墨をこぼしたように真っ黒な空に、幾粒か星が散りばめられている。
それは、天高く浮かぶ飛空挺の上にあっては、最高の酒の肴だった。
底の広いグラスに、大きな氷と、少量のウィスキー。
それを、わざと貧乏たらしく、ちびちびと飲む。
なみなみと注いだ酒を勢い良く飲むのは、ジョニーの好むところではなかった。
酒は、侘しく飲んでこそ酒だというのが、彼のポリシーだった。
そしてそれは、今宵同席したテスタメントにとっても、嫌いではないポリシーだった。
「酒は初めてか?」
問われたテスタメントは、テーブルの真向かいに座るジョニーにちらと目を上げた。
「いや……人間だった頃に付き合いで飲んだ事なら、何度か。
だが、未だに慣れないものだ。下戸というのだろうな」
ディズィーを仲間に引き入れた礼として、テスタメントはジョニーの酒に付き合う約束をしていた。
――借りが出来たな――
――そうだな、酒でも付き合ってもらおうか――
二人とも、その場のノリの他愛ない挨拶程度には考えていなかった。
いつかは、目の前の男と酒を酌み交わす機会が欲しいものだと思っていた。
それは、互いに国家権力から追われる身であっては、叶えがたい約束だった。
だが、警察機構の目をかいくぐって、どうにか一席設ける事が出来た。
それが、今夜だったのだ。
「あの子は元気か?」
快賊団員達が眠りについた深夜に、テスタメントはここを訪ねてきた。
それをジョニーは、不躾だとは思わなかった。
夜間が最も目立たず、警察の目をすり抜けやすいのは当たり前である。
逃亡者同士では連絡を取り合う術もない。アポなど取りようが無かったのだ。
だから、テスタメントは眠りこけるディズィーの様子もまだ確認していない。
寝室へこっそり入って寝顔を確認するぐらいなら構わないぞと、ジョニーは言ってくれた。
だが、ここにはレディは他にもいる。
夜中にアポ無しで住処を訪れるより、本人達に無許可で寝室に邪魔する事の方が
余程不躾で、非紳士的だ。
テスタメントは断り、その代わり翌朝彼女達が起きてくるまで待たせてくれと願い出た。
それは、ジョニーにとっても願ってもない事だった。
星明りが窓を輝かせる。
文明が科学に頼りきっていた頃は、星は今程明るくはなかったそうだ。
人工的な灯りが昼も夜もなく街を白く浮き上がらせていたのだとか。
人々はその時代、新月を恐れなかった。
科学的な灯りもなく、かつギアに大地を蹂躙されていたあの頃と比べて見ると
時代の変化というものはかくも落差の激しいものだ。
「よう、お前さんはギアが台頭する前の世界を、直接知ってるクチかい?」
テスタメントの実年齢を知らないジョニーは、それとなく彼に質問を投げかけてみた。
知っていると答えれば、彼は百年以上は生きている事になる。
彼の生い立ちや、人間であるクリフ=アンダーソンを義父としていた事など、ジョニーは知らない。
知っていれば、そこからおおよその年齢も推測出来ただろう。
百年以上も昔の話など、彼が知る筈も無いと、わかっていた筈だ。
だが、お互いの事を詳しく知らないが故に、ジョニーはついそう尋ねてしまったのだ。
「……いや、私はそれ程年寄りではない。貴様よりは年上かもしれないがな」
「本当の年齢は?」
「覚えていないな。数えてもいない。こんな体になっては、数える意味も無い」
テスタメントはそう言うと、グラスの残りをまた一口飲み込んだ。
「ん~……ジョニー、お客さん?」
眠い目をこすりながら、メイが部屋にやってきた。
用を足しに起きたのか、それとも話し声で目を覚ましてしまったのか。
パジャマ姿の彼女は、何度か顔を見た事のあるギアがジョニーと同席しているのを認めた。
「あ、えと……テスタメント、だっけ?」
未だに彼にかすかな恐怖心を感じる彼女は、思わず身構えてしまった。
「……起こしてしまったか。貴様らの団長に、酒を奢ってもらいに来たのだが」
しまった、何か土産でも持ってくれば良かったと、この時テスタメントは
子どもであるメイの顔を見て、初めて思った。
菓子など買う金は無いが、森の果物を見繕って持ってくれば良かった。
「すまないな、手ぶらなんだ」
子ども向けの笑顔を繕う事を忘れてしまった彼は、
メイに対して謝意を表すのに、どんな表情と言葉を向けるべきか迷った。
「気にしなくて良いよ。朝までいられるの?」
「……あぁ、そうさせて貰えると有り難いが?」
メイは、まだ幾らか警戒心の残る本音を抑えて、テスタメントに笑顔を向けた。
「だったら、ディズィーが起きるまで待っててよ!
アンタの顔見れたら、きっと喜ぶから」
子どもに、そのような言葉をかけてもらえるとは思わなかった。
あぁ、これが人の優しさというものだったと、テスタメントは思い出した。
そして、彼女をここまで育ててきたジョニーに、敬意をもった。
大人の酒の席に、子どもがいてもつまらない。
メイは早々に自分の部屋に戻って、眠りなおす事にした。
彼女が去っていった後で、ジョニーは空になった自分のグラスに酒を注ぎ足した。
タイミング良くテスタメントのグラスも空になったので、
お近づきの印に、彼のグラスにも注いでやる。
「あぁ、すまない」
テスタメントは、次は自分が彼に注いでやる番だな、と思った。
「気にすんな。オレぁ人に酒を注いでやるのが、大好きなんだ」
ジョニーは彼の気遣いを悟って、そう言ってやった。
帽子をとり、サングラスを外した彼の顔には、思いのほか皺が多かった。
若々しいイメージばかりがあったが、やはり年相応の年輪も刻んでいるようだ。
「……なるほど、慕われる理由もよくわかる。あの子が貴様の庇護を選ぶわけだ」
テスタメントは、彼に預けた友人ディズィーに思いをはせた。
「おぉっと、そいつぁ違うぜ。あの子は、守られるためにウチを選んだわけじゃぁねぇ」
テスタメントは、はっとした。
そうだった。かつて自分は、彼女を守るために森に居続けた。
それが、彼女を縛る鎖ともなっていた。
ディズィーが快賊団を選んだのは、守ってくれる者を鞍替えするためではなかった。
そんな簡単な事も忘れていた自分を、テスタメントは恥じた。
つくづく、卑屈な心根になってしまったものだと後悔する。
それはギアとして大量殺戮の尖兵になってしまった過去故か。
それとも、自分は元々それ程心の美しい青年ではなかったのか。
ジョニーは立ち上がり、壁にかけてある無数の写真を眺めた。
その中の一枚に、メイを拾ったばかりの頃に写したものもあった。
法力によって紙のような媒体の上に転写されたそれは、奇しくも
かつて科学の時代に存在した、カメラなる物体によって写したものと同様、写真と呼ばれていた。
写真には、まだ幼いメイと、それを抱き上げるジョニーの姿。
メイの目は、まだいくらか人間不信を宿しているように見えた。
明朗快闊な今の彼女からは少しかけ離れた、恐怖と不幸を知った者の目だった。
そんな心荒んだ孤児を、あそこまで明るい素直に子に育て上げるのは、
並みの努力ではなかったに違いない。
人生経験の深さも関係するだろうが、少なくともカイ=キスクなどには無理そうだ。
「やはり、父親というものは偉大なのだな」
テスタメントは、メイの父親代わりでもあるジョニーと、
かつての自分の義父、クリフを頭の中で見比べた。
方向性に違いはあるが、二人は紛れも無く『父親』だった。
義父に育てられているという点では、自分とメイは同じなのかもしれない。
そう、テスタメントは思った。
ただ一つ違うのは、彼女が義父に恋心を抱いているという事だ。
自分も女だったなら、或いは義父に淡い思いを抱いただろうか?
幼い女児誰もがそうであるように、自分もまた、『父親』に嫁ぐ事を夢見ただろうか?
……そこまで考えて、テスタメントは一人苦笑いした。
想像とは言え、そしていくら尊敬しているとは言え、
自分が男に惚れていたかもしれない可能性など、想像して気味の良いものではない。
もっとも両性具有である彼にとっては、女性と結ばれる事も想像し難いのだが。
ジョニーは思い出の写真を眺めながら、もう一口酒を飲んだ。
「……父親ねぇ」
意味深に、そう呟く。その呟きが、テスタメントには気になった。
ジョニーは、酒の勢いか、それともテスタメントを信用しているからか。
今まで誰にも打ち明けた事の無い心情を吐露しはじめた。
「昔読んだ小説でなぁ……親代わりの男に対して、娘が感謝の気持ちをこめて
『私にとっては、お父さんが本当のお父さんだよ』ってな、言ってやるシーンがあったんだよ」
この場合の『お父さん』とは、実父ではなく義父の事だろう。
何がしかの経緯で実父を失った娘が、自分を育ててくれた義父をこそ
自分にとっての真の父親だと、尊敬の念をあらわした言葉なのだろう。
世間一般では、美談と呼ぶに違いない。
血の繋がりは無くとも、大切に育て上げた子にこう言ってもらえれば、父親冥利につきよう。
自分もクリフに同じような事を言ってやりたかったと、テスタメントは思った。
だが、ジョニーは逆に考えたようだった。
「俺ぁ、自分の養ってきた子ども達に、間違っても『お父さん』とは呼ばれたくなかった」
「……何故だ?」
クリフを本当の父だと思いたかったテスタメントにとっては、面食らうような発言だった。
思わず、その発言の理由と真意を問いただしてしまう。
ジョニーは一つ溜息をこぼすと、今は無き孤児達の両親の、冥福を祈った。
そして、恐らくは親が手塩にかけて育てたかったであろう娘達を
不肖ながら自分が引き取らせてもらった事に、果てしなく感謝した。
「俺が思うになぁ、死んじまったあの子達の親だって、
きっと自分の手で、娘を育ててやりたかったに違いねぇんだよ。
今はもうこの世にゃ居ないかもしれないが、少なくとも死ぬその瞬間まで
あの子達を大切に守り、育てあげていたのは、紛れも無くのあ子達の両親な筈なんだ」
彼が何を言おうとしているのか、テスタメントはわかったような気がした。
しかし、言葉を遮らぬように、黙ってジョニーの話を聞き続ける。
「俺なんかよりもずっと、ご両親達はあの子達を愛してた筈なんだ。
マトモな神経してちゃ、世界中の誰よりも子を愛してるのは、親だからなぁ……。
それなのに、そんなご両親達を差し置いて……
この俺が『お父さん』等とあの子達に呼ばれるのは、申し訳ないんだよ……」
ジョニーはそこまで言い終えて、グラスの残りを一気にあおった。
彼らしからぬ飲みっぷりだった。
だが同時に、非常に彼らしい飲みっぷりだとも思えた。
「だから俺ぁ、あの子達に父親として接してはこなかった。
勿論、保護者としてのスタンスはキッチリさせていたつもりだが……
それでもあの子達が大人になった時、俺の事は父親ではなく
友人として見てくれるように、接してきたつもりだった」
テスタメントは合点がいった。
快賊団のメンバーは、彼の知る限りでは、誰もジョニーを『お父さん』とは呼ばない。
メイを筆頭に、皆ジョニーと呼ぶ。
あの子達の本当の両親に対する哀れみと敬意があるからこそ、そう接してきたのだろう。
だが同時に、彼はそれを後悔してもいるようだった。
聡明なテスタメントには、ジョニーの後悔の理由が、瞬時に理解出来た。
「メイ……という子の事だな?」
ジョニーは、こくりと小さく頷く。
「やっぱ中途半端な接し方はいけねぇなぁ……
あの子は俺の事を、保護者である以上に、思慕の対象として見るようになっちまった。
最初は、まぁ世間一般の父親ってのも、娘が幼い頃は初恋の相手として見られるもんだからと思ってな、
割り切ってきたんだが……結局あの年になっても、あいつの恋心は変わらなかったよ」
これが実父なら、単なるファザコンとして割り切れただろう。
いつかは親離れして、違う男性で素敵な相手を見つけてくれると信じる事も出来る。
だが、メイに限っては、それは望み薄な気がした。
空になったグラスをテーブルに置き、テスタメントは問いかけた。
「それで……どうするつもりなのだ?
今からでも父親として徹底するか、それとも……」
あの子の気持ちに応えてやるのか?
そう言いかけたが、口には出さなかった。
ジョニーは、同じく空になったグラスをテーブルの上に置き、伸びをした。
「済まねぇな、珍しく長話しちまったようだ」
「気にやむ事は無い。聞き役は嫌いではないさ」
テスタメントは酒瓶を取り上げると、そのままジョニーのグラスに注いだ。
そして、自分のグラスにも。
「朝まで、まだ時間があるな。せっかくの機会だ。
男同士の酒を、もう少しゆっくり楽しもう」
ジョニーは席につくと、グラスを受け取った。
「そうだな、男と飲むのは久しぶりだ」
カチンと、わざとらしく乾杯の音が部屋に響いた。
それは、天高く浮かぶ飛空挺の上にあっては、最高の酒の肴だった。
底の広いグラスに、大きな氷と、少量のウィスキー。
それを、わざと貧乏たらしく、ちびちびと飲む。
なみなみと注いだ酒を勢い良く飲むのは、ジョニーの好むところではなかった。
酒は、侘しく飲んでこそ酒だというのが、彼のポリシーだった。
そしてそれは、今宵同席したテスタメントにとっても、嫌いではないポリシーだった。
「酒は初めてか?」
問われたテスタメントは、テーブルの真向かいに座るジョニーにちらと目を上げた。
「いや……人間だった頃に付き合いで飲んだ事なら、何度か。
だが、未だに慣れないものだ。下戸というのだろうな」
ディズィーを仲間に引き入れた礼として、テスタメントはジョニーの酒に付き合う約束をしていた。
――借りが出来たな――
――そうだな、酒でも付き合ってもらおうか――
二人とも、その場のノリの他愛ない挨拶程度には考えていなかった。
いつかは、目の前の男と酒を酌み交わす機会が欲しいものだと思っていた。
それは、互いに国家権力から追われる身であっては、叶えがたい約束だった。
だが、警察機構の目をかいくぐって、どうにか一席設ける事が出来た。
それが、今夜だったのだ。
「あの子は元気か?」
快賊団員達が眠りについた深夜に、テスタメントはここを訪ねてきた。
それをジョニーは、不躾だとは思わなかった。
夜間が最も目立たず、警察の目をすり抜けやすいのは当たり前である。
逃亡者同士では連絡を取り合う術もない。アポなど取りようが無かったのだ。
だから、テスタメントは眠りこけるディズィーの様子もまだ確認していない。
寝室へこっそり入って寝顔を確認するぐらいなら構わないぞと、ジョニーは言ってくれた。
だが、ここにはレディは他にもいる。
夜中にアポ無しで住処を訪れるより、本人達に無許可で寝室に邪魔する事の方が
余程不躾で、非紳士的だ。
テスタメントは断り、その代わり翌朝彼女達が起きてくるまで待たせてくれと願い出た。
それは、ジョニーにとっても願ってもない事だった。
星明りが窓を輝かせる。
文明が科学に頼りきっていた頃は、星は今程明るくはなかったそうだ。
人工的な灯りが昼も夜もなく街を白く浮き上がらせていたのだとか。
人々はその時代、新月を恐れなかった。
科学的な灯りもなく、かつギアに大地を蹂躙されていたあの頃と比べて見ると
時代の変化というものはかくも落差の激しいものだ。
「よう、お前さんはギアが台頭する前の世界を、直接知ってるクチかい?」
テスタメントの実年齢を知らないジョニーは、それとなく彼に質問を投げかけてみた。
知っていると答えれば、彼は百年以上は生きている事になる。
彼の生い立ちや、人間であるクリフ=アンダーソンを義父としていた事など、ジョニーは知らない。
知っていれば、そこからおおよその年齢も推測出来ただろう。
百年以上も昔の話など、彼が知る筈も無いと、わかっていた筈だ。
だが、お互いの事を詳しく知らないが故に、ジョニーはついそう尋ねてしまったのだ。
「……いや、私はそれ程年寄りではない。貴様よりは年上かもしれないがな」
「本当の年齢は?」
「覚えていないな。数えてもいない。こんな体になっては、数える意味も無い」
テスタメントはそう言うと、グラスの残りをまた一口飲み込んだ。
「ん~……ジョニー、お客さん?」
眠い目をこすりながら、メイが部屋にやってきた。
用を足しに起きたのか、それとも話し声で目を覚ましてしまったのか。
パジャマ姿の彼女は、何度か顔を見た事のあるギアがジョニーと同席しているのを認めた。
「あ、えと……テスタメント、だっけ?」
未だに彼にかすかな恐怖心を感じる彼女は、思わず身構えてしまった。
「……起こしてしまったか。貴様らの団長に、酒を奢ってもらいに来たのだが」
しまった、何か土産でも持ってくれば良かったと、この時テスタメントは
子どもであるメイの顔を見て、初めて思った。
菓子など買う金は無いが、森の果物を見繕って持ってくれば良かった。
「すまないな、手ぶらなんだ」
子ども向けの笑顔を繕う事を忘れてしまった彼は、
メイに対して謝意を表すのに、どんな表情と言葉を向けるべきか迷った。
「気にしなくて良いよ。朝までいられるの?」
「……あぁ、そうさせて貰えると有り難いが?」
メイは、まだ幾らか警戒心の残る本音を抑えて、テスタメントに笑顔を向けた。
「だったら、ディズィーが起きるまで待っててよ!
アンタの顔見れたら、きっと喜ぶから」
子どもに、そのような言葉をかけてもらえるとは思わなかった。
あぁ、これが人の優しさというものだったと、テスタメントは思い出した。
そして、彼女をここまで育ててきたジョニーに、敬意をもった。
大人の酒の席に、子どもがいてもつまらない。
メイは早々に自分の部屋に戻って、眠りなおす事にした。
彼女が去っていった後で、ジョニーは空になった自分のグラスに酒を注ぎ足した。
タイミング良くテスタメントのグラスも空になったので、
お近づきの印に、彼のグラスにも注いでやる。
「あぁ、すまない」
テスタメントは、次は自分が彼に注いでやる番だな、と思った。
「気にすんな。オレぁ人に酒を注いでやるのが、大好きなんだ」
ジョニーは彼の気遣いを悟って、そう言ってやった。
帽子をとり、サングラスを外した彼の顔には、思いのほか皺が多かった。
若々しいイメージばかりがあったが、やはり年相応の年輪も刻んでいるようだ。
「……なるほど、慕われる理由もよくわかる。あの子が貴様の庇護を選ぶわけだ」
テスタメントは、彼に預けた友人ディズィーに思いをはせた。
「おぉっと、そいつぁ違うぜ。あの子は、守られるためにウチを選んだわけじゃぁねぇ」
テスタメントは、はっとした。
そうだった。かつて自分は、彼女を守るために森に居続けた。
それが、彼女を縛る鎖ともなっていた。
ディズィーが快賊団を選んだのは、守ってくれる者を鞍替えするためではなかった。
そんな簡単な事も忘れていた自分を、テスタメントは恥じた。
つくづく、卑屈な心根になってしまったものだと後悔する。
それはギアとして大量殺戮の尖兵になってしまった過去故か。
それとも、自分は元々それ程心の美しい青年ではなかったのか。
ジョニーは立ち上がり、壁にかけてある無数の写真を眺めた。
その中の一枚に、メイを拾ったばかりの頃に写したものもあった。
法力によって紙のような媒体の上に転写されたそれは、奇しくも
かつて科学の時代に存在した、カメラなる物体によって写したものと同様、写真と呼ばれていた。
写真には、まだ幼いメイと、それを抱き上げるジョニーの姿。
メイの目は、まだいくらか人間不信を宿しているように見えた。
明朗快闊な今の彼女からは少しかけ離れた、恐怖と不幸を知った者の目だった。
そんな心荒んだ孤児を、あそこまで明るい素直に子に育て上げるのは、
並みの努力ではなかったに違いない。
人生経験の深さも関係するだろうが、少なくともカイ=キスクなどには無理そうだ。
「やはり、父親というものは偉大なのだな」
テスタメントは、メイの父親代わりでもあるジョニーと、
かつての自分の義父、クリフを頭の中で見比べた。
方向性に違いはあるが、二人は紛れも無く『父親』だった。
義父に育てられているという点では、自分とメイは同じなのかもしれない。
そう、テスタメントは思った。
ただ一つ違うのは、彼女が義父に恋心を抱いているという事だ。
自分も女だったなら、或いは義父に淡い思いを抱いただろうか?
幼い女児誰もがそうであるように、自分もまた、『父親』に嫁ぐ事を夢見ただろうか?
……そこまで考えて、テスタメントは一人苦笑いした。
想像とは言え、そしていくら尊敬しているとは言え、
自分が男に惚れていたかもしれない可能性など、想像して気味の良いものではない。
もっとも両性具有である彼にとっては、女性と結ばれる事も想像し難いのだが。
ジョニーは思い出の写真を眺めながら、もう一口酒を飲んだ。
「……父親ねぇ」
意味深に、そう呟く。その呟きが、テスタメントには気になった。
ジョニーは、酒の勢いか、それともテスタメントを信用しているからか。
今まで誰にも打ち明けた事の無い心情を吐露しはじめた。
「昔読んだ小説でなぁ……親代わりの男に対して、娘が感謝の気持ちをこめて
『私にとっては、お父さんが本当のお父さんだよ』ってな、言ってやるシーンがあったんだよ」
この場合の『お父さん』とは、実父ではなく義父の事だろう。
何がしかの経緯で実父を失った娘が、自分を育ててくれた義父をこそ
自分にとっての真の父親だと、尊敬の念をあらわした言葉なのだろう。
世間一般では、美談と呼ぶに違いない。
血の繋がりは無くとも、大切に育て上げた子にこう言ってもらえれば、父親冥利につきよう。
自分もクリフに同じような事を言ってやりたかったと、テスタメントは思った。
だが、ジョニーは逆に考えたようだった。
「俺ぁ、自分の養ってきた子ども達に、間違っても『お父さん』とは呼ばれたくなかった」
「……何故だ?」
クリフを本当の父だと思いたかったテスタメントにとっては、面食らうような発言だった。
思わず、その発言の理由と真意を問いただしてしまう。
ジョニーは一つ溜息をこぼすと、今は無き孤児達の両親の、冥福を祈った。
そして、恐らくは親が手塩にかけて育てたかったであろう娘達を
不肖ながら自分が引き取らせてもらった事に、果てしなく感謝した。
「俺が思うになぁ、死んじまったあの子達の親だって、
きっと自分の手で、娘を育ててやりたかったに違いねぇんだよ。
今はもうこの世にゃ居ないかもしれないが、少なくとも死ぬその瞬間まで
あの子達を大切に守り、育てあげていたのは、紛れも無くのあ子達の両親な筈なんだ」
彼が何を言おうとしているのか、テスタメントはわかったような気がした。
しかし、言葉を遮らぬように、黙ってジョニーの話を聞き続ける。
「俺なんかよりもずっと、ご両親達はあの子達を愛してた筈なんだ。
マトモな神経してちゃ、世界中の誰よりも子を愛してるのは、親だからなぁ……。
それなのに、そんなご両親達を差し置いて……
この俺が『お父さん』等とあの子達に呼ばれるのは、申し訳ないんだよ……」
ジョニーはそこまで言い終えて、グラスの残りを一気にあおった。
彼らしからぬ飲みっぷりだった。
だが同時に、非常に彼らしい飲みっぷりだとも思えた。
「だから俺ぁ、あの子達に父親として接してはこなかった。
勿論、保護者としてのスタンスはキッチリさせていたつもりだが……
それでもあの子達が大人になった時、俺の事は父親ではなく
友人として見てくれるように、接してきたつもりだった」
テスタメントは合点がいった。
快賊団のメンバーは、彼の知る限りでは、誰もジョニーを『お父さん』とは呼ばない。
メイを筆頭に、皆ジョニーと呼ぶ。
あの子達の本当の両親に対する哀れみと敬意があるからこそ、そう接してきたのだろう。
だが同時に、彼はそれを後悔してもいるようだった。
聡明なテスタメントには、ジョニーの後悔の理由が、瞬時に理解出来た。
「メイ……という子の事だな?」
ジョニーは、こくりと小さく頷く。
「やっぱ中途半端な接し方はいけねぇなぁ……
あの子は俺の事を、保護者である以上に、思慕の対象として見るようになっちまった。
最初は、まぁ世間一般の父親ってのも、娘が幼い頃は初恋の相手として見られるもんだからと思ってな、
割り切ってきたんだが……結局あの年になっても、あいつの恋心は変わらなかったよ」
これが実父なら、単なるファザコンとして割り切れただろう。
いつかは親離れして、違う男性で素敵な相手を見つけてくれると信じる事も出来る。
だが、メイに限っては、それは望み薄な気がした。
空になったグラスをテーブルに置き、テスタメントは問いかけた。
「それで……どうするつもりなのだ?
今からでも父親として徹底するか、それとも……」
あの子の気持ちに応えてやるのか?
そう言いかけたが、口には出さなかった。
ジョニーは、同じく空になったグラスをテーブルの上に置き、伸びをした。
「済まねぇな、珍しく長話しちまったようだ」
「気にやむ事は無い。聞き役は嫌いではないさ」
テスタメントは酒瓶を取り上げると、そのままジョニーのグラスに注いだ。
そして、自分のグラスにも。
「朝まで、まだ時間があるな。せっかくの機会だ。
男同士の酒を、もう少しゆっくり楽しもう」
ジョニーは席につくと、グラスを受け取った。
「そうだな、男と飲むのは久しぶりだ」
カチンと、わざとらしく乾杯の音が部屋に響いた。
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