月見酒
(可愛い子には……その2)
怒声、刃、銃声、血飛沫、断末魔の声。
やめて、もう誰も死なないで――!
目が覚めれば見慣れない天井。ぼんやりする頭で、自分が堂島の家に世話になっていることを思い出した。さっきのは何?
今でも震えがおさまらない。あれは夢?いや、かつて目の前で起こったこと?遥は小さい手を握り締め、大きく溜息をついた。
気がつくと喉が渇いていた。水をもらおう、遥は起き上がると音を立てないように部屋を出た。
「お台所どこだったっけ」
広い屋敷はいいのだが、未だどこになにがあるのか迷う。寝起きの頭なら更に混乱する。夜中のため誰に聞くわけにもいかず
遥は歩を進めた。
「うわ……」
庭に面した廊下に出ると、遥は思わず声を上げた。夜空には綺麗な満月が浮かんでいた。堂島の庭園は大きな池が特徴の
純和風である。時折池を泳ぐ鯉が水音を立てて行き交った。それらが一幅の絵のように見事に調和していた。
しばらく眺めていると、人の気配を感じた。長い廊下の中ほどに、柱にもたれ座っている人物が居る。遥はそれが誰なのかすぐに
わかった。彼女は少し考えていたようだったが、そっと足音を忍ばせてその人物に近寄っていった。彼女はすぐ近くまで忍び寄ると
突然声を上げた。
「わっ!」
しかし、言われた方は微動だにしない。男はゆっくり振り向くと無愛想に告げた。
「気付いてるぞ、遥」
「ちぇー。大吾お兄ちゃんつまんないんだ」
「これくらい気付かないと、この稼業はすぐ死ぬぞ」
死ぬ。遥はその言葉で先ほどの夢を思い出し、表情を強張らせる。急に黙った彼女に気付き、大吾は顔を覗き込んだ。
「どうした」
「……なんでもない。あ、お酒飲んでたの?」
遥は不自然に話を逸らす。大吾は不審に思ったが、問いただすきっかけもつかめず曖昧に返事をした。
「あ?ああ、まあな。おまえはどうした?」
「喉が渇いちゃって。ずっとお台所探してたの」
「なんだ、そんなことか。ちょっと待ってろ」
大吾は部屋に入っていく。そういえばすぐそこは大吾の私室である。遥の部屋から大分離れているが、いつのまにかこんなところまで
来てしまっていたらしい。遥は、寝ぼけすぎ…と顔を赤らめた。
「ほら、これ飲めよ」
大吾がミネラルウォーターのペットボトルを持ってやってくる。自室に常備してあるらしい。
「ありがとう、お兄ちゃん」
「コップあるぞ。」
使っていないコップを渡してもらい、遥はやっと水にありつくことができた。コップに入れた水を一気に飲み干すと大きく息を吐いた。
「五臓六腑にしみわたるよ……」
「おまえな。子供の言うことじゃねえだろ」
大吾は彼女の素直な感想に笑った。遥もつられて笑顔を見せる。大吾は水と一緒に持ってきた自分のジャケットを遥にかけた。
「風邪ひくぞ」
「あ、ごめんなさい。いろいろありがとう」
「お前に風邪ひかせたら桐生さんにぶん殴られそうだ」
彼はもとの場所に座る。傍らには日本酒の一升瓶とコップ、あとちょっとしたおつまみが置いてある。飲み始めたばかりだったのだろう
そのどれもあまり減ってなかった。
「月が綺麗だね。大吾お兄ちゃんはお月見?」
「ああ。なんだか眠れなくてな」
「私も、変な夢見ちゃって……」
夢?大吾が聞き返すと、遥は彼の隣に座り頷いた。
「目の前でいろんな人が死んじゃうの。すごく怖いんだけど、動けなくて。桐生のおじさんも……死んじゃいそうで、何も出来なくて…」
「遥……」
大吾が何か言おうとするが、遥はそれをさえぎるように話し続ける。まるでこのまま話すのをやめたら悪いことが起きるかのように。
「大吾お兄ちゃんは死なない?桐生のおじさんも死なないよね?私の大好きな人はみんな死んじゃう。みんな私を置いていっちゃう。
もうやなの。誰かが死ぬのを見るのも、泣くのを見るのも……!」
「遥!」
大吾に肩をつかまれ、遥は驚いたように彼を見る。大吾は溜息をつき、淡々と語り始めた。
「俺はこんな立場だから、何があるか分からない。桐生さんだって、カタギに戻ったとはいえ、またあんなことがあったら東城会は
頼らざるを得ないだろう。そうなったらあの人だって死に直面することもあるかもしれない。こればっかりは、覚悟するしかないんだ。
この世界にいる限りはな」
「そんなの嫌だよ。死なないって言って欲しいのに」
夢のせいか、今夜の遥はいつになく弱気だ。しかし、いくつもの修羅場を目の当たりにし、人の死も見続けてきたのだ。それは様々な
経験を経た大人ならまだしも、幼い心には負担が大きすぎる。彼女の思いは痛いほど分かるが、大吾はあえて突き放した。
「言うだけなら簡単だ。でも、そんなことで誤魔化したくない。お前もまた極道の世界に関わる人間だから。だからせめて覚悟だけは
しておけ。どんな形で別れても後悔しないように」
「覚悟……」
「遥なら、わかるよな?桐生さんの生き様をずっと見てきたんだから」
遥は小さく頷いたが、表情はまだまだ納得できてないようだ。大吾はそっと彼女の頭に手を置いた。
「努力は、してやる」
「お兄ちゃん……」
「俺は強くなる。今よりもっとだ。強くなれば、それなりに立ち回れるだろ。これで…我慢しろよな」
遥はしばらく大吾を見つめ、そして大きく頷いた。
「我慢する。私も今よりもっと強くなるよ。ありがとう、大吾お兄ちゃん」
大吾は彼女の返事を聞き、ほっとしたように笑顔を見せた。が、すぐに我ながら恥ずかしいことを言ったと彼女から手をどけた。
「お、俺はぐずる餓鬼は見るのも嫌なんだよ」
遥はそんな大吾を笑い、空を仰いだ。月が変わらず二人を照らし出している。
私も強くならなければ。いつまでもあの人の側にいるために。この月のように、大好きな人たちをずっと穏やかに見守っていられるように。
「おい遥、もうそろそろ寝とけ…」
時間を気にして大吾が話しかけるが、返事がない。見ると、彼女は大吾にもたれかかったままぐっすりと寝入っていた。
「自分の部屋で寝ろよ。おい」
何度か揺するが彼女は目を覚まさない。大吾は溜息をつき、遥を抱き上げた。
「話したいだけ話して寝ちまいやがって、やっぱり子供だな…」
一緒に居ると、時々驚くほど大人の顔をする遥だが、こういう時には普通の子供なのだと安心する。
こいつの泣き顔は見たくないよな、桐生が彼女を大切にする気持ちも分かる気がする。大吾は彼女を部屋へと運んでいった。
起こさないように布団に寝かせ、部屋を出た瞬間だった。
「何か音がすると思ったら、大吾。あんた何やってんの」
「お、お袋!」
弥生は大吾と遥の部屋のドアを交互に見、怪訝な顔をする。
「そこは遥ちゃんの部屋……あ、あんたまさか!」
「わーーーー!!ご、誤解、誤解だ!」
「お黙りっ!遥ちゃんは桐生から預かった大切な娘さんなんだよ!ちょっとおいで!」
弥生は問答無用で大吾を自室まで引っ張っていく。大吾の声が空しく邸内に響き渡った。
「だから誤解だって!遥、遥起きろ!起きて説明してやってくれ、遥あああああ!!」
その頃遥は微笑を浮かべて寝返りを打った。なにやら楽しい夢を見ているようだ。
一方大吾は3時間かかって誤解を解き、その夜は桐生にまで説教される夢を見たという。
次の日遥は出会い頭に大吾から鉄拳を食らうことになるのは言うまでもない。
-終-
(2006・12・21)
PR