情けない。
そんな想いを抱くなど、情けないにもほどがある。
王は一人のものではない。
王を慕う全ての者たちであって、ただ一人の鎖に縛られることはない。
とうにわかりきっていたころだ。
それなのに、親しげにしている女官を見て芽生え育つ。
理解しているのに、それでも――嫉妬という感情は生まれてしまうものなのか?
醜悪の欠片
深夜、李斎は一人書卓に向かい筆を走らせる。まとめなければならない報告書は、直に書き終わる。
終わったら思い切り体を動かしたいものだった。やはり武人として、体を動かすことは楽しく気鬱な思いを吹き飛ばす。
考えながらも書き終えて、墨が乾くのを待って綺麗に折りたたむ。軽く湯浴みでもして、少しでも体を暖かくして眠ろう。明日もまた早い。
そうして房室から出ようとした瞬間、手に触れる前に扉は開かれた。
「まだ起きていたか」
「主上、な……う、んっ!」
素早い動きで腕を抑え込まれて、唇もまた奪われて身じろぐ。しかし夜陰に紛れてやってきた人物――驍宗に敵うはずもなかった。
慣れているように思える動きに、甘く熱すぎる口付けは体を蜜のように溶けるような感覚に襲われる。
「ふ……あ、おやめ……」
「誰もいなかったからな。遠慮はしなかったが?」
「確かに、人払いはさせました、が」
「では問題はない。ところで夜分にどこに向かうつもりだった?」
「温まるために風呂へ……冷える夜ですので」
「本格的に寒くなるからな。私も風呂に……」
「本日は来られる予定はございませんでしたよね?」
突然の来訪は誤魔化すのに苦労をする。
「それで怒っていたのか?」
「怒ります。突然では……」
「それとは別か……」
顎を撫でて李斎に向かい、真剣な表情で問いかける。
「私を避けていると思ってな」
「避ける必要もございませんし、避ける理由もございません」
「真か?」
「はい」
偽りではなかった。理由などない、どこにもないはず、なのに。
「そうは見えなかったが」
「気のせいでございましょう」
「女官に私が触れたときに、怖い顔をしておったぞ?」
「――っ!」
かっ、と顔が一瞬で朱に染まる。
「私は誰かに惹かれることはない。焦がれる想いを抱かせる相手は、李斎しかいないからな」
堂々と、そして嘘偽りの無い言葉。誰かが見ていれば、ほぼ確実に惚気と思ってしまうほどに、恥ずかしげもなく言い放った。
「それは……私も同じでございます」
頭ではわかっている、のに。
「誓って何も起こりはせん。不安であれば……」
軽々と李斎を抱き上げて、誰も見たことのない、優しすぎる微笑を驍宗は浮かべた。
「不安を全て忘れ、かき消すほど愛するとしよう。不安にならぬほどにな」
耳元で囁かれる。
覚悟は良いか?
吐息が耳に触れる。
……はい。
消えてしまいそうな声で答えて、驍宗は満足して風呂場ではなく、臥室へと向かう。
愛しい女の不安をかき消し、幸せに満たすために。
嫉妬の感情など抱かなくとも、愛している、その想い全てを伝えるために――。
PR
笑顔の魔法
見つめてくれる笑顔は、とてもとても優しくて大好きな微笑み。
でも相手が違うと、こんなにも別の笑顔が溢れる。
滅多に見ることのできない二人の笑顔。
多分見られるのは僕だけかもしれないね。
用事があって驍宗が李斎の官邸に向かったことを知っていた泰麒は、二人のところに行くために懸命に走っていた。走っていてもどこか愛らしく、通りすがる官吏や女官たちの心を和ませる。目が合った者は、花が咲いたような笑顔を見ることができる。それも可愛らしさの一つだった。
官邸にたどり着き、静かにそっと扉を開ける。
――驍宗様だから、気がつかれていると思うけど。
それでも扉の隙間から、時折見ることのできる驍宗と李斎、二人きりの光景は泰麒にとって一つの楽しみだった。
本当に優しくて、安堵できる雰囲気が流れていて、邪魔をしてはいけないかな、と思ってしまうけれど。
小卓を囲んで茶を楽しむ二人の名を呼ぶ。
「驍宗様、李斎!」
「蒿里、どうした?」
「どうなさいましたか、台輔」
振り向いた二人の笑顔が、またさらに格別なものだった。その笑顔が素敵すぎるから、嬉しくて泰麒も最高の笑みを二人に与える。
「ええと……」
「どうした?」
駆け寄ってきた泰麒を抱き上げる驍宗。
「あの……怒らないで下さいね」
恥ずかしそうにもじもじと体を動かして一言。
「二人に会いたかっただけなんです」
「嬉しいお言葉で」
本当にきさくで、優しい台輔だと李斎は会う度に感じ、それが心地よいことを何度も確認させられる。
「夕餉の刻限でもございますし……主上と台輔がよろしければ、こちらで用意させていただきますが」
「僕は大丈夫です。驍宗様は?」
「付き合おう」
その返答に李斎と泰麒は笑顔を浮かべる。
嬉しいと自然と笑顔が溢れて、心地よくて楽しくなってしまう。
三人は立ち上がり、隣室へと向かう。
泰麒には驍宗と李斎が、男として女として好きあっているのは何となくわかったけれど、口に出す必要はないということもわかっていた。
訊ねなくてもわかるぐらい、二人の微笑みは安心できて。
二人だけの時に見ることのできる笑顔、一瞬しか見ることのできない笑顔だとしても心地よいもので。
そんな二人の笑顔を大好きだよ、って今夜こそ伝えたいな。
決意を胸中で秘めながら、まるで父と母のように、二人に手を繋がれながら隣室へと向かうのだった。
見つめてくれる笑顔は、とてもとても優しくて大好きな微笑み。
でも相手が違うと、こんなにも別の笑顔が溢れる。
滅多に見ることのできない二人の笑顔。
多分見られるのは僕だけかもしれないね。
用事があって驍宗が李斎の官邸に向かったことを知っていた泰麒は、二人のところに行くために懸命に走っていた。走っていてもどこか愛らしく、通りすがる官吏や女官たちの心を和ませる。目が合った者は、花が咲いたような笑顔を見ることができる。それも可愛らしさの一つだった。
官邸にたどり着き、静かにそっと扉を開ける。
――驍宗様だから、気がつかれていると思うけど。
それでも扉の隙間から、時折見ることのできる驍宗と李斎、二人きりの光景は泰麒にとって一つの楽しみだった。
本当に優しくて、安堵できる雰囲気が流れていて、邪魔をしてはいけないかな、と思ってしまうけれど。
小卓を囲んで茶を楽しむ二人の名を呼ぶ。
「驍宗様、李斎!」
「蒿里、どうした?」
「どうなさいましたか、台輔」
振り向いた二人の笑顔が、またさらに格別なものだった。その笑顔が素敵すぎるから、嬉しくて泰麒も最高の笑みを二人に与える。
「ええと……」
「どうした?」
駆け寄ってきた泰麒を抱き上げる驍宗。
「あの……怒らないで下さいね」
恥ずかしそうにもじもじと体を動かして一言。
「二人に会いたかっただけなんです」
「嬉しいお言葉で」
本当にきさくで、優しい台輔だと李斎は会う度に感じ、それが心地よいことを何度も確認させられる。
「夕餉の刻限でもございますし……主上と台輔がよろしければ、こちらで用意させていただきますが」
「僕は大丈夫です。驍宗様は?」
「付き合おう」
その返答に李斎と泰麒は笑顔を浮かべる。
嬉しいと自然と笑顔が溢れて、心地よくて楽しくなってしまう。
三人は立ち上がり、隣室へと向かう。
泰麒には驍宗と李斎が、男として女として好きあっているのは何となくわかったけれど、口に出す必要はないということもわかっていた。
訊ねなくてもわかるぐらい、二人の微笑みは安心できて。
二人だけの時に見ることのできる笑顔、一瞬しか見ることのできない笑顔だとしても心地よいもので。
そんな二人の笑顔を大好きだよ、って今夜こそ伝えたいな。
決意を胸中で秘めながら、まるで父と母のように、二人に手を繋がれながら隣室へと向かうのだった。
春陽夏火
窓辺から雪の舞い散る光景を目にすることはできないというのに、肌に刺すような寒さを感じてしまう。
――民は今感じている寒さの比ではないだろう。すでに雪は降り積もり、民は扉を閉ざす。
臥牀から抜け出し、着物を羽織り窓辺に立った直後は涼しかったが、それもすぐに寒さへと変化する。
それでも――火はまだ消えていない。
「……着物一枚では冷えるぞ?」
「し……驍宗様も一枚ではお体を冷やします」
静かにそっと李斎に着物を肩にかけたのは、少し遅れて目覚めた驍宗だった。わずかに彼の熱を感じる。
「まだ熱い、がすぐに冷えるのだろうな」
「体は冷え切ります。御酒を用意いたしましょうか?」
「酒は必要ない」
そう言って背から覆い被さるように李斎を抱き締める。まだ営みの証を含んでいる熱を感じて、わずかに頬を赤らめた。
「本格的な冬がやってきますね……」
「ああ……」
窓辺からは園林しか見ることができなくても、雲海の上であっても冬の空気は漂ってくる。
「春に近い冬だと私は思っておりますが」
「春に近き冬、とは……」
「戴にとって冬は過酷です、が主上がおります。ですから妖魔が蔓延ることも、近年よりも凍死者は減ることでしょう。冬は冬ですが、王という暖かな光があります。まだ辛くとも……少しずつ、辛い冬ではなく、季節を受け入れて笑顔で過ごすことのできる冬が来ると、私は思っております」
何もかも、希望の光さえもなかった昨年の冬、しかし天帝は王を戴に遣わした。
「そして、私的な話になってしまいますが」
言い辛いわけではなかった、けれどどこか気恥ずかしかったけれど、心からの言葉を告げる。
「私にも春を授けていただきました。内には夏を……」
愛しい人を得て、心には恋という熱い想いが生まれて。
春のように穏やかで暖かく、夏のように熱く興奮している心。
「それは私も……同じ想いだ」
李斎だけではなく、驍宗もまた愛しい人に出会って、多くの暖かさを生むことができた。それは心地よくて、日々の疲れを癒してくれるかのように――暖かい。
笑みを浮かべて、互いの温もりに触れてただ静かに視線を窓辺に向ける。交わす言葉もなく、静かに静かに時間を共有する。
やがて体が冷え切ってきて、驍宗は口を開いた。
「そろそろ臥牀に戻ろう、寒いだろう?」
「寒くはございません。驍宗様は暖かいですし……」
それに。
「己の中に燻る熱は冷えることはありません。その熱は体に高揚感を与えてくれます。ですから……寒くはございません」
「こんなにも手が冷えているのにか?」
少し硬い手が、女人にしては鍛えられた指に絡みつく。
「そんなに深く追求は……」
「すまない」
少し意地悪な問いだった、と反省しつつ体は冷え切っている。李斎を臥牀に導き押し倒した。髪が李斎に降り注ぐ。
「もう一度暖まるか」
「……はい」
触れられた先から熱が帯び始める。
己の中にある火が大きく燃え広がっていく。
お互いが存在し、触れ合えば寒い冬も、暖かな春と夏が幾度となく巡り続けるのだ――。
窓辺から雪の舞い散る光景を目にすることはできないというのに、肌に刺すような寒さを感じてしまう。
――民は今感じている寒さの比ではないだろう。すでに雪は降り積もり、民は扉を閉ざす。
臥牀から抜け出し、着物を羽織り窓辺に立った直後は涼しかったが、それもすぐに寒さへと変化する。
それでも――火はまだ消えていない。
「……着物一枚では冷えるぞ?」
「し……驍宗様も一枚ではお体を冷やします」
静かにそっと李斎に着物を肩にかけたのは、少し遅れて目覚めた驍宗だった。わずかに彼の熱を感じる。
「まだ熱い、がすぐに冷えるのだろうな」
「体は冷え切ります。御酒を用意いたしましょうか?」
「酒は必要ない」
そう言って背から覆い被さるように李斎を抱き締める。まだ営みの証を含んでいる熱を感じて、わずかに頬を赤らめた。
「本格的な冬がやってきますね……」
「ああ……」
窓辺からは園林しか見ることができなくても、雲海の上であっても冬の空気は漂ってくる。
「春に近い冬だと私は思っておりますが」
「春に近き冬、とは……」
「戴にとって冬は過酷です、が主上がおります。ですから妖魔が蔓延ることも、近年よりも凍死者は減ることでしょう。冬は冬ですが、王という暖かな光があります。まだ辛くとも……少しずつ、辛い冬ではなく、季節を受け入れて笑顔で過ごすことのできる冬が来ると、私は思っております」
何もかも、希望の光さえもなかった昨年の冬、しかし天帝は王を戴に遣わした。
「そして、私的な話になってしまいますが」
言い辛いわけではなかった、けれどどこか気恥ずかしかったけれど、心からの言葉を告げる。
「私にも春を授けていただきました。内には夏を……」
愛しい人を得て、心には恋という熱い想いが生まれて。
春のように穏やかで暖かく、夏のように熱く興奮している心。
「それは私も……同じ想いだ」
李斎だけではなく、驍宗もまた愛しい人に出会って、多くの暖かさを生むことができた。それは心地よくて、日々の疲れを癒してくれるかのように――暖かい。
笑みを浮かべて、互いの温もりに触れてただ静かに視線を窓辺に向ける。交わす言葉もなく、静かに静かに時間を共有する。
やがて体が冷え切ってきて、驍宗は口を開いた。
「そろそろ臥牀に戻ろう、寒いだろう?」
「寒くはございません。驍宗様は暖かいですし……」
それに。
「己の中に燻る熱は冷えることはありません。その熱は体に高揚感を与えてくれます。ですから……寒くはございません」
「こんなにも手が冷えているのにか?」
少し硬い手が、女人にしては鍛えられた指に絡みつく。
「そんなに深く追求は……」
「すまない」
少し意地悪な問いだった、と反省しつつ体は冷え切っている。李斎を臥牀に導き押し倒した。髪が李斎に降り注ぐ。
「もう一度暖まるか」
「……はい」
触れられた先から熱が帯び始める。
己の中にある火が大きく燃え広がっていく。
お互いが存在し、触れ合えば寒い冬も、暖かな春と夏が幾度となく巡り続けるのだ――。
一歩が重い、重くて胸がひどく痛んだ。体が不調ではない、心が受け止めきれていない。しかし断ることもできず、無碍にもできない。
官邸に向かう速度を、李斎は速めるしかなかった。既に真夜中、早朝までの時間は限られている。官邸に入り園林を横切って臥室へと向かう。人払いは万全だ、万全でなければ困る。
そして牀榻に腰掛ける人物は、にこやかに笑って李斎を迎えたのだが。
「……主上」
「どうした……?」
不安げな表情に待人である驍宗は立ち上がり、安心させるつもりで抱きしめようとした。しかし李斎はそれを拒み、一歩後ろに下がった。
「何があった」
「何もございません」
「何もなくて……なぜ拒む?」
あれだけ愛し合い、気持ちを確かめ合った。隠れた付き合いとなっても良い、と互いの心に誓約を交わして。
「少し……少しだけ時をいただけませんでしょうか」
体を重なりあい、深く愛し合った。忍ぶ恋も受け入れた――けれどそれは頭の中で理解しただけだった。心が追いついてくれない。早急に思いを添い遂げたせいなのか。
「早急すぎたのかもしれんな……とにかく着替えたほうが良い。鎧は重かろう」
言って驍宗は臥室を立ち去った。隣室で待っていてくれているのだろう。
「申し訳……ございません」
去ってから嗚咽交じりで謝ってしまう。なんて弱いのだろう、なぜ受け止めきれないのだろう。その場に崩れ落ちて、ただただむせび泣いた。
腫れ上がった目元に触れて抱き上げる。着替るには時間がかかると思い臥室に戻れば、床に倒れている李斎の姿に驚愕した。顔を覗き込めば涙の痕が残っていて、泣き疲れてしまったらしいと結論付けた。牀榻に体を横たわらせて鎧を剥ぎ取る。衾褥をかけて髪をなで上げた。
「恋沙汰に関しても早急すぎるのかもしれんな……」
政務に関してもそうだ、早急すぎて少し緩めなければいけないと感じてしまうことがあった。恋に関しても、李斎に早急な証を求めたのかもしれない。
「すまぬ……」
静かに詫びるようにそっと口づけて、その晩は何事もなく時が流れた。
一月後、何事もなく日々は過ぎ、公式の場で驍宗と李斎は顔を見合わせることもあったが、そこではあくまで王と将軍、私的な会話は一切なかった。
そんなある日、李斎の官邸に文が来届いた。驍宗からのもので、内容に目を通せば酒の誘いだった。あの晩は泣き疲れて、一人で動揺して拒んでしまった。詫びねばならない。
それに――心の整理は終えている。
ゆっくりと考える時間ができた、一つ一つ振り返り、己の心と向き合って、向き合ったからこそ……。
「お疲れ様です、主上」
「……今夜は大丈夫なのか?」
「はい」
臥室に驍宗を通し、椅子を薦めて体を静める。用意された杯に酒を注いでから、李斎もまた腰掛けた。
「申し訳ございませんでした」
「いや……私も悪いからな」
「いえ、主上は」
「早急すぎたようだからな。少しずつ育めばよいものを……」
「ですが、私が主上でございましたら早急になるかと」
限られた時間で愛を育む、戴はまだ多忙を極め、一時の蜜月を味わい一晩でそれは覚める。互いに切り替え、戴のために心血を注ぐ。だが二人の時はその時間を味わいたい。
「ですが、私も考える時間が欲しかったのは事実でございます。ありがとうございます」
「礼を言う必要はない、私が謝らなければならん」
「そんな主上に……いえ、驍宗様がお気を使われる必要は……」
「李斎」
名を告げて押し黙る。
「私は李斎に拒まれ、嫌悪されるのを恐れている。それだけ……李斎?」
静かに立ち上がり、李斎は何も考えず唇を唇で塞いだ。
「もう何もおっしゃられなくとも……わかります。ですから……何も言わず……」
何も考えず、ただ受け止めて欲しい、愛して欲しい。
驍宗の愛を求めて抱き締め、それに答えて腕を伸ばし強く抱き締める。
この時だけは身分を考えてはいけない。
只の男と女になろうと言ったはずなのに、忘れてしまう。
忘れてはいけない、忘れなければ――こんなにも素直に愛し合えることができるから。
とたとたと可愛らしい足音が走馬廊に響き渡っていた。静かな昼下がり、久方ぶりの休暇は約束があった。
「こんにちは」
扉が静かに開いて、愛らしい顔を覗かせたのは戴極国の幼い麒麟。気兼ねなく接してくる、尊い麒麟だということを一瞬忘れてしまうほどだった。
「待っておりました、どうぞ」
笑顔で泰麒を迎えたのは、官邸の主である李斎だった。大卓の上には茶器一式と熟した桃の果実が小高く置かれている、備え付けられた椅子に腰掛ける泰麒。
「ごめんなさい突然で」
「気になさることはありませんよ」
「一応用事があるのだけど」
「用事ですか?」
「忘れないうちに渡しておくね」
懐を探って泰麒は一枚の書状を手渡した、丁寧に御璽まで押されている――主上からのものだ。
「これは……」
「一人の時に開けてほしいと驍宗様は言っていたから……」
「それでは後で開けましょうか」
書状の文面が気になるところだが、折角遊びに来てくれた泰麒との時間を割くのも惜しい。李斎自ら茶の用意を始め、ささやかな茶会が催されたのだった。
そして夕餉を取り終えて、臥室で書面を広げた。内密の命令が来ることは珍しいことではない、暗躍している書面がある。
内容は重要なもので、台輔に持参させるのはどうかと首を傾げてしまう、がある意味台輔であれば確実に手渡してくれるという信頼があるのだろう。読み終え暗記し、焼いて証拠を消さなければならない。
一枚目を読み終えて二枚目に目を通し、読み終えてその内容にしばし呆然とする。ようやく我に返ってぽつりと呟いた。
「……一枚目は表向きなのだろうか……?」
丁寧に折りたたみながら、疑問符を脳裏に浮かばせる李斎だった。
そして三日後。
真夜中、きいと窓の開く音が臥室に響いた。
「……主上」
「本当に開けておいてくれたとはな」
忍び込んできたのは泰王である驍宗だった。簡素な着物に身を包んでいるが、目立つ容貌をどうやって隠してやってきたのか。
「無茶はお止めください、しかも堂々と……」
「嵩里に託せば確実かと思ってな」
「ですが台輔は……」
「そこまで怒るな」
臥牀の上に腰掛けた李斎を抱きしめる、それを振りほどくことができず成すがまま身を驍宗に委ねる。
「しかしなかなか気恥ずかしいものがあるな」
「私も……恥ずかしさもありましたが、呆気にとられたというほうが強いですね」
互いに武将であって、恋に重きを置いていたわけではない。
「慣れぬことはすべきではないな、恋文など」
「ですが」
「ん?」
「嫌ではございませんでした、やはり私は」
一介の将であり女でもあるのだ、と思わせるのには十分だった。
「文の内容は嘘偽りはございませんか?」
「あるものか」
曇りなき眼で訊ねられ、驍宗もまた真摯な心でそれに答える。
「永遠に支えてくれ」
「――はい」
銀糸のような髪が頬に降り注ぎ、それは触れ合った唇を隠すかのようだった。
文に想いを込めるのは慣れるものでもなかった、それに何よりも。
触れられる距離に相手がいるのだから、文よりも己の口で、行動で――女を抱きしめるほうが良い――。