蒿里
夜の金波宮。人影が露台へと出る。
目の前に広がる雲海。
鼻腔をくすぐる潮の香り。
髪を流す潮風。
李斎はその中にただ独り居た。
髪は風のいいようにし、
上着は煽られる。
それでも彼女は一歩たりとも動かない。
雲海の北をただじっと見つめるのみ。
蒿里誰家地
聚斂魂魄無賢愚
鬼伯一何相催促
人命不得少踟厨
―蒿里は誰家(いずれ)の地ぞ
魂魄を聚斂(しゅうれん)して賢愚無し。
鬼伯 一に何ぞ相催促する、
人命 少(しばら)くも踟厨(ちちゅう)するを得ず―
「死後の世界の歌、か…」
ふと李斎は思う。
今の戴は蒿里だ―と。
人々の苦しい生活。
それは死で無く何か。
王、台輔共に不在および行方知れずは
如何なる事か―と。
やがて李斎は帯の切れ端を胸元に引き寄せた。
―驍宗殿、今何処に。
―独りは寒いのです。
―戴を、私をいつも暖めて下さったあなたは何処に。
李斎は独り嗚咽を漏らした。
FIN.
※作中の漢詩「蒿里」は中国名詩選(上)91、編者松枝茂夫 岩波書店より抜粋しました。
また、踟厨(ちちゅう)のちゅうは本来、足偏に厨の字ですが常用漢字ではないため表示できませんでした。
―あとがき―
李斎は強い人間であり女性なので決して人前では弱音は吐かないと思います。
そして夜、独りでこっそりとため息をついてそうです。
しかも、自分のことで泣くほかの人のためを思っての。
(黄昏の岸~は李斎が自分のこと(自分の国の事)しか考えてなかったという感じの話ですが。)
「蒿里」という詩は中三のときテーマを決めて詩のアンソロジーを作りなさいという宿題が出まして。
その時見つけた詩です。
驍宗が作中で「蒿里とは死者の世界の名だが…いっそ不吉で返って良いことが起こるだろう」と
言っていましたから、こうピーンときました。
少佐さんに贈らせていただきます。
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明日(めいじつ)
口さがない者たちの噂話を、若者はつとめて気に留めないようにしていた。
聞かないふりをしていた。
つまらない風説に心を乱しては、結局のところ彼が今仕えている人物を傷つけることに至ってしまうと思ったからだ。
そのひとが、自分に関わることであってもそんな俗聞になど全く興味を示さなかったからこそ。
若者は、部外者である自分が心を騒がすことほどみっともないことはないと思った。
特に、そのひとは美しい女性であったから。
自分が見苦しい態度に出てしまうことが、たいそう恥ずべきことに思えた。
「いつもすまないな。」
身の回りの世話をする役目を嬉々としてこなす若者に、李斎は小さく労いの言葉をかけた。
「いいえ、劉将軍のお世話が出来るのは、光栄なことです。」
「ただでさえ、この国には人が足らぬのに。」
苦しげに眉を寄せる李斎に、若者が首を振る。
「将軍は、この国を救われた方です。台輔がお帰りになられたのは劉将軍のお力あってこそです。将軍のお役に立てることを誇りに思わない戴国の民は一人としていません。」
偽王の時代、蓬莱へと流されてしまった泰麒を帰還させるために命がけで他国に救いを求め、その過程で片腕を失ったこの女将軍は、国を救った恩人として破格の扱いを受けているが、一方で片腕を失ってしまったことで、武人としての働きどころか日常の生活すら人の手を借りずば立ち行かない。
「そなたのような前途有望な官を、私ごときの召使いに据えておくとは、宝の持ち腐れというもの。私には、故郷へ帰ってつつましく暮らすというすべもあると言うに。」
「劉将軍。」
何度か聞かされていた言葉に、若者はいつものように困惑の表情を浮かべるしかない。
この人望篤い将軍に白圭宮を去らせたくないという気持ちは、彼とて他の官と同じく強かったが、しかし彼女を説得して引き止める術を持たなかった。
そこで、ふと魔が差した。
いつもは聞かないようにしていた、あの噂がもし本当だったのなら・・・。
「あの、将軍。」
おずおずと問う若者に、李斎は優しげな視線を向ける。
うつむいたまま、尋ねた。
「将軍のどなたかに嫁されるというお話は本当なのですか。」
唐突な問いに、しかし李斎は表情を変えなかった。
まるで、その噂をとうに知っていたかのように。
かわりに、小さく笑った。
「誰がそのようなことを申しているのだ?」
「あ、その・・・。」
しどろもどろな若者に、李斎はついと窓の外を一瞥して言った。
「それが主上のご命令であれば従わずばなるまい。」
「違います!」
慌てて若者が遮った。
国主である王の名が、こんな巷の噂話に混ざってしまうのは恐ろしいことだった。
「だが私は全くの役立たずであるから、主上の御命令で私を押し付けられては諸卿にとっても迷惑であろう。」
「そんな・・・。」
若者はうまく言葉を紡ぐことが出来ず、おろおろするばかりだった。
実のところ、その噂は「劉将軍のお世話をお引き受けしたい」と願い出る上位の文官や武官が一人ならずいるらしいという話を端緒にしている。
国の恩人であっても、満足に働くことが出来ない身に国の俸給を与えることは、泰王を快く思わない者たちの中傷を呼ぶ。
それくらいならば、と進んで李斎を引き受けたいと願い出る者が、彼女の知己であった者や信奉者であった者の中から現れている、そういうことなのだ。
「それは・・・、違います。」
「それに。」
必要以上に自らを貶めようとする李斎に若者が抗弁しようとした時、女将軍はさらに低い声音でつぶやいた。
「私の夫となる者は、いささかおぞましきものを見ることになる。」
感情の見えない、だが今までになく険しいその声に若者はたじろいだ。
だが、李斎の凍り付くような声に一瞬青くなったものの、その意味するところに思い当たって若者はぱっと顔に朱を昇らせた。
「あ、あの・・・。」
「主上が、故郷に戻ることをお許し下されば良いのだが。」
その声は。
必ずしも切実な願いに聞こえるものではなかったのだが。
目の前に佇む女将軍の、質素な官服の内側にあるものを想像して思わず赤面してしまった若者の耳に、その微妙な声音は入って来なかった。
訪ねて来た男も、訪問を受けた女も、傍から見れば困惑しているとしか思えない表情で向かい合っていた。
厳密には、顔に出すべき表情を選びあぐねている、というのが正しかったかもしれない。
何もかもが、昔日とは違うのだということを、男も女も受け入れようと努力していた。
だが、その努力をしなければならないという両者の使命感の強さが、昔日と変わっていないことまで受け入れるのを拒否している、そんな皮肉な状況でもあった。 ふいに視線がぶつかると、そっと李斎は目を伏せた。
それは、ありし日の彼女には見られなかった仕草だった。
かつて想いを交わした女が視線を逸らす時、それは愛を失ったと解釈すべき時である。
そのくらいは、驍宗も知っている。
だが、自分たちがその昔に育んでいた情は、そんなお手本が通用するようなものではなかったことも知っていた。
知らなければ、あるいは幸せだったかもしれないが。
あらゆるものが変わってしまったかに見えるこの時この場所で、しかし驍宗にとって李斎が、そして李斎にとって驍宗が、何を以てしても引き換えることの適わない特別な存在であることだけは、実は変わっていないのだということを、二人は受け入れざるを得なかった。
未熟さを言い訳にそれを受け入れられない若さを、不幸にも二人とも失くして久しい。
「わたくしの処遇を、お決めになられたのでございますか。」
かつての李斎を知る身にはまるで馴染まない、蚊の鳴くような声に、驍宗は乏しい表情で答えた。
「そういう訳ではない。」
否定してみるものの、それに続く言葉はなかなか見つからない。
不自然な沈黙だけが、二人の間に横たわる。
「李斎。」
「はい。」
「そなたは、どうしたいのだ。」
尋ねる意味もないと判っていることを、それでも驍宗は訊いてしまった。
「数ならぬ身となりました。主上のご意向に従うしか術はございません。」
予想された答えに、驍宗は唇をわずかに歪めた。
歪めたまま、手を伸ばした。
李斎の身体をそこに収めるまでは柔らかかった腕の力が、記憶にある感触よりもはるかに細くて弱いのを認識するなり弾けるように強まった。
「わたしは、そなたを失いたくない。」
絞り出すような声が、李斎の耳元で漏れた。
わずかに身じろいだ李斎の動きは、哀れなほどに弱々しい。
その弱さに苛立つように、驍宗はさらに荒々しく抱き竦めた。
貪るように唇を奪うが、李斎は抗う仕草も応える様子も見せない。
襟元を解き、雪のように白い肌に口付けた時、か細い声が聞こえた。
「李斎とて女でございます。」
それはあまりに弱々しく、ありし日の彼女を知る者には同じ人間の声に聞こえなかったであろう。
「殿方に己の醜き様を晒すのは辛うございます・・・。」
伏せられた睫毛が揺れ、そこに涙が滲むのを見て驍宗は手を止めた。
李斎は抱き締められながら、驍宗の視線から逃れるように顔を伏せていた。
そして、弱った鳥でもこれほどにか細くは啼かないだろうと思う、そんな声を絞り出す。
「それが、心に想う方であれば尚更・・・。」
李斎はそうして、何かを否定するかのように、首を振った。
だが、男の肩を掴んでいた片方しかない腕は、首の動きに反作用でも起こしたように強くしがみつく。
驍宗は穏やかに、そっと彼女の頭を支えて自分の肩に乗せ、髪をやさしく撫でた。
心に渦巻く想いは、その仕草とは裏腹な、いささか苛烈なものであったけれども。
この女が、こんな風に脆い姿を晒すはずがない。
そう思いたかった。
己が惹かれ、愛したのは、この女の持つ強さであり気高さであった。
けれど、今腕の中に在る女がそれを失っているという事実を、受け入れなければならなかった。
女は小さく震えて、泣いていた。
ありし日、情を交わす時に彼女が抵抗して見せた力は、ずっと強くてしなやかだった。
だが、あの頃それをやすやすと封じた腕の力は、いま李斎が自分を拒否しようと抗う弱々しい力を跳ね返すことが出来ない。
すべては、変わってしまったのだ。
苦難の日々と片腕を喪うという事件が李斎から奪ったものは、あの清冽で涼やかで、瑞々しい生気だった。
もはや彼女が将軍として働けないという事実がもたらす缺落感より、それははるかに大きな痛みを驍宗にもたらした。
流れ出る溶岩のような色をした瞳を、驍宗はわずかに細めた。
その重苦しく燃える塊が、迸って流れるのを防ぐかのように。
そこに光るのは、正しく憎しみであったかもしれない。
それは李斎を変えてしまった物に対する、強い憎しみだった。
しなやかに靱く、眩しいほどに輝いていたあの人は、いま腕の中でか細く震えている。
こんな風に、この人を脆くしてしまった元凶たる存在を、驍宗は憎んだ。
己れの存在をかけて、憎んだ。
即ち、その不在によってこの国の隅々にまで苦難を与えた、自分自身という存在を。
仮住まいにと下賜された邸宅からほとんど出ようとしない李斎を、連れ出したのは泰麒だった。
李斎が、白圭宮に登城するのを躊躇してしまうのは、あまりに過去と重なるからだ。
辛い思い出だけを想起させる場所よりも、苦難の記憶と幸福の記憶が共にある場所に立つほうが、心が痛むことを李斎は知った。
その精神(こころ)の強さと器の大きさで、敬意の輪を作り上げていた泰王と、純真であどけない泰麒が幸せそうに笑む姿、この庭院に来るだけで、否、脳裏に思い描くだけで、李斎はそんな幻を見てしまう。
すべては、変わってしまったのだ。
それをきちんと理解しているはずの頭脳と、幻を見せようとする心が、痩せ細った李斎の身体の中で激しく拮抗する。
雲海を見渡すはずの路亭を遠目に認めて、李斎は目を眇めた。
一瞬、そこに人影を見たように感じた。
大柄な泰王の後ろ姿が、その腕に抱え上げられた幼い泰麒に何事かを囁いている、そんな風景が蜃気楼のように眼前を彷徨った。
彷徨って、やがて消えた。
「どうしたの。李斎。」
尋ねた泰麒に、李斎は答えた。
「あの路亭は、全く変わっていないのですね。」
努めて穏やかに紡いだはずの言葉に、しかし泰麒は目を剣呑に光らせることで応じる。
「李斎。」
一瞬だけ俯き、泰麒は李斎を真っ直ぐに見つめた。
その、己れとほとんど変わらない目線の高さに刹那戸惑って、李斎はまたも目を伏せた。
その時泰麒の瞳に、怒りに似た鋭い光が宿った。
「台輔!」
やにわに抱き上げられて、李斎が泡を食ったような声で叫んだ。
泰麒は、軽々と李斎の身体を抱き上げると、路亭に向かった。
「台輔、お離しください。」
「なぜ?危ないから?」
飄々と問うた泰麒に、李斎は返答に詰まる。
泰麒の力は強く、骨まで痩せてしまっている李斎を運ぶのに難儀しているようには見えない。
かといって、恐れ多い、などという当たり前の理由を口に出来る空気はそこになかった。
路亭まで運ぶと、泰麒は雲海を見せるようにしながら李斎を下ろした。
「台輔・・・。」
困惑するだけで言葉のない李斎に、泰麒はひとつ、溜息をついた。
そして、一呼吸の間を置いて李斎に問うた。
「李斎は、昔に帰りたいですか?」
「・・・。」
泰麒は、視線を雲海に向かって泳がせながら、問うた。
「李斎は、あの頃のほうがすべて、今よりも良かったと考えているのですか。」
すべてではないだろう。
だが、ほとんどの物事について、この荒廃以前の状態に戻せるものなら戻したいと、切に願うこともある。
それは適わないことだからと、心の奥底に封じ込めてはいても。
「時間を戻ることが出来るのなら、戻りたいと思っているのですか。」
「不可能なことを願うのは、罪深いことです。けれど心が弱っている時のわたくしは、考えてしまいます。あれ以前に帰ることが出来たらと。」
「そう・・・。」
泰麒はもう一つ、溜息をついた。
それは、どこか冷ややかな空気を帯びていた。
「では、僕だけなんだ。」
泰麒の、半ば諦念の混ざったような声に李斎は驚く。
「喜んでいるのは、僕だけなんだ。僕には今、あの頃にはなかった、貴女をこの腕で運べるだけの力がある。こちらの文字も、多少なら読める。子供の頭には入らないことも、理解できる力も得た。あの頃には出来なかった、驍宗さまの国づくりの輔けとなることが、もしかしたら出来るかもしれないと思ったのだけど・・・。」
「台輔・・・?」
「皆、変わってしまった僕は、要らないみたいだ。」
「台輔!」
泰麒の言わんとすることの輪郭を朧げに悟って、李斎が鋭く叫んだ。
「僕だけは、あの頃と変わったことを喜んでいる。けれど、変わったことを喜んでいるのは、僕一人なんだ。」
「違います!!」
堪らず李斎は、泰麒の袖を掴んで叫んだ。
「台輔、貴方は、希望です。戴国の、待ち望んだ希望です・・・。」
李斎の瞳に往時の、堅固な意志を秘めた光が少しだけ復活していた。
「誰もが、貴方のご帰還を待っていました。貴方が、この国の礎となって下さるのを、待ち望んでいました。」
必死の呈で訴える李斎から泰麒はしかし、視線を逸らした。
ふいに、背後に騒めきが起こった。
「あ、劉将軍だ。」
自邸に籠りきりで、李斎の姿を見たくても見られない者たちが集まっていた。
泰麒が彼らを招き、李斎はわずかに顔を綻ばせた。
だが伏し目がちなその瞳に、かつて州師を率いていた頃の面影がないのを発見して、ありし日の彼女を知る者たちの目に戸惑いが浮かぶ。
泰麒は、彼らの名を一人一人呼ぶと、近況を聞いた。
誰にとっても苦難の中にあった過去6年のことには触れず、ごく最近の話題を持ちだしてはそれに関わった者たちの噂を拾い出した。
李斎はそれをただ聞いていた。
まるで、あの平和だった日々の続きに、昨日や今日があったかのような錯覚を起こしながらただ聞いていた。
穏やかなその時間の中に、李斎は幻を見る。
若枝が太陽に向かって伸びるように、健やかに成長する泰麒の姿を。
暖かい波のようなものが胸の裡を流れ、だが突然李斎は我に返った。
幻を振り払うように首を振った李斎の、その視線の先に、泰麒の瞳があった。
「疲れましたか?李斎。」
気遣わしげなその声は穏やかに低く。
綻んだ笑みに緩められた瞳は静かに深く。
「あ・・・。」
暗い闇の中で、ふいに外界への扉を開かれた時のような眩しさを、李斎は言葉に出来なかった。
光の中に立つ、李斎とほとんど変わらぬ背丈の麒麟は、幻ではなかった。
白圭宮の主が姿を現したのは、その時。
集った者たちが、一斉に跪礼する。
「主上。」
皆に混じって跪いた李斎に、驍宗は穏やかに声をかけた。
「話をしたいのだが構わないか。」
「・・・・。」
顔を上げられず、答える言葉も見つからないでいる李斎の脇で、衣擦れの音がした。
集っていた者たちが、王に遠慮して一人また一人を去っていった。
その衣擦れの音が止んだ後、そっと目を上げると赤い真摯な眼差しに出会う。
李斎は、目を逸らさなかった。
紡ぐ言葉が見つからないまま、それでも李斎はその赤い瞳を見つめていた。
「駄目です。」
その時ふいに、背後から拒否の言葉が聞こえて李斎は思わず振り返った。
泰麒は、路亭の手すりに腰を預けながら、己が主を真っ直ぐに凝視している。
「蒿里?」
訝しげに首を傾げた驍宗に、泰麒は静かに、ただ静かにその言葉を突きつけた。
「貴方は、この人を泣かせることしか言わない。だから、行かせられない。」
「台輔!」
李斎は小さく、悲鳴を漏らした。小さな声しか出せなかったのは、そこに拡がる空気の圧力が緊迫をもたらしたため。
後に続いたのはしばしの沈黙。
泰王である男は、やがて静かに呟いた。
「そうだったな・・・。」
大柄な男の頭が、わずかに下を向く。
「官にも将軍にも、私をそのように譴責してくれる者がおらぬ。」
どこか寂しげな主の横顔を、泰麒は睨んだ。
何を責めようとしたのか、或いはしたいのか、定かでないまま泰麒はただ睨んだ。
「邪魔をした。」
一言そう発すると、驍宗はもと来た道を帰っていった。
「台輔。」
李斎が雲海を見下ろしながら、穏やかに泰麒を見る。
微笑を浮かべ、李斎は言った。
「主上と、お話をしてまいります。」
昔日の彼女を知る者を戸惑わせていた、伏し目がちの眼差しではない、まっすぐな瞳を泰麒に向け、宣言するように李斎はそう言った。
「また泣くことになるかもしれないのに?」
「泣きません。」
揶揄するような泰麒の言葉には、毅然と応じた。
「何を話すの?」
詰問に近いそれに、微笑みで答える。
「片腕を失くしたとはいえ、剣術指南程度は李斎にも出来ます。かたわの身ではありますが、戴国の再建に尽くしたい、だから使ってくださいと、お願いをしに参ります。」
「そのことで悪く言うものが出てくれば主上が困るだろうからと、邸に引きこもるのは止めるということですか。」
・・・やはりご存知だったのか。
だが、李斎は驚かない。
目の前の泰麒はもはや、あの幼くてあどけない麒麟ではないのだと、李斎はもう知っている。
「そのような非難が出るのならば、共に受けてくださいと、お願いをいたします。」
李斎は、正面に向きあって泰麒を見た。
「私の志を、ともに背負っていただきたいと・・・。」
そして、やわらかく笑んだ。
その悪戯めいた微笑みが、仄かに色香を纏う。
「あの方に要求してまいります。」
「李斎が泣くのは見たくないです。」
泰麒も、悪戯をする時のような微笑を浮かべた。
「だから、泣くかもしれないところへなんて行かせたくない。それならば、泣いて引き止めたい。」
あの頃のように。
だが、あれは遠い日で、もはや返らない。
「台輔。」
李斎はその場で跪いた。
まるで天に頭を垂れているかのように恭しく頭を下げ、李斎はその言葉を雲海からの風に乗せた。
「台輔。よくお戻り下さいました。」
静かに歩み去る李斎の背を見送った泰麒は、その視線をついと脇に逸らす。
いつの間にか、路亭の入り口付近に佇んでいた人物に声をかけた。
「ねえ正頼。」
否、問いを、発した。
「仁獣の麒麟に、憎まれ役をさせるこの国って、どういうこと?」
成年にはわずかに猶予があるような年頃の少年が見せる、悪ぶった声音で問われたそれに、正頼は答えなかった。
答えられなかった、というのが正しい。
「答えられないの?」
悪ぶった態度を取るために、無理をして侮蔑の表情を作る、そんな趣きを匂わす泰麒の問いに、それでも正頼は素直に応じた。
「はい。」
「ふーん。」
「申し訳ありません。」
「僕の問いに、答えられないんだ。それじゃあ・・・。」
泰麒は、人さし指を立てて天に向けた。
「貴方は傳相失格だ。」
「はい。」
正頼はその言葉にも素直に頷いた。
「解任だよ。」
「はい。」
「主上に、新しいお役目を貰わないとね。」
「はい。」
子守を卒業させられた男は、ただ、素直に頷いていた。
李斎が剣術指南の役目を得、つつましくも戴国再建の一翼を担い出してしばらく経つ頃には、彼女に求婚しようとする者はいつの間にかいなくなっていた。 その必要を見出さなくなったのが一番の理由であろうが、それとは別に、どうやら台輔と恋敵にならねばならぬらしいとの噂が、どこからか聞こえて来た。
ただ、その噂の出所は定かでない。
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35000ヒットリクby明美さま。『払い下げになる(なりそうになる)李斎』。ハイハイ、H.v.H.恒例の詐欺まがいリク作品の登場です。35000、一年以上前ですね。これだけ待って下さったのに、やはり詐欺くさいシロモノしか出来ませんでした。
ていうか、
途中で主役変わってます。(滅)
驍宗さまも李斎さんも逆境では黙して語らずのタイプだったようで、とにかく喋ってくれないくれない・・・。二人が喋ってくれないせいで半年近く執筆は停滞。そこで「子はかすがい作戦」ということで、泰麒ちゃんをグレーに染めて(そこが間違いか!?)投入したところ、話は動いてくれたのですが、ご覧の通りすっかり両親を喰ってしまいやがり・・・・ったくもう。
大人泰麒が自ら正頼の傳相の任を解く、というネタと、李斎の台詞「わが夫となるもの・・・」(これは我が最愛の女性アニメキャラ、クシャナ殿下のマイベスト台詞)は、常々どっかで使いたいな~と思っていたものです。
問題の「払い下げ」は、やはり私には無理だったようで(初期の頃は「やっぱり英章が出てくるんだろうなあ」とか思っていたのですが、私の中で英章のキャラが固まっていないため却下。)なんだか「リク内容消化率30%」あたりに落ち着いてしまいました。せめてもの気持ちということで(誤魔化しともいう)タイトルに明美さんの「明」の字を入れてみる・・・
09 麦畑の真ん中で
もう何度、彼女の姿を見ただろう。
白銀の甲皮を身に纏い腰には紅玉の石が光る剣を携え、しっかりとした足取りで歩く。
その表情の凛としたこと。
ああ、そうだ。
私はこれを手に入れたかった。
やがて近付いてきた女が私の前で傅いた。
皮甲の擦れる音が小さく響く。
彼女は深く叩頭したまま、膝を付いたまま動こうとしない。
地に垂れた髪が泥に濡れるから顔を上げるようにと促しても、一向にその気配を見せなかった。
何度言っても頭を垂れたまま。
随分長い時間そうしているものだからぬかるんだ地面から吸い上げられた汚水が彼女の朝焼けに似た赤の髪に染みこんでいった。
みるみるうちに泥褐色に滲むその異様な光景に私は目を見張った。
妙な胸騒ぎがして女の肩を強く掴んで無理矢理抱えあげた。
女は泣いていた。
声も出さずにただ静かに泣いていた。
噛み締められた唇に赤いものが染みていた。
乾いた唇から発せられる嗚咽にも似たその叫びを私は聞くことが出来ない。
酷く震えた顔立ちに最早彼女の面影は無く、その異形は咽びながら両の手で私の腕を掴んだ。
間髪付かずに突き出された上腕が着物を切り裂き、肉に食い込む。
左肩に激痛が走った。
尋常ではないその痛みに気を取られた一瞬、狂った足元は掴み合った我等を奈落に突き落とす。
新月よりも深い暗闇の中で己の左肩に喰い込む彼女の右腕を見た。
次に顔を上げた時には異形も女も姿は無く、その残骸だけを残して音も無く消えた。
「………上、…主上、いかがされました?」
額に溢れた汗を拭う、その左手。
日々の剣の鍛錬で培われてきたのだろう、小さな傷を幾つも残したいつもと変わらない彼女の手。
「……―――――」
常に無く戦慄いた顔で息を切らす男に女は驚いている様だった。
それを誤魔化すように忙しなく汗を拭う彼女の指から伝わる体温に安堵して男は大きく息を吐いた。
「お加減はよろしいですか?…酷く、うなされていた様ですが…」
上下した息が一しきり落ち着いてようやく男は身を起こした。
彼以上に真っ青な顔をして男の背を擦る女の顔に涙はない。
「…いや、…何でもない…」
女を胸に抱えて、無くなった肩を撫でた。
縋るように抱えて、もう一度息を吐いた。
(06.11.28.update)
もう何度、彼女の姿を見ただろう。
白銀の甲皮を身に纏い腰には紅玉の石が光る剣を携え、しっかりとした足取りで歩く。
その表情の凛としたこと。
ああ、そうだ。
私はこれを手に入れたかった。
やがて近付いてきた女が私の前で傅いた。
皮甲の擦れる音が小さく響く。
彼女は深く叩頭したまま、膝を付いたまま動こうとしない。
地に垂れた髪が泥に濡れるから顔を上げるようにと促しても、一向にその気配を見せなかった。
何度言っても頭を垂れたまま。
随分長い時間そうしているものだからぬかるんだ地面から吸い上げられた汚水が彼女の朝焼けに似た赤の髪に染みこんでいった。
みるみるうちに泥褐色に滲むその異様な光景に私は目を見張った。
妙な胸騒ぎがして女の肩を強く掴んで無理矢理抱えあげた。
女は泣いていた。
声も出さずにただ静かに泣いていた。
噛み締められた唇に赤いものが染みていた。
乾いた唇から発せられる嗚咽にも似たその叫びを私は聞くことが出来ない。
酷く震えた顔立ちに最早彼女の面影は無く、その異形は咽びながら両の手で私の腕を掴んだ。
間髪付かずに突き出された上腕が着物を切り裂き、肉に食い込む。
左肩に激痛が走った。
尋常ではないその痛みに気を取られた一瞬、狂った足元は掴み合った我等を奈落に突き落とす。
新月よりも深い暗闇の中で己の左肩に喰い込む彼女の右腕を見た。
次に顔を上げた時には異形も女も姿は無く、その残骸だけを残して音も無く消えた。
「………上、…主上、いかがされました?」
額に溢れた汗を拭う、その左手。
日々の剣の鍛錬で培われてきたのだろう、小さな傷を幾つも残したいつもと変わらない彼女の手。
「……―――――」
常に無く戦慄いた顔で息を切らす男に女は驚いている様だった。
それを誤魔化すように忙しなく汗を拭う彼女の指から伝わる体温に安堵して男は大きく息を吐いた。
「お加減はよろしいですか?…酷く、うなされていた様ですが…」
上下した息が一しきり落ち着いてようやく男は身を起こした。
彼以上に真っ青な顔をして男の背を擦る女の顔に涙はない。
「…いや、…何でもない…」
女を胸に抱えて、無くなった肩を撫でた。
縋るように抱えて、もう一度息を吐いた。
(06.11.28.update)
06 ほのかに香る
一人になった寝台の上に仰向けに転がり、ぼうっと彼方を見上げていた。
投げ出された身体は自分で思うよりも疲れているのだろう、寝返りを打つことすらたまらなく億劫で、女はそのままの姿勢でただ瞼を閉じたり開いたりを繰り返していた。
何も纏わない肌に包まった絹の冷やかな感触が心地良い。
伸ばした指が彼女の筋の取れた肢体に触れて静かに落ちた。
まだ熱が残っている。
思い出した途端じわじわと熱くなる頬を誤魔化す為に女は再び衾の中に潜り込んだ。
じっと、産まれたばかりの獣のように身を小さく埋めながら、重い瞼を閉じ内奥から幽かに響くその音に耳を傾けていた。
―――とうとうこの一線を越えてしまった。
それは彼女が最も恐れていたことだった。
過度の寵愛を受けることは朝の中で要らぬ荒波を立てる要因になりかねない。
それが分かっているから、どんなに苦しくても己の築いた壁を超えないようにと思っていたのに。
女は後悔していた。
あの男の甘美な言葉にまんまと酔わされて痴態を晒したことが愚かしいのか。
決して知られてはならないと堅く誓った本心などとうに知れていたことが悔しいのか。
それでも目を閉じると思い出すのはあの男の声だった。
それも、常とは―――聡明で威風堂々と座す、全臣民から崇拝される彼の本来の姿とは違う、色を孕んだ甘い囁き。
女は包まった衾の中で己の喉元を強く抑えた。
心音と似た速度で迫る奇妙な足音は、彼女自身も気付かない内に彼女の心を捕らえていた。
臣下として相応以上にあの男に近付くことは玉座を汚すことにはならないのか。
(だから周りの中傷や根拠のない噂を恐れるのだろうか)
この背徳者、と指をさされることが怖いのか。
(それはあの男を貶めることにはならないのだろうか)
――――でも、私が本当に恐れていることは……?
女は目を閉じてゆっくり息を吐いた。
次第に苦しくなる呼吸は間隔の狭まる動悸を伴って彼女を暗沌とした恐怖へ叩き落とす。
もはやどんなに留めようともがいても、溢れてくる考え達を抑えきれなかった。
私が恐れていることは。
あの男の戯れに現を抜かして、ようやく手にした王師将軍の椅子を失うこと?
ろくに職務を果たせなくなって、あの男を失望させること?
一時の戯事に飽いたあの男が、私ではない誰かを抱いてしまうこと?
私が恐れていることは。
私が恐れていることは。
私が恐れていることは、どうしてあの男のことで溢れているのだろう。
弾ける泡の様に導き出された答えは驚くほど単純で、女は声を失った。
「本当に…」
自分でも呆れるほどに、気が付けば彼のことを想っている。
女は苦く笑って、少しだけ泣いた。
(06.11.16.update)
一人になった寝台の上に仰向けに転がり、ぼうっと彼方を見上げていた。
投げ出された身体は自分で思うよりも疲れているのだろう、寝返りを打つことすらたまらなく億劫で、女はそのままの姿勢でただ瞼を閉じたり開いたりを繰り返していた。
何も纏わない肌に包まった絹の冷やかな感触が心地良い。
伸ばした指が彼女の筋の取れた肢体に触れて静かに落ちた。
まだ熱が残っている。
思い出した途端じわじわと熱くなる頬を誤魔化す為に女は再び衾の中に潜り込んだ。
じっと、産まれたばかりの獣のように身を小さく埋めながら、重い瞼を閉じ内奥から幽かに響くその音に耳を傾けていた。
―――とうとうこの一線を越えてしまった。
それは彼女が最も恐れていたことだった。
過度の寵愛を受けることは朝の中で要らぬ荒波を立てる要因になりかねない。
それが分かっているから、どんなに苦しくても己の築いた壁を超えないようにと思っていたのに。
女は後悔していた。
あの男の甘美な言葉にまんまと酔わされて痴態を晒したことが愚かしいのか。
決して知られてはならないと堅く誓った本心などとうに知れていたことが悔しいのか。
それでも目を閉じると思い出すのはあの男の声だった。
それも、常とは―――聡明で威風堂々と座す、全臣民から崇拝される彼の本来の姿とは違う、色を孕んだ甘い囁き。
女は包まった衾の中で己の喉元を強く抑えた。
心音と似た速度で迫る奇妙な足音は、彼女自身も気付かない内に彼女の心を捕らえていた。
臣下として相応以上にあの男に近付くことは玉座を汚すことにはならないのか。
(だから周りの中傷や根拠のない噂を恐れるのだろうか)
この背徳者、と指をさされることが怖いのか。
(それはあの男を貶めることにはならないのだろうか)
――――でも、私が本当に恐れていることは……?
女は目を閉じてゆっくり息を吐いた。
次第に苦しくなる呼吸は間隔の狭まる動悸を伴って彼女を暗沌とした恐怖へ叩き落とす。
もはやどんなに留めようともがいても、溢れてくる考え達を抑えきれなかった。
私が恐れていることは。
あの男の戯れに現を抜かして、ようやく手にした王師将軍の椅子を失うこと?
ろくに職務を果たせなくなって、あの男を失望させること?
一時の戯事に飽いたあの男が、私ではない誰かを抱いてしまうこと?
私が恐れていることは。
私が恐れていることは。
私が恐れていることは、どうしてあの男のことで溢れているのだろう。
弾ける泡の様に導き出された答えは驚くほど単純で、女は声を失った。
「本当に…」
自分でも呆れるほどに、気が付けば彼のことを想っている。
女は苦く笑って、少しだけ泣いた。
(06.11.16.update)
05 永遠に続く
探していた人物を見つけたのは王宮の奥深く、雲海に面した露台の端の端。
佇む影は潮風に靡く髪を撫でながら、その視線を熱心に夜の海へ注いでいる。
声を掛ければ、振り向いた女は嬉しそうに笑みを寄越した。
何か珍しいものでもあるのか、と問うと、女は頷き、それから再び視線を戻す。
「ここなら王宮の中からでも雲海の下が良く見渡せるんです」
紫紺の瞳の先にはうっすらと広がる闇の雲海と、ぽつりぽつりと浮かぶ鴻基の灯り。
寄せる小波が静かに響いていた。
見渡せるといっても、もう夜だから景色など見えるはずがない。
不思議そうに首を傾げる男を見て、女はやんわりと笑んだ。
「…風が止めば、その内に見えてきます」
言われるまま、女の視線を追いかけて闇に包まれた雲海をじっと眺めてみた。
初冬の乾いた風が吹き、波がざわめく。水面に映った灯籠の炎が揺らめいた。
随分長い時間そうしていたような気がする。
眺めることに飽き始めた時、女が小さく感嘆の声を上げた。
ひとしきり冷気を運んできた風が止み、穏やかになった波の下からまばらだった灯りが淡い光を放ちながら浮かび上がる。
一つ。二つ。
十が百に、百が千に。
真冬の天頂に輝く北辰を思わせる月白。
穏やかに浮かぶ春の日暮れの金の赤。
気が付けば眼下に見下ろす漆黒に浮かぶ、色取り取りの無数の光。
その美しさに、男は思わず息を飲んだ。
「…憶えておいでですか?以前こうして二人で此処から景色を眺めたことを」
腕の中で見上げる女は身体を預けると、頬を染めながら言葉を続けた。
「あの時は数えるほどしかなかった灯りが、今はこんなに」
女の肩を抱く力が強くなる。
静かに綴られる心地良い低音が男の身体に染み渡り、その一つ一つが全身に響き、血に、肉に駆け巡った。
それはこの闇の雲海に漂う光のように。
失われてしまったと思っていた雪の大地には、いつの間にかこれほどまでに美しい生命が溢れていた。
男は女を強く抱き締めた。
抱き締めながら、己の身体が身震いするのを感じていた。
見上げた空には満天の星星。
地上の星と天上の星が瞬いていた。
(06.06.15.update)
探していた人物を見つけたのは王宮の奥深く、雲海に面した露台の端の端。
佇む影は潮風に靡く髪を撫でながら、その視線を熱心に夜の海へ注いでいる。
声を掛ければ、振り向いた女は嬉しそうに笑みを寄越した。
何か珍しいものでもあるのか、と問うと、女は頷き、それから再び視線を戻す。
「ここなら王宮の中からでも雲海の下が良く見渡せるんです」
紫紺の瞳の先にはうっすらと広がる闇の雲海と、ぽつりぽつりと浮かぶ鴻基の灯り。
寄せる小波が静かに響いていた。
見渡せるといっても、もう夜だから景色など見えるはずがない。
不思議そうに首を傾げる男を見て、女はやんわりと笑んだ。
「…風が止めば、その内に見えてきます」
言われるまま、女の視線を追いかけて闇に包まれた雲海をじっと眺めてみた。
初冬の乾いた風が吹き、波がざわめく。水面に映った灯籠の炎が揺らめいた。
随分長い時間そうしていたような気がする。
眺めることに飽き始めた時、女が小さく感嘆の声を上げた。
ひとしきり冷気を運んできた風が止み、穏やかになった波の下からまばらだった灯りが淡い光を放ちながら浮かび上がる。
一つ。二つ。
十が百に、百が千に。
真冬の天頂に輝く北辰を思わせる月白。
穏やかに浮かぶ春の日暮れの金の赤。
気が付けば眼下に見下ろす漆黒に浮かぶ、色取り取りの無数の光。
その美しさに、男は思わず息を飲んだ。
「…憶えておいでですか?以前こうして二人で此処から景色を眺めたことを」
腕の中で見上げる女は身体を預けると、頬を染めながら言葉を続けた。
「あの時は数えるほどしかなかった灯りが、今はこんなに」
女の肩を抱く力が強くなる。
静かに綴られる心地良い低音が男の身体に染み渡り、その一つ一つが全身に響き、血に、肉に駆け巡った。
それはこの闇の雲海に漂う光のように。
失われてしまったと思っていた雪の大地には、いつの間にかこれほどまでに美しい生命が溢れていた。
男は女を強く抱き締めた。
抱き締めながら、己の身体が身震いするのを感じていた。
見上げた空には満天の星星。
地上の星と天上の星が瞬いていた。
(06.06.15.update)