夜空に浮かぶ月を横目に、大股で歩き続ける。明日は早く出立する、なるべくならば休息を得たいところだった。門番に一礼をして、正殿に進んだ。
「なぜお呼びだてになりますか、主上」
平伏もせず李斎は一声を発した。
「勅命でも使わなければ来ないだろう」
振り返りもせず、筆を進めながら驍宗はあっさりと言い放った。簡素な格好なのは、人払いをし、一人でいるせいなのだろう。台輔もすでに深い眠りに陥っているはずだ。
「すまないな」
「ご命令ですから参りますが。いかがなされましたか」
「嵩里のことでな」
「台輔でございますか?」
椅子を用意され座るよう勧められる。対峙する位置にもう一つ椅子を運んで驍宗もまた座った。
「承州に一度連れて行って欲しい。治める地を見たいそうだ。現時点では嵩里が直接治めているわけではないが、いずれは治める。また悩むであろうし、実際見れば実感もあるだろう」
「構いませんが……」
「明日帰還の際に連れて行け。嵩里にも言い渡してある」
「またいつの間に」
「すまん」
「いえ、ではご用件は」
「待て」
立ち上がり平伏、もう一度立ち上がって立ち去ろうとした時驍宗は李斎の腕をつかんだ。
「出立が早いのは承知している」
「……ではお放し下さい」
「駄目だ」
深紅の瞳に見据えられて、李斎は驍宗の手をほどき逃れない意思を示した。
「どうなさるのですか」
「……理解していて言うか」
「拒んでも主上は捕まえるでしょう。まだ恐れ多いと感じます。けれど真摯に受け止めねば」
「そうか」
顔が近づいて唇に触れる。純白の髪に指に絡めて思う。
今も信じられない。恐れ多いと言ったのは、信ずることができていないからだ。
どうして私に行為を抱き、男として女を愛したのか。
私は将軍だ、色恋沙汰の話に発展する仲になるのだろうか。
「んっ……」
確かめるように大きな掌が頬を包み込んだ。主である手には、全ての期待が乗りかかっている。
戴の行く末を。
その一部を個人として与えられている。恐れ多くて、嬉しいという感情はあって、それは女として嬉しく思えて。
「主上、今日はもうお願いで……あむっ……」
離されては求められる口づけ。狂おしく甘く、痺れるような、それでいて優しくて。
「……止めてすまなかったな。休んでくれ」
「はい」
頬をわずかに赤らませる二人。慣れない行為に李斎は動揺を隠せず、満足した様子を驍宗は隠しきれていない。
「李斎」
「はい」
微笑む李斎の顔が普段と違うことを、驍宗は気付いている。本人はまだ自覚はないだろう。
「よく休んでくれ」
「承知しました」
振り返り立ち去っていく。足音が消えるのが口惜しい。
「俺の前、だけだろうな」
笑顔は女として見せたもの。それは将軍としての責務を請負う李斎にとって、普段では決して見せないものだろう。険しく緊張した顔。見せる笑顔は女としてではない。
けれど二人だけの前では。
「女の顔だ」
それは戴の王の、極上の褒美とも言えるかもしれなかった。
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「これ奇麗ですね」
「そんなことはございませんよ、控えめな物を使っておりますから」
側仕えの女官の簪(かんざし)を眺めて泰麒は、目をわずかに輝かせて見つめた。
「……着ないのかな」
「どうなされましたか?」
「ううん、気にしないで」
笑って答え、泰麒は駆け出す、主の部屋へと。
「主上」
「どうした」
筆を止め振り返る。笑んで腕を広げた。嬉しくて泰麒は胸の中に飛び込んだ。無二の主、抱かれれば嬉しくて仕方がない。
「あのですね」
耳元で小声で伝える。その言葉に一瞬唖然として、驍宗は笑い出した。
「武人だからな、着るかどうかはわからんぞ」
「そうですよね……でも、奇麗だと思うんです」
「それは同意しよう、ならば策を練らないか?」
「でもお忙しいのに」
「なに」
微笑んで背を軽く叩く。
「私も見たいだけだからな、気にするな」
突然使者がやってきて、運ばれたのは朱色の箱。個人的に贈った品だと認められた書状、仕方なく自室まで運び開ければ驚愕した。
「これをどうしろと……」
一介の将軍に、美しい襦裙と簪、他にも飾が多く入っていた。
「刀ならばわかるが……主上」
はあとため息をつき振り返る。忍び込む術を心得ているようで、李斎はただ嘆息を繰り返すばかりだった。
「何をなされますか、台輔と」
「嵩里が見たいと言ってな。同意したまでのこと」
当たり前のように椅子に腰掛けて、襦裙を手に取る李斎を見つめた。
「着てはもらえないのか?」
「着る機会がございませんよ。御前でも鎧ですし……」
「個人的にはどうだ?」
「そうは言われましても」
「私が着せようか」
主上、と頬を赤らめて李斎は襦裙をしまいこんだ。
「戯れを申されますな。すでに私は」
「私は?」
「……この関係が戯れに思えてしまうのですから」
暗い表情で床に視線を落とす。どうしてこんな関係になってしまったのだろう。主従であったはずなのに。
「戯れで付き合うほど酔狂な男ではないが」
「ですが」
「お前が信じ切れないのは私のせいだろうな」
腕を組む。
「私が王でなければいいのだろうか」
「そんなことをおっしゃってはいけません!」
感情に任せて委細は叫ぶ。王登極は戴国の悲願だった。
「ならば」
立ち上がり抱きしめる手は太く、頑丈で、それでいて暖かかった。
「戯れではない、それは信じて欲しい」
「しかし……おやめくだ……」
濡れた感触、首筋をなぞる動きに李斎は声を漏らした。誰がいるかもわからない、それなのに。
「……あの夜を忘れられない……」
甘く囁かれた言葉に仰け反る。まだ昼間だというのに。
「しゅじょ……」
腕をつまかれ、なす術もなく蹂躙されていく。体が覚えはじめている、自覚はしていた。
主の愛撫に心地よさを感じてしまっている。その心を読み取ったように、驍宗は囁く。
「――私が着せよう、嵩里には奇麗だったと伝えておく」
そう言うと床に李斎の身につけた布地が、床にはらりと落ちて、何かが始まることを告げた……。
姿に驚いて起き上がろうとしたところを、静止されて李斎は上半身だけを起き上がらせた。
「女性の臥室に失礼かと思ったが」
「お気になさらず……なぜ、主上が」
「嵩里に頼まれてな」
簡素な官服に身を包んだ主、驍宗は困った表情を浮かべながら椅子に腰掛けた。
「訓練中に怪我をしたらしいな」
「軽い切り傷です、大したことはございません」
「……浅くもないようだな」
右腕に巻かれた包帯から、わずかに血が滲み出ていた。治癒は早いだろうが、念のためにと寝かされたらしい。
「ひどく心配していたぞ。嵩里は血に弱い、見舞いに行けず悲しんでいたな」
「それは仕方のないことです、麒麟ですので」
麒麟は血に酔う。そういう生き物なのだ。
「だから私が来た。見舞の品もある」
「それは勿体無い……一介の将軍には」
「あやつにとっては親しい者は家族に等しい。恐れ多いと思うな、それが嵩里の良いところでもある」
そうですね、と李斎は微笑んで頷いた。
「明日の訓練には差し支えはなさそうだな」
「はい、今日は養生しておりますの……しゅ……!?」
手が伸びて、指で髪を絡めとられた。
「私も心配だったがな」
「どちらも真意でございましょう」
「そうだ」
顔を近づけ、口づけを交わす。人払いは当たり前、邪魔をされることもない。
されるとすれば、扉の向こうから呼ばれる声だけだ。滅多に呼ばれることはない、急用以外は。
「無理をするな、とは言わん。だが無茶だけはするな」
「それは約束しかねます」
王ではなく、男としての忠告の言葉を受け止め、けれど同意はできないと言い退けた。
「私は……愛しております。ですが自らに課せられた仕事を放棄はできません。私にとっては将軍職を失うことは、主上との離別です。世界が違いすぎます。私は……」
「それ以上はいい。すまないな……一方的な……」
「いいえ」
驍宗を困らせるつもりではない、落ち着かせるように李斎から口づけた。
「主であると同時にお慕いしております、女として。ですが同列であって、どちらが上とは答えかねます」
「そうか」
正直な気持ちを聞かされて、驍宗は腕を伸ばして抱きしめた。
「私は今の関係を崩す気はございません」
「それは私もだ。手に届く場所にある……」
付き合い、愛し合う時間が長ければ長いほど欲は深まる。
けれど欲は抑えなければならない。
今この時の付き合い、幸せな時間を永遠に紡ぐために。
必要なのは進展ではなく、継続――。
「女性の臥室に失礼かと思ったが」
「お気になさらず……なぜ、主上が」
「嵩里に頼まれてな」
簡素な官服に身を包んだ主、驍宗は困った表情を浮かべながら椅子に腰掛けた。
「訓練中に怪我をしたらしいな」
「軽い切り傷です、大したことはございません」
「……浅くもないようだな」
右腕に巻かれた包帯から、わずかに血が滲み出ていた。治癒は早いだろうが、念のためにと寝かされたらしい。
「ひどく心配していたぞ。嵩里は血に弱い、見舞いに行けず悲しんでいたな」
「それは仕方のないことです、麒麟ですので」
麒麟は血に酔う。そういう生き物なのだ。
「だから私が来た。見舞の品もある」
「それは勿体無い……一介の将軍には」
「あやつにとっては親しい者は家族に等しい。恐れ多いと思うな、それが嵩里の良いところでもある」
そうですね、と李斎は微笑んで頷いた。
「明日の訓練には差し支えはなさそうだな」
「はい、今日は養生しておりますの……しゅ……!?」
手が伸びて、指で髪を絡めとられた。
「私も心配だったがな」
「どちらも真意でございましょう」
「そうだ」
顔を近づけ、口づけを交わす。人払いは当たり前、邪魔をされることもない。
されるとすれば、扉の向こうから呼ばれる声だけだ。滅多に呼ばれることはない、急用以外は。
「無理をするな、とは言わん。だが無茶だけはするな」
「それは約束しかねます」
王ではなく、男としての忠告の言葉を受け止め、けれど同意はできないと言い退けた。
「私は……愛しております。ですが自らに課せられた仕事を放棄はできません。私にとっては将軍職を失うことは、主上との離別です。世界が違いすぎます。私は……」
「それ以上はいい。すまないな……一方的な……」
「いいえ」
驍宗を困らせるつもりではない、落ち着かせるように李斎から口づけた。
「主であると同時にお慕いしております、女として。ですが同列であって、どちらが上とは答えかねます」
「そうか」
正直な気持ちを聞かされて、驍宗は腕を伸ばして抱きしめた。
「私は今の関係を崩す気はございません」
「それは私もだ。手に届く場所にある……」
付き合い、愛し合う時間が長ければ長いほど欲は深まる。
けれど欲は抑えなければならない。
今この時の付き合い、幸せな時間を永遠に紡ぐために。
必要なのは進展ではなく、継続――。
ぱたぱたと愛らしい走る音が廊下に響いた。時折転びそうになりながらも、必死に走る。
「あのっ、主上は!?」
「正寝におりますよ。私用で劉将軍とお会いしているようですが」
「ありがとう正頼!」
手をふって走り去る幼い台輔の姿に顔をほころばせながら、正頼は後姿を見送った。両手には二つの小箱が握られている。
「うまくいくとよろしいのですが」
事の真意を知る一人として、誰にも聞こえないぐらいの小声で呟いた。
「主上、李斎!」
「どうした嵩里」
書面を広げ話し合っていた二人だが、駆け込んできた泰麒に驚いて振り返る。
「よ、よかった……」
「どうなさいましたか台輔」
息をきらす泰麒の背をさすり、李斎は湯飲みに水を入れ差し出した。小箱を懐にしまい、湯のみを受け取って飲み干し、はあと大きく息を吐いた。
「そんなに慌ててどうした」
「あの、あの二人だけの時に渡したくて」
「二人だけの時とは」
「ええと、ええと」
懐からまた小箱を取り出して、一つを主に一つを李斎に手渡した。
「これは……指輪か」
銀色に輝く、彫り物もない銀で作られた指輪。
「こちらも同じ物です」
見事に磨きぬかれた指輪は、わずかな光を含んで輝いていた。金には劣るものの、十分の代物だった。
「これは」
「あの蓬莱では誓いの証なんです」
「誓い……?」
わけがわからず李斎は首を傾げた。
「ああ、そうか。嵩里が前に話してくれたな」
納得するように驍宗は頷いて、李斎の手にある指輪を手に取った。左手に触れ、指に指輪をはめた。
「しゅ、主上?」
「蓬莱では婚姻の契りにもなるらしい」
言われて李斎は顔を真っ赤に染めた。
「そ、そんな」
「私にもはめてくれ」
「恐れ多い……」
「李斎……」
悲しげに目を伏せる泰麒の視線に、李斎は困り果てたが、しぶしぶと指輪を取り驍宗の指に指輪をはめた。
「そんなに嫌か、李斎」
「そうではなく……その」
「あともう一つあるのだけれど」
「台輔」
ねだる声に逆らえない。
「誓いの口づけとかあるんです」
「な」
「恥かしいものですか?」
「私は構わんがな。李斎が困っている」
苦笑して驍宗は泰麒の背を押した。
「そろそろ勉学の時間だろう。正頼がまた怒るぞ」
「え、あ、はいっ!」
慌てて駆け出していく泰麒。来る時も去る時も慌しい。
「李斎」
恥かしさで頬を紅く染めた李斎。その姿がおかしかった。
「李斎」
「は……んくっ」
口を塞がれて軽くうめいた。わずかな抵抗も薄れて、甘い口づけを与えられて、より頬を赤く染めた。
「……これでいいか」
「主上……」
「袖が長いのだからそう目立ちはしないだろう。詮索する者もいないだろうからな」
「ですが」
「嫌か?」
深紅の瞳で見つめられて、そんなことはと慌てて手を振った。
「あの私は」
「もう誰もいないぞ」
「そうですが。でも、その」
「慌てるな」
髪に触れて驍宗は低く笑った。
「真面目すぎるぞ、李斎。いつも言っているがな」
「私は……主上が嫌いではなく」
「恐れ多いと思うのだろう。だが」
抱き寄せて耳元で囁く。
「私が惚れこんだだけだ、李斎が萎縮する必要はない」
「それでは私は」
「それを受け止めてくれたのだから、無理強いはしない。偶然嵩里には知られたが、祝福をしてくれている」
「嬉しいことですけれど……」
「やっと出たな、本音が」
もう一度深く口づける。舌を吸い寄せては口内を堪能していく。
「……素直になればいい。もう一度言うぞ……誰も、いない」
甘い吐息交じりの声に、ぞくりと体が震えた。それは悪寒ではなく、女としての感情。その声が心地よくて。
返答として震えながら、口づけを返した――。
冬の月が最も美しい。
冴えた漆黒の闇の中で浮いた白銀の光。
そして、冬の残月もまた最も美しい。
残月
「ああ、残月でございます。」
「ん」
先ほどまで腕の中にいた女は起き上がり、閨の窓を見た。
朝議までまだ程遠い時である。
諸官達もまだ眠っているであろう。
中途半端に目覚めた自分も彼女を抱いて惰眠を貪りたい。
「驍宗様?」
「何だ、李斎…もう少し眠らせろ。」
「…ええ。しかし残月がとても美しいのでございます。」
「そうか…置きだす頃まで月は残っていよう。」
驍宗は李斎を抱き寄せる。
身体は泰の冬の寒さに晒されて、王宮の中ですら、体が冷えている。
「李斎、体が冷たいぞ」
「そうかもしれませぬ…布団の中は暖かい…」
「女官が起こしに来るまで随分と時間はある。」
「では二度寝を致しましょう。」
「ああ、」
冬の朝は辛い。
暖かい布団の中から出る事は実に勇気と忍耐がいることである。
それゆえ、時間が許す限り直前まで寝台の中へもぐりこんでいる。
ふと、李斎が見ていた窓を見る。
薄暗い空に浮かんだ残月。
やがて、山々は暁光を照り返し地平は赤く染まるであろう。
地平の赤に
空の灰蒼色
地平と空の境界に白銀の月。
明けに有る月とはよく言ったものだ。
「共に残月を見よう仲となろうとは。」
「…ん…なんでございます…か…」
「なんでも、ない。」
遠くで鳥の鳴く声がする。
夜明けは近い。
しかし、今しばらくの夜を楽しませてもらおう。
Fin.