(一)
「主上はどちら?」
麒麟は、溌刺とした美声に、これを尋ねた。
範の王宮の正寝正殿、滑らかに光る石の廊下に、透ける領巾をさばいて、顔なじみの
女官が伏礼する。この王宮では女官たちは、ひとりとして同じ服をつけることがない。
「さきほどまでは、西の書院においでであったと存じ上げますが」
「たったいまお伺いしてみたのだけれど、いらっしゃらなかったんだもの」
「さようですの…」
「ね、心当たりないかしら」
この台輔も、あまり麒麟らしい服装ではない。服装以前に、後ろに手を組んで顎を上
げ、首を傾げているしぐさは、見た目の歳よりもさらに稚い。はるか昔には、口やかま
しい官も一人ならずいたものだが、このはしこい麒麟の良く回る頭と舌、そして無敵の
愛敬に全面降伏して、もうかなり久しい。
「お急ぎでいらっしゃいますの、台輔?」
女官の口さえ、どこかうちとけて気張らないのも、この国流である。
「さっき、六太から手紙がきたの。戴の方たちのことが書いてあって、早く主上にお聞
かせしたいのよ」
相手はうなずいた。畏れ多くも当代二番目の大国の宰輔の字が、目下の少年のように
気安げに登場しようとも、いちいち驚く女官は、ここにはいない。
「では、お庭を探してごらんなさいまし。昨日やっと、お気に入りの灯篭が修繕されて
ございますから、おいでかもしれませんよ」
「まぁそうなの。ありがと!それじゃ、またね」
友達にするようにひらひら手をふって駆け出した後ろ姿に、女官は再び、しとやかな
身振りで一礼した。
「眠っていらっしゃる…?」
「いいや」
主は石案に頭をのせたまま、目だけをうっすら開き、のぞきこんでいる可愛い顔を見
ると、微笑んだ。
氾麟は、案(つくえ)の様子を見た。
「書き物をしてらっしゃいましたの?」
「うん…」
書院から、墨斗と紙だけをもって、そぞろ歩きに庭園に下りたらしい。主は、秋の立
ち初めた庭で、金紗の刺繍の上衣を着流して、座っている。小さな四阿で石の案によっ
ているその姿は、絵のように見える、と、氾麟は感嘆と満足の吐息をもらした。
「うん?」
「まだ、お疲れがとれてらっしゃらないのだから、あまり御無理なさらないでね」
「していないよ。心配をおしでない」
「それ。お仕事ではないの?」
「ああ、これかえ…」
のぞきかけて、やめた麒麟に、氾は愛情深く微笑んだ。
「別に読んでもかまやしない。思い出したことを、ただの手すさびに書いてみただけ。
昔のことをね…」
「昔…」
「そう。金波宮でお前と李斎と、戴の話をしただろう。庭を眺めていたら、ふとそんな
気になったのだよ」
氾麟は、はたと体を起こした。
「――李斎。彼女、戴へ帰ったの!」
戴へ…と、王は口の中でつぶやき、整えられた眉をわずかに寄せた。
延麒から届いた手紙によれば、その数日前、角を失った若い麒麟にともなわれ、隻腕
の女将軍は慶を発ち、帰国の途についたのだ。氾麟はそこまでを、急いで彼に告げた。
「そうかえ。帰ったか…」
「ええ、そうよ。ほんとに二人っきりで帰ったのよ。二人で今帰ってどうなるの。あん
まりだと思うわ。どうして、引き止められなかったのかしら、六太たちってば」
半泣き声で、早口になる麒麟に、主はそっと筆筒に筆を戻すと静かに言った。
「興奮おしでないよ。誰にも、彼らを止めることなどは出来ないのだから」
「無事でいてほしいの…」
幼顔の麒麟は、口をとがらせ、拗ねるように俯いた。
「そうかえ…」
とだけ、氾は言った。
帰国するとき、あの二人がいまだ弱小の慶国にあまり長く逗留するのは、両国にとっ
て望ましくないだろうとは、想像がついた。延が、慶との利害と景王へのお節介と、幾
分か義侠心とやらを起こして、二人を早い時期に雁国に連れてくれればよいが、と考え
た。早晩、そうなるだろうと踏んで、慶国を後にした。
だが、その一方で、そうはならぬかもしれないと、どこかで思っていた。
あの悲惨の国に、あまりに非力な今の彼らを返したくはない。十分すぎるほど傷つき
弱った一国の柱の半分たる麒麟、そして国と王と麒麟と民とを、一介の将の身に背負っ
て奮闘し、これも十分傷を負った、雄雄しい婦人。どちらも、なんとしても無事でいて
ほしい。
主が同じ思いなのを、短い声の色に感じて、麒麟は面をあげ、主を見た。主の静かな
視線は、石案の上にあった。
「――書いてはみたけれど…、」
王は、つと紙を引き寄せて、指ではじいた。
「あまりに固過ぎるねぇ、これは。なんだか私らしくなくて、いけない」
麒麟は気をとりなおして、座りながら自分ものぞきこんだ。
「あら。――どう、主上らしくなくていらっしゃるの?」
氾は目にひそかな愛敬を含ませて、微笑んでみせた、
「だって…私が真面目な人間だっていうのは、今じゃあ、あまり知られていないことだ
からねぇ」
氾麟は目をくるりとさせると、しかつめらしく頷いた。
「わたくしは知っているわ。だって、わたくしの主上ですもの」
「そうかえ。それじゃあこれは、嬌娘だけに聞かせるとしよう」
氾は静かに読んだ。麒麟も、静かに聞いた。
秋はひそやかに庭園に下りていて、黄葉をまつ葉ずれはどこかものさびしく、枝を漏
れ来る陽射しが、二人のいる四阿に注いでいた。
(二)
その極国を最後に訪れたのは、秋の終りであった。しんと澄んで冴え渡る空気は、ま
なしにこの国に到来する、厳しい冬の匂いがした。雪はまだだったが、雲海の上にも始
終、刺すような風が吹いていたものである。
あてがわれた客舎は、掌客殿の北東の外れにあり、それまでに五回以上はあった過去
の逗留で、一度も案内されたことのない場所だった。
外観の、濃紺と純白の対比の清冽な美しさとは異なり、内部は全体に装飾重く、華美
に過ぎるこの王宮の中にあって、そこは、珍しいほど飾りのない庭園であった。
ひしめく奇岩も玉の柱もなにもなく、ただ植えられた数本の樹木が、黄色に染まった
葉をどっさり落としているだけの、静かな庭を囲んで、広い客殿があった。しかも、寝
室として案内されたのはその客殿の建物ではなく、院子に建つ離れのような小さな書院
だった。
そこに二日半、滞在した。賓客の中では、私がもっとも遠来であった。
部屋には鉄製の、足つき煖爐が置かれていた。聞けば戴ではごく一般的な、庶民にな
じみの道具であるらしい。だがそれも、初めて目にする客にとっては、その膨みのある
胴から煙突がのび、壁の穴から外へと突き出ている様も珍しく、大いに野趣あるしつら
えだった。
暖房はその薪煖爐だけだった。客の世話は二名の、空気のように静かな女官が受け持
っていた。彼女たちはこのひっそりした客舎そっくりで、まるで邪魔にならず、それで
いて申し分なく働くのだった。
食事は毎回、かん [註※温突(オンドル)]の通った客殿の堂室に用意されたが、庭園
の落ち葉を眺めながら、暖かい汁物や菜をいただくと、どこかひなびた宿館にでも滞在
しているような心もちになった。食器が平凡であったので、余計そうした気分に浸れた
ものかもしれない。どの膳もじつにうまかった。必ず一品、乳酪がついた。さほど好き
ではないのだが、これが美味で、珍しく全部食べてしまった。
戻ると薪箱がいっぱいにしてあり、空気が入れ換えられているのが、分かった。小さ
な室は、目の積んだ北国独特の分厚く硬い毛織布を、何枚も壁の下貼りにし、外気を遮
断してあった。そのため昼間の時間であれば、一斉に窓を開けて換気しても、件の薪煖
爐ひとつですぐに部屋は暖まるのだった。
この室は、よい匂いがした。最初は薪を燃やす匂いをそう感じるのかと思った。
香は焚かれていなかった。部屋にある香といえば、窓の近くの黒檀の卓に、文房四宝
(筆と硯と墨と紙)――これらばかりは世に二つとないだろう逸品だった――がのって
いたが、その脇の、豆のような黄色い玉製の香立てに、伽羅のごくごく細い線香が一本
置いてあるきりであった。これは、手紙を書くとき、嗅いで楽しむくらいで、最後まで
燻らさずにおいた。
部屋へ戻るたび、私の感じたそのよい匂いが、何の匂いか、とうとう出立まで、はっ
きりとは分からなかった。女官にきいても、分からぬという。敷布を山いちはつの根で
煮ているので、その匂いではないのだろうか、との答えだった。なるほど寝台に使う布
からは、どこの高級舎館と王宮でもお定まりの、あのしつこく焚きしめた白檀のかわり
に、うっすらと甘い柔らかな香りがしていた。
牀榻はなかった。そもそも書院自体がまるごと牀榻のようなものだから、道具も少な
かった。例の卓の前に、やはり黒檀の椅子があり、あとは衝立と弊風がひとつ、足台が
二つで全てという簡素さだった。部屋の真中に、四隅に細い柱の立った黒檀の、さほど
広くない寝台があった。
この寝台は昼間、寝椅子のかわりになった。夜は寝台の四隅の柱に刺し子の天蓋をか
けて、牀榻の入り口のように白布を垂らすのだった。この牀にも一番下には毛織が敷か
れ、その上に薄い絹蒲団が何枚も重ねられ、すっかり敷布で覆ってあった。上掛けは水
鳥の羽毛を入れた白の緞子が二枚で、同色の糸で一面に手の込んだ刺繍がしてあったが、
これはとにかく暖かかった。
これらの贅沢な蒲団の上、寝台の幅の足元四半分ばかりに、毛糸で織った無骨な布が、
無造作に広げられてあった。布は黄土色と黒と白の、単調な太い縞模様に織られたもの
で、冬官の織工が手がけたものなどでないことは、織を見れば明白だった。だが、私は、
一目で気に入った。
狭いため、花台や壷など余計なものは一切なく、寝台の両脇の壁に、画と書の軸が一
幅ずつ掛かっているのを除いて、装飾のない部屋だった。
書は詩であったが、誰の作か覚えていない。悪くない書風であったように思う。画は
蘭竹図。これも外させるほど目に障りはしなかった。
ここに私を招いた主は、名だたる将軍を経て登極した男である。今回、私はその即位
式に臨むために、はるばる参じた。しかし一見して、武人の趣味を感じさせるものは、
この部屋には何一つなかった。もし新王の君主としての人となりを、いくらかでも表し
ていたとすれば、部屋の片隅にあった小さな書架の中身であったろう。
二日と少しの滞在で、大行人に即位礼の式次第と当日の予定を伝えられたほか、先方
からの使いは、一回きり――滞在一日目の夕刻、内殿の官が、主君である新王の口上を
添えて国宝とおぼしき笛を届けにきた、そのときだけであった。
私は、大礼を前にした王宮の狂騒から切り離されて、この晩秋の庭の風情をたんのう
しながら、かなりの時間を書見に費やした。
帰る間際、短い歓談をもった折、私は客舎のよろしかったことに、礼を述べた。今回
のもてなしの一切は、この男が自ら指図したものに違いなかった。この私を満足させた
ことに、いくらかでも得意の色をするかと思ったが、戴の新しい王は、無表情のまま、
それはよろしゅうござった、とだけ応じた。
彼はその後、何もおかまい出来なかったと詫び、更に、部屋内でお気に召したものが
あれば、なんなりと差し上げたく存ずるが、と申し出たので、私はそれには及ばないと
丁重に断った。
あの見事な文房具は、そのために用意されたものだったろうが、私はすでに名笛を贈
られていたし、これは一国として十分に、慶賀の品の返礼に足るものだった。
ただ私は、又の滞在にはあの部屋を希望したい、と申し添えた。真実私は、あの書院
を好んでおり、正直なところいささか別れ難い思いだったのだ。
彼は初めて微笑し、では、そのままにお残ししよう、と言うと少し目を和ませた。
質素すぎるほどの礼服と簡素な式は、この男の堂々の風格をかえって引き立たせ、稀
に見る、よい即位の式典であった。即位したばかりの新王は、客の前でも率直すぎるほ
ど率直であった。土産をお渡ししたいのだが、範の方がお喜び下さるようなものが、今
の戴国にあるだろうか、と彼は問うた。
固辞するつもりだったが、その率直さが気に入ったので、私は土産を望む気になった。
あの書院にあったと同じ書物が御入手かなうなら、うち数冊を御用意頂ければ、有り
難く、と。
泰王は、その場で書名を聞くと頷き、今度はこちらの顔を見て、太く、はっきりと笑
んだ。彼と我との友情のはじまりは、おそらくあのときであったと思う。
帰国から半月もせぬうち、書物は届けられた。彼は、私が頼んだものだけを、全て二
冊ずつ揃えて送って寄越した。いずれも初刷りである。
書名を以下に控える。『戴国鉱業技術史』全巻。『承州酪農の技術と発展』。『乳酪
の保存と輸送に関する研究』。このうち鉱業技術史の上数巻と、承州酪農は、すでに半
分以上を滞在中に読んでいた。もとより戴は玉の産地としてわが国とのかかわりが深い
のだが、ごく小規模ながらすぐれた酪農製品の生産を行っていることが、この度の訪問
で判った。これらは手元に置きたく、また、彼の炯眼の通り、うちの冬官ないし地官に
読ませんがために所望した。
他は、絵草子が三。子供向けの戴の民話などで、挿画が実に見事なものであった。氾
麟に与え、彼女はやがてそれらを州府の文庫に贈ることに決めた。うち一編は数年後、
小学で使う読本に採られている。
頼んだ本だけが入っていた包みで、思いがけず私を喜ばせたのが、二重に油紙にくる
んだ書籍を、さらに包んでいた一枚の布であった。無論、私が一番気に入っていたこと
など、彼が知っていたはずはない。あの部屋にあったものよりも、それは幅広く、正方
形であった。
黄土色と黒と白が太い縦縞に織出されたその無骨な布は今、私の冬の離宮にある。窓
辺の小さな寝椅子の上に、半分に折って置かれている。
(三)
「さ、おしまい」
氾は、立ち上がり、麒麟の小さな手をとった。
「やれやれ。冷えてしまったね。戻ってお茶にするとしようよ」
氾麟は頷いて、立ち上がった。石の四阿に静寂が戻った。
たったいま読まれなかった最後の一行は、彼女の主の心だった。あえてそれを読まな
かった彼を、彼女は誰より理解せねばならない。だから、少女の姿をした賢く愛らしい
麒麟は、敷石の上を飛び跳ねながら、流れるような歩調の主の後ろについて、正殿へと
戻って行った。
『――その無骨な布は今、私の冬の離宮にある。窓辺の小さな寝椅子の上に、半分に折
って置かれている。
布を送った男の生死は、いまだ分からない。』
(了)
「主上はどちら?」
麒麟は、溌刺とした美声に、これを尋ねた。
範の王宮の正寝正殿、滑らかに光る石の廊下に、透ける領巾をさばいて、顔なじみの
女官が伏礼する。この王宮では女官たちは、ひとりとして同じ服をつけることがない。
「さきほどまでは、西の書院においでであったと存じ上げますが」
「たったいまお伺いしてみたのだけれど、いらっしゃらなかったんだもの」
「さようですの…」
「ね、心当たりないかしら」
この台輔も、あまり麒麟らしい服装ではない。服装以前に、後ろに手を組んで顎を上
げ、首を傾げているしぐさは、見た目の歳よりもさらに稚い。はるか昔には、口やかま
しい官も一人ならずいたものだが、このはしこい麒麟の良く回る頭と舌、そして無敵の
愛敬に全面降伏して、もうかなり久しい。
「お急ぎでいらっしゃいますの、台輔?」
女官の口さえ、どこかうちとけて気張らないのも、この国流である。
「さっき、六太から手紙がきたの。戴の方たちのことが書いてあって、早く主上にお聞
かせしたいのよ」
相手はうなずいた。畏れ多くも当代二番目の大国の宰輔の字が、目下の少年のように
気安げに登場しようとも、いちいち驚く女官は、ここにはいない。
「では、お庭を探してごらんなさいまし。昨日やっと、お気に入りの灯篭が修繕されて
ございますから、おいでかもしれませんよ」
「まぁそうなの。ありがと!それじゃ、またね」
友達にするようにひらひら手をふって駆け出した後ろ姿に、女官は再び、しとやかな
身振りで一礼した。
「眠っていらっしゃる…?」
「いいや」
主は石案に頭をのせたまま、目だけをうっすら開き、のぞきこんでいる可愛い顔を見
ると、微笑んだ。
氾麟は、案(つくえ)の様子を見た。
「書き物をしてらっしゃいましたの?」
「うん…」
書院から、墨斗と紙だけをもって、そぞろ歩きに庭園に下りたらしい。主は、秋の立
ち初めた庭で、金紗の刺繍の上衣を着流して、座っている。小さな四阿で石の案によっ
ているその姿は、絵のように見える、と、氾麟は感嘆と満足の吐息をもらした。
「うん?」
「まだ、お疲れがとれてらっしゃらないのだから、あまり御無理なさらないでね」
「していないよ。心配をおしでない」
「それ。お仕事ではないの?」
「ああ、これかえ…」
のぞきかけて、やめた麒麟に、氾は愛情深く微笑んだ。
「別に読んでもかまやしない。思い出したことを、ただの手すさびに書いてみただけ。
昔のことをね…」
「昔…」
「そう。金波宮でお前と李斎と、戴の話をしただろう。庭を眺めていたら、ふとそんな
気になったのだよ」
氾麟は、はたと体を起こした。
「――李斎。彼女、戴へ帰ったの!」
戴へ…と、王は口の中でつぶやき、整えられた眉をわずかに寄せた。
延麒から届いた手紙によれば、その数日前、角を失った若い麒麟にともなわれ、隻腕
の女将軍は慶を発ち、帰国の途についたのだ。氾麟はそこまでを、急いで彼に告げた。
「そうかえ。帰ったか…」
「ええ、そうよ。ほんとに二人っきりで帰ったのよ。二人で今帰ってどうなるの。あん
まりだと思うわ。どうして、引き止められなかったのかしら、六太たちってば」
半泣き声で、早口になる麒麟に、主はそっと筆筒に筆を戻すと静かに言った。
「興奮おしでないよ。誰にも、彼らを止めることなどは出来ないのだから」
「無事でいてほしいの…」
幼顔の麒麟は、口をとがらせ、拗ねるように俯いた。
「そうかえ…」
とだけ、氾は言った。
帰国するとき、あの二人がいまだ弱小の慶国にあまり長く逗留するのは、両国にとっ
て望ましくないだろうとは、想像がついた。延が、慶との利害と景王へのお節介と、幾
分か義侠心とやらを起こして、二人を早い時期に雁国に連れてくれればよいが、と考え
た。早晩、そうなるだろうと踏んで、慶国を後にした。
だが、その一方で、そうはならぬかもしれないと、どこかで思っていた。
あの悲惨の国に、あまりに非力な今の彼らを返したくはない。十分すぎるほど傷つき
弱った一国の柱の半分たる麒麟、そして国と王と麒麟と民とを、一介の将の身に背負っ
て奮闘し、これも十分傷を負った、雄雄しい婦人。どちらも、なんとしても無事でいて
ほしい。
主が同じ思いなのを、短い声の色に感じて、麒麟は面をあげ、主を見た。主の静かな
視線は、石案の上にあった。
「――書いてはみたけれど…、」
王は、つと紙を引き寄せて、指ではじいた。
「あまりに固過ぎるねぇ、これは。なんだか私らしくなくて、いけない」
麒麟は気をとりなおして、座りながら自分ものぞきこんだ。
「あら。――どう、主上らしくなくていらっしゃるの?」
氾は目にひそかな愛敬を含ませて、微笑んでみせた、
「だって…私が真面目な人間だっていうのは、今じゃあ、あまり知られていないことだ
からねぇ」
氾麟は目をくるりとさせると、しかつめらしく頷いた。
「わたくしは知っているわ。だって、わたくしの主上ですもの」
「そうかえ。それじゃあこれは、嬌娘だけに聞かせるとしよう」
氾は静かに読んだ。麒麟も、静かに聞いた。
秋はひそやかに庭園に下りていて、黄葉をまつ葉ずれはどこかものさびしく、枝を漏
れ来る陽射しが、二人のいる四阿に注いでいた。
(二)
その極国を最後に訪れたのは、秋の終りであった。しんと澄んで冴え渡る空気は、ま
なしにこの国に到来する、厳しい冬の匂いがした。雪はまだだったが、雲海の上にも始
終、刺すような風が吹いていたものである。
あてがわれた客舎は、掌客殿の北東の外れにあり、それまでに五回以上はあった過去
の逗留で、一度も案内されたことのない場所だった。
外観の、濃紺と純白の対比の清冽な美しさとは異なり、内部は全体に装飾重く、華美
に過ぎるこの王宮の中にあって、そこは、珍しいほど飾りのない庭園であった。
ひしめく奇岩も玉の柱もなにもなく、ただ植えられた数本の樹木が、黄色に染まった
葉をどっさり落としているだけの、静かな庭を囲んで、広い客殿があった。しかも、寝
室として案内されたのはその客殿の建物ではなく、院子に建つ離れのような小さな書院
だった。
そこに二日半、滞在した。賓客の中では、私がもっとも遠来であった。
部屋には鉄製の、足つき煖爐が置かれていた。聞けば戴ではごく一般的な、庶民にな
じみの道具であるらしい。だがそれも、初めて目にする客にとっては、その膨みのある
胴から煙突がのび、壁の穴から外へと突き出ている様も珍しく、大いに野趣あるしつら
えだった。
暖房はその薪煖爐だけだった。客の世話は二名の、空気のように静かな女官が受け持
っていた。彼女たちはこのひっそりした客舎そっくりで、まるで邪魔にならず、それで
いて申し分なく働くのだった。
食事は毎回、かん [註※温突(オンドル)]の通った客殿の堂室に用意されたが、庭園
の落ち葉を眺めながら、暖かい汁物や菜をいただくと、どこかひなびた宿館にでも滞在
しているような心もちになった。食器が平凡であったので、余計そうした気分に浸れた
ものかもしれない。どの膳もじつにうまかった。必ず一品、乳酪がついた。さほど好き
ではないのだが、これが美味で、珍しく全部食べてしまった。
戻ると薪箱がいっぱいにしてあり、空気が入れ換えられているのが、分かった。小さ
な室は、目の積んだ北国独特の分厚く硬い毛織布を、何枚も壁の下貼りにし、外気を遮
断してあった。そのため昼間の時間であれば、一斉に窓を開けて換気しても、件の薪煖
爐ひとつですぐに部屋は暖まるのだった。
この室は、よい匂いがした。最初は薪を燃やす匂いをそう感じるのかと思った。
香は焚かれていなかった。部屋にある香といえば、窓の近くの黒檀の卓に、文房四宝
(筆と硯と墨と紙)――これらばかりは世に二つとないだろう逸品だった――がのって
いたが、その脇の、豆のような黄色い玉製の香立てに、伽羅のごくごく細い線香が一本
置いてあるきりであった。これは、手紙を書くとき、嗅いで楽しむくらいで、最後まで
燻らさずにおいた。
部屋へ戻るたび、私の感じたそのよい匂いが、何の匂いか、とうとう出立まで、はっ
きりとは分からなかった。女官にきいても、分からぬという。敷布を山いちはつの根で
煮ているので、その匂いではないのだろうか、との答えだった。なるほど寝台に使う布
からは、どこの高級舎館と王宮でもお定まりの、あのしつこく焚きしめた白檀のかわり
に、うっすらと甘い柔らかな香りがしていた。
牀榻はなかった。そもそも書院自体がまるごと牀榻のようなものだから、道具も少な
かった。例の卓の前に、やはり黒檀の椅子があり、あとは衝立と弊風がひとつ、足台が
二つで全てという簡素さだった。部屋の真中に、四隅に細い柱の立った黒檀の、さほど
広くない寝台があった。
この寝台は昼間、寝椅子のかわりになった。夜は寝台の四隅の柱に刺し子の天蓋をか
けて、牀榻の入り口のように白布を垂らすのだった。この牀にも一番下には毛織が敷か
れ、その上に薄い絹蒲団が何枚も重ねられ、すっかり敷布で覆ってあった。上掛けは水
鳥の羽毛を入れた白の緞子が二枚で、同色の糸で一面に手の込んだ刺繍がしてあったが、
これはとにかく暖かかった。
これらの贅沢な蒲団の上、寝台の幅の足元四半分ばかりに、毛糸で織った無骨な布が、
無造作に広げられてあった。布は黄土色と黒と白の、単調な太い縞模様に織られたもの
で、冬官の織工が手がけたものなどでないことは、織を見れば明白だった。だが、私は、
一目で気に入った。
狭いため、花台や壷など余計なものは一切なく、寝台の両脇の壁に、画と書の軸が一
幅ずつ掛かっているのを除いて、装飾のない部屋だった。
書は詩であったが、誰の作か覚えていない。悪くない書風であったように思う。画は
蘭竹図。これも外させるほど目に障りはしなかった。
ここに私を招いた主は、名だたる将軍を経て登極した男である。今回、私はその即位
式に臨むために、はるばる参じた。しかし一見して、武人の趣味を感じさせるものは、
この部屋には何一つなかった。もし新王の君主としての人となりを、いくらかでも表し
ていたとすれば、部屋の片隅にあった小さな書架の中身であったろう。
二日と少しの滞在で、大行人に即位礼の式次第と当日の予定を伝えられたほか、先方
からの使いは、一回きり――滞在一日目の夕刻、内殿の官が、主君である新王の口上を
添えて国宝とおぼしき笛を届けにきた、そのときだけであった。
私は、大礼を前にした王宮の狂騒から切り離されて、この晩秋の庭の風情をたんのう
しながら、かなりの時間を書見に費やした。
帰る間際、短い歓談をもった折、私は客舎のよろしかったことに、礼を述べた。今回
のもてなしの一切は、この男が自ら指図したものに違いなかった。この私を満足させた
ことに、いくらかでも得意の色をするかと思ったが、戴の新しい王は、無表情のまま、
それはよろしゅうござった、とだけ応じた。
彼はその後、何もおかまい出来なかったと詫び、更に、部屋内でお気に召したものが
あれば、なんなりと差し上げたく存ずるが、と申し出たので、私はそれには及ばないと
丁重に断った。
あの見事な文房具は、そのために用意されたものだったろうが、私はすでに名笛を贈
られていたし、これは一国として十分に、慶賀の品の返礼に足るものだった。
ただ私は、又の滞在にはあの部屋を希望したい、と申し添えた。真実私は、あの書院
を好んでおり、正直なところいささか別れ難い思いだったのだ。
彼は初めて微笑し、では、そのままにお残ししよう、と言うと少し目を和ませた。
質素すぎるほどの礼服と簡素な式は、この男の堂々の風格をかえって引き立たせ、稀
に見る、よい即位の式典であった。即位したばかりの新王は、客の前でも率直すぎるほ
ど率直であった。土産をお渡ししたいのだが、範の方がお喜び下さるようなものが、今
の戴国にあるだろうか、と彼は問うた。
固辞するつもりだったが、その率直さが気に入ったので、私は土産を望む気になった。
あの書院にあったと同じ書物が御入手かなうなら、うち数冊を御用意頂ければ、有り
難く、と。
泰王は、その場で書名を聞くと頷き、今度はこちらの顔を見て、太く、はっきりと笑
んだ。彼と我との友情のはじまりは、おそらくあのときであったと思う。
帰国から半月もせぬうち、書物は届けられた。彼は、私が頼んだものだけを、全て二
冊ずつ揃えて送って寄越した。いずれも初刷りである。
書名を以下に控える。『戴国鉱業技術史』全巻。『承州酪農の技術と発展』。『乳酪
の保存と輸送に関する研究』。このうち鉱業技術史の上数巻と、承州酪農は、すでに半
分以上を滞在中に読んでいた。もとより戴は玉の産地としてわが国とのかかわりが深い
のだが、ごく小規模ながらすぐれた酪農製品の生産を行っていることが、この度の訪問
で判った。これらは手元に置きたく、また、彼の炯眼の通り、うちの冬官ないし地官に
読ませんがために所望した。
他は、絵草子が三。子供向けの戴の民話などで、挿画が実に見事なものであった。氾
麟に与え、彼女はやがてそれらを州府の文庫に贈ることに決めた。うち一編は数年後、
小学で使う読本に採られている。
頼んだ本だけが入っていた包みで、思いがけず私を喜ばせたのが、二重に油紙にくる
んだ書籍を、さらに包んでいた一枚の布であった。無論、私が一番気に入っていたこと
など、彼が知っていたはずはない。あの部屋にあったものよりも、それは幅広く、正方
形であった。
黄土色と黒と白が太い縦縞に織出されたその無骨な布は今、私の冬の離宮にある。窓
辺の小さな寝椅子の上に、半分に折って置かれている。
(三)
「さ、おしまい」
氾は、立ち上がり、麒麟の小さな手をとった。
「やれやれ。冷えてしまったね。戻ってお茶にするとしようよ」
氾麟は頷いて、立ち上がった。石の四阿に静寂が戻った。
たったいま読まれなかった最後の一行は、彼女の主の心だった。あえてそれを読まな
かった彼を、彼女は誰より理解せねばならない。だから、少女の姿をした賢く愛らしい
麒麟は、敷石の上を飛び跳ねながら、流れるような歩調の主の後ろについて、正殿へと
戻って行った。
『――その無骨な布は今、私の冬の離宮にある。窓辺の小さな寝椅子の上に、半分に折
って置かれている。
布を送った男の生死は、いまだ分からない。』
(了)
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