いつまでも、ずっと
東城会を揺るがせた100億消失事件が、遠い昔話になるほど時は流れた。一時、解体寸前にまで追い込まれた東城会も、今や
事件以前よりも規模を増大させ、日本でも西の近江連合・東の東城会と呼ばれるほどに他の追随を許さない組織になっていた。
そこまで東城会を立て直したのは、他でもない堂島大吾の力に他ならない。当初、若くして会長職に就任した大吾を不安視する
者も少なくはなかったが、彼は時間をかけ、己の行動を皆に示す事で古参含め幹部衆の信頼を勝ち取った。上がまとまれば下も
それに従う。自然、東城会は大吾を柱に結束することとなった。
その彼が東城会六代目会長と名乗る事に対し、もう誰も異論を唱えるものはいない。名実共に、東城会の頭となった男の姿が
そこにあった。
更に、東城会ではもう1人成長著しい人物がいた。それは遥。東城会本部に顔を出すようになった頃は、あどけない笑顔で辺りを
走り回っていた彼女はもういない。今年18才になった遥は、天然の愛嬌に加えて大人びた艶やかさも時折覗かせるようになっていた。
相変わらず、本部で雑用をこなす彼女だが、実は少し前に桐生も狭山と暮らし始め、遥は本来なら堂島家に世話になる必要は
なかった。桐生も、年頃の彼女を心配して、暴力団である東城会には極力関わるなとも言っている。しかし、東城会本部は幼い頃から
慣れ親しんでいた場所。今更距離をとる必要もないと思っているのだろう。遥はわざわざ高校も東城会近郊の公立高校に奨学生として
進学し、学校帰りにはいつも本部に寄って帰っていた。
「こんにちはー!」
昔から変わらない元気な挨拶と共に、遥が東城会の門をくぐる。近くにいた構成員は穏やかに挨拶を返した。
「早いですね、遥さん。部活はないんですか?」
遥は高校に進学した頃から合気道部に入っていた。護身術には向かないが、何もできないよりはいいと思っているのだろう。自分の
身は自分で守るという彼女の性格の表れだった。彼女は小さく笑って首を振った。
「3年生だもん。夏のインターハイ終わったら、もう引退だよ」
「ああ、そうでしたか。もうそんな時期なんですね」
彼は大きく頷く。季節も気がつけば夏は終わり、秋になっていた。遥はそうだよ、と構成員を見上げた。
「部活が終わっちゃったのは寂しいけど、これからはここにも早く来ることができるから、ちょっと嬉しいんだ」
部活、特に運動部は遅くまで練習がある。そのため、日が暮れてから本部に寄る彼女の姿もよく見かけた。その度に組員が彼女を
送っていったり、時には堂島家に世話になってそのまま登校することもあった。まさに、ここが第二の我が家というわけだ。
しかし、遥がそうまでして本部に来たがる理由は、構成員にはわからない。彼女は特に何も言わないし、それに関しては問いかけても
曖昧に笑うだけで答えることもなかった。しかし、ここの人間は彼女を好意的に思っている者ばかりだったため、顔を覗かせてくれるの
ならどんな理由でもかまわないと、ことさら追求もしなかった。
「それじゃ、またね」
遥は手を振って踵を返す。制服のプリーツスカートを翻し、建物に向かってかけていく姿を、彼は微笑ましく見つめていた。
本部内に入った遥はいつものように詰め所に鞄を置き、給湯室でコーヒーを入れて真直ぐに会長室へと向かう。今日は早いから
きっと部屋の主も驚くだろう。そっと笑い、彼女は部屋の扉をノックした。
「入れ」
中から聞きなれた声がする。遥は幼い頃に一生懸命開けた扉を、すんなり押して中に入った。
「大吾お兄ちゃん、お茶ですよ~」
思いも寄らぬ少女の声に、大吾は顔を上げた。
「今日は早いじゃねえか、どうした」
遥は慣れたようにコーヒーを彼の机に置いて肩を竦めた。
「それ、門番さんにも言われたよ。部活はもう引退なの、やっと昨日引継ぎが終わったから。帰るの早いんだ」
そうか、と大吾は湯気の立つコーヒーに視線を落とす。こうやって、学校帰りに彼女の入れたコーヒーを飲むのも何年になるだろう。
これが習慣になってしまうほどの長い年月を、大吾は彼女と過ごしてきた。そんな遥も、もう高校3年生。しかもこの時期ともなれば
色々将来のことを考えることになる頃だろう。彼はふと彼女を見上げた。
「お前、学校卒業したらどうすんだ?」
それを聞き、遥は含みのある笑みを浮かべた。
「えへへー、内緒!」
「なんだよ、それ。別に言ったって構わねえだろ」
「うーん、でも、どうしようかなあ……」
彼女はもったいぶるように考え込む。大吾は舌打ちして頬杖をついた。
「気持ち悪いだろ、言えよ」
普段なら、ここまで言うと彼女は教えてくれるものだが、今日の遥は首を横に振った。
「やっぱり、もう少ししたら教えるね」
「あ、そ」
幾分不機嫌そうに素っ気無く答えた大吾を、遥は覗き込んだ。
「気になる?」
そういう仕草は、幼い頃と変わっていない。変わったのは、彼女の目線の高さだけだ。大吾は苦笑を浮かべた。
「ま、兄貴がわりとしてはな」
「そっか……」
どこか寂しげに聞こえるのは、自惚れが過ぎるだろうか。彼は横に立つ遥を見上げる。呟いたきり、窓の外を眺める彼女の横顔は
どこか思い詰めた様子で、わずかに胸をつかれた。
「どうした?」
「え?あ、なんでもないよ」
昔から長さの変わらぬ髪を揺らして、彼女は首を振る。高校生ともなれば、髪の色も変えたりするものだが、彼女の髪はいつも漆黒で
綺麗に手入れされていた。彼女が年頃になるにつれ触れることもなくなったが、おそらく昔と同じ手触りなのだろう。考えだすと無性に
確かめたくなった。
「おい」
「……なに?」
手招きされ、遥は少し近付く。更に手招きされ、彼女はまたそばに行く。やがて、不思議そうに首を傾げる遥に大吾は告げた。
「ちょっと屈め」
「え?……うん」
素直に屈んだ遥の顔が大吾に近付く。彼はふいに手を伸ばした。
「お兄ちゃん……?」
思わず声を上げた瞬間、大吾は彼女の髪を一束掴んで引っ張る。遥はその痛みに顔をしかめて叫んだ。
「い、いたたたたた!痛い、痛いってお兄ちゃん!はげちゃう~!」
「……やっぱ、かわんねえな」
遥は驚いたように視線を上げる。大吾は彼女の髪を弄びながら呟いた。
「昔のままだ」
懐かしげに目を細めた大吾は、何かを思い出しているようにも思える。遥はぽつりと呟いた。
「……昔のままじゃないよ」
驚くのは大吾の番だった、視線を動かすと彼女は苦笑を浮かべた。
「昔のままじゃ、ないもん」
それにどんな意味を含んでいるのか、彼にはわからない。遥はただ澄んだ瞳を静かに向けているだけだ。不意に緩めた手から髪は
流れ落ち、遥はそっと身を起こした。大吾が何か言おうとした時、部屋の扉がノックされた。
「ああ……入れ」
もっと彼女に言いたいこともあったが、そういうわけにもいかないようだ。やがて入室の許可を得て入ってきたのは柏木だった。
「失礼します……ああ、遥来てたんだな」
「こんにちは、柏木のおじさん!」
先ほどの表情が嘘のように、遥ははしゃいで柏木に駆け寄っていく。大吾はあっけにとられてその光景を眺めた。
「今日は早いな、部活は引退か?」
「そうなんです。だから、まっすぐこっちに来ちゃいました」
遥は笑顔で彼を見上げる。柏木は苦笑を浮かべて彼女に告げた。
「桐生がぼやいてたぞ、遥が言う事を聞かなくなったって」
「えー、言う事は聞いてます。ちゃんとここに来ることはメールしてあるし、部活も勉強もちゃんとしてます」
不満そうに声を上げる遥を、柏木は困ったように眺めた。
「そうではなくて、東城会に出入りする事についてだよ。高校生、しかも女の子が暴力団の施設に出入りするのは、一般的に見ても
よくないことだろう。それに、所詮この世界はならず者の集まりだ。私たちの目の届かないところで、遥ちゃんに対してよくないことを
する奴だっているかもしれない。それを心配しているんだよ、あいつは」
柏木の言う事は、間違ってはいないと思う。大吾は横で聞いていて思った。遥は歳を経るごとに、美しく成長していく。そして、今は
周囲の構成員も、もう幼い遥として見ることはできないほどに大きくなった。
更に、本部詰めの構成員も昔からみるとだいぶん入れ替わり、彼女がここにいる理由も知らぬ人間も増えた。彼らの彼女への接し方も
大人の女性に対するそれになることも多い。その露骨さに、時折大吾が構成員達に対して釘を刺さなければいけないほどだった。
それを遥はわかっていない。長年世話になっている気安さなのか、彼女の彼らに対する接し方はあまりにも無防備で正直危機感さえ
感じていた。しかし、そう考える一方で始終ここにいた彼女がいなくなるというのも、考えられない。遥はいったいこれからどうするつもり
なのだろう。大吾が見つめていると、彼女はぽつりと呟いた。
「でも、もう少しだから」
「……え?」
思わず問い返す柏木に、遥は首を振った。
「なんでもないです。あの、ちゃんと気をつけます!おじさんの言う事もできるだけ聞きます!」
柏木は大吾と顔を見合わせ、苦笑を浮かべる。どうやら、遥はこのことについては桐生の言う事を聞く気はないらしい。
「澤村さん」
次の日のホームルーム後、帰宅しようとした遥は担任に呼ばれて教壇に向かった。柔和な顔の女性教諭は、彼女に笑みを浮かべる。
「あの話、希望通りになりそうよ」
「本当ですか!?」
遥は小さく飛び跳ね、両手を組む。教諭は大きく頷いた。
「内申書や、成績も考慮したけど問題ないって。詳しい事はまた話すから、放課後進路相談室に来なさい」
「ありがとうございます!」
深々と頭を下げた彼女に、教諭は意地悪く笑った。
「いくら合格圏内だからって、気は抜かない事!偏差値も問題ないから心配はしてないけど、もっともっと勉強しなきゃね!」
「はーい」
嬉しそうに返事する遥に彼女は誇らしげに頷いてみせた。
「3年生は来週から放課後補習をすることになるから、帰りも遅くなるわよ。休日もないと思ってね。親御さんにもそう言っておきなさいね」
「あ……はい」
急に元気のなくなる遥を笑い、教諭は教室を出て行く。遥は複雑な表情で席に戻ると、溜息と共に突っ伏した。
「どうしたの?遥」
友人が声をかけてくる。彼女は視線だけ動かして浮かない声を上げた。
「来るべき時がきたって感じ……」
「なにそれ」
首を傾げる友人に、遥はそのまま顔を伏せ、首を振った。
「なんでもないよーだ」
訳が分からないというふうに、友人は肩を竦める。ふと、彼女は遥に声をかけた。
「それより、あんた呼ばれてるよ」
遥は驚いて顔を上げ、辺りを見回した。
「え、そんなこと早く言ってよ~!誰?」
「だってあんた微妙にへこんでるから面白くって……ああ、そうそう。あの人」
彼女が指差した方には、特に顔見知りと言うわけではない少年が、廊下に落ち着きなく立っている。彼は彼女と目が合うと、小さく
頭を下げた。
「……誰?」
「あんたねえ、隣のクラスの男子じゃない」
「覚えてない……」
一生懸命思い出そうとする遥を無理やり立たせ、友人は背中を押した。
「そんなことより、こんな時に呼び出しなんて目的は一つ!早く行っておいで!」
「行きたくないよう」
友人の言葉で、これから何が起きるかはおおむね分かったらしい。遥は困ったような顔で男子生徒に向かって歩き出した。
『つきあってほしいんだけど』
『ごめんなさい、それはできません』
『あ、そう……』
その告白劇はものの数秒で終わった。沈黙をあわせれば15分くらいかかっただろうか。ただ、遥の返答の速さは、コンビニのATM
以上に速かった。それで拍子抜けしたのか、相手も二の句が告げないまま微妙な沈黙を残して去っていった。
こういったことは頻繁にあるわけではないが、他の少女達よりは多いのかもしれない。遥は返答にも慣れてしまった。答えは一つだけ
迷う必要もない。それを聞いた友達はいつも口々に遥を責め、どうしてつきあってみないのかと疑問を投げかける。そのどれにも彼女は
答えなかった。答えられなかった。
とはいえ、折角の好意を断るのも気分のいいものではない。それに、これから自分が言いたくないことを大吾に言わなければならない。
どんよりと落ち込んだまま、遥は本部へと向かった。
「こんにちは……」
昨日とはうってかわって沈んだ調子の遥を、門にいた構成員は驚いたように見送る。彼女はそれ以上彼と言葉も交わさず、とぼとぼと
建物の方へと歩いていった。
ホールに入ると、本部は幾分薄暗く見えた。気分の問題だろうか、彼女は詰め所にも寄らず真直ぐに会長室へと歩いていく。途中
構成員達に声をかけられたが、遥は生返事で通り過ぎた。
ノックをするのも忘れて扉を開いた遥は、煙草を燻らせながら窓辺から外を眺める大吾の背中を見つめた。六代目として認められた
その姿は、頼もしくて見ているとまるで桐生といるように安心する。いつでも大吾は彼女の一番だった。でも、もうこの背中を見られそうに
ない。痛む胸をおさえながら、彼女はそっと声をかけた。
「大吾お兄ちゃん」
急に声が聞こえ、大吾は驚いて振り返る。夕陽に染まった部屋の中は目に痛いほど赤い。
「何だよ、入る時はノックしろって言ったろ」
咎めるように声を上げる大吾を遥は何も言わずに見つめる。今は何だかこういう彼の表情も懐かしい。黙りこくっている遥を大吾は
訝しげに眺めた。
「どうしたんだよ」
遥は慌てて首を振り、ぎこちなく笑顔を浮かべて大吾の近くにやってきた。
「あ、な、なんでもないよ。そうだ、週末はこっちでお世話になってもいい?弥生さんにも、おじさんにも言ってあるから」
聞かれても、彼女はすでに発言力のある人間には手回し済みだ。断れるわけがない。大吾は苦笑を浮かべた。
「またかよ。お前、休みの日くらい他の奴と遊んだりしろよ」
「友達とは学校で会うもん」
そうじゃなくて、と彼は腕を組んだ。
「男とか、いるんだろ?」
遥は目を丸くする。彼からそういう話を振られるとは思わなかったため、彼女は戸惑いながら答えた。
「い、いないよ」
「マジか?」
「うん」
素直に頷く遥は、何かを隠しているようにも思えない。大吾は首を傾げた。身内の贔屓目かもしれないが、遥は同年代の少女達と
並べてみても、特に見た目も悪くないと思う。むしろ、平均と言うものがあるのなら、それより上をいっているだろう。組員達が懐いて
いるくらいだから、性格に問題があるわけでもない。それは、長く顔を合わせている大吾がよく知っていた。
それなのに、遥は昔からこういった質問に対して、首を縦に振った記憶がない。男の影を匂わせる雰囲気すらない。この年頃なら
恋愛に興味があって当然だと思っていたが、彼女は違うのだろうか。いささか不安になりながら大吾は遥を覗き込んだ。
「お前、大丈夫か?」
「大丈夫って?」
首を傾げる彼女に、大吾は溜息をついた。
「遊びすぎるのも考えもんだがな、少しは誰かと付き合ったりしたらどうなんだ?」
「え……」
遥は短く言葉を発したまま沈黙する。彼は肩を竦めた。
「高校生にもなれば、浮いた話の一つや二つあんだろうが。それとも、お前学校で暴れたりしてんのか?そりゃあ、野郎も引くな」
「そ、そんなことしてないよ~!私、学校ではおとなしいんだから!」
「どうだか」
慌てて声を上げる彼女を、大吾は笑う。その様子を不満げに見ていた遥は、ふと視線を落として呟いた。
「……断ってるの」
「え?」
彼女は困ったように笑い、窓の外を眺めた。
「今までにも……今日だって、男の子が私に『好きだ』って言ってくれた。でも、全部断っちゃった」
「なんで」
困惑したように大吾が問いかける。遥は窓に額を当て、目を細めた。
「……その人たちには、そういう気持ちになれないんだ」
「桐生さんか?」
彼女は驚いたように大吾を振り返る。彼は苦笑を浮かべて遥を見下ろした。
「違うのか」
出会った頃から、遥の心の中を占めていたのは、一匹の龍。時を経ても、極道の間では常に語り継がれ、今なお伝説となっている男。
どれだけあがいても、大吾が越えることはできないただ1人の人物だ。何年たっても彼女が思い続けているのも納得できる。
しかし、遥は首を横に振った。
「……違うよ」
「遥?」
驚いたように声を上げた大吾を見ないように、彼女は部屋の扉へとかけていく。そして一度振り向き、微笑んだ。
「今日はおうちで夕食食べてね!待ってるから!」
「あ?ああ……」
遥は足早に部屋を出て行く。大吾は困惑した表情のまま、その場に立ち尽くしていた。
部屋を出た遥は、大きく溜息をつき、廊下を歩いていく。結局言わなければならないことは言い出せなかった。何故今日に限って
大吾はあんな話題を口に出したのだろう。間が悪いとはこのことだと思った。彼女は力なく呟いた。
「……堂島さんちに帰ったら言おう」
彼女の視線の先では、夕陽はすでに沈みかけ、辺りでは虫の声が響き始めていた。
PR