朝食を終えた驍宗が、布で口を拭いながら、忘れぬうちにと前置いて、言った。
「今日は、昼餉に戻られぬ。そのつもりで」
李斎は首を傾けた。李斎が王宮に上がってから、どんなに多忙な日も外殿から内殿へ
移る前に、最低一度は正寝に戻った驍宗である。特に大事が起きたとは、聞いていない。
「どちらかに、おでましになられるのでございますか」
うむ、と驍宗は答える。
「地官、夏官の主立ったものたちと、鴻基の街と近郊の数県を、見てくる。雪の前に、
一度この目で見ておきたい」
李斎は頷いた。
この年のわずかな量の収穫も終わり、冬が本格化する直前であった。飛燕に会うとき
に禁門から眺めれば、遠くの峰はもう白く、穏やかな雲海にかこまれた白圭宮にも、連
日霜が降りて、明け方など既にかなりの寒さだ。雪が降るのはもう時間の問題だった。
そして、瑞州の内でさえ、まだ妖魔は出ると聞く…。
「お気をつけて、おでかけ下さいませ」
思わず案じた声になった李斎に言ってやる、
「大丈夫だ。瑞州師が警護につく。新しい中将軍も同道させるゆえ」
「はい」
笑んで頷いた李斎に、驍宗は問うた。
「後任がどのようにやっておるか、聞かぬのか」
「いいえ」
李斎は笑んだまま、きっぱりと答えた。
「わたくしが気にかける筋ではございません」
「そなたに手伝わせておるらしいぞ」
意外な言に、李斎は目を見開き、首を傾けた。
「それは、どういう…」
「たまたま朝議の席で話題になったゆえ、私も今日、初めて知った。初の閲兵で将軍が
した訓示が、全兵士の心をとらえたということだ。いわく、――われわれは劉軍である、
と」
初めての閲兵式で、若い指揮官は、台上で叫んだ。
――赤誠の心で、主上台輔にお仕えせん。我等、劉軍なり。
その一言に、彼自身の前任者に抱く尊敬、そして目の前の全兵が抱く李斎への思慕の、
全てがあった。兵の顔は輝き、軍吏は涙を押さえながら、拳を空に突き上げて鬨声をあ
げたという。
「…あの者が、ですか」
李斎は思わず、胸を押さえていた。
「顔は知っていたか」
李斎は頷く、
「話したことは一度もありませんでしたが。…大人しくて寡黙すぎるが、戦場では勇猛
果敢、人物がよいから、運があれば指揮官になれるだろう、などと、昔、演習のおりに、
師帥たちが評価していたひとです」
驍宗は笑った。
「確かに、そういう男であるようだな。よもや私の耳に入るとは思っていなかったらし
い。話が出されると、首まで赤くして、下を向いたままであった」
驍宗は笑みながら、白湯を一口飲んだ後、真顔になった。
「そなたの後任は、誰がなっても難しい。あの若い将軍が、どうやって切り抜けるかと
思っていたのだが、見事にやったようだ。これで、安心して任せられる」
驍宗の言葉に、李斎も心が熱くなる思いであった。
王師の将軍としての勤務が非常に短い期間であったにもかかわらず、李斎は兵に愛さ
れていた。李斎の軍であったということで、阿選は最後まで、瑞州師中軍を信じなかっ
た。それゆえ、中軍が『国賊軍』の汚名とともに、承州から鴻基に戻されたあの暗い春
からこの夏までの六年半余、国のどこで内乱が起きても、ついに一度も鴻基から出さず
に、飼い殺したのだ。
中軍がいまの規模で残存したのには、そうした理由があった。
『大逆の将の軍』は、師帥にいたるまでがすべての冬器の返還を命じられ、全兵卒も
通常は丸腰で、剣さえ持たせられなかった。空行師からは、騎獣が奪われた。組織立っ
た逃亡や反逆ができぬよう、常に武装した禁軍右軍を監視につけられ、ただ土木作業の
ためだけに、生かされていた。それは徒刑に等しかった。兵営は牢だった。
体の維持という名目で、木刀、木槍で訓練はするものの、武人としての誇りは踏みに
じられ、自分たちを貶める偽王に「食わされている」というやりきれなさは、農民上が
りの一兵卒の心さえも、痛めつけた。
その頃には、どう情報が操作されようと、阿選が真の謀反人であること、無実の罪を
着せられた李斎が生きて、各地で反阿選の兵を挙げ奔走していることを、誰もが知って
いた。その乱が鎮められるたび、彼らは絶望と戦い、李斎がまだ生きていることが伝わ
ると、感謝の祈りを捧げて、再びひそかに希望を燃やした。
劉軍、とは、その頃、誰からともなく自らをそう呼び始めたものであった。
阿選への怨念と李斎への思慕で生き続けた彼らは、蓬莱へ流されて帰れるはずのなか
った台輔を取り戻して帰国したのが、他ならぬ自分たちの将であると知り、狂喜した。
鴻基の内側からの火の手は、彼らによって上がったのである。鴻基を守る禁軍は、武
装はしていても、もはや彼らの半分以下で、しかも、驍宗帰還の報に浮き足立っていた。
市民は、この六年半、生活を守る工事はしても、自分たちに刃を向けることのなかった
兵士たちを、覚えていた。千を越す首都の民が、呼びかけに応じた。工具、木杖を手に
した中軍は、市民と共に、怒涛の勢いで禁軍に迫り、これを説得し、開城させたのであ
る。
その後、驍宗軍に合流して武器を与えられた彼らの働きは、恐ろしいほどであったと
いう。
李斎は鴻基入城後に、心を込めて彼女の最後の閲兵を行い、兵を労った。
隻腕でよいからとどまってほしい、というのが、兵士たちの本音であったが、彼女は
辞職した。驍宗の后妃として白圭宮に入ることになったのは、李斎には予想もしなかっ
た成り行きだったが、兵らにすれば、王后におなりだと聞かされたからこそ、どうにか
受け容れられた辞職であった。それだけに、後任への思いは複雑であり、新任者の苦労
を誰もが案じたのだった。
いつまでも自分が未練のように、中軍を気にかけては、新将軍の妨げとなると思い、
様子を尋ねることさえしなかった李斎だが、いま、一軍の結束を聞かされると、たまら
なく嬉しかった。
妻の押さえきれぬ笑顔に、微笑んでいた驍宗は、ゆっくりしすぎたことに気づくと、
さて、と白湯の椀を置いた。
「そろそろ着替えた方がよいな。それにしても、騎乗するのも久しぶりだ」
驍宗が立ち上がり、李斎も席を立った。驍宗が考えるような口ぶりで、振り返る。
「…帰りが、はっきりせぬ。常の夕餉の時刻には間に合わぬかも知れぬゆえ、そなたは」
「あ、はい。お待ちしております」
驍宗は一瞬黙った。
「待っていてくれるか」
「はい」
李斎が素直に答えて、驍宗はちょっと複雑な面持ちになった。
「うむ」
瞬き、わずかに口元を歪めた。
「では、行って参る」
嬉しかった驍宗は、難しい顔で告げた。そのとき、李斎はたいそう元気良く、出て行
く夫に、声をかけた、
「お早くお戻りあそばされませっ」
驍宗の歩みが、止まった。
部屋に居た女官全員が、息を飲み、女官長の顔もかすかにだが、一瞬強ばった。
驍宗が驚いた顔で振り返る。
だがどうやら、一番驚いたのが、その言葉を発した当人だったようだ。
「…、」
李斎は口を閉じるのも忘れていた。王師の話で高揚したとはいえ、いまの声は、王后
が王を見送るには少し大きすぎた。そして内容は、宮中にあっては庶民的にすぎていた。
驍宗が今日一日、宮殿を空けると知って、大変な昔、父が少し遠出する日に、母が言っ
て送り出していた「早く帰ってくださいね」が、転がり出てこようなどとは、思いもよ
らなかった。
沈黙の中、驍宗が突如、声を上げて笑った。
女官たちが驚いて主上の方を見た。驍宗は笑いやめると、先ほどの李斎よりも大きな
声で、こう言った。
「あい分かった。できるだけ早く帰る」
そして、また笑いながら、出かけてしまった。
「今日は、昼餉に戻られぬ。そのつもりで」
李斎は首を傾けた。李斎が王宮に上がってから、どんなに多忙な日も外殿から内殿へ
移る前に、最低一度は正寝に戻った驍宗である。特に大事が起きたとは、聞いていない。
「どちらかに、おでましになられるのでございますか」
うむ、と驍宗は答える。
「地官、夏官の主立ったものたちと、鴻基の街と近郊の数県を、見てくる。雪の前に、
一度この目で見ておきたい」
李斎は頷いた。
この年のわずかな量の収穫も終わり、冬が本格化する直前であった。飛燕に会うとき
に禁門から眺めれば、遠くの峰はもう白く、穏やかな雲海にかこまれた白圭宮にも、連
日霜が降りて、明け方など既にかなりの寒さだ。雪が降るのはもう時間の問題だった。
そして、瑞州の内でさえ、まだ妖魔は出ると聞く…。
「お気をつけて、おでかけ下さいませ」
思わず案じた声になった李斎に言ってやる、
「大丈夫だ。瑞州師が警護につく。新しい中将軍も同道させるゆえ」
「はい」
笑んで頷いた李斎に、驍宗は問うた。
「後任がどのようにやっておるか、聞かぬのか」
「いいえ」
李斎は笑んだまま、きっぱりと答えた。
「わたくしが気にかける筋ではございません」
「そなたに手伝わせておるらしいぞ」
意外な言に、李斎は目を見開き、首を傾けた。
「それは、どういう…」
「たまたま朝議の席で話題になったゆえ、私も今日、初めて知った。初の閲兵で将軍が
した訓示が、全兵士の心をとらえたということだ。いわく、――われわれは劉軍である、
と」
初めての閲兵式で、若い指揮官は、台上で叫んだ。
――赤誠の心で、主上台輔にお仕えせん。我等、劉軍なり。
その一言に、彼自身の前任者に抱く尊敬、そして目の前の全兵が抱く李斎への思慕の、
全てがあった。兵の顔は輝き、軍吏は涙を押さえながら、拳を空に突き上げて鬨声をあ
げたという。
「…あの者が、ですか」
李斎は思わず、胸を押さえていた。
「顔は知っていたか」
李斎は頷く、
「話したことは一度もありませんでしたが。…大人しくて寡黙すぎるが、戦場では勇猛
果敢、人物がよいから、運があれば指揮官になれるだろう、などと、昔、演習のおりに、
師帥たちが評価していたひとです」
驍宗は笑った。
「確かに、そういう男であるようだな。よもや私の耳に入るとは思っていなかったらし
い。話が出されると、首まで赤くして、下を向いたままであった」
驍宗は笑みながら、白湯を一口飲んだ後、真顔になった。
「そなたの後任は、誰がなっても難しい。あの若い将軍が、どうやって切り抜けるかと
思っていたのだが、見事にやったようだ。これで、安心して任せられる」
驍宗の言葉に、李斎も心が熱くなる思いであった。
王師の将軍としての勤務が非常に短い期間であったにもかかわらず、李斎は兵に愛さ
れていた。李斎の軍であったということで、阿選は最後まで、瑞州師中軍を信じなかっ
た。それゆえ、中軍が『国賊軍』の汚名とともに、承州から鴻基に戻されたあの暗い春
からこの夏までの六年半余、国のどこで内乱が起きても、ついに一度も鴻基から出さず
に、飼い殺したのだ。
中軍がいまの規模で残存したのには、そうした理由があった。
『大逆の将の軍』は、師帥にいたるまでがすべての冬器の返還を命じられ、全兵卒も
通常は丸腰で、剣さえ持たせられなかった。空行師からは、騎獣が奪われた。組織立っ
た逃亡や反逆ができぬよう、常に武装した禁軍右軍を監視につけられ、ただ土木作業の
ためだけに、生かされていた。それは徒刑に等しかった。兵営は牢だった。
体の維持という名目で、木刀、木槍で訓練はするものの、武人としての誇りは踏みに
じられ、自分たちを貶める偽王に「食わされている」というやりきれなさは、農民上が
りの一兵卒の心さえも、痛めつけた。
その頃には、どう情報が操作されようと、阿選が真の謀反人であること、無実の罪を
着せられた李斎が生きて、各地で反阿選の兵を挙げ奔走していることを、誰もが知って
いた。その乱が鎮められるたび、彼らは絶望と戦い、李斎がまだ生きていることが伝わ
ると、感謝の祈りを捧げて、再びひそかに希望を燃やした。
劉軍、とは、その頃、誰からともなく自らをそう呼び始めたものであった。
阿選への怨念と李斎への思慕で生き続けた彼らは、蓬莱へ流されて帰れるはずのなか
った台輔を取り戻して帰国したのが、他ならぬ自分たちの将であると知り、狂喜した。
鴻基の内側からの火の手は、彼らによって上がったのである。鴻基を守る禁軍は、武
装はしていても、もはや彼らの半分以下で、しかも、驍宗帰還の報に浮き足立っていた。
市民は、この六年半、生活を守る工事はしても、自分たちに刃を向けることのなかった
兵士たちを、覚えていた。千を越す首都の民が、呼びかけに応じた。工具、木杖を手に
した中軍は、市民と共に、怒涛の勢いで禁軍に迫り、これを説得し、開城させたのであ
る。
その後、驍宗軍に合流して武器を与えられた彼らの働きは、恐ろしいほどであったと
いう。
李斎は鴻基入城後に、心を込めて彼女の最後の閲兵を行い、兵を労った。
隻腕でよいからとどまってほしい、というのが、兵士たちの本音であったが、彼女は
辞職した。驍宗の后妃として白圭宮に入ることになったのは、李斎には予想もしなかっ
た成り行きだったが、兵らにすれば、王后におなりだと聞かされたからこそ、どうにか
受け容れられた辞職であった。それだけに、後任への思いは複雑であり、新任者の苦労
を誰もが案じたのだった。
いつまでも自分が未練のように、中軍を気にかけては、新将軍の妨げとなると思い、
様子を尋ねることさえしなかった李斎だが、いま、一軍の結束を聞かされると、たまら
なく嬉しかった。
妻の押さえきれぬ笑顔に、微笑んでいた驍宗は、ゆっくりしすぎたことに気づくと、
さて、と白湯の椀を置いた。
「そろそろ着替えた方がよいな。それにしても、騎乗するのも久しぶりだ」
驍宗が立ち上がり、李斎も席を立った。驍宗が考えるような口ぶりで、振り返る。
「…帰りが、はっきりせぬ。常の夕餉の時刻には間に合わぬかも知れぬゆえ、そなたは」
「あ、はい。お待ちしております」
驍宗は一瞬黙った。
「待っていてくれるか」
「はい」
李斎が素直に答えて、驍宗はちょっと複雑な面持ちになった。
「うむ」
瞬き、わずかに口元を歪めた。
「では、行って参る」
嬉しかった驍宗は、難しい顔で告げた。そのとき、李斎はたいそう元気良く、出て行
く夫に、声をかけた、
「お早くお戻りあそばされませっ」
驍宗の歩みが、止まった。
部屋に居た女官全員が、息を飲み、女官長の顔もかすかにだが、一瞬強ばった。
驍宗が驚いた顔で振り返る。
だがどうやら、一番驚いたのが、その言葉を発した当人だったようだ。
「…、」
李斎は口を閉じるのも忘れていた。王師の話で高揚したとはいえ、いまの声は、王后
が王を見送るには少し大きすぎた。そして内容は、宮中にあっては庶民的にすぎていた。
驍宗が今日一日、宮殿を空けると知って、大変な昔、父が少し遠出する日に、母が言っ
て送り出していた「早く帰ってくださいね」が、転がり出てこようなどとは、思いもよ
らなかった。
沈黙の中、驍宗が突如、声を上げて笑った。
女官たちが驚いて主上の方を見た。驍宗は笑いやめると、先ほどの李斎よりも大きな
声で、こう言った。
「あい分かった。できるだけ早く帰る」
そして、また笑いながら、出かけてしまった。
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