「桐生ちゃーん!」
呼ばれた当の本人は、並んで歩いていた遥を抱え脱兎の如く逃げ出した。
しかし素早さで勝る真島はすぐ二人に追いつく。
「逃げる事ないやろ?丁度今桐生ちゃんちに行こ思てん」
「どうしてアンタは俺を安穏に暮らさせてくれないんだっ」
「遥ちゃんがおるときはそないな事せえへんって!」
なあ、と桐生の腕に収まる頭を撫でようと手を出すが、桐生は遥に指一本触れさせまいと腕の力を強めた。
「いけずやなあ、何もせえへんって言うとるやろ!」
「あてにならねえな」
「大丈夫やって!ほら、行くで」
強引な真島の押しで、住まいに入れざるを得なくなった。
ここまで来て追い返されたとなれば真島も黙ってはいない。
少なくともドアは蹴破られるだろう。
(結局入られるんだな…)
伊達を呼んで家宅侵入罪ででも逮捕させようかとも考えるが、真島に対しては無駄な事のように思った。
桐生は諦めの溜息を吐く。
「相変わらず桐生ちゃんちは綺麗やのー。家事は出来るし別嬪さんや、遥ちゃんはええ奥さんになるで」
オトウサンは大変やな、と置いた真島の手が不自然に桐生の肩を揉む。
「どや、遥ちゃん、ワシの奥さんにならんか?」
「…冗談はよしてくれ」
「桐生ちゃんに言っとらん。何や、嫁に来てくれるんか?嬉しいわあ」
正に黒い笑顔。
眼帯に遮られた左目からの視線さえも恐ろしく感じられ、桐生は表情を強ばらせた。
「駄目だよ。私、好きな人いるから」
「そうか、ふられてしもたわ」
真島はさも残念そうに言う。
「慰めてえな、桐生ちゃん」
「断る」
「冷たいのう、ワシだって傷付くで!」
桐生は足に縋りつき喚く真島の頭に拳固を落とした。
夕食時に真島は桐生と遥を焼き肉屋でもどうかと誘うが、遥が渋った為却下された。
二人と一緒にいる時自分に向けられる視線に慣れることはなかった。
遥が嫌がる理由が痛い程分かる桐生は心底すまなそうに謝った。
「おじさんの所為じゃないよ」
励ますべき相手の一言に幾度となく救われた。
一年前、全てを失ったのは遥も同じだと言うのに。
遥は既に床につき、男二人が酒を飲み交わす。
自然と話は1年前の事件の方へへ向かう。
「もう1年になるんか」
「…ああ」
親友の為に10年も臭い飯を喰い、出所してすぐにあの事件だ。
「アンタもしっかり邪魔してくれたがな、遥にも手を出して」
「あれくらいせんと桐生ちゃん、相手にしてくれんやろ」
ふ、と桐生は笑った直後、自らの異変に気付いたのか柳眉を顰めた。
桐生、と呼ぶ真島の声を甘く感じる。
「ホンマ甘いなあ…俺だったからよかったんや。1年前のこともある。あの街やない言うてもお前は堂島の龍、十分な獲物や。気ぃ抜いとったら、死ぬで」
襟の中の首筋に真島の唇が触れる。
刃物が滑るような感覚に身悶えする。
「その前に俺が殺ったるけどな」
憎しみすら潜む桐生の双眸が閉じる頃、真島はそう呟いた。
ぐったりとした桐生の肩を抱き、遥のいる寝室の扉を叩く。
「…安心しい、遥ちゃん」
しばらくの沈黙の後、部屋に招くようにドアが開く。
寝付けない遥は、二人に──少なくとも桐生には気付かれないように二人の様子を伺っていた。
「遥ちゃんから桐生ちゃんを盗ったりせえへん」
「…おじさんが、真島のおじさんは信用しちゃいけない人だって」
自分は注意散漫なくせに。
1年で随分丸くなってしまったらしい。
真島は苦笑いを止められなかった。
「すまんなあ、手荒なことしてもうて。桐生ちゃん、最近あんま寝とらんかったみたいやからな」
「…やっぱり1年前の事、思い出しちゃうみたい」
遥はベッドに下ろされた桐生のシャツのボタンを数個外し、ブランケットをかけた。
その目は単に保護者に向けられるものではない、特別な感情をはらんでいた。
「今更やけど、遥ちゃんが好きなんは、桐生ちゃんやろ?」
…うん。
顔を少し赤らめて頷く遥の頭を「それでええ」と撫でた。
遥は1年前に怖い思いをさせられた相手にとは思えない愛らしい笑顔を向ける。
「真島のおじさんも、おじさんが好きなんだね」
「好き、かあ…好きとはちゃうねんな、多分」
この黒く蠢く感情を「好き」と表現するには余りに横柄な気がした。
その証拠に、安らかにすら見える桐生の寝顔を酷く傷付けたくもなる。
「また来るで。桐生ちゃんによろしゅうな」
後ろで遥が心配そうに声をかけるが、真島は背中越しに手を振って答えるだけだった。
「あの娘やなかったらなあ」
冬が始まる夜の町に、真島の白い呟きは吸い込まれるように溶けて見えなくなった。
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