。
だが。
驍宗は目についた、淡い紫色の花を手に取った。
薄い花弁が今にも破れそうで慎重に触れる。驍宗の硬い指先に柔らかな感触を与えた。
美しく咲いた花に『綺麗』と言う言葉が出ても、人間に対しては中々言えやしない。
驍宗は、パチン、と高い金属音を出し、その花を切った。
いつの日か、花が咲き実を結ぶように、この思いも――。
そう願いながら。
~了~
「耳に残るは・・・」
灰白色をした空の下、眼前に広がる色彩は白。唸りを上げて吹く風に煽られた雪が舞い上がり、煙る。
耳を切り裂くように強く吹き付ける風以外立てる音もなく、どこまでも果てない「白い静寂」が支配するこの大地。驍宗は正面を見据えたまま微動だにせず、また李斎も彼から一歩距離を置いた位置に控え、その横顔を見つめていた。
彼の、挑むような険しさを。
二人、見ているものは同じ。だが、感じるものもそうかと問われれば、否。
驍宗のいつにない険しさの先に、李斎は彼の堅い決意を見た。
この少し前、二人は鴻基からやや外れた所にある侘しい廬にいた。
止むことなく降り続ける雪の重みに耐え切れず、倒壊した家屋を多く出したこの廬で、住む家を失った人々は唯一崩れずに残った小さな家の中で凍える身体を互いに温め合うように身を寄せあっていた。だが、その家の屋根も柱も、きしんだ音を立てている。ここもいつまで持つか分からない。
細く降る雪でも、長きに渡れば住む家も、人の命をも奪う。降りしきる雪は音もなく、閉ざされた沈黙の中、じわりじわりと襲い掛かる不安と飢え。それらを目の前にして、彼らはあまりにも無力だった。
震えは、寒さからくるものだけではない。いつ失われるとも分からない己の生命への怯えと絶望・・・心の震えが身体の震えとなって、見る側にはそれが痛いほど伝わる。
李斎の胸には針で刺すような鋭い痛みが走った。
否応なしに見せ付けられる――戴という国の、真実の姿を。
震えながら、それでも生きることへの執着から身を寄せ合う輪の中に、一人の老翁がいた。
彼が震える唇から漏らした呟き・・・誰に向けられたとも思えぬその呟きを、李斎は確かに耳にした。
傍らに膝をつき、老翁と向き合う驍宗もまた、うめき声にも似た声を聞いただろう。
――王が立っても、これだ。
王を得てもなお、戴の冬は今年もその厳しさを和らげるでもなく、疲れきった民の肩には、降り積もる雪の重み以上にのしかかる苦しみがあった。春になれば溶ける雪とは違い、負った苦しみはそう簡単に消え去るものではない。春は新しい生命が芽吹く季節だが、失われた人の生命はもう二度と戻ることはないのだから。
それでも、新たな王が現われることを待ち焦がれた民の瞳には希望の色が宿り、その希望は期待となって王へと向けられる――筈だった。
――これは何だ。
痩せこけた身体の、だが目だけは爛々と輝き、大きく見開いた老翁は目の前で膝をつく質素な身なりの男に向かって、吐き捨てるように言った。
「王が立てば豊かになるのではなかったのか――なのに、これは何だ」
この老人は知らないのだ。彼らの目の前で膝をつくこの男こそが待ち望んだ王なのだと。 無論、それを言った所で彼らが信じるとは思えないし、一笑に伏されて終わるだろうが。
だが驍宗は、向けられた老人の視線を逸らすことなく、
「――この冬もまた、辛いだろうな」
王が立ったからといって、例外はない。戴は十二ある国の中でもっとも冬が厳しい国。十年も続いた空位の時代は確実に国を、民を疲弊させた。それが分かる驍宗だけに、問いに対して彼らが黙って首を縦に振る姿を、向けられた眼差しを、真正面から受け止めていた。
「家を失い、家族を失い――その苦しみと嘆きの深さは筆舌に尽くし難いだろうが・・・」
「・・・この辛さが、お前達に解るものか!」
驍宗の言葉に対し、食ってかかるように語気を荒げた男はまだ若い。その傍らには赤子を抱きかかえた若い女。その男も、女も、赤子も・・・皆、痩せこけていた。
「解るかと問われて、解る・・・と言い切れる、自信はないな」
王宮から遣わされた者だと名乗った驍宗には、苦笑に似た笑みを浮かべながらも、そう答える他ない。李斎もまた同じように思った。
家を失う苦しみも、寒さと飢えに対する怯えも、仙である自分達には解らない。過去にそれらを経験したとことがあったとしても、いまの李斎たちには感覚的に遠い。
だが、彼らが苦しむ姿を見れば胸が痛む。事実、李斎は彼らのそんな姿にきりきりと胸が締め付けられ、息をすることでさえ苦しい程に。
「あたしたちは、ただ穏やかで、暖かい暮らしがしたいだけ。それ以上なんて望んでいない」
腕に抱きかかえた赤子の小さな身体を護るように抱きしめながら、腹の底から搾り出すように若い女は言った。
李斎たちが運んだ食料も、炭も、衣服も、全ては彼らがこの冬を乗り切るためのもの。だが彼らの眼差しは、この冬のずっと先を見つめていた。
老翁も、男も、その妻も――全ての者が「生きたい」と望んでいる。
こけた頬に乾いた唇。肉がそぎ落とされた痛々しい身体に、浮かび上がった骨が痛々しい。
だが、瞳の光だけは決して失われはしない。やつれた身体に、それでも瞳に宿る力強い光。
それこそが彼らの「生きていたい」という訴えに他ならない・・・李斎はそう感じた。そして李斎が感じる以上に、驍宗も感じている。
彼はそういう男だから。そのために自ら昇山し、泰麒に選ばれたのだから。
だから、彼らの「願い」も「想い」も、王の耳に届いている。そう言ってやりたい衝動を、ぐっと李斎は堪えた。
・・・その代わり。
「その苦しみも、願いも、王はきっと聞き届けてくれるだろう」
それだけを言い、立ち上がった驍宗は、男の腕に抱えられた赤子の柔らかな髪をそっと撫で、扉に向かって歩いていった。
その後を追うように立ち上がった李斎は、扉から差し込む雪に照り返された光によって一瞬その視界を遮られた。逆光で表情は見えなかったが、
「私はお前達を決して裏切らない・・・・それだけは約束する」
その言葉が彼らの耳に届いた時、薄い板戸は音を立てて閉じられた。
「・・・そろそろ、戻られませんか?」
沈黙が耐えられなかった訳ではないが、ただ黙って眼下に広がる景色を眺めていた驍宗に、李斎からそう声を掛けた。部下は先に戻らせ、今は驍宗と李斎だけが小高い丘の上から貧しい廬を眺めている。
白い雪の合間から僅かに見えるのはまばらに点在する家屋の屋根だけで、屋根からは立ち上る煮炊きの煙も見えない。家屋の前に伸びる細い道には人の足跡もなく、あるのは山から点点と続く獣の、恐らくは鹿や兎の類の小さな足跡だけだった。
「・・・これが現実だな、李斎」
そう呟く驍宗の声があまりにも淡々としていたことに李斎は戸惑った。
「戴の冬は長く、そして厳しい。賢帝が立っても雪が降らぬ年などない。・・・戴はそういう国だ」
「戴が豊かになれば、民も豊かになります。そうすれば冬を乗り切ることも容易にできましょう」
当たり前過ぎた答えだったが、李斎は敢えてそれを口にした。その意味が解らぬ驍宗ではないだろうし、恐らく彼自身が一番それを理解しているだろうから。
「穏やかで暖かな暮らしを・・・せめてあの赤子に物心がつく頃までには、させてやりたいものだな」
掌には撫ぜた赤子の柔らかな髪の感触が残り、耳の奥には女の言葉が残っているのだろうか。挑むように前を見据えていた赤い瞳をそっと閉じて、傍らに繋いだ計都の艶やかな白い毛並みをゆっくりと撫でた。
「主上ならば、できます」
李斎の確信にも似た言葉に、驍宗は答えなかった――代わりに、唇の端に薄い微笑を一瞬浮かべ、閉ざされた瞼の下から再び煌々と輝く赤い瞳が現われた。
「あの者たちに誓った言葉を、決して忘れはしない」
白く染められた大地を、赤い双眸が挑むように見つめていた・・・王の顔で。
そして李斎にゆっくりと向き直り
「国が豊かになったら、もう一度・・・二人でここを訪れてみないか、李斎?」
雪に照らされた光で、その表情は見えなかったが、その言葉と、その言葉が意味する決意と、優しい響きを、李斎は一生忘れることが出来ないだろうと思った。
「―― 喜んで、お供させていただきます」
そう言って微笑んだ自分を、驍宗は覚えていてくれただろうか――?
そして再び、李斎はこの地に立った。
かつて訪れた廬は既に無く、僅かに残る朽ちた家の残骸と、途切れ途切れに続く荒れ果てた道が、過去に人が暮らしていたことを残すのみ。あの時身を寄せ合っていた者達の消息など、ここには知る者もいないだろう。
驍宗が険しい横顔でこの景色を見つめていた場所――その場所にいま立つのは、痛々しいほど白い首を晒し、憂いの横顔でこの大地を見つめる少年。
嘆きと憂いを帯びた少年の黒い瞳に映るものは、彼の主と同じものか・・・それとも。
眼下に広がる荒れ果てた大地を見つめる横顔に、懐かしさが込み上げる。かつて驍宗と二人、この地に共に立った日のことを、李斎はこの少年の横顔に重ねていた。
――あの約束を忘れたことなど、ない。
それでも、叶うことはないと、どこかで諦めていた自分がいた。―― 彼に再び出会うまでは。
だが、李斎は再びこの地に戻ってきた。あの時共に約束を交わした彼は、いまは側にいないけれど。
もう一度、二人で――そう、彼は誓いを違えたりなどしない。だから、私達はまた再び会うことが出来る。
あの言葉を、その言葉に秘められた決意と、優しい響きを、私は覚えているから。
「・・・そろそろ行きましょうか、李斎」
強い風に黒髪を揺らめかせながら、ゆっくりと振り返った黒い瞳。
その色は違えど、この黒い瞳はかの人の深紅の瞳と同じ光を宿している。
「・・・参りましょう、台輔」
緩く束ねた長い髪が、風に煽られる。その風に、声にならない願いを託す。
・・・願わくば。
願わくば、唸り声を上げながら通り行く風よ。
この声が届くのならば、伝えて欲しい。あの人の元に、届けて欲しい。
貴方がどこにいようとも、必ず私が探し出す――諦めなどしない。
そして再び私達はこの大地に立つ――あの日の誓いのままに。
荒れ果てた大地から音も無く飛び立つ二頭の獣と、その背に跨る二つの影。
「約束の大地」は、次第に遠ざかり・・・やがて小さく、見えなくなっていった。
<終>
灰白色をした空の下、眼前に広がる色彩は白。唸りを上げて吹く風に煽られた雪が舞い上がり、煙る。
耳を切り裂くように強く吹き付ける風以外立てる音もなく、どこまでも果てない「白い静寂」が支配するこの大地。驍宗は正面を見据えたまま微動だにせず、また李斎も彼から一歩距離を置いた位置に控え、その横顔を見つめていた。
彼の、挑むような険しさを。
二人、見ているものは同じ。だが、感じるものもそうかと問われれば、否。
驍宗のいつにない険しさの先に、李斎は彼の堅い決意を見た。
この少し前、二人は鴻基からやや外れた所にある侘しい廬にいた。
止むことなく降り続ける雪の重みに耐え切れず、倒壊した家屋を多く出したこの廬で、住む家を失った人々は唯一崩れずに残った小さな家の中で凍える身体を互いに温め合うように身を寄せあっていた。だが、その家の屋根も柱も、きしんだ音を立てている。ここもいつまで持つか分からない。
細く降る雪でも、長きに渡れば住む家も、人の命をも奪う。降りしきる雪は音もなく、閉ざされた沈黙の中、じわりじわりと襲い掛かる不安と飢え。それらを目の前にして、彼らはあまりにも無力だった。
震えは、寒さからくるものだけではない。いつ失われるとも分からない己の生命への怯えと絶望・・・心の震えが身体の震えとなって、見る側にはそれが痛いほど伝わる。
李斎の胸には針で刺すような鋭い痛みが走った。
否応なしに見せ付けられる――戴という国の、真実の姿を。
震えながら、それでも生きることへの執着から身を寄せ合う輪の中に、一人の老翁がいた。
彼が震える唇から漏らした呟き・・・誰に向けられたとも思えぬその呟きを、李斎は確かに耳にした。
傍らに膝をつき、老翁と向き合う驍宗もまた、うめき声にも似た声を聞いただろう。
――王が立っても、これだ。
王を得てもなお、戴の冬は今年もその厳しさを和らげるでもなく、疲れきった民の肩には、降り積もる雪の重み以上にのしかかる苦しみがあった。春になれば溶ける雪とは違い、負った苦しみはそう簡単に消え去るものではない。春は新しい生命が芽吹く季節だが、失われた人の生命はもう二度と戻ることはないのだから。
それでも、新たな王が現われることを待ち焦がれた民の瞳には希望の色が宿り、その希望は期待となって王へと向けられる――筈だった。
――これは何だ。
痩せこけた身体の、だが目だけは爛々と輝き、大きく見開いた老翁は目の前で膝をつく質素な身なりの男に向かって、吐き捨てるように言った。
「王が立てば豊かになるのではなかったのか――なのに、これは何だ」
この老人は知らないのだ。彼らの目の前で膝をつくこの男こそが待ち望んだ王なのだと。 無論、それを言った所で彼らが信じるとは思えないし、一笑に伏されて終わるだろうが。
だが驍宗は、向けられた老人の視線を逸らすことなく、
「――この冬もまた、辛いだろうな」
王が立ったからといって、例外はない。戴は十二ある国の中でもっとも冬が厳しい国。十年も続いた空位の時代は確実に国を、民を疲弊させた。それが分かる驍宗だけに、問いに対して彼らが黙って首を縦に振る姿を、向けられた眼差しを、真正面から受け止めていた。
「家を失い、家族を失い――その苦しみと嘆きの深さは筆舌に尽くし難いだろうが・・・」
「・・・この辛さが、お前達に解るものか!」
驍宗の言葉に対し、食ってかかるように語気を荒げた男はまだ若い。その傍らには赤子を抱きかかえた若い女。その男も、女も、赤子も・・・皆、痩せこけていた。
「解るかと問われて、解る・・・と言い切れる、自信はないな」
王宮から遣わされた者だと名乗った驍宗には、苦笑に似た笑みを浮かべながらも、そう答える他ない。李斎もまた同じように思った。
家を失う苦しみも、寒さと飢えに対する怯えも、仙である自分達には解らない。過去にそれらを経験したとことがあったとしても、いまの李斎たちには感覚的に遠い。
だが、彼らが苦しむ姿を見れば胸が痛む。事実、李斎は彼らのそんな姿にきりきりと胸が締め付けられ、息をすることでさえ苦しい程に。
「あたしたちは、ただ穏やかで、暖かい暮らしがしたいだけ。それ以上なんて望んでいない」
腕に抱きかかえた赤子の小さな身体を護るように抱きしめながら、腹の底から搾り出すように若い女は言った。
李斎たちが運んだ食料も、炭も、衣服も、全ては彼らがこの冬を乗り切るためのもの。だが彼らの眼差しは、この冬のずっと先を見つめていた。
老翁も、男も、その妻も――全ての者が「生きたい」と望んでいる。
こけた頬に乾いた唇。肉がそぎ落とされた痛々しい身体に、浮かび上がった骨が痛々しい。
だが、瞳の光だけは決して失われはしない。やつれた身体に、それでも瞳に宿る力強い光。
それこそが彼らの「生きていたい」という訴えに他ならない・・・李斎はそう感じた。そして李斎が感じる以上に、驍宗も感じている。
彼はそういう男だから。そのために自ら昇山し、泰麒に選ばれたのだから。
だから、彼らの「願い」も「想い」も、王の耳に届いている。そう言ってやりたい衝動を、ぐっと李斎は堪えた。
・・・その代わり。
「その苦しみも、願いも、王はきっと聞き届けてくれるだろう」
それだけを言い、立ち上がった驍宗は、男の腕に抱えられた赤子の柔らかな髪をそっと撫で、扉に向かって歩いていった。
その後を追うように立ち上がった李斎は、扉から差し込む雪に照り返された光によって一瞬その視界を遮られた。逆光で表情は見えなかったが、
「私はお前達を決して裏切らない・・・・それだけは約束する」
その言葉が彼らの耳に届いた時、薄い板戸は音を立てて閉じられた。
「・・・そろそろ、戻られませんか?」
沈黙が耐えられなかった訳ではないが、ただ黙って眼下に広がる景色を眺めていた驍宗に、李斎からそう声を掛けた。部下は先に戻らせ、今は驍宗と李斎だけが小高い丘の上から貧しい廬を眺めている。
白い雪の合間から僅かに見えるのはまばらに点在する家屋の屋根だけで、屋根からは立ち上る煮炊きの煙も見えない。家屋の前に伸びる細い道には人の足跡もなく、あるのは山から点点と続く獣の、恐らくは鹿や兎の類の小さな足跡だけだった。
「・・・これが現実だな、李斎」
そう呟く驍宗の声があまりにも淡々としていたことに李斎は戸惑った。
「戴の冬は長く、そして厳しい。賢帝が立っても雪が降らぬ年などない。・・・戴はそういう国だ」
「戴が豊かになれば、民も豊かになります。そうすれば冬を乗り切ることも容易にできましょう」
当たり前過ぎた答えだったが、李斎は敢えてそれを口にした。その意味が解らぬ驍宗ではないだろうし、恐らく彼自身が一番それを理解しているだろうから。
「穏やかで暖かな暮らしを・・・せめてあの赤子に物心がつく頃までには、させてやりたいものだな」
掌には撫ぜた赤子の柔らかな髪の感触が残り、耳の奥には女の言葉が残っているのだろうか。挑むように前を見据えていた赤い瞳をそっと閉じて、傍らに繋いだ計都の艶やかな白い毛並みをゆっくりと撫でた。
「主上ならば、できます」
李斎の確信にも似た言葉に、驍宗は答えなかった――代わりに、唇の端に薄い微笑を一瞬浮かべ、閉ざされた瞼の下から再び煌々と輝く赤い瞳が現われた。
「あの者たちに誓った言葉を、決して忘れはしない」
白く染められた大地を、赤い双眸が挑むように見つめていた・・・王の顔で。
そして李斎にゆっくりと向き直り
「国が豊かになったら、もう一度・・・二人でここを訪れてみないか、李斎?」
雪に照らされた光で、その表情は見えなかったが、その言葉と、その言葉が意味する決意と、優しい響きを、李斎は一生忘れることが出来ないだろうと思った。
「―― 喜んで、お供させていただきます」
そう言って微笑んだ自分を、驍宗は覚えていてくれただろうか――?
そして再び、李斎はこの地に立った。
かつて訪れた廬は既に無く、僅かに残る朽ちた家の残骸と、途切れ途切れに続く荒れ果てた道が、過去に人が暮らしていたことを残すのみ。あの時身を寄せ合っていた者達の消息など、ここには知る者もいないだろう。
驍宗が険しい横顔でこの景色を見つめていた場所――その場所にいま立つのは、痛々しいほど白い首を晒し、憂いの横顔でこの大地を見つめる少年。
嘆きと憂いを帯びた少年の黒い瞳に映るものは、彼の主と同じものか・・・それとも。
眼下に広がる荒れ果てた大地を見つめる横顔に、懐かしさが込み上げる。かつて驍宗と二人、この地に共に立った日のことを、李斎はこの少年の横顔に重ねていた。
――あの約束を忘れたことなど、ない。
それでも、叶うことはないと、どこかで諦めていた自分がいた。―― 彼に再び出会うまでは。
だが、李斎は再びこの地に戻ってきた。あの時共に約束を交わした彼は、いまは側にいないけれど。
もう一度、二人で――そう、彼は誓いを違えたりなどしない。だから、私達はまた再び会うことが出来る。
あの言葉を、その言葉に秘められた決意と、優しい響きを、私は覚えているから。
「・・・そろそろ行きましょうか、李斎」
強い風に黒髪を揺らめかせながら、ゆっくりと振り返った黒い瞳。
その色は違えど、この黒い瞳はかの人の深紅の瞳と同じ光を宿している。
「・・・参りましょう、台輔」
緩く束ねた長い髪が、風に煽られる。その風に、声にならない願いを託す。
・・・願わくば。
願わくば、唸り声を上げながら通り行く風よ。
この声が届くのならば、伝えて欲しい。あの人の元に、届けて欲しい。
貴方がどこにいようとも、必ず私が探し出す――諦めなどしない。
そして再び私達はこの大地に立つ――あの日の誓いのままに。
荒れ果てた大地から音も無く飛び立つ二頭の獣と、その背に跨る二つの影。
「約束の大地」は、次第に遠ざかり・・・やがて小さく、見えなくなっていった。
<終>
「李斎。お水、いっぱいになったよ。こっちの甕だけでいいの?」
「ありがとうございます。十分でございますよ」
洗い終わった椀を、窓沿いの竹棚に、乾かすために伏せていた李斎は、前掛けで手を
拭くと、泰麒に微笑んだ、
「ご苦労様でしたね。うんと重かったでしょう」
「全然、へーき」
井戸のある庭に面して開口した、小さな厨(くりや)である。その光景は、白圭宮で
はまず、見ることのできないものだ。
后妃が、前掛けを締め、生き生きと立ち働いているのはもちろんだが、大きな水桶を
井戸から往復して運んだらしい泰麒も、普段よりずっと明るい色目の、くだけた装いを
している。半袴の裾をわざとゆるめて履いているのが、蓬莱風というのか、短いままの
髪と、よく合ってみえる。李斎の方もすっきりとした麻の単でやはり似合うが、正寝な
らば真夏でもしない格好だ。
「主上は?」
「まだ厩(うまや)においでですよ。きっと念を入れてお掃除なさっているのでしょう」
李斎に冷たいお砂糖水を一椀あてがわれながら、泰麒は汗をふいて、笑った。
「すごく、やりたがっていらしたものねぇ」
「さようですね」
李斎も笑った。自分たちでする事の希望として、驍宗が真っ先にあげたのは、騎獣の
世話だ。
泰王一家が、――もう一家、と呼んでも別段さしつかえはあるまい――、この禁苑の
離宮に到着したのは、昨日のことである。
下官、女官を含め、直答の許されるお目見え以上のお側の官を、ただのひとりも連れ
ずに、家族だけで数日を離宮で過ごす、という試みは、当初、実現不可能に思われた。
なかでも、驍宗は乗り気でなかった。
『暑中休暇というものを、皆(みな)にとらすにはやぶさかでないが、私までとること
はなかろう』
驍宗は、そう言った。
戴では今年から、官は全員、夏場に数日間の休暇をとるよう、定められたのだった。
戴国で、府第の同時休業制度――およそ警察権の行使にかかわらぬ全ての府第の完全
週休――が実施されてから、八年が経とうとしていた。当初懸念されたにもかかわらず、
この制度は中中にうまく機能し、成果をあげていた。他国においても関心が高く、雁で
はすでに数年前から試験導入しているし、昨年は慶の官が視察に来た。
働くものに休みを「とらせる」。これは、その事自体が、画期的な改革だった。
それまで、この世界で官の休みといえば、仙であるとないとを問わず、不定期で、だ
いたい平均して十日に一日あれば良い方、それも、監理されているわけではなく、自ら
上司に申告してとるものだった。無制限で拘束されて当たり前、もともと月給制ではな
し、残業などという観念自体が無論なく、官の時間は王の時間、文字通りの公僕である
から、どこからも文句はではしない。それで健康に問題が生じようと普通は補償などな
されない、仕事ができなくなったときは、罷免されるだけであった。
そも休みの目的自体、彼らの休養でなく、洗髪など、威儀を整えさせるところにあっ
た。
毎朝髪を結い直して衣服を改め、供を連れて参内し、夜にはよほどでないかぎり官邸
に戻って風呂を使い床につく。それは、国府でもごく上位の者たちに許されることでし
かない。
もっとも、たいていの府第の下吏たちの仕事の密度は、通常はさほど苛烈なものでは
ない。だが、ひとたび状況が変化すれば、この限りではなかった。人権の保護に関する
法規定が極めて大雑把でしかなく、意識の確立していない社会では、ささやかな福利厚
生などは、真っ先に犠牲になるのが常だった。
官とは王と民に仕えるもの、職に一命を奉じて当然ではないか。という反対意見も根
強くあった。だが府第で働く二割ほどは官吏ではなく、官吏の多数は仙ではない。よく
も悪くも、王のもと、完璧な官主導で動かさざるをえないこの世界の制度・組織にあっ
てはなおのこと、府第で働く者たちへの福利を疎かにしてよしとすることは、畢竟、そ
れ以外の民への福利を軽んじる意識にもつながるのだ――泰麒は、そう強く説いて、時
間をかけて閣僚全員の理解をとりつけ、また驍宗を説得して、国府での試験実施に漕ぎ
着けたのだった。驍宗復位の翌年、十八年前のことである。徐々に地方の府第に広げて
ゆき、十年かけて余州全てに行き渡った。
最初は戸惑った官も民も、いまでは府第が毎週休みになることにすっかり慣れた。週
に一日休みをとる習慣は、民の間でも浸透しつつあり、歓迎されている。
しかし、休みをとることに、なかなか慣れぬ者もいた。
その筆頭が、法令を出させた当の、驍宗だ。
三年目からは、正月行事が一区切りした時期の年始休暇も、三日はとるようにとされ
たのだが、彼は、実際はこれをとっていない。毎年とる予定にはするものの、どこへ出
かけるわけでもなく、結局、なし崩しに普段どおり仕事をして過ごしてしまった。大体、
驍宗の場合は週休も、朝議がないから外殿に出ぬだけのことで、正寝でなにかしらの書
類に、かまけている。
この度の、盛夏休暇制定に際しては、主上御自身にもぜひとも休暇をとっていただか
なくては、という声が周囲から出たのも、無理からぬことであった。
「でも…、」
と泰麒が愉快そうに、厩舎のある方角を眺めた、
「さんざん渋っていらしたのに、なんだか、主上が一番楽しそうだ」
李斎は、目を嬉しげに巡らせながら、控えめに同意を示した。
離宮のあるこの凌雲山には、無論、本当に彼ら三人きりでいるわけではない。主上の
御滞在中、下の門と中腹の門には、禁軍の精鋭が配されて警護にあたっており、同時に、
毎日王宮からの青鳥を受け取り、急の連絡にも備えている。食料や燃料の補充をはじめ、
清掃など雑用の主なことは、白圭宮でもそうであるように、下働きの者が主たちとは時
間をずらして、出入りして行った。
この厨房も彼らが起きる前に清掃が済み、食料が新しく運ばれて、目が覚めるころに
は、朝の膳が整えられているのだ。
だが、四六時中、人の中で暮らすのがもう当たり前となっている彼らにとっては、顔
を合わせる側付きの官が全く見えないのは、信じられないほどの開放感であった。
昼餉と夕餉は自分たちで作ると決めてあるから、そのために必要な水汲みや、後片付
けは自分たちでする。建物のすぐ近くに厩舎があって、普段、正寝内には入れることを
許されない騎獣たちがいる。驍宗のすう虞と李斎の飛燕だ。彼らに脇の小さな倉から飼
葉を運んで、水をやる。寝藁を換える。世話の一切を、してやれる。
起きて、自分で服を着、井戸の端で顔を洗う。それだけのことで、今朝は笑い合った。
滞在している居宮は、さほど広くはないが、採光と風通しにすぐれた、夏の造りだ。
部屋の多くは海に向かって開かれ、目の前には遥遥と雲海が広がっている。背後の庭は
すぐに鬱蒼とした森に続き、緑の崖が迫っていて、深山のように鳥の声がした。
この井戸のある庭院から、夏草の生い茂る細い坂を下りてゆけば、白砂の浜も広がっ
ているのだ。
「こっちのお野菜も、剥いておく?」
「はい。お願いします」
泰麒が籠を抱えて座り、豆の莢をむき始めると、李斎は茄子を洗って切り始めた。
李斎のまな板には、のせたものを抑える、重しのついた腕がある。后妃の仕事が忙し
くなった今でも、何かしら驍宗や泰麒のために拵えたがる彼女に、泰麒が自分で木を削
って作り、贈ったものだ。それを使ってトン、トン、と軽い音が刻まれる。
楽しげな後姿をながめて、泰麒はちょっと目を眇め、満足そうに微笑んだ。
彼らの休みは、はじまったばかりだ。
「ありがとうございます。十分でございますよ」
洗い終わった椀を、窓沿いの竹棚に、乾かすために伏せていた李斎は、前掛けで手を
拭くと、泰麒に微笑んだ、
「ご苦労様でしたね。うんと重かったでしょう」
「全然、へーき」
井戸のある庭に面して開口した、小さな厨(くりや)である。その光景は、白圭宮で
はまず、見ることのできないものだ。
后妃が、前掛けを締め、生き生きと立ち働いているのはもちろんだが、大きな水桶を
井戸から往復して運んだらしい泰麒も、普段よりずっと明るい色目の、くだけた装いを
している。半袴の裾をわざとゆるめて履いているのが、蓬莱風というのか、短いままの
髪と、よく合ってみえる。李斎の方もすっきりとした麻の単でやはり似合うが、正寝な
らば真夏でもしない格好だ。
「主上は?」
「まだ厩(うまや)においでですよ。きっと念を入れてお掃除なさっているのでしょう」
李斎に冷たいお砂糖水を一椀あてがわれながら、泰麒は汗をふいて、笑った。
「すごく、やりたがっていらしたものねぇ」
「さようですね」
李斎も笑った。自分たちでする事の希望として、驍宗が真っ先にあげたのは、騎獣の
世話だ。
泰王一家が、――もう一家、と呼んでも別段さしつかえはあるまい――、この禁苑の
離宮に到着したのは、昨日のことである。
下官、女官を含め、直答の許されるお目見え以上のお側の官を、ただのひとりも連れ
ずに、家族だけで数日を離宮で過ごす、という試みは、当初、実現不可能に思われた。
なかでも、驍宗は乗り気でなかった。
『暑中休暇というものを、皆(みな)にとらすにはやぶさかでないが、私までとること
はなかろう』
驍宗は、そう言った。
戴では今年から、官は全員、夏場に数日間の休暇をとるよう、定められたのだった。
戴国で、府第の同時休業制度――およそ警察権の行使にかかわらぬ全ての府第の完全
週休――が実施されてから、八年が経とうとしていた。当初懸念されたにもかかわらず、
この制度は中中にうまく機能し、成果をあげていた。他国においても関心が高く、雁で
はすでに数年前から試験導入しているし、昨年は慶の官が視察に来た。
働くものに休みを「とらせる」。これは、その事自体が、画期的な改革だった。
それまで、この世界で官の休みといえば、仙であるとないとを問わず、不定期で、だ
いたい平均して十日に一日あれば良い方、それも、監理されているわけではなく、自ら
上司に申告してとるものだった。無制限で拘束されて当たり前、もともと月給制ではな
し、残業などという観念自体が無論なく、官の時間は王の時間、文字通りの公僕である
から、どこからも文句はではしない。それで健康に問題が生じようと普通は補償などな
されない、仕事ができなくなったときは、罷免されるだけであった。
そも休みの目的自体、彼らの休養でなく、洗髪など、威儀を整えさせるところにあっ
た。
毎朝髪を結い直して衣服を改め、供を連れて参内し、夜にはよほどでないかぎり官邸
に戻って風呂を使い床につく。それは、国府でもごく上位の者たちに許されることでし
かない。
もっとも、たいていの府第の下吏たちの仕事の密度は、通常はさほど苛烈なものでは
ない。だが、ひとたび状況が変化すれば、この限りではなかった。人権の保護に関する
法規定が極めて大雑把でしかなく、意識の確立していない社会では、ささやかな福利厚
生などは、真っ先に犠牲になるのが常だった。
官とは王と民に仕えるもの、職に一命を奉じて当然ではないか。という反対意見も根
強くあった。だが府第で働く二割ほどは官吏ではなく、官吏の多数は仙ではない。よく
も悪くも、王のもと、完璧な官主導で動かさざるをえないこの世界の制度・組織にあっ
てはなおのこと、府第で働く者たちへの福利を疎かにしてよしとすることは、畢竟、そ
れ以外の民への福利を軽んじる意識にもつながるのだ――泰麒は、そう強く説いて、時
間をかけて閣僚全員の理解をとりつけ、また驍宗を説得して、国府での試験実施に漕ぎ
着けたのだった。驍宗復位の翌年、十八年前のことである。徐々に地方の府第に広げて
ゆき、十年かけて余州全てに行き渡った。
最初は戸惑った官も民も、いまでは府第が毎週休みになることにすっかり慣れた。週
に一日休みをとる習慣は、民の間でも浸透しつつあり、歓迎されている。
しかし、休みをとることに、なかなか慣れぬ者もいた。
その筆頭が、法令を出させた当の、驍宗だ。
三年目からは、正月行事が一区切りした時期の年始休暇も、三日はとるようにとされ
たのだが、彼は、実際はこれをとっていない。毎年とる予定にはするものの、どこへ出
かけるわけでもなく、結局、なし崩しに普段どおり仕事をして過ごしてしまった。大体、
驍宗の場合は週休も、朝議がないから外殿に出ぬだけのことで、正寝でなにかしらの書
類に、かまけている。
この度の、盛夏休暇制定に際しては、主上御自身にもぜひとも休暇をとっていただか
なくては、という声が周囲から出たのも、無理からぬことであった。
「でも…、」
と泰麒が愉快そうに、厩舎のある方角を眺めた、
「さんざん渋っていらしたのに、なんだか、主上が一番楽しそうだ」
李斎は、目を嬉しげに巡らせながら、控えめに同意を示した。
離宮のあるこの凌雲山には、無論、本当に彼ら三人きりでいるわけではない。主上の
御滞在中、下の門と中腹の門には、禁軍の精鋭が配されて警護にあたっており、同時に、
毎日王宮からの青鳥を受け取り、急の連絡にも備えている。食料や燃料の補充をはじめ、
清掃など雑用の主なことは、白圭宮でもそうであるように、下働きの者が主たちとは時
間をずらして、出入りして行った。
この厨房も彼らが起きる前に清掃が済み、食料が新しく運ばれて、目が覚めるころに
は、朝の膳が整えられているのだ。
だが、四六時中、人の中で暮らすのがもう当たり前となっている彼らにとっては、顔
を合わせる側付きの官が全く見えないのは、信じられないほどの開放感であった。
昼餉と夕餉は自分たちで作ると決めてあるから、そのために必要な水汲みや、後片付
けは自分たちでする。建物のすぐ近くに厩舎があって、普段、正寝内には入れることを
許されない騎獣たちがいる。驍宗のすう虞と李斎の飛燕だ。彼らに脇の小さな倉から飼
葉を運んで、水をやる。寝藁を換える。世話の一切を、してやれる。
起きて、自分で服を着、井戸の端で顔を洗う。それだけのことで、今朝は笑い合った。
滞在している居宮は、さほど広くはないが、採光と風通しにすぐれた、夏の造りだ。
部屋の多くは海に向かって開かれ、目の前には遥遥と雲海が広がっている。背後の庭は
すぐに鬱蒼とした森に続き、緑の崖が迫っていて、深山のように鳥の声がした。
この井戸のある庭院から、夏草の生い茂る細い坂を下りてゆけば、白砂の浜も広がっ
ているのだ。
「こっちのお野菜も、剥いておく?」
「はい。お願いします」
泰麒が籠を抱えて座り、豆の莢をむき始めると、李斎は茄子を洗って切り始めた。
李斎のまな板には、のせたものを抑える、重しのついた腕がある。后妃の仕事が忙し
くなった今でも、何かしら驍宗や泰麒のために拵えたがる彼女に、泰麒が自分で木を削
って作り、贈ったものだ。それを使ってトン、トン、と軽い音が刻まれる。
楽しげな後姿をながめて、泰麒はちょっと目を眇め、満足そうに微笑んだ。
彼らの休みは、はじまったばかりだ。