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「……こちらが、年中行事に関わりますもので、こちらの分は使節の御接待など、外交
に関わるもの、…大礼に関わる記録は、また別にございます。いずれも、先の王の登極
から約三十年間のものでございます」
 女官長の説明を、李斎は頷いて聞いている。


 朝餉の後で、いつものように書見していた李斎のもとへ、かなり重そうな帙が二と、
幾つかの巻物が運ばれてきて、脇の小卓に載せられたところである。
 ずっと法令集を読んできたのだが、これは、その天綱地綱に定められた事柄の、実際
の運用記録だった。驕王末期にはあらゆる行事が派手となり、法外な費用が使われてい
る。それで、和元年間よりずっと遡って、もっとも常識的でお手本となる時代を、女官
長は選んだらしい。
「それは…?」
 李斎は、巻物の下のごく小さな帙に目を留めた。絹が張られているが、題字がない。
「先の后妃のおつけになっておられた覚書でございます」
 李斎は手元に引き寄せた。おそらくは他の記録と同時代のもので、説明しなかったと
ころをみると、参考として持ってきたのだろう。
 白瑪瑙の爪を外すと、薄青の表紙の冊子が五。一冊を下ろし、幾頁か見ていた李斎は、
女官長に聞いた。
「…これ、他にどのくらいありますか」
「同様の帙で、六ございます」
 李斎がちょっと首を傾けた。女官長がそれに答えた。
「ほぼ毎日おつけであったようですが、私的な記録であるため、ご本人がお持ちになら
れるなどして、一部しか残ってはおりません。ただいま御文書庫に保管されております
のは、およそ、二十年分弱かと」
 李斎は捲っていた一冊を閉じると、出しておいてくれるよう頼んだ。全てかと確かめ
た女官長に頷き、ちょっと笑った。李斎の方からこうしたことを頼んだのは、初めてで
ある。
「黒巻も、やっと、あと三巻で読み終えるから、行事記録と並行して読めば、無理には
ならないと思います」
 女官長はわずかに目を開いた。
「……三巻、でございますか」
 李斎は肩を竦め、苦笑した。
「思ったより時間がかかりました…。昔から、法令を読むのは遅くていけない」
 頭を振り、先代王后の日記をもとどおり帙に収めると、李斎はまた、先ほどまでの続
きを、目で追い始めた。
「…」
 背後の女官長は、珍しく少し瞬いてその姿を眺め直した。李斎は、宮中典令綜覧を、
読んでいる。
 
 宮中典令綜覧というのは、膨大な量の法令集だ。略して綜典、別称を「黒巻(こっか
ん)」という。巻物が黒い亜麻布で装丁されているためだ。天綱に定められた、王宮に
かかわる数条を頂点として、その下に地綱、これに細則に附則がつき、各々の時代に加
えられる天官府規則、天官長令、次官通達(内宰令)…と、王宮諸事についての現行法
規の全てとなると、恐ろしい量に膨れ上がる。
 李斎はこれを与えられ、端から学ばせられた。
 いやしくも后妃たるもの、最低限、後宮に関わることだけでも、一通りは知っておか
なくてはならない。いま現在、運営されていない物理的な後宮の諸事が、学習から外さ
れたものの、李斎にはその分、正寝について学ぶ必要があり、どちらかと言えばそちら
方が厄介であった。
 李斎は華燭から今日まで、日中の大半を、これらの学習に費やしている。
 夕餉の後も、驍宗は大抵、なんらかの仕事と書見を、正寝でもする。ひとりで過ごす
その間、李斎はひたすら条文を読んでいた。
 
 女官長は、胸の中で頷いた。
 黒巻は、大学を出たばかりの官吏を泣かせる量だ。そもそも彼女の生徒は、机仕事が
苦手である。黒巻を積み上げられたときには明らかに、弱った、という様子さえ見せて
いた。
 ただ、苦手だからと言って、この后妃は手を抜かない。一度始めれば没頭し、大変な
集中力を示す。
 
 一刻ほど書見した頃に、いつもならば驍宗が一度戻ってくる。だが今日は、主上はお
留守である。女官長は頃合いを判断し、茶を淹れて休憩をすすめた。一息入れた後は、
李斎の希望で、字の練習を四半時ばかり、というのが大体のいつもの日程だった。
 慶へ向かう途上で妖魔に襲われ、命を拾った代わりに利き腕を失って、一年半が経つ。
もともと運動能力の秀でている李斎は、日常生活の支障をかなり克服していたが、文字
となるとまだ、子供の域を出ていない。
 実は過日、公式の祝詞とは別に、奏南国宗后妃から、李斎宛に便りが届いた。后妃明
嬉の直筆で、内容は、嫁いだばかりの李斎を気遣う、温かな、心こもったものであった。
 本文を官に浄書させた上で自署をし、返書した李斎だったが、前にもまして、いずれ
は自筆の書簡をしたためられるようにならなくては、との思いが強くなっていた。
 机上に、玻璃窓から冬の陽光が射し入る。火炉には花文様の鉄瓶がかけられたままで、
ちりんちりんと小さく鳴っていた。
 墨を磨り始めた李斎に、傍らに控える女官長が言った。
「今日は、陽の照ります割に大層冷え込んでおります。午後から、暖房(かん)をお入
れ致しましょうか」
「そうして下さい。主上は、今日は下ですから、さぞ冷えて帰られるでしょう。上でさ
え朝は、霜柱がかなりあったくらいだから…」
「今朝はどちらまで」
 李斎は毎朝、園林の奥の方まで歩いてくる。
「いつもの、北園(ほくえん)です。葉の落ちた枝の間から見ると、すっかり冬の空に
なっていますね…」
 ゆったりと話す李斎に、女官長はさようでございますか、と答えて、再度、李斎の背
中を眺めた。しゃんと背を立て、墨を磨(す)っている姿には、非の打ち所がなく、ど
うやら彼女の基準を満たしている。

「――后妃におかれては、このところ、姿勢がよろしくおなりあそばされました」
 女官長の言に、李斎は途端に嬉しそうに、ちょっと背を反らしてみせた。
「だいぶ筋の力がもどって、肩に肉もついたからか、真直ぐにしていて苦にならなくな
ったみたいです。やはり負荷をかけたのが、よかったようですね」
 さらに強く両肩を引いてみせ、李斎は笑んだ。
 右袖も左と対象にわずかに広がる。このところ日中、曲げた腕の形に重りを入れた布
製の義手を付けている李斎である。その仮の腕ごと袖を少し上げられるほどに、李斎の
右肩の周囲の肉は、戻りつつあった。
「それに、あの体操の効果でいらっしゃいましょう」
 李斎の袖の動きが止まった。
「あ。いや。それは……ですね、その」
「湯殿でも、お湯におつかりの時間よりも、体操なさっておられる時間の方が長いご様
子でございますし、…ことによると朝なども園林の奥でなさっておいでなのではござい
ますまいか」
 李斎の沈黙は、それが事実だと語っている。
 李斎は紙を見つめ、女官長が暴露するであろうその続きを待った。実際、あらゆる人
目のない時間をとらえては、筋力をつけるための鍛錬をしていた。
「拝見いたしますに、」
 ――あれ。もうひとつはばれてないのか。李斎が心で首を傾けたとき、
「后妃のご健康とお体の姿勢には、運動は必要で、効果的であると存じ上げます」
「……そぅ?」
 ちょっと吃驚した李斎に女官長は、耳を疑うようなことを、いつもの顔と声で言った、
「つきましては、今後、朝餉までのお時間は、後宮で運動あそばされてはいかがでござ
いましょう」
「……」
 女官長はちらと一瞬后妃の顔に目を滑らせた。まともに目を見開き、女官長をぽかん
と椅子から見上げている。
「…。なんでございましょうか」
「本当に、いいの?」
 聞き方がまるきり子供である。女官長は内心たじろいだが、表には出さなかった。
「そのように申し上げました。お住まいがどちらであろうと、あなた様は本来が後宮の
主、およそ二声宮以外の場所へのお立ち入に、差し支えはございません。東宮には馬場
がございますし、今日中に草を刈らせておきます。馬を数頭お入れしますので、ご自分
でお選びになられるとよろしいでしょう。それから小官は詳しく存じませんが、」
 女官長は一層の無表情で付け加えた。
「鍛錬には、木でこしらえた剣や槍などがあるのだとか。あちらでならば、そういった
ものを、多少振り回したりなされようとも、誰の目にもふれることはないと存じます」
「ありがとう女官長。とても、嬉しい」
 李斎は真直ぐに女官長を見、心からそう言うと、破顔した。
 女官長はわずかに眉を動かした。
 衒いのまったくない、この后妃のこういうところが、女官長は苦手である。李斎の言
動が心に触れ、どうかすると気持ちの遣り取りをしてしまいそうになるのを、非常に警
戒していた。それでもこうした不意打ちには、多少の動揺を禁じえない。
 そのため、后妃というものは感情をあまり顔に出すものではないと、諭すべきところ
を、必要なことを手配したまでで謝意を表して頂く立場ではない、とせいぜい無表情で
言っただけになった。
 公私の隔てに厳しく、教育係の天官たる職務上の立場を貫かんとする女官長は、苦手
な理由についてはそれ以上、考えないようにしていた。
 だが、いくら考えずとも、彼女はこの出来の悪い生徒を、好いている。

「失礼いたします」
 声に振り返ると、黒い官服を着けた正寝の官が、書状を手に、扉口で平伏していた。
正寝の官、といっても、この一角は事実上の後宮だから、必ず女性の官が来る。
 女官長が立って行き、書状を受け取る。
「冬官府から使者が参っております。大司空琅燦殿、本日、ご機嫌伺いに罷り越したし
との口上と、お手紙でございます」
「琅燦殿が?」
 型どおりの訪問伺いの短い書面だが、李斎の顔が輝く。琅燦とは、華燭の宴席以来、
もう一月以上会っていなかった。
 李斎は早速、会う旨を伝えて使いを返した。



 ひとりの昼食をすませてしばらくしたその午後に、正寝付の女官が扉口にあらわれ、
平伏の後立ち上がると、立礼したまま、独特の歌うような節回しで、来訪者を告げた。
「大司空が、参りました……」









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