神室町からそう遠くない、何の変哲もないアパートの一室。
錆びた鉄を足早に駆け上る音が真夜中に木霊した。
スタート、ワールドエンド 03
扉が壊れんばかりの勢いで蹴り開けられる、確か鍵をかけていたはずなのにと。確かに安物のアパートにつけられている鍵なんて、同じ安物だがそれにしたって意識ある家主が隣にいるにもかかわらず一言も聞かずに蹴り破るなんて。
桐生は自分を担いでくれている相手をじと目ながら睨む。
「救急箱は?」
「・・・・」
そんなこと気にもせずずかずか上がりこんだ男は、桐生を手近なソファの上に座らせると自分も徐に座り込む。少しばかりこのまま帰ってくれることを期待していたのだがあえなく散った習慣だった。
「・・あの」
「あ?ないんか?」
「いや・・救急箱は、向こうの隅に・・」
「お、ほんまや」
思い切っていってしまおうかと考えて口を開いたはずなのに、気がつけば指は男の探すモノの場所を指していた。元々物持ちのない自分が持っている数少ない私物だ。
「えらい可愛らしいもん持ってんな」
「幼馴染のものなんで・・」
「なんやお前その年でスケコマシか。さすが風間の親父のガキやなー・・・あん人も大概・・・」
振り返ろうと体を動かす瞬間、ザクと、真島の背中に刺さる鋭い殺気。
「・・・冗談や」
表情は見えない、見せない。思わず光悦の息を漏らす。本当なら今からでも血に塗れた死合を始めたい、この殺気に面と向かってぶつかりたい。そうすればこの世界からおさらばできるなら、そんな最高の死に方ができるなら。
「・・・・」
だが今はまだ駄目だ。回復していない手負いの獣と戦ってもつまらない。伸ばそうとしている手ががくがくと震えている、が、それを無理やり押さえつけ振り返った。
「ほら、手当てしたるから脱ぎ」
「・・・・」
互いに腹の底を見せていない、理解している。だが硬直状態になったって有益なものがない。暫しの沈黙を持って、彼は血と泥に汚れたシャツを脱いだ。
「お前も難儀なヤツやのー・・親父にちくっちまえばそれで済むやろ」
「そんなこと・・・できません」
「そこが難儀ゆーてんねや」
何度も殴られた場所、既に赤黒く変色してしまっていた。一日では終わらない暴力の生々しい傷跡、おそらく骨にヒビがいっているに違いないがこの頑固な青年は死んでも病院には行かないんだろうなと、少しばかり呆れ気味に真島は思う。
「まぁテーピングで楽にはしたるさかい、暫く家から出んな」
「そんな・・・」
「あの親父はあざといでぇ?お前の体調の変化なんかすぐにお見通しや」
「・・・」
桐生一馬という青年にとって、風間新太郎という人間がどれほどの崇拝の対象にあるか。押し黙った空気で理解する。そんな相手のいない彼には理解の範疇を軽く飛び越えるが、今この場を大人しくしてくれるならと、あえてそれ以上、口には出さなかった。
「言っとくけど、この俺にこんなことさせんのはお前ぐらいやで・・・桐生ちゃん」
「わかってます・・・兄さん」
「・・・あれ、ひょっとして俺の名前知っとる?」
「知らない人間を家に、入れません・・・真島吾朗でしょ?」
「なんや。折角かっこいい足長おじさんで決めようと思っとったのに」
「・・・無理ですよ。あんなことしたのに」
「俺的には日常茶飯事やねんけどなー・・・」
包帯をぐるぐると巻きながら、他愛もない話が繰り返される。
「・・・・」
ちらりと、青年を見ればうっすらとだが笑みを浮かべて。そこにはまだ大人になりきれていない、等身大の子供の姿があった。あぁそう言えばこいつは子供だったかと、いまさらに思った、自分を殺しかねない危うい青年の本来は。こういう風に笑う子供なのだ。
(そういや・・・こいつ単体にはまるで興味なかったからなー・・)
初めて会った日から、考えていたのは死の淵に立たせてくれる相手のことだけ。それは彼なのだけど、彼自身に対しては何も考えていなかった。真島にとって他者とはそういうもので、自分のために以下に動いてくれるか。そのためなら優しくもするし手酷く扱いもする。今日だって、死なれては困るから手を貸しただけで。
「・・・どうかしたか?」
「・・っ」
巻き終わった包帯、視線を上げると真島の顔をじろじろと見る桐生の瞳とぶつかる。先刻までの落ち着いた雰囲気が、一瞬にしてぎこちなくなった。
「いえ・・・その」
「なんや?」
「兄さんの手・・・冷たくて」
「・・・あ?そら悪かった。俺ハートがあっつい分末端が冷えとんのや」
「それ・・・冗談でも笑えません」
「お前っ。傷つくでその言葉はー」
何を今更、でも今更気づいた。
目の前で笑う彼が、ただの子供なのだと。
そこが少し、気になった。
「・・・・」
恩を返すために、色々なモノを捨てる覚悟でこの世界に足を踏み入れた。元々持っているものは少なかったし、その数少ないものは今や大半がこの世界にいるのと同じ。
それでも表の世界から身を引くという恐怖は、入った今でも鮮明に覚えている。
ブー・・・。
ぼぉっと、その時のことを思い出していると突然現実に引き戻すチャイムが鳴った。ため息交じりに、彼の足は台所から玄関に向かう。
ブー・・ブーブーブーーーーーー!
ドアノブに手をかけて、暫く考える。このまま居留守を使えばあきらめて帰ってくれるのだろうか。そうすれば平穏な日常が取り戻せるだろうか。
「なー!おんねやろ桐生ちゃーんっ!」
「・・・・」
「蹴り開けんでー」
あえなく居留守作戦は失敗、まぁ蹴り破られるよりましかと青年はキーチェーンをはずし、鍵を開ける。
スタート、ワールドエンド 04
「すみません。寝てました」
「真顔で嘘つくところ、俺嫌いやないで」
孤児院から去った今、自分の最後の領域。そこに男が上がりこんでくるようになったのは一体いつの話か。ずいぶん前からだった気もすれば、つい昨日のような感じもする。
「今日は肉じゃがか?」
「そうですけど・・・」
「俺の好物やないか!さっすが桐生ちゃん、俺の口よう知っとる」
「毎日毎日毎日飯作ってたら、ある程度察しぐらいつきます」
隣で笑顔を見せる男が、東城会に口を挟んだのがそもそもの始まりで。すぐに電話が入り根掘り葉掘り容態を聞かれそれとなく大丈夫だからと伝えても、最終的には『暫くは安静にしていろ』と言われ今に至る。期間にして凡そ二週間、明日で三週間になるか。
「そのストレートな嫌味もたまらんなぁ。俺マゾやないはずなのに」
と同時に、この男が毎日のように現れるようになった。おそらく見張りなのだろうが、それにしたってこうまで堂々と上がりこんでくる必要はないはず。おまけに飯の催促までされ、ここ数年なかった"誰かとの食事"を気がつけば毎日している状態にまでなっていた。表の世界から目を背けたはずなのに、これでは普通の人間となんら変わりない。
「・・・・」
「どないかしたか?」
「・・・・」
気がつけば、睨んでいたらしい。けれどどれだけ鋭い眼光を向けても、この男はなぜか喜ぶだけで。否定していたがマゾそのものじゃないかと言いたくても相手のほうが人間的にも立場手にも上で、何も言えない。早く上へ昇りたいと、こんなにも切実に思う日が来るとは思っていなかった。しかも恩ある人ではなく、この男のためにとは。人生何があるかわからない。
「それにしたって、桐生ちゃんが料理こないに上手や思わんかったわ」
「孤児院にいた頃は、当番制で・・・それでも、これぐらいしか作れないですけど」
「何言うてんねや!桐生ちゃんの料理の味知ったら、他は全部カスやって。これはマジ」
小さな台所に男が二人も立てばそれは窮屈で、トントンと浅葱を切りながら、触れ合う肩にどうしてかやけに意識がいってしまう。
息がし辛くて、心臓が苦しくて。耳が熱くて顔が火照って。最近この男と共にいると自分がよくわからなくなる。それが余計に苛立って、抜け出しようのないスパイラルに落ちていく。
「あぶなっ・・」
「ぇ・・・っぅ!?」
我に返った時には既に遅かった、包丁の下に指がありどうしようもない状況。直後に走った痛みに右手を大きく上げる。
「ちょっ、見せてみッ」
その瞬間、右手がその上で掴まれた。何かと振り返ったときには、ざらりと生暖かい感触が一瞬にして全身を駆け巡る。瞬きも許されない、振り払うことも何故かできない。
「っ!!」
ほんの数瞬のことのはずなのに、握られた手の冷たさにゾクゾクと体が震えた。指の腹に伝う感触に、歯の隙間から見える舌の赤さに眩暈を覚えた。上目遣いに見られることに恐怖と対極のことを同時に見出した。
「止め・・ろっ!!」
奥底に潜む知らない名前のモノが突然ざわめき始め、それは一瞬にして体を支配する。意識をなくしてしまいそうな、甘い誘惑。一握りの理性がそれを引きとめ、渾身の力を込めて振り払った。
「なんや・・・ビックリしたか?」
「べ、別に・・・っ」
驚くのは向こうだ、わかっている。善意か果たして悪意かその違いはわからないが、少なくともこの瞬間は何もない単なる行為で。
「・・・大丈夫、です。大丈夫です・・から」
繰り返す、繰り返す。自分の気持ちを落ち着けるため、何度も繰り返す。今にも破裂してしまいそうな心臓を落ち着けるために、震える手を隠すために。繰り返した。
「そっ・・か。ならよかったわ」
「さっさと・・食べましょう、冷めてしまう」
「ほんまやな」
彼の表情は見えない、見なくていい。みてしまったら何かに気づくことになる。
気配は傍から遠くなり、手馴れた手つきで皿や箸、自分の茶碗などを取り出し始める。その音が当たり前のことになっていると気づいたとき、心の中で、何かにヒビが入る音が聞こえた。
誰もいなかった部屋、誰も来なかった部屋。
今は違う、この男が傍にいる。当たり前のように、存在している。
「・・・ぁ」
自分が自分でなくなる瞬間を、彼は見てしまった。
見上げたときに見えた男のいつもの笑顔に、あの時踏みしめた一歩が間違いであることに、漸く気づく。
← →
PR