夢の中にいる。
私は夢の中から、現実という名の外の世界を見ている。
体は全く動かない。その上、体中がひどく痛む。鼓動に合わせて小刻みに痛みの満ち引きを繰り返す体を持て余して、無性に膝を抱えて丸くなりたいと思った。だが、指一本動かない。冷たく硬い床に、痛む体で仰向きで寝ているのはつらかった。できることなら眠ってしまいたかったが、瞼も閉じられない。それも自由にならなかった。
だから、私はずっと外の世界を見ていた。
世界は赤かった。怒声と咆哮と、血と、赤い髪。赤い髪をした『わたし』が吼え狂う世界は、まるで真っ赤に塗り潰されているように見えた。
その世界と私の間に、寒色の背中があった。子供の頃、繰り返し見たあの夢のように。
「まず、私の仇をとってくれるのだそうですよ」
寒色の背中の主が薄く笑う。こちらに背中を向けたゲーニッツの顔は見えないが、確かに薄笑いの気配があった。
「私に止めを刺したのは貴女ですが、それに手を貸したのは彼等ですから。だから、まず彼等を殺すのだそうですよ」
「……それから?」
「おや、まだ答える気力がありましたか」
意外そうにゲーニッツが振り返る。おそらくもう瀕死の私が答えるとは思わなかったのだろう。
瀕死であることは間違いない。胸の傷は深く、呼吸する度に熱いものが喉に詰まる。正直、声が出せたのも意外だった。
「それでは貴女が穏やかに眠りに付けるまで、少し話をしましょうか。考えてみればしばらくぶりの再会なわけですし」
そう言うと、ゲーニッツは横たわる私の隣に腰を下ろした。冷たい手が伸ばされ、額から髪にかけてをそっと撫ぜていく。それは確かに、私の夢と――古い記憶と同じ手だった。
「それから、と問いましたね。そうですね……それから何もかも、というところでしょうか」
幼い子供を寝かしつけるための御伽噺のような口調で、ゲーニッツは剣呑な代弁をする。
「聞きましたか? 彼女の言葉を。私を殺す技を貴女に教えた貴女の義父を、そして貴女達を受け入れなかった世界を憎むと言っていたでしょう? 彼女の望みは、世界の全てを滅ぼすこと、それ以外にありませんよ」
「私……達……?」
「ええ、貴女もまた、あの世界に受け入れられてはいなかった。違いますか?」
声は出なかった。否定することはできなかった。
「言ったでしょう『何でもするから』と請い願うことでしか生きられない世界ではなかったか、と」
ああ。
ああ、そうだった。
ずっと恐れていた。世界から拒まれてしまうことを。
恐れていたから、考えないように、目を向けないようにしていたのだ。
それはもしかしたら、本当の父と母を殺してしまった時から始まった不安かもしれない。私の中の蛇神の血を恐れていた父。この身に流れているその血がある限り、父は私を拒むのではないか。嫌うのではないか。疎むのではないか。閉ざしてしまった記憶の底に、そんな不安があったのかもしれない。
義父の屋敷で暮らしていた頃にも、それはあった。義父の亡くした妻と子の、微笑む写真に覆われて暮らしていた頃、私は自分が義父のために笑えも泣けもしないことが怖かった。あんな風に笑えない私は、きっと義父の亡くしたものの代わりにはなれないのだと。
だからせめて、義父の教えてくれる戦いの技を、ひとつ残らず完璧に覚えようとした。別の形でいいから、義父のためのものになりたかった。義父に拒まれないものになりたかった。
あの屋敷を出てからは、「決して裏切らない殺人兵器が欲しいから、義娘をそう仕立てたんだ」などとよく言われた。あるいは「愛人を連れ歩くとなると問題になるが、それが義娘という名目なら何かと都合がいいだろう」だとか、「父親の保身のために二十一も年上の男にあてがわれた」だとか。
それは全てただ義父への妬みから出た虚ろな陰口でしかなかったが、それは別の不安を呼んだ。そういう言葉がきっかけで、義父は私を遠ざけるかもしれない。義父はそれをなんとも思わなくても、義父の立場にとっては不都合かもしれないからだ。
その逆のことも思った。決して裏切らない手駒が欲しいだけ。そうであってもおかしくはない、という不安がいつもひとかけら心のどこかに転がっていた。
それならそれでもいいとも思っていた。もし本当にそうなら、望みどおりの駒になればいい。それで義父が、私を傍に置いてくれるなら。
義父だけではない。仲間達も同じだ。兵士としての務めを果たし、兵士として認められる。それが過去も歳の差も立場の違いも塗り潰してくれた。全てを飛び越えて、彼等と私を同じ色に染めてくれた。だが、もし私が兵士としての価値を失ってしまったら。
怖かった。
誰かの望む私でいられなくなることが。
義父の望む私でいられなくなることが。
世界が望む私でいられなくなることが。
世界の全てが私を拒むかもしれないということが。
「でももう、貴女にそんなつらい想いをさせる世界に戻る必要はないんですよ」
死の縁に横たわる私を見つめ、ゲーニッツは囁きかける。全てを赦す牧師の姿そのままに。
「貴女にそんなつらい想いをさせた世界は、あの子が――そしてもうすぐ目を醒まされる私達の神が、全て滅ぼしてくれますから。だから貴女は、何もかも彼女に任せてゆっくりとお眠りなさい」
その言葉に頷くことは、しかしできなかった。
世界は相変わらず赤く染まっている。夜の闇に閉ざされた夢の中、そこだけが鮮やかで輝くようだった。例えその輝きの源が、この世の全てへの憎悪だったとしても。
わからなかった。今の彼女ほどに、私が何かを強く思ったことはあっただろうか。肉体を得て彼等を殺す術を得た彼女の歓喜より、彼等を殺さないでと願う私の気持ちは強いだろうか。
怒声が聞こえる。しっかりしろ、目を覚ませ。私を仲間と呼んでくれた上官達の声だ。
わからなかった。目覚めるのは本当に私でいいのだろうか。私は本当にあの世界に向かって目を覚ましたいと思っているのだろうか。
それなのに頷けない。頷けばきっと楽になる。そう思いながら、私は何かに引っかかってそこから動けない。
その時だった。
視界の端を、何かが掠めた。
あの鳥だ、と気付くまでに少しかかった。夕暮れの空を彷徨っていたあの鳥だった。視界の効かない闇の中、思わぬ低さまで降りてきてしまったのだろう。地面に激突する寸前で再び舞い上がるのが目に入ったのだった。
鳥は飛んでいる。どこかの枝に降りて夜をやり過ごせば、生き長らえることはできるかもしれない。遠い国に渡ることはできなくても、ここで生きていくことはできるかもしれない。
だが鳥は飛んでいる。自分の群を探して飛んでいる。
「…………よ」
「どうされました?」
「……同じよ、あなたも」
浅く苦しい死に際の呼吸の中、私は最期の力を振り絞って声を上げる。
「あなたも……あなたもあなたにとって都合のいい私が必要なだけでしょう?」
引っかかっていたのはそれだった。私は唐突に、それに気付いたのだった。
血の宿命に身を任せ、獣の咆哮を上げる『わたし』でなければ、この男には必要ではないはずだ。
「だからあなたは私をこの夢で眠らせようとし、『わたし』を現実に目覚めさせた。あなたも、私の全てを受け容れているわけじゃないわ」
言葉の間、不思議と息が続いた。息だけではない。私の体は急激に力を取り戻し始めている。痛みは相変わらずひどいが、さっきより少しはましだ。
私は無理矢理に顔を上げる。やっとまともに視界に入ったゲーニッツの目を睨み付け、私は続ける。
「みんな同じよ。みんな自分にとって都合のいい誰かを求めているだけ。あなたも、そして私も」
外の世界の怒声はまだ続いている。目を覚ませ。目を覚ませ。上官達は『わたし』の爪に牙に何度も傷付けられながら、それでも同じ言葉を繰り返す。
彼等とて、何もなしに私をを受け入れた訳ではない。少なくともきっかけは、軍人として受けた命令のひとつに過ぎなかった。
私とて同じだ。彼等が私を受け入れてくれたからこそ、彼等を仲間と思えるようになったのだ。もしも彼等が私を親殺しの忌み子と罵ったなら、私は彼等を憎んでいたかもしれない。
義父のこともそうだ。義父が私に何もかも与えてくれたから、だから私はあの人を好きになったのかもしれない。
「でも……それでも」
指に、手に、腕に力が戻る。痛みも死気も押しのけて、何かが私を突き動かす。
それは手刀の形を取って、微笑むゲーニッツに斬りつけた。
「私が許せるのは、向こうの世界にいる私よ」
空を切る手刀の向こうに、飛び退る青い牧師服が見えた。その隙を突いて私も飛び起きる。それだけの力が戻っていた。
息はまだ苦しい。血が足りていないのか、頭がぐらぐらする。それでも私は戦う姿勢を取った。そういう時の戦い方も義父から受け継いでいる。
「戻りますか? あの世界へ」
「戻るわ」
「あんな姿を見せた貴女を、再び彼等が受け容れてくれるという保証もないのに?」
けだもののように吼え狂い、仲間を襲う『わたし』――それを彼等が嫌悪しないという保証は、確かにどこにもない。けれど、
「戻るわ」
答えはもう変わらない。
鳥は真っ暗な空を飛ぶ。群に戻れると信じて。
私も信じる。私の群に戻れると。
「あなたを倒して、戻って見せるわ」
「……仕方ないですねえ」
牧師服の裾の埃を払いながら、ゲーニッツが苦笑する。
「では、もう少し力尽くで眠っていただきましょうか」
その言葉と共に突如吹き荒れ始めた風の中を、私は身を低くして走り出した。
私は夢の中にいる。
『わたし』は夢の外にいる。
だが、ニ人の私はどちらも戦っていた。
私は血の臭いをたっぷり含んだ風の刃を避ける。避けながら放った手刀は間合いが足りず、ゲーニッツには届かない。
『わたし』はラルフの重い拳を避ける。身体を捕らえようとするクラークの腕も避ける。避けながら放った手刀は彼等の肌を浅く裂いて、ぱっと赤いものが散る。
分の良い戦いとは言い難かった。以前ゲーニッツと戦った時は三人がかりでやっと倒したが、今の私は一人きりだ。
対してラルフとクラークは、私と肉体を共有する『わたし』に本気を出すのを躊躇している。私の身体をなるべく傷付けぬようにと思うあまりに、あと一歩が踏み込めていない。このままでは思わぬ後れを取っての、最悪の事態も起こり得る。
少し、焦った。
無理を承知でゲーニッツの懐に飛び込む。一気に間合いを詰めて勝負を付けるつもりだった。
届いたと思った瞬間、下から持ち上げられる感覚があった。投げられたのではない。天に向かって吹き上げる激風――竜巻だ。バランスを崩すどころか吹き飛ばされたところにもう一撃あって、私は受身も取れずにどさりと落ちた。一瞬、意識が飛びそうになる。
だが、私はまだ届くと直感していた。宙に浮かされていた時間と感覚からして、まだゲーニッツからはそれほど離れてはいないはずだ。おそらくすぐ後ろにいる。
私は伏せたままの姿勢から、腕の力だけで体を浮かせざま後方を脚で薙ぎ払う。方向は――
『お前の直感は才能のひとつだが、そればかりに頼っては腕が上がらない。今後更に気を付けるように』
いつかの義父の言葉が、すぐそこから聞こえた気がした。
脚で薙ぎ払うと見せかけて、ぐるりと半周し体勢を変える。見えない敵を無理に狙わず、視界を確保する方に私は賭けた。
蹴りが来ると思ったか、ゲーニッツの構えはは下方に向いている。躊躇わず、私はそこに跳び込んだ。
「いい加減にしろよ、このひよっこがッ!!」
怒号と共に放たれた拳を、避けるか受けるか一瞬戸惑った。その戸惑いが、選択肢を失くしてしまったことに気付いても、まだ彼女は自分が追い詰められたとは思っていなかった。これだけ大振りの一撃なら、受けても流してもその後に反撃できるだけの隙が生まれる。そこから一気に畳み込んでしまえばいい。
それが甘い考えだと悟ったのは、丸太の様に膨れ上がった腕の筋肉を見た時だった。そこから生まれる破壊力は想像に難くない。避ける以外にどうにかできるものではなかった。そして一瞬の戸惑いと判断の誤りは、彼女から拳を避ける余裕を奪い去っていた。
拳が放たれる。受け流せないなら受けるしかない。だが、まともに受ければいくら人間の限界を超えた状態の肉体でも保ちはしないだろう。
衝撃の瞬間、同じ方向に跳んだのは賭けだった。ぎりぎりまで衝撃を殺せればもしかして、と思ったのだ。
私の手刀がゲーニッツの胸を貫いたのと、殺しきれなかった衝撃が『わたし』を貫いたのは、ほとんど同じ瞬間だった。
+++++++++++++++++++++++++++
夢が終わる。
風すらも赤く染まった世界の中、これ以上赤を足しても皆それまでの赤に溶けてしまうだろうと思えるような光景の中、驚くほどそれは鮮やかだった。
蛇眼の牧師の胸から溢れた赤、その胸に突き立った私の手刀を染める赤だ。
「……嘘」
口を吐いて出た言葉は、我ながら間が抜けていると思った。
手にあるのは間違いなく、大嫌いな血の感触だ。胸の筋肉を引き裂き、内臓まで達した手応え、ひとつの命を絶った手応えだ。それなのに、何が嘘だというのだ。
呆気ない、と思ったのだ。
昨年は3人がかりでやっと、この男を倒せた。それに引き換え、今の私は手負いで、しかも一人きりだ。嘘のように呆気ない。
そこで気付いた。同じように切り裂かれたはずの胸は痛くも熱くもない。呼吸も正常だ。いつの間にかあの傷が癒えている。致命傷だったというのに。
「嘘」
「嘘ではありませんよ」
思わず繰り返した言葉に、ゲーニッツが小さく笑った。その唇の端から、細い血の筋が伝って落ちる。
「ここは貴女の夢ですから。貴女の思うままになる世界ですから」
そう言ってから、ゲーニッツは少し首を傾げた。
「思うまま、というのは違うかもしれませんね。貴女の深層意識の世界、とでも言いましょうか。夢というのはそういうものですよ」
「嘘よ」
私は3度、繰り返した。
認められなかった。
それでは、ゲーニッツをここに招いたのも私自身だということになる。その上、もう1人の『わたし』はこの男を父と呼んでいた。
この男はパパとママの仇だ。あの時、手を下したのは確かに私自身だけれど。
でも、強引にきっかけを作ったのはこの男だ。それを招くどころか、父などと呼んでいた。
認めたくなかった。
「嘘ではありませんよ」
だが、ゲーニッツはさらりと否定する。
「貴女、昔から夢を見ていたのでしょう? 一度は去ろうとした私が振り返る夢を」
夢。幼い頃、何度も見ていた夢。
背の高い男の背中が見えていた。父母の血に染まった狂った色彩の部屋の中、穏やかな寒色の背中が近くて遠かった。
振り向いた影の、その人の顔は逆光で良く見えない。視線が合ったということだけが、なぜかわかる。
そして私は手を伸ばし、その人の手も伸びて、ふたつの手は重なるのだ。
私はそれを、義父との出会いの光景だと思っていた。それを繰り返し夢に見ているのだと。
「あれが本当は貴女の義父ではなく、私だったということを、貴女は忘れようとして出来なかった。覚えていたんですよ、本当のことを」
だがそれを、ゲーニッツは自分とのやり取りだと言う。あの寒色の背中は自分のものだと言う。
「だからでしょうね。貴女の全てを受け容れる「理想の父親」の役を私に振ったのは。実のお父上にその役を振るのは貴女自身が許せないし」
その通りだ。死んだものは何ひとつ語らない。だからパパは私を恨むこともないし、許すこともない。それでも私は怯えている。パパに罪を責められることを。憎まれることを。
「かと言って、義父殿に振れるはずもないでしょう?」
それもその通りだ。パパを亡くした後の私にとって、義父は全てだった。義父がいなければ、私はどう存在していたらいいかすらもわからない。
私は必死だった。義父に拒まれないように必死だったのだ。だから、その配役ははなから成り立たない。
それでこの男だったのか。
「正直に言いますとね、一族の利害を考えても、貴女の振った役を演じるのはとても都合が良かったんですよ。貴女の中にいれば、貴女の中の一族の血を引き出す手助けをするのも楽ですから」
「それも私の望みだったと言うの?」
「ええ。本当の自分を晒し出したい、醜い自分を晒して、なお自分を受け入れてくれる誰かが欲しい。それは人間誰もが持つ望みですよ」
そこまで言うと、ゲーニッツは急に咳き込んだ。
「おや、時間のようですね」
ごぼりと血の塊を吐いて、それでもなお口元は笑みの形に緩んでいる。
「貴女が私から訊きたいことは、どうやら全て話してしまったようですね。私の役目は終わりです」
「終わりって……?」
「出番の終わった役者は、退場するのみですよ」
「いいえ、まだよ。まだ終わってないわ」
私は急速に力を失いつつあるゲーニッツの体を支えた。もしかしたら縋っているように見えたかもしれない。
「無理ですよ。だってほら」
ゲーニッツは自分の胸を指差してみせる。
「胸にこんな穴を開けられて。本当はとっくに喋れなくなっているような傷じゃないですか。自分でこうしておいて、何を今更」
言葉と一緒に、何度も喉から血が溢れている。それでも言葉そのものは明瞭なのは、それも私の望みなのだろうか。
「今まで何事もないように話していられたのも、貴女が私に答えを望んでいたからです。でもそれが終わった今、私はもう、貴女の常識に従って死ぬしかないんですよ」
「まだよ! もう1人の私のことを話しなさい。話せるはずよ……答えなさい!」
「それは、直接彼女にお訊きなさい。もうすぐ彼女もここに戻ってきますから」
そしてゲーニッツは、いつかのようにそっと手を伸ばした。
「風が迎えに来ましたね。これでお別れです」
ひやりと冷たい手が、私の髪を撫ぜる。なぜだかその手に嫌悪は感じなかった。
「結構楽しかったですよ、貴女の父親役も」
それが最後だった。
一陣の突風が吹き、私が思わずそれに目を閉じた瞬間に手の感触は消え、目を開けた時にはやはり、蛇眼の牧師の姿はそこになかった。
奇妙な喪失感に襲われて、私は思わずしゃがみこむ。真っ赤な世界に取り残されて、私は1人だ。
吐きそうなほどの孤独感だった。何もない。何もいない。ただ赤いだけの世界。
1人でいるのは苦にならない方だと思っていた。下手に気を使われたり世話を焼かれるよりは、1人の部屋で膝を抱えている方が楽だと思っていた。
でも、今だけは耐えられそうになかった。あの夢を思い出す。狂ったような色彩に染まった部屋。身動きひとつ出来ずに横たわっていた時の心細さ。
1人にしないで。置いていかないで――声にすらできない叫びを上げた瞬間、私の意識も風の中に千切れ飛んだ。
長い夢が終わる。
意識を取り戻して最初に感じたのは痛みだった。全身あちこちが痛む。
何かひどい夢を見ていたような気がした。口の中に鉄錆の味がする。うなされるうちにどこか噛んでしまったのだろうか。嫌な味だ。
どうしてこんなにも血が苦手なのだろう、と思うこともある。ほんの薄皮一枚隔てて、自分の中にも満たされている。それだけの液体だ。だというのにその色も、味も、このぬるりとした感触も、やはり苦手だ。
「この」、ぬるりとした?
はっとして自分の手を見る。血塗れだ。悲鳴を上げそうになったところに、髪から落ちた血が視界を染めた。
赤い、赤い世界。そこに誰かが倒れている。
「よぉ、レオナ。起きたか」
あれは。掠れた声を上げている、あれは?
「起きたんだったらメディカル――はここにいねえな。大会の救護チーム呼んできてくれ? ちょっと、あれだ。俺もクラークも動くのはちとキツいんでな」
俺……クラーク……思い出せない。記憶が濁っている。
メディカル。大会。救護チーム。
ああ、そうだ。KOFだ。私はKOFに出場していて、チームメイトはラルフとクラーク。準決勝の試合が終わって、それから――それから?
頭の中で、何かが爆ぜた。
この手を染めているのは彼等の血だ。私が彼等を……大事な人たちを殺そうとした証の血だ。
また殺してしまうところだった?――また? その前は誰だった? 彼等の前に、私は誰を殺そうとした?
……違う、殺そうとしたんじゃない。殺してしまったんだ。
「あの時……」
パパを殺した。私が殺してしまったんだ。
「思い出したわ、全てを……」
ぬるりとした血の感触。肌を裂き内臓を抉るあの感触。パパの悲鳴と哀訴と断末魔の絶叫。
「あの時、私は……」
私はまた、大事なものを自分で壊そうとしてしまった。あの時と同じように。
今回はたまたま最悪の事態に至らなかった。相手が私より技量の勝るあの2人だったからだ。だがこの次もそれで済むという保証はどこにもない。
そんなことになるまえに、いっそ。
手刀を振り上げ、自分の首を貫くために振り下ろす。それを決断するまでにかかった時間は、驚くほど短かった。
新たな血飛沫が散り、私は再び意識を失った。
長い夢が終わる。
赤い世界。血に染まる夢の世界。
死に損ねたのだ、ということは割とすぐに理解した。死んでしまったら夢も見ないはずだ。
「死んじゃえ、って思ったのに」
あの赤い髪の少女が、隣に立つ気配があった。
「パパを殺したあなたなんて死んじゃえ、って思ったのに。あの傭兵に邪魔されたわ。さっきちゃんと殺して置けばよかった」
ということは、たぶんラルフだ。お節介焼きの上官は動かないと言っていた体で、私と私の手刀の間に手だか腕だか差し入れて、すんでのところで私の自決を止めたのだろう。だとすれば、私が最後に見たあの血飛沫はきっと彼のものだ。その証拠に私の首には傷ひとつなく、ただ手ばかりが血に濡れている。
だが、赤毛の少女はその血に別のものを見た。
「また、わたしのパパを殺したのね」
彼女がパパと呼ぶのはゲーニッツのことだ。この血があの男のものかはわからないが、確かに彼を殺したのは私だ。
頷く私を彼女が睨み付けるのが見なくてもわかる。視線には痛いほどの憎悪と殺意が乗っていた。
だから、訊いた。
「私が、憎い?」
「ええ、憎いわ」
「私もよ。あなたが憎いわ」
私たちはひっそりと笑い、けれど目を合わせることなく、どちらからともなく目を伏せる。足元の赤いぬかるみが、2人の裸足を汚していた。
「あなたのパパを殺したのも、私のパパを殺したのも私よ。でも、私はそれをあなたのせいにしたかった。あなたは私であって、でも私ではない。だからパパを殺したのも私ではない。そう思えるのは楽だったから」
「そうね、自分で自分を憎み続けるのは、時には楽なこともあるけれど、とても辛いことだわ」
「しかもあなたは、ゲーニッツを、あなたのパパを殺した私を憎んでいた……自分のことを憎んでいる他人を憎むのは楽よ」
「憎んでいる相手に責められるのも楽だものね」
「その通りだわ」
結局のところ、そういうことなのだ。
この世界を赤く染めたのは、父と母を手に掛けた私の罪の意識だ。断罪されたい、裁かれたいという想いがこの世界を創った。でも、その自分で望んだ苦しみを、私は一人で背負うことができなかったのだ。
そうして生まれたのが彼女だ。もう1人の『わたし』、赤毛の『わたし』だ。
時期だとかそういうきっかけもあったのだと思う。私の中に蛇神の血が流れていなければ、昨年KOFでゲーニッツに再会しなければ、ここまで明確な別人格は生まれなかったかもしれない。
とはいえ、彼女を創ったのもまた、私自身であることには変わりがない。私が認めなかった血と、力と、私が拒んでしまった私の一部をより合わせて創られたもの。つまりは――
「あなたは、私なのね」
やっと、本当の意味で、私は彼女がもう1人の自分であることに気が付いたのだ。
私自身なのだ。彼女の憎悪も、恐怖も、外の世界で彼女が見せた獣性も、全て私自身のものなのだ。
「そうよ」
不意に、手に柔らかな感触があった。手を繋がれたのだ。
「あなたはあなた自身を呪う自分を、わたしをずっと自分の中に飼い続けるの。いつまたわたしがあなたを押し潰すか、あなたの中から溢れるか、それに怯えながら――ほら、見て」
俯いた視界の端で、すっと彼女の手が上がるのが見えた。それにつられて顔を上げる。
そこに、陽が射していた。朝陽だった。
太陽そのものは見えない。厚い雲に覆われた空は相変わらず暗かったが、それでも夜の闇とは違う。世界は確実に光を取り戻し始めていた。
その光を翼に受けて鳥が飛ぶ。あの、群にはぐれた鳥だ。
長い長い夜が終わる。一晩やみくもに飛び続け、とっくに力を失ったはずの翼で鳥は飛んでいく。もう迷いはない。ただ真っ直ぐに飛んでいく。
「鳥は行くわ……あなたは?」
飛ぶ先に、自分の群がいるのかどうかはわからない。追いつけるかどうかもわからない。追いつけたところで、群が受け入れてくれるかもわからない。それでも鳥は飛んでいく。
「私も行くわ。私の群に戻る」
「そう言うと思っていたわ」
パパにもそう言っていたものね、と彼女は続ける。
「でもあなたの群だって、あなたの楽園な訳じゃない。苦しんで、恐れて、怯えながら生きて行きなさい。わたしはここで、あなたがまたそれに押し潰されるのを待っているわ」
そして、繋いだ手が離れる。
離さなかった。離れようとした手を私が掴んだ時、赤毛の少女は初めて驚く顔を見せた。
「あなたも行くのよ、一緒に」
掴んだ手を引き寄せ、私たちは向き合う。こんな風に彼女の目を真っ直ぐに見て話すのも、思えば初めてのことだ。掴んだ手は激しく逃れようとしたが、それでも私は離さなかった。
「あなたは私よ。私に群があるなら、それはあなたの群でもあるということだわ」
私の群。傭兵たちが戦場から戦場へと渡る群。
確かにそこは楽園ではない。大嫌いな血ばかり見ることになるし、世話焼き気質の上官や仲間たちの存在は、時に重すぎて苦しくもなる。そして実際、あの群にいる限り、あの群を心地良い場所だと認める限り、私はそこから弾き出されることに絶えず怯え続けなければならない。あるいは、私はまた彼等を傷付け、今度こそどうしようもない結末を迎えてしまうかもしれない。
それでもあの群は。あの群にはあの人がいる。
群を率いる隻眼の傭兵。私の義父。
わたしには、あのひとがいる。
あの人のいる群に、私は戻りたかった。
憎悪も恐怖も過去の記憶も、認めがたい一族の血も力も全て、全てを抱えたままで。
何もかも全てを抱えて、あの人のところに戻りたかった。
あの人となら、生きていけると思った。
「いきましょう、一緒に」
引き寄せた手は、もう抵抗しようとはしなかった。
どこかで娘を呼ぶ父親の声がする。その声に向かって足を踏み出す。一歩踏み出す度に意識が薄れていく。目覚めが近い。
朦朧とする意識の中で見上げた空に、飛ぶ鳥の姿はもう遠い。
長い夢が、終わる。
++++++++++++++++++++++++
もう、夢は見ない。
ハイデルンは、モニタ越しに義娘の戦う姿を見ていた。
昨年もそうだった。義娘が遠い日の真実を告げられ、困惑と恐怖に顔を歪めるのを、このモニタ越しに見ていた。
義娘が赤い髪を振り乱したけだものとなって、全身を血に染めて歓喜するのも見ていた。正気に戻った義娘が、全てを思い出して自ら死を選ぼうとするところも見ていた。
義娘が一番つらい想いをしている時に、自分は義娘の傍にいないのだ、と思った。
いや、違う。いなかったのではない。自ら行かないことを選んだのだ。自分は傍にいてはいけない、そう思う。自分が傍にいたら、きっと。
暗い部屋に、モニタだけが明滅している。既にその光は慣れていたが、ハイデルンは眩しそうに片目を細めた。もう片方の目はない。
どんな形であれ生きていてさえくれれば。妻と娘を失くした時は心底そう思った。物言わぬ姿となって戻ってきた部下たちを見る度にもそう思った。
義娘に対してだけは、どうしてもそう思えなかった。
生きている限り、暗い過去を引き摺らなければならない義娘だ。生きている限り、血の宿命に追われなければならない義娘だ。この8年、いっそ父母の後を追わせ、死なせてやった方が幸せだったのではないかとの想いがどうしても捨てられなかった。
自分があの時、妻子と共に死ねていたならという想いと、それは同じ重さをもっていた。
それでも自分はまだいい。復讐の相手がいるだけいい。血の臭いのする過去を抱えてでも、思い出と憎悪を支えに生きていける。復讐だけを支えに生きる、血に塗れた道。そんな生き方が何になると自問自答しながら、しかしそんな生き方しかできなかったし、そんな風になら生きられた。
義娘にはそれもない。できることといったら、自分自身を責め、憎むことだけだ。
悪夢にうなされては熱を出し、小さな体を震わせて眠る義娘を見守った夜、頭を撫ぜてやる手を首にかけてしまおうかと何度悩んだことか。
ハイデルンは己の愚かしさを哄う。それなら最初から、引き取ったりしなければ良かったのだ。戦場に立つものであれば孤児を見ることなど珍しくもない。何を思ったかそれを引き取って、なおかつ宿命と戦う術など教えてしまった。
生きる術を教えておいて、何を死なせてやれば良かった、だ。ハイデルンは矛盾する己を哄う。
ラルフに問い詰められ、答えられなかったのも当然だ。一緒に生きるのではなく死のうとしていると言われて、否定できなかったのも当然だ。
だから、義娘の傍にいないことを選んだのだ。昨年のKOF、そして今年のKOF、どちらも義娘の宿命に関わるとわかっていたからこそ。
ハイデルンは、モニタ越しに義娘が自分の命を絶とうとするところを見ていた。その手をすんでのところでラルフが止めるところも見ていた。
自分があの場にいたら止められたか。おそらく否だ、とハイデルンは思う。きっと自分は義娘を死なせてやりたいと思ってしまうだろう。だからこそ、義娘を部下たちに――義娘を想ってくれる部下たちに託したのだ。
だが、その時ハイデルンの胸を満たした感情は、彼自身の予想とはまるで違っていた。
どんな形であれ、生きていてさえくれればと。
ハイデルンは、モニタ越しに義娘を見ていた。戸惑いながらも生きることを選び、その祝福のように、髪に赤いバンダナを結ばれたところも見ていた。
馬鹿な話だ。ハイデルンはどこまでも己を哄う。失ってしまう寸前にならなければわからなかったのかと。
どんな形であれ、生きていてさえくれればいい。赤い髪をしたけだものに変わろうと、この世の全てを呪おうと。自分の傍にいなくてもいい。馬鹿な義父を憎んで遠くに行ってもいい。ただ、生きていてさえくれればいいと思った。
モニタ越しに見るレオナの結末は、そのままハイデルンにとっても結末だった。彼と義娘の、この8年の結末だった。
ハイデルンは、モニタ越しにそれを見ていた。
軍人に必要とされる能力のひとつに、時間を把握するというものがある。時にコンマ何秒の夕イミングを合わせろと要求されることも少なくはない商売だ。ある一定のレベルを超えれば、時計に頼ることなく正確な時間を把握することは必須のスキルとして要求される。
それを養う訓練において、たぶんこの二人の成積は優秀だったのだろう。
そろそろだ、と顔を上げたレオナは、自分の順番を待ちながら溜まった書類を片付けていた同僚の机がすでに整理されているのを見た。書類は切りの良いところまで進められ、あるものはファイルに、あるものは机の引き出しに納められて、すっかり席を離れる準備ができている。
この人にはいらぬ気遣いだった、と自分の書類に目を戻そうとしたところで、声を掛けられた。
「レオナ、これ後は大佐のサイン入れるだけだから、お前の番になったら、ついでに提出しておいてくれ」
「了解」
受け取ったファイルは、次回の任務に関する計画書だ。正式な謹慎も明けていないうちから、もう次の任務が始まっているのは仕方がない。エース2人が謹慎のためとはいえ、一ヶ月近くも部隊を離れていたのだ。
別に、ラルフとクラークがいなければ部隊がまるで機能しなくなるというわけではない。しかし、彼ら向きの任務だとか、彼らでなければ成功率が低く、しかも緊急性の低い任務だとかいうものはどうしても後に回される傾向にある。一ヶ月もすればそういうものが結構な数になって、それを捌くにはそれなり時間もかかる。とてもではないが、正式な謹慎明けなど待てないというのが実情だ。
本来ならとっくに、謹慎が明けていたはずだったというのもある。
レオナのリハビリを兼ねていたとは言え謹慎中に格闘大会に、それも世界中が注目するKOFに参加したことを無視できないのは、謹慎という言葉の意味を考えれば当然だろう。彼ら3人が復帰前に命じられたのは、山のような始末書の提出だった。ついでにそれぞれ順番に、ハイデルンの執務室への呼び出しが来ている。
本来ならもっと厳しい処分になるところだが、そうならなかったのは、そんなことに時間を割かせる余裕があったらさっさと復帰させてくれ、という現場の悲痛な声によるところが大きい。
クラークから受け取ったファイルをデスクの端に置いて、再び自分の書類に取り掛かったレオナは、ライターの音でもう一度顔を上げた。ちょうど煙草の煙を吸い込んだクラークと目が合う。
ラルフが「久しぶりに教官のお小言を聞いてくらぁ」とハイデルンの執務室に向かって15分。ハイデルンの多忙なスケジュールから考えると、1人に割ける時間は長くても20分というところだろう。そう考えると、もういつラルフがこの部屋に戻ってきてもおかしくない頃合だし、そうしたらすぐに、クラークはハイデルンの元に向かわなければならない。一服する時間の余裕はないはずだと、レオナは首は傾げないまでも、幾分怪訝な目をクラークに向けた。
「あいつが、おとなしく説諭だけ聞いて帰ってくると思うか?」
レオナの視線に気付いたクラークは、そう言いながら灰皿を引き寄せた。
「……思わない」
「だろう? 何か言いたそうな顔して出て行ったことだし、煙草1本分ぐらいは余計に話して帰ってくるさ」
いつものことだ、と言われてレオナは頷いた。
この基地で、ハイデルンと突っ込んだ話ができるのはラルフぐらいなものだ。ハイデルン自身は誰の話でも真摯に聞くつもりでいるだろうし、実際に声が上がればそのようにするのだろうが、いかんせんそこまで踏み込むことを躊躇わせる雰囲気のほうが強すぎる。部下に抱かせる感情が、尊敬を通り越して崇拝まで行ってしまうというのも、時には考え物だ。
ラルフは違う。相手が子供だろうが敵兵だろうが大統領だろうが、平気で踏み込める気質と、それをなぜか相手に許させる印象を持ち合わせている。他の誰かであれば殴り倒されそうな距離に、ラルフはするりと入り込める。
結果として、下の声をハイデルンに届けたり、物申すのはラルフの役割になりがちだ。だから、ハイデルンとラルフの話はたいてい長引く傾向にある。
「と言ってもあの人も忙しいことだし、大佐がはみ出した分、俺の時間が削られるんだろう。たぶん、お前の出る時間は予定通りだな。そのまま書類を進めといた方がいいぞ。どうせ教官に提出するんだから、間に合えば持って行く手間が1回省けるだろう?」
「そうね……そうするわ」
その予想通り、ラルフの戻りは煙草が灰になるには充分過ぎるほど遅れ、それでもクラークの戻りは予定と変わらなかった。それになんとか自分の書類を間に合わせたレオナは、2冊のファイルを手にハイデルンの執務室へ向かった。
「こちらは中尉からお預かりした、次回の作戦に関するレポートです。それと、こちらは私の分」
ハイデルンは長い腕を伸ばして、レオナの差し出す書類を受け取った。ファイルの表紙をちらりと見、最初のページを斜めに読んで内容を確認すると、そのままデスクに置く。
書類よりも先に、片付けなければならない務めがある。
「お前の書類は、これで終わりか?」
「差し当たってはその始末書で終了のはずです」
「では、この書類の提出をもって、除隊しても構わん」
「……え?」
珍しく、レオナが表情を変える。動揺だった。
「お前が戦う理由は、もうない。宿命から逃げる必要も、隠れる必要もなくなった」
ハイデルンはそこで1度言葉を切った。それからことさらゆっくりと、義娘と自分自身に言い聞かせるように残りの言葉を続ける。
「戦場に――私の傍にいる必要は、ない」
モニタ越しに見る義娘に向かって、生きていてさえくれればいいと思った時から、ハイデルンはそう告げようと思っていた。
レオナの戦う理由はなくなった。傭兵部隊に身を隠す理由も、ハイデルンに庇護される理由もなくなった。生と死が隣り合わせの戦場で、忌まわしい記憶を呼び起こす血の色にその手を染め続ける必要は、もうどこにもない。
「これからは、お前の好きなように生きるといい」
「好きなように……」
レオナはその言葉を繰り返したものの、それはまるで、言葉の意味が分かっていない鸚鵡のようだった。
ハイデルンはそれを聞かなかったふりをする。
「しばらく休養するのもいいだろう。お前にはもう学ぶようなことはないかもしれないが、学校に行くのもいい。そこで友人もできるだろう。お前はそういう経験をするべきだろう」
普通の少女のように、平穏に生きればいい。そう思う。
もし、自分がレオナを引き取らなければ。それはハイデルンがずっと抱えてきたもうひとつの想いだ。きっと少女は平穏に暮らしただろう。少しは笑顔も取り戻し、それなりに幸せな少女時代を送れたに違いない。
ずっと、そういう暮らしをして欲しいと望んでいた。自分の手の届かないところで、穏やかで静かな幸せを得てくれたならと思っていた。
まだ遅くない。まだ20歳にもならない娘なのだ。今からでも人並みの暮らしをし、人並みの幸せを手に入れてくれれば。
レオナは沈黙したままだった。
9月の日差しが差し込む部屋の中、レオナの視線はハイデルンの手に注がれていた。彼女を戦場に連れて来た男の手だ。彼女に戦う術を教えた男の手だ。
その視線を感じながら、ハイデルンは思う。戦うことを教えた自分の存在すらレオナの重荷になるのなら、それを忘れてくれても構わない。戦いの記憶と血の臭いとハイデルンの存在は、レオナの中で確実に繋がるものだ。共に過ごした8年は決して短い時間ではないが、もしレオナが望むならその全てを捨て去ってくれても構わない。ハイデルンはそう考えていた。
沈黙の時間は長かった。その長い、長い沈黙の後、レオナは静かに、視線を上げた。
「生きろ、と言われました」
ハイデルンは誰に、とは訊かなかった。その話を先程ラルフ自身としたばかりだ。
『生きろ、ってね』
それがせめてもの上官への敬意のつもりか、いつものバンダナを外したラルフに、ほんの数10分前に言われた台詞だ。
『とりあえず、俺が言っときましたよ。別の誰かからも言われたみたいですけどね。俺にはそういうのはまるでわからないから、とんと』
父親の幽霊でも出ましたかね、とラルフは冗談めかして言った。
『とにかく生かして連れて帰ってきましたよ』
後はあなたの役目ですよ、と付け加えて苦笑しながら、目だけは笑っていなかった部下をハイデルンは思う。決着をつけるべきだと、その目は言っていた。
レオナの視線が上がる。
「あなたも私に生きろ、と言うのなら」
義父の手に落としていた視線が、その隻眼を見つめる。
「好きなように生きろ、と言うのなら」
それは、ハイデルンの予想の範囲の言葉ではあった。
「ここで生きるという選択肢は、ありますか?」
戦うことしか知らずに育ってしまった義娘だ。いきなり他の生き方をと言われても、それが一体どういうものであるかを想像することさえ難しいだろう。
だがハイデルンの予想以上に、レオナの声には何かが詰まっていた。
「あなたが生きろと命じるなら、私は生きます。あなたが死ねと命じるなら、私はあなたが死ねと命じたその場所まで、必ず生きます。あなたの傍でなら、私は生きていけます」
義娘のこんなにも熱を帯びた声は初めて聞いたような気がした。レオナはどんな厳しい訓練をクリアした時でも、何を知り何を覚えた時でも、情熱のかけらも見せない少女だった。過ちのように共にした閨でも、囁くような声しか上げない少女だった。
そのレオナの声が、今確かに熱を帯びている。
「だから、あなたの傍で生きてもいいと……生きろと言ってください……!」
言われて、その言葉すら自分は予想していたのだとハイデルンは気が付いた。
そうなのだ。もう2度と、この手を離すことは有り得ない。出会ったあの日、そして今また、もう互いの手を離すことなどできないと改めて思い知らされた。もう2人で生きていく以外に、2人の道は有り得ない。
それだけのことなのだ。
愚問だったのだな、とハイデルンは思う。
「レオナ」
青い髪を下ろした義娘はどこかあどけなく見えて、8年前のあの時の面影を思い出す。
「私と、来るか?」
それならば、あの時と同じように、手を伸ばすべきだろうと思った。だからハイデルンは、義娘に向かって手を伸ばした。
「いかせてください」
迷うことなく、レオナはその手に自分の手を重ねた。
死神と呼ばれた男が、その娘と血塗れの手を繋いで歩いて行く。行き先はおそらく地の底で、その道行きの途中で増える返り血の跡はいくら洗っても落ちやしない。
繋いだ手を離せば、降りかかる血を避けることもできるだろうに、それでも2人は固く手を握り合ったまま歩いて行く。
それはもしかしたら、ひどく似合いの連れ合いなのかもしれなかった。
End
私は夢の中から、現実という名の外の世界を見ている。
体は全く動かない。その上、体中がひどく痛む。鼓動に合わせて小刻みに痛みの満ち引きを繰り返す体を持て余して、無性に膝を抱えて丸くなりたいと思った。だが、指一本動かない。冷たく硬い床に、痛む体で仰向きで寝ているのはつらかった。できることなら眠ってしまいたかったが、瞼も閉じられない。それも自由にならなかった。
だから、私はずっと外の世界を見ていた。
世界は赤かった。怒声と咆哮と、血と、赤い髪。赤い髪をした『わたし』が吼え狂う世界は、まるで真っ赤に塗り潰されているように見えた。
その世界と私の間に、寒色の背中があった。子供の頃、繰り返し見たあの夢のように。
「まず、私の仇をとってくれるのだそうですよ」
寒色の背中の主が薄く笑う。こちらに背中を向けたゲーニッツの顔は見えないが、確かに薄笑いの気配があった。
「私に止めを刺したのは貴女ですが、それに手を貸したのは彼等ですから。だから、まず彼等を殺すのだそうですよ」
「……それから?」
「おや、まだ答える気力がありましたか」
意外そうにゲーニッツが振り返る。おそらくもう瀕死の私が答えるとは思わなかったのだろう。
瀕死であることは間違いない。胸の傷は深く、呼吸する度に熱いものが喉に詰まる。正直、声が出せたのも意外だった。
「それでは貴女が穏やかに眠りに付けるまで、少し話をしましょうか。考えてみればしばらくぶりの再会なわけですし」
そう言うと、ゲーニッツは横たわる私の隣に腰を下ろした。冷たい手が伸ばされ、額から髪にかけてをそっと撫ぜていく。それは確かに、私の夢と――古い記憶と同じ手だった。
「それから、と問いましたね。そうですね……それから何もかも、というところでしょうか」
幼い子供を寝かしつけるための御伽噺のような口調で、ゲーニッツは剣呑な代弁をする。
「聞きましたか? 彼女の言葉を。私を殺す技を貴女に教えた貴女の義父を、そして貴女達を受け入れなかった世界を憎むと言っていたでしょう? 彼女の望みは、世界の全てを滅ぼすこと、それ以外にありませんよ」
「私……達……?」
「ええ、貴女もまた、あの世界に受け入れられてはいなかった。違いますか?」
声は出なかった。否定することはできなかった。
「言ったでしょう『何でもするから』と請い願うことでしか生きられない世界ではなかったか、と」
ああ。
ああ、そうだった。
ずっと恐れていた。世界から拒まれてしまうことを。
恐れていたから、考えないように、目を向けないようにしていたのだ。
それはもしかしたら、本当の父と母を殺してしまった時から始まった不安かもしれない。私の中の蛇神の血を恐れていた父。この身に流れているその血がある限り、父は私を拒むのではないか。嫌うのではないか。疎むのではないか。閉ざしてしまった記憶の底に、そんな不安があったのかもしれない。
義父の屋敷で暮らしていた頃にも、それはあった。義父の亡くした妻と子の、微笑む写真に覆われて暮らしていた頃、私は自分が義父のために笑えも泣けもしないことが怖かった。あんな風に笑えない私は、きっと義父の亡くしたものの代わりにはなれないのだと。
だからせめて、義父の教えてくれる戦いの技を、ひとつ残らず完璧に覚えようとした。別の形でいいから、義父のためのものになりたかった。義父に拒まれないものになりたかった。
あの屋敷を出てからは、「決して裏切らない殺人兵器が欲しいから、義娘をそう仕立てたんだ」などとよく言われた。あるいは「愛人を連れ歩くとなると問題になるが、それが義娘という名目なら何かと都合がいいだろう」だとか、「父親の保身のために二十一も年上の男にあてがわれた」だとか。
それは全てただ義父への妬みから出た虚ろな陰口でしかなかったが、それは別の不安を呼んだ。そういう言葉がきっかけで、義父は私を遠ざけるかもしれない。義父はそれをなんとも思わなくても、義父の立場にとっては不都合かもしれないからだ。
その逆のことも思った。決して裏切らない手駒が欲しいだけ。そうであってもおかしくはない、という不安がいつもひとかけら心のどこかに転がっていた。
それならそれでもいいとも思っていた。もし本当にそうなら、望みどおりの駒になればいい。それで義父が、私を傍に置いてくれるなら。
義父だけではない。仲間達も同じだ。兵士としての務めを果たし、兵士として認められる。それが過去も歳の差も立場の違いも塗り潰してくれた。全てを飛び越えて、彼等と私を同じ色に染めてくれた。だが、もし私が兵士としての価値を失ってしまったら。
怖かった。
誰かの望む私でいられなくなることが。
義父の望む私でいられなくなることが。
世界が望む私でいられなくなることが。
世界の全てが私を拒むかもしれないということが。
「でももう、貴女にそんなつらい想いをさせる世界に戻る必要はないんですよ」
死の縁に横たわる私を見つめ、ゲーニッツは囁きかける。全てを赦す牧師の姿そのままに。
「貴女にそんなつらい想いをさせた世界は、あの子が――そしてもうすぐ目を醒まされる私達の神が、全て滅ぼしてくれますから。だから貴女は、何もかも彼女に任せてゆっくりとお眠りなさい」
その言葉に頷くことは、しかしできなかった。
世界は相変わらず赤く染まっている。夜の闇に閉ざされた夢の中、そこだけが鮮やかで輝くようだった。例えその輝きの源が、この世の全てへの憎悪だったとしても。
わからなかった。今の彼女ほどに、私が何かを強く思ったことはあっただろうか。肉体を得て彼等を殺す術を得た彼女の歓喜より、彼等を殺さないでと願う私の気持ちは強いだろうか。
怒声が聞こえる。しっかりしろ、目を覚ませ。私を仲間と呼んでくれた上官達の声だ。
わからなかった。目覚めるのは本当に私でいいのだろうか。私は本当にあの世界に向かって目を覚ましたいと思っているのだろうか。
それなのに頷けない。頷けばきっと楽になる。そう思いながら、私は何かに引っかかってそこから動けない。
その時だった。
視界の端を、何かが掠めた。
あの鳥だ、と気付くまでに少しかかった。夕暮れの空を彷徨っていたあの鳥だった。視界の効かない闇の中、思わぬ低さまで降りてきてしまったのだろう。地面に激突する寸前で再び舞い上がるのが目に入ったのだった。
鳥は飛んでいる。どこかの枝に降りて夜をやり過ごせば、生き長らえることはできるかもしれない。遠い国に渡ることはできなくても、ここで生きていくことはできるかもしれない。
だが鳥は飛んでいる。自分の群を探して飛んでいる。
「…………よ」
「どうされました?」
「……同じよ、あなたも」
浅く苦しい死に際の呼吸の中、私は最期の力を振り絞って声を上げる。
「あなたも……あなたもあなたにとって都合のいい私が必要なだけでしょう?」
引っかかっていたのはそれだった。私は唐突に、それに気付いたのだった。
血の宿命に身を任せ、獣の咆哮を上げる『わたし』でなければ、この男には必要ではないはずだ。
「だからあなたは私をこの夢で眠らせようとし、『わたし』を現実に目覚めさせた。あなたも、私の全てを受け容れているわけじゃないわ」
言葉の間、不思議と息が続いた。息だけではない。私の体は急激に力を取り戻し始めている。痛みは相変わらずひどいが、さっきより少しはましだ。
私は無理矢理に顔を上げる。やっとまともに視界に入ったゲーニッツの目を睨み付け、私は続ける。
「みんな同じよ。みんな自分にとって都合のいい誰かを求めているだけ。あなたも、そして私も」
外の世界の怒声はまだ続いている。目を覚ませ。目を覚ませ。上官達は『わたし』の爪に牙に何度も傷付けられながら、それでも同じ言葉を繰り返す。
彼等とて、何もなしに私をを受け入れた訳ではない。少なくともきっかけは、軍人として受けた命令のひとつに過ぎなかった。
私とて同じだ。彼等が私を受け入れてくれたからこそ、彼等を仲間と思えるようになったのだ。もしも彼等が私を親殺しの忌み子と罵ったなら、私は彼等を憎んでいたかもしれない。
義父のこともそうだ。義父が私に何もかも与えてくれたから、だから私はあの人を好きになったのかもしれない。
「でも……それでも」
指に、手に、腕に力が戻る。痛みも死気も押しのけて、何かが私を突き動かす。
それは手刀の形を取って、微笑むゲーニッツに斬りつけた。
「私が許せるのは、向こうの世界にいる私よ」
空を切る手刀の向こうに、飛び退る青い牧師服が見えた。その隙を突いて私も飛び起きる。それだけの力が戻っていた。
息はまだ苦しい。血が足りていないのか、頭がぐらぐらする。それでも私は戦う姿勢を取った。そういう時の戦い方も義父から受け継いでいる。
「戻りますか? あの世界へ」
「戻るわ」
「あんな姿を見せた貴女を、再び彼等が受け容れてくれるという保証もないのに?」
けだもののように吼え狂い、仲間を襲う『わたし』――それを彼等が嫌悪しないという保証は、確かにどこにもない。けれど、
「戻るわ」
答えはもう変わらない。
鳥は真っ暗な空を飛ぶ。群に戻れると信じて。
私も信じる。私の群に戻れると。
「あなたを倒して、戻って見せるわ」
「……仕方ないですねえ」
牧師服の裾の埃を払いながら、ゲーニッツが苦笑する。
「では、もう少し力尽くで眠っていただきましょうか」
その言葉と共に突如吹き荒れ始めた風の中を、私は身を低くして走り出した。
私は夢の中にいる。
『わたし』は夢の外にいる。
だが、ニ人の私はどちらも戦っていた。
私は血の臭いをたっぷり含んだ風の刃を避ける。避けながら放った手刀は間合いが足りず、ゲーニッツには届かない。
『わたし』はラルフの重い拳を避ける。身体を捕らえようとするクラークの腕も避ける。避けながら放った手刀は彼等の肌を浅く裂いて、ぱっと赤いものが散る。
分の良い戦いとは言い難かった。以前ゲーニッツと戦った時は三人がかりでやっと倒したが、今の私は一人きりだ。
対してラルフとクラークは、私と肉体を共有する『わたし』に本気を出すのを躊躇している。私の身体をなるべく傷付けぬようにと思うあまりに、あと一歩が踏み込めていない。このままでは思わぬ後れを取っての、最悪の事態も起こり得る。
少し、焦った。
無理を承知でゲーニッツの懐に飛び込む。一気に間合いを詰めて勝負を付けるつもりだった。
届いたと思った瞬間、下から持ち上げられる感覚があった。投げられたのではない。天に向かって吹き上げる激風――竜巻だ。バランスを崩すどころか吹き飛ばされたところにもう一撃あって、私は受身も取れずにどさりと落ちた。一瞬、意識が飛びそうになる。
だが、私はまだ届くと直感していた。宙に浮かされていた時間と感覚からして、まだゲーニッツからはそれほど離れてはいないはずだ。おそらくすぐ後ろにいる。
私は伏せたままの姿勢から、腕の力だけで体を浮かせざま後方を脚で薙ぎ払う。方向は――
『お前の直感は才能のひとつだが、そればかりに頼っては腕が上がらない。今後更に気を付けるように』
いつかの義父の言葉が、すぐそこから聞こえた気がした。
脚で薙ぎ払うと見せかけて、ぐるりと半周し体勢を変える。見えない敵を無理に狙わず、視界を確保する方に私は賭けた。
蹴りが来ると思ったか、ゲーニッツの構えはは下方に向いている。躊躇わず、私はそこに跳び込んだ。
「いい加減にしろよ、このひよっこがッ!!」
怒号と共に放たれた拳を、避けるか受けるか一瞬戸惑った。その戸惑いが、選択肢を失くしてしまったことに気付いても、まだ彼女は自分が追い詰められたとは思っていなかった。これだけ大振りの一撃なら、受けても流してもその後に反撃できるだけの隙が生まれる。そこから一気に畳み込んでしまえばいい。
それが甘い考えだと悟ったのは、丸太の様に膨れ上がった腕の筋肉を見た時だった。そこから生まれる破壊力は想像に難くない。避ける以外にどうにかできるものではなかった。そして一瞬の戸惑いと判断の誤りは、彼女から拳を避ける余裕を奪い去っていた。
拳が放たれる。受け流せないなら受けるしかない。だが、まともに受ければいくら人間の限界を超えた状態の肉体でも保ちはしないだろう。
衝撃の瞬間、同じ方向に跳んだのは賭けだった。ぎりぎりまで衝撃を殺せればもしかして、と思ったのだ。
私の手刀がゲーニッツの胸を貫いたのと、殺しきれなかった衝撃が『わたし』を貫いたのは、ほとんど同じ瞬間だった。
+++++++++++++++++++++++++++
夢が終わる。
風すらも赤く染まった世界の中、これ以上赤を足しても皆それまでの赤に溶けてしまうだろうと思えるような光景の中、驚くほどそれは鮮やかだった。
蛇眼の牧師の胸から溢れた赤、その胸に突き立った私の手刀を染める赤だ。
「……嘘」
口を吐いて出た言葉は、我ながら間が抜けていると思った。
手にあるのは間違いなく、大嫌いな血の感触だ。胸の筋肉を引き裂き、内臓まで達した手応え、ひとつの命を絶った手応えだ。それなのに、何が嘘だというのだ。
呆気ない、と思ったのだ。
昨年は3人がかりでやっと、この男を倒せた。それに引き換え、今の私は手負いで、しかも一人きりだ。嘘のように呆気ない。
そこで気付いた。同じように切り裂かれたはずの胸は痛くも熱くもない。呼吸も正常だ。いつの間にかあの傷が癒えている。致命傷だったというのに。
「嘘」
「嘘ではありませんよ」
思わず繰り返した言葉に、ゲーニッツが小さく笑った。その唇の端から、細い血の筋が伝って落ちる。
「ここは貴女の夢ですから。貴女の思うままになる世界ですから」
そう言ってから、ゲーニッツは少し首を傾げた。
「思うまま、というのは違うかもしれませんね。貴女の深層意識の世界、とでも言いましょうか。夢というのはそういうものですよ」
「嘘よ」
私は3度、繰り返した。
認められなかった。
それでは、ゲーニッツをここに招いたのも私自身だということになる。その上、もう1人の『わたし』はこの男を父と呼んでいた。
この男はパパとママの仇だ。あの時、手を下したのは確かに私自身だけれど。
でも、強引にきっかけを作ったのはこの男だ。それを招くどころか、父などと呼んでいた。
認めたくなかった。
「嘘ではありませんよ」
だが、ゲーニッツはさらりと否定する。
「貴女、昔から夢を見ていたのでしょう? 一度は去ろうとした私が振り返る夢を」
夢。幼い頃、何度も見ていた夢。
背の高い男の背中が見えていた。父母の血に染まった狂った色彩の部屋の中、穏やかな寒色の背中が近くて遠かった。
振り向いた影の、その人の顔は逆光で良く見えない。視線が合ったということだけが、なぜかわかる。
そして私は手を伸ばし、その人の手も伸びて、ふたつの手は重なるのだ。
私はそれを、義父との出会いの光景だと思っていた。それを繰り返し夢に見ているのだと。
「あれが本当は貴女の義父ではなく、私だったということを、貴女は忘れようとして出来なかった。覚えていたんですよ、本当のことを」
だがそれを、ゲーニッツは自分とのやり取りだと言う。あの寒色の背中は自分のものだと言う。
「だからでしょうね。貴女の全てを受け容れる「理想の父親」の役を私に振ったのは。実のお父上にその役を振るのは貴女自身が許せないし」
その通りだ。死んだものは何ひとつ語らない。だからパパは私を恨むこともないし、許すこともない。それでも私は怯えている。パパに罪を責められることを。憎まれることを。
「かと言って、義父殿に振れるはずもないでしょう?」
それもその通りだ。パパを亡くした後の私にとって、義父は全てだった。義父がいなければ、私はどう存在していたらいいかすらもわからない。
私は必死だった。義父に拒まれないように必死だったのだ。だから、その配役ははなから成り立たない。
それでこの男だったのか。
「正直に言いますとね、一族の利害を考えても、貴女の振った役を演じるのはとても都合が良かったんですよ。貴女の中にいれば、貴女の中の一族の血を引き出す手助けをするのも楽ですから」
「それも私の望みだったと言うの?」
「ええ。本当の自分を晒し出したい、醜い自分を晒して、なお自分を受け入れてくれる誰かが欲しい。それは人間誰もが持つ望みですよ」
そこまで言うと、ゲーニッツは急に咳き込んだ。
「おや、時間のようですね」
ごぼりと血の塊を吐いて、それでもなお口元は笑みの形に緩んでいる。
「貴女が私から訊きたいことは、どうやら全て話してしまったようですね。私の役目は終わりです」
「終わりって……?」
「出番の終わった役者は、退場するのみですよ」
「いいえ、まだよ。まだ終わってないわ」
私は急速に力を失いつつあるゲーニッツの体を支えた。もしかしたら縋っているように見えたかもしれない。
「無理ですよ。だってほら」
ゲーニッツは自分の胸を指差してみせる。
「胸にこんな穴を開けられて。本当はとっくに喋れなくなっているような傷じゃないですか。自分でこうしておいて、何を今更」
言葉と一緒に、何度も喉から血が溢れている。それでも言葉そのものは明瞭なのは、それも私の望みなのだろうか。
「今まで何事もないように話していられたのも、貴女が私に答えを望んでいたからです。でもそれが終わった今、私はもう、貴女の常識に従って死ぬしかないんですよ」
「まだよ! もう1人の私のことを話しなさい。話せるはずよ……答えなさい!」
「それは、直接彼女にお訊きなさい。もうすぐ彼女もここに戻ってきますから」
そしてゲーニッツは、いつかのようにそっと手を伸ばした。
「風が迎えに来ましたね。これでお別れです」
ひやりと冷たい手が、私の髪を撫ぜる。なぜだかその手に嫌悪は感じなかった。
「結構楽しかったですよ、貴女の父親役も」
それが最後だった。
一陣の突風が吹き、私が思わずそれに目を閉じた瞬間に手の感触は消え、目を開けた時にはやはり、蛇眼の牧師の姿はそこになかった。
奇妙な喪失感に襲われて、私は思わずしゃがみこむ。真っ赤な世界に取り残されて、私は1人だ。
吐きそうなほどの孤独感だった。何もない。何もいない。ただ赤いだけの世界。
1人でいるのは苦にならない方だと思っていた。下手に気を使われたり世話を焼かれるよりは、1人の部屋で膝を抱えている方が楽だと思っていた。
でも、今だけは耐えられそうになかった。あの夢を思い出す。狂ったような色彩に染まった部屋。身動きひとつ出来ずに横たわっていた時の心細さ。
1人にしないで。置いていかないで――声にすらできない叫びを上げた瞬間、私の意識も風の中に千切れ飛んだ。
長い夢が終わる。
意識を取り戻して最初に感じたのは痛みだった。全身あちこちが痛む。
何かひどい夢を見ていたような気がした。口の中に鉄錆の味がする。うなされるうちにどこか噛んでしまったのだろうか。嫌な味だ。
どうしてこんなにも血が苦手なのだろう、と思うこともある。ほんの薄皮一枚隔てて、自分の中にも満たされている。それだけの液体だ。だというのにその色も、味も、このぬるりとした感触も、やはり苦手だ。
「この」、ぬるりとした?
はっとして自分の手を見る。血塗れだ。悲鳴を上げそうになったところに、髪から落ちた血が視界を染めた。
赤い、赤い世界。そこに誰かが倒れている。
「よぉ、レオナ。起きたか」
あれは。掠れた声を上げている、あれは?
「起きたんだったらメディカル――はここにいねえな。大会の救護チーム呼んできてくれ? ちょっと、あれだ。俺もクラークも動くのはちとキツいんでな」
俺……クラーク……思い出せない。記憶が濁っている。
メディカル。大会。救護チーム。
ああ、そうだ。KOFだ。私はKOFに出場していて、チームメイトはラルフとクラーク。準決勝の試合が終わって、それから――それから?
頭の中で、何かが爆ぜた。
この手を染めているのは彼等の血だ。私が彼等を……大事な人たちを殺そうとした証の血だ。
また殺してしまうところだった?――また? その前は誰だった? 彼等の前に、私は誰を殺そうとした?
……違う、殺そうとしたんじゃない。殺してしまったんだ。
「あの時……」
パパを殺した。私が殺してしまったんだ。
「思い出したわ、全てを……」
ぬるりとした血の感触。肌を裂き内臓を抉るあの感触。パパの悲鳴と哀訴と断末魔の絶叫。
「あの時、私は……」
私はまた、大事なものを自分で壊そうとしてしまった。あの時と同じように。
今回はたまたま最悪の事態に至らなかった。相手が私より技量の勝るあの2人だったからだ。だがこの次もそれで済むという保証はどこにもない。
そんなことになるまえに、いっそ。
手刀を振り上げ、自分の首を貫くために振り下ろす。それを決断するまでにかかった時間は、驚くほど短かった。
新たな血飛沫が散り、私は再び意識を失った。
長い夢が終わる。
赤い世界。血に染まる夢の世界。
死に損ねたのだ、ということは割とすぐに理解した。死んでしまったら夢も見ないはずだ。
「死んじゃえ、って思ったのに」
あの赤い髪の少女が、隣に立つ気配があった。
「パパを殺したあなたなんて死んじゃえ、って思ったのに。あの傭兵に邪魔されたわ。さっきちゃんと殺して置けばよかった」
ということは、たぶんラルフだ。お節介焼きの上官は動かないと言っていた体で、私と私の手刀の間に手だか腕だか差し入れて、すんでのところで私の自決を止めたのだろう。だとすれば、私が最後に見たあの血飛沫はきっと彼のものだ。その証拠に私の首には傷ひとつなく、ただ手ばかりが血に濡れている。
だが、赤毛の少女はその血に別のものを見た。
「また、わたしのパパを殺したのね」
彼女がパパと呼ぶのはゲーニッツのことだ。この血があの男のものかはわからないが、確かに彼を殺したのは私だ。
頷く私を彼女が睨み付けるのが見なくてもわかる。視線には痛いほどの憎悪と殺意が乗っていた。
だから、訊いた。
「私が、憎い?」
「ええ、憎いわ」
「私もよ。あなたが憎いわ」
私たちはひっそりと笑い、けれど目を合わせることなく、どちらからともなく目を伏せる。足元の赤いぬかるみが、2人の裸足を汚していた。
「あなたのパパを殺したのも、私のパパを殺したのも私よ。でも、私はそれをあなたのせいにしたかった。あなたは私であって、でも私ではない。だからパパを殺したのも私ではない。そう思えるのは楽だったから」
「そうね、自分で自分を憎み続けるのは、時には楽なこともあるけれど、とても辛いことだわ」
「しかもあなたは、ゲーニッツを、あなたのパパを殺した私を憎んでいた……自分のことを憎んでいる他人を憎むのは楽よ」
「憎んでいる相手に責められるのも楽だものね」
「その通りだわ」
結局のところ、そういうことなのだ。
この世界を赤く染めたのは、父と母を手に掛けた私の罪の意識だ。断罪されたい、裁かれたいという想いがこの世界を創った。でも、その自分で望んだ苦しみを、私は一人で背負うことができなかったのだ。
そうして生まれたのが彼女だ。もう1人の『わたし』、赤毛の『わたし』だ。
時期だとかそういうきっかけもあったのだと思う。私の中に蛇神の血が流れていなければ、昨年KOFでゲーニッツに再会しなければ、ここまで明確な別人格は生まれなかったかもしれない。
とはいえ、彼女を創ったのもまた、私自身であることには変わりがない。私が認めなかった血と、力と、私が拒んでしまった私の一部をより合わせて創られたもの。つまりは――
「あなたは、私なのね」
やっと、本当の意味で、私は彼女がもう1人の自分であることに気が付いたのだ。
私自身なのだ。彼女の憎悪も、恐怖も、外の世界で彼女が見せた獣性も、全て私自身のものなのだ。
「そうよ」
不意に、手に柔らかな感触があった。手を繋がれたのだ。
「あなたはあなた自身を呪う自分を、わたしをずっと自分の中に飼い続けるの。いつまたわたしがあなたを押し潰すか、あなたの中から溢れるか、それに怯えながら――ほら、見て」
俯いた視界の端で、すっと彼女の手が上がるのが見えた。それにつられて顔を上げる。
そこに、陽が射していた。朝陽だった。
太陽そのものは見えない。厚い雲に覆われた空は相変わらず暗かったが、それでも夜の闇とは違う。世界は確実に光を取り戻し始めていた。
その光を翼に受けて鳥が飛ぶ。あの、群にはぐれた鳥だ。
長い長い夜が終わる。一晩やみくもに飛び続け、とっくに力を失ったはずの翼で鳥は飛んでいく。もう迷いはない。ただ真っ直ぐに飛んでいく。
「鳥は行くわ……あなたは?」
飛ぶ先に、自分の群がいるのかどうかはわからない。追いつけるかどうかもわからない。追いつけたところで、群が受け入れてくれるかもわからない。それでも鳥は飛んでいく。
「私も行くわ。私の群に戻る」
「そう言うと思っていたわ」
パパにもそう言っていたものね、と彼女は続ける。
「でもあなたの群だって、あなたの楽園な訳じゃない。苦しんで、恐れて、怯えながら生きて行きなさい。わたしはここで、あなたがまたそれに押し潰されるのを待っているわ」
そして、繋いだ手が離れる。
離さなかった。離れようとした手を私が掴んだ時、赤毛の少女は初めて驚く顔を見せた。
「あなたも行くのよ、一緒に」
掴んだ手を引き寄せ、私たちは向き合う。こんな風に彼女の目を真っ直ぐに見て話すのも、思えば初めてのことだ。掴んだ手は激しく逃れようとしたが、それでも私は離さなかった。
「あなたは私よ。私に群があるなら、それはあなたの群でもあるということだわ」
私の群。傭兵たちが戦場から戦場へと渡る群。
確かにそこは楽園ではない。大嫌いな血ばかり見ることになるし、世話焼き気質の上官や仲間たちの存在は、時に重すぎて苦しくもなる。そして実際、あの群にいる限り、あの群を心地良い場所だと認める限り、私はそこから弾き出されることに絶えず怯え続けなければならない。あるいは、私はまた彼等を傷付け、今度こそどうしようもない結末を迎えてしまうかもしれない。
それでもあの群は。あの群にはあの人がいる。
群を率いる隻眼の傭兵。私の義父。
わたしには、あのひとがいる。
あの人のいる群に、私は戻りたかった。
憎悪も恐怖も過去の記憶も、認めがたい一族の血も力も全て、全てを抱えたままで。
何もかも全てを抱えて、あの人のところに戻りたかった。
あの人となら、生きていけると思った。
「いきましょう、一緒に」
引き寄せた手は、もう抵抗しようとはしなかった。
どこかで娘を呼ぶ父親の声がする。その声に向かって足を踏み出す。一歩踏み出す度に意識が薄れていく。目覚めが近い。
朦朧とする意識の中で見上げた空に、飛ぶ鳥の姿はもう遠い。
長い夢が、終わる。
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もう、夢は見ない。
ハイデルンは、モニタ越しに義娘の戦う姿を見ていた。
昨年もそうだった。義娘が遠い日の真実を告げられ、困惑と恐怖に顔を歪めるのを、このモニタ越しに見ていた。
義娘が赤い髪を振り乱したけだものとなって、全身を血に染めて歓喜するのも見ていた。正気に戻った義娘が、全てを思い出して自ら死を選ぼうとするところも見ていた。
義娘が一番つらい想いをしている時に、自分は義娘の傍にいないのだ、と思った。
いや、違う。いなかったのではない。自ら行かないことを選んだのだ。自分は傍にいてはいけない、そう思う。自分が傍にいたら、きっと。
暗い部屋に、モニタだけが明滅している。既にその光は慣れていたが、ハイデルンは眩しそうに片目を細めた。もう片方の目はない。
どんな形であれ生きていてさえくれれば。妻と娘を失くした時は心底そう思った。物言わぬ姿となって戻ってきた部下たちを見る度にもそう思った。
義娘に対してだけは、どうしてもそう思えなかった。
生きている限り、暗い過去を引き摺らなければならない義娘だ。生きている限り、血の宿命に追われなければならない義娘だ。この8年、いっそ父母の後を追わせ、死なせてやった方が幸せだったのではないかとの想いがどうしても捨てられなかった。
自分があの時、妻子と共に死ねていたならという想いと、それは同じ重さをもっていた。
それでも自分はまだいい。復讐の相手がいるだけいい。血の臭いのする過去を抱えてでも、思い出と憎悪を支えに生きていける。復讐だけを支えに生きる、血に塗れた道。そんな生き方が何になると自問自答しながら、しかしそんな生き方しかできなかったし、そんな風になら生きられた。
義娘にはそれもない。できることといったら、自分自身を責め、憎むことだけだ。
悪夢にうなされては熱を出し、小さな体を震わせて眠る義娘を見守った夜、頭を撫ぜてやる手を首にかけてしまおうかと何度悩んだことか。
ハイデルンは己の愚かしさを哄う。それなら最初から、引き取ったりしなければ良かったのだ。戦場に立つものであれば孤児を見ることなど珍しくもない。何を思ったかそれを引き取って、なおかつ宿命と戦う術など教えてしまった。
生きる術を教えておいて、何を死なせてやれば良かった、だ。ハイデルンは矛盾する己を哄う。
ラルフに問い詰められ、答えられなかったのも当然だ。一緒に生きるのではなく死のうとしていると言われて、否定できなかったのも当然だ。
だから、義娘の傍にいないことを選んだのだ。昨年のKOF、そして今年のKOF、どちらも義娘の宿命に関わるとわかっていたからこそ。
ハイデルンは、モニタ越しに義娘が自分の命を絶とうとするところを見ていた。その手をすんでのところでラルフが止めるところも見ていた。
自分があの場にいたら止められたか。おそらく否だ、とハイデルンは思う。きっと自分は義娘を死なせてやりたいと思ってしまうだろう。だからこそ、義娘を部下たちに――義娘を想ってくれる部下たちに託したのだ。
だが、その時ハイデルンの胸を満たした感情は、彼自身の予想とはまるで違っていた。
どんな形であれ、生きていてさえくれればと。
ハイデルンは、モニタ越しに義娘を見ていた。戸惑いながらも生きることを選び、その祝福のように、髪に赤いバンダナを結ばれたところも見ていた。
馬鹿な話だ。ハイデルンはどこまでも己を哄う。失ってしまう寸前にならなければわからなかったのかと。
どんな形であれ、生きていてさえくれればいい。赤い髪をしたけだものに変わろうと、この世の全てを呪おうと。自分の傍にいなくてもいい。馬鹿な義父を憎んで遠くに行ってもいい。ただ、生きていてさえくれればいいと思った。
モニタ越しに見るレオナの結末は、そのままハイデルンにとっても結末だった。彼と義娘の、この8年の結末だった。
ハイデルンは、モニタ越しにそれを見ていた。
軍人に必要とされる能力のひとつに、時間を把握するというものがある。時にコンマ何秒の夕イミングを合わせろと要求されることも少なくはない商売だ。ある一定のレベルを超えれば、時計に頼ることなく正確な時間を把握することは必須のスキルとして要求される。
それを養う訓練において、たぶんこの二人の成積は優秀だったのだろう。
そろそろだ、と顔を上げたレオナは、自分の順番を待ちながら溜まった書類を片付けていた同僚の机がすでに整理されているのを見た。書類は切りの良いところまで進められ、あるものはファイルに、あるものは机の引き出しに納められて、すっかり席を離れる準備ができている。
この人にはいらぬ気遣いだった、と自分の書類に目を戻そうとしたところで、声を掛けられた。
「レオナ、これ後は大佐のサイン入れるだけだから、お前の番になったら、ついでに提出しておいてくれ」
「了解」
受け取ったファイルは、次回の任務に関する計画書だ。正式な謹慎も明けていないうちから、もう次の任務が始まっているのは仕方がない。エース2人が謹慎のためとはいえ、一ヶ月近くも部隊を離れていたのだ。
別に、ラルフとクラークがいなければ部隊がまるで機能しなくなるというわけではない。しかし、彼ら向きの任務だとか、彼らでなければ成功率が低く、しかも緊急性の低い任務だとかいうものはどうしても後に回される傾向にある。一ヶ月もすればそういうものが結構な数になって、それを捌くにはそれなり時間もかかる。とてもではないが、正式な謹慎明けなど待てないというのが実情だ。
本来ならとっくに、謹慎が明けていたはずだったというのもある。
レオナのリハビリを兼ねていたとは言え謹慎中に格闘大会に、それも世界中が注目するKOFに参加したことを無視できないのは、謹慎という言葉の意味を考えれば当然だろう。彼ら3人が復帰前に命じられたのは、山のような始末書の提出だった。ついでにそれぞれ順番に、ハイデルンの執務室への呼び出しが来ている。
本来ならもっと厳しい処分になるところだが、そうならなかったのは、そんなことに時間を割かせる余裕があったらさっさと復帰させてくれ、という現場の悲痛な声によるところが大きい。
クラークから受け取ったファイルをデスクの端に置いて、再び自分の書類に取り掛かったレオナは、ライターの音でもう一度顔を上げた。ちょうど煙草の煙を吸い込んだクラークと目が合う。
ラルフが「久しぶりに教官のお小言を聞いてくらぁ」とハイデルンの執務室に向かって15分。ハイデルンの多忙なスケジュールから考えると、1人に割ける時間は長くても20分というところだろう。そう考えると、もういつラルフがこの部屋に戻ってきてもおかしくない頃合だし、そうしたらすぐに、クラークはハイデルンの元に向かわなければならない。一服する時間の余裕はないはずだと、レオナは首は傾げないまでも、幾分怪訝な目をクラークに向けた。
「あいつが、おとなしく説諭だけ聞いて帰ってくると思うか?」
レオナの視線に気付いたクラークは、そう言いながら灰皿を引き寄せた。
「……思わない」
「だろう? 何か言いたそうな顔して出て行ったことだし、煙草1本分ぐらいは余計に話して帰ってくるさ」
いつものことだ、と言われてレオナは頷いた。
この基地で、ハイデルンと突っ込んだ話ができるのはラルフぐらいなものだ。ハイデルン自身は誰の話でも真摯に聞くつもりでいるだろうし、実際に声が上がればそのようにするのだろうが、いかんせんそこまで踏み込むことを躊躇わせる雰囲気のほうが強すぎる。部下に抱かせる感情が、尊敬を通り越して崇拝まで行ってしまうというのも、時には考え物だ。
ラルフは違う。相手が子供だろうが敵兵だろうが大統領だろうが、平気で踏み込める気質と、それをなぜか相手に許させる印象を持ち合わせている。他の誰かであれば殴り倒されそうな距離に、ラルフはするりと入り込める。
結果として、下の声をハイデルンに届けたり、物申すのはラルフの役割になりがちだ。だから、ハイデルンとラルフの話はたいてい長引く傾向にある。
「と言ってもあの人も忙しいことだし、大佐がはみ出した分、俺の時間が削られるんだろう。たぶん、お前の出る時間は予定通りだな。そのまま書類を進めといた方がいいぞ。どうせ教官に提出するんだから、間に合えば持って行く手間が1回省けるだろう?」
「そうね……そうするわ」
その予想通り、ラルフの戻りは煙草が灰になるには充分過ぎるほど遅れ、それでもクラークの戻りは予定と変わらなかった。それになんとか自分の書類を間に合わせたレオナは、2冊のファイルを手にハイデルンの執務室へ向かった。
「こちらは中尉からお預かりした、次回の作戦に関するレポートです。それと、こちらは私の分」
ハイデルンは長い腕を伸ばして、レオナの差し出す書類を受け取った。ファイルの表紙をちらりと見、最初のページを斜めに読んで内容を確認すると、そのままデスクに置く。
書類よりも先に、片付けなければならない務めがある。
「お前の書類は、これで終わりか?」
「差し当たってはその始末書で終了のはずです」
「では、この書類の提出をもって、除隊しても構わん」
「……え?」
珍しく、レオナが表情を変える。動揺だった。
「お前が戦う理由は、もうない。宿命から逃げる必要も、隠れる必要もなくなった」
ハイデルンはそこで1度言葉を切った。それからことさらゆっくりと、義娘と自分自身に言い聞かせるように残りの言葉を続ける。
「戦場に――私の傍にいる必要は、ない」
モニタ越しに見る義娘に向かって、生きていてさえくれればいいと思った時から、ハイデルンはそう告げようと思っていた。
レオナの戦う理由はなくなった。傭兵部隊に身を隠す理由も、ハイデルンに庇護される理由もなくなった。生と死が隣り合わせの戦場で、忌まわしい記憶を呼び起こす血の色にその手を染め続ける必要は、もうどこにもない。
「これからは、お前の好きなように生きるといい」
「好きなように……」
レオナはその言葉を繰り返したものの、それはまるで、言葉の意味が分かっていない鸚鵡のようだった。
ハイデルンはそれを聞かなかったふりをする。
「しばらく休養するのもいいだろう。お前にはもう学ぶようなことはないかもしれないが、学校に行くのもいい。そこで友人もできるだろう。お前はそういう経験をするべきだろう」
普通の少女のように、平穏に生きればいい。そう思う。
もし、自分がレオナを引き取らなければ。それはハイデルンがずっと抱えてきたもうひとつの想いだ。きっと少女は平穏に暮らしただろう。少しは笑顔も取り戻し、それなりに幸せな少女時代を送れたに違いない。
ずっと、そういう暮らしをして欲しいと望んでいた。自分の手の届かないところで、穏やかで静かな幸せを得てくれたならと思っていた。
まだ遅くない。まだ20歳にもならない娘なのだ。今からでも人並みの暮らしをし、人並みの幸せを手に入れてくれれば。
レオナは沈黙したままだった。
9月の日差しが差し込む部屋の中、レオナの視線はハイデルンの手に注がれていた。彼女を戦場に連れて来た男の手だ。彼女に戦う術を教えた男の手だ。
その視線を感じながら、ハイデルンは思う。戦うことを教えた自分の存在すらレオナの重荷になるのなら、それを忘れてくれても構わない。戦いの記憶と血の臭いとハイデルンの存在は、レオナの中で確実に繋がるものだ。共に過ごした8年は決して短い時間ではないが、もしレオナが望むならその全てを捨て去ってくれても構わない。ハイデルンはそう考えていた。
沈黙の時間は長かった。その長い、長い沈黙の後、レオナは静かに、視線を上げた。
「生きろ、と言われました」
ハイデルンは誰に、とは訊かなかった。その話を先程ラルフ自身としたばかりだ。
『生きろ、ってね』
それがせめてもの上官への敬意のつもりか、いつものバンダナを外したラルフに、ほんの数10分前に言われた台詞だ。
『とりあえず、俺が言っときましたよ。別の誰かからも言われたみたいですけどね。俺にはそういうのはまるでわからないから、とんと』
父親の幽霊でも出ましたかね、とラルフは冗談めかして言った。
『とにかく生かして連れて帰ってきましたよ』
後はあなたの役目ですよ、と付け加えて苦笑しながら、目だけは笑っていなかった部下をハイデルンは思う。決着をつけるべきだと、その目は言っていた。
レオナの視線が上がる。
「あなたも私に生きろ、と言うのなら」
義父の手に落としていた視線が、その隻眼を見つめる。
「好きなように生きろ、と言うのなら」
それは、ハイデルンの予想の範囲の言葉ではあった。
「ここで生きるという選択肢は、ありますか?」
戦うことしか知らずに育ってしまった義娘だ。いきなり他の生き方をと言われても、それが一体どういうものであるかを想像することさえ難しいだろう。
だがハイデルンの予想以上に、レオナの声には何かが詰まっていた。
「あなたが生きろと命じるなら、私は生きます。あなたが死ねと命じるなら、私はあなたが死ねと命じたその場所まで、必ず生きます。あなたの傍でなら、私は生きていけます」
義娘のこんなにも熱を帯びた声は初めて聞いたような気がした。レオナはどんな厳しい訓練をクリアした時でも、何を知り何を覚えた時でも、情熱のかけらも見せない少女だった。過ちのように共にした閨でも、囁くような声しか上げない少女だった。
そのレオナの声が、今確かに熱を帯びている。
「だから、あなたの傍で生きてもいいと……生きろと言ってください……!」
言われて、その言葉すら自分は予想していたのだとハイデルンは気が付いた。
そうなのだ。もう2度と、この手を離すことは有り得ない。出会ったあの日、そして今また、もう互いの手を離すことなどできないと改めて思い知らされた。もう2人で生きていく以外に、2人の道は有り得ない。
それだけのことなのだ。
愚問だったのだな、とハイデルンは思う。
「レオナ」
青い髪を下ろした義娘はどこかあどけなく見えて、8年前のあの時の面影を思い出す。
「私と、来るか?」
それならば、あの時と同じように、手を伸ばすべきだろうと思った。だからハイデルンは、義娘に向かって手を伸ばした。
「いかせてください」
迷うことなく、レオナはその手に自分の手を重ねた。
死神と呼ばれた男が、その娘と血塗れの手を繋いで歩いて行く。行き先はおそらく地の底で、その道行きの途中で増える返り血の跡はいくら洗っても落ちやしない。
繋いだ手を離せば、降りかかる血を避けることもできるだろうに、それでも2人は固く手を握り合ったまま歩いて行く。
それはもしかしたら、ひどく似合いの連れ合いなのかもしれなかった。
End
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