いきなり来るなと釘を刺された日以来、毎朝電話をすることが真島の日課となっていた。
『今日は・・・来るんですか?』
「当然や。なんや?なんかあるんか?」
『いえ・・・』
だから今日も電話をする、毎朝同じ時間と言うわけではない。ひどく気まぐれで、けれど電話の向こうの声はコールの音が三回なるか鳴らないかで。必ず聞こえてくる。
「―――そういやまだ阿呆がなんや報復かしらんお前のことしつこう聞いてるらしいから、今日も線引っこ抜いとき。もしもの時のためにな」
『・・・わかりました』
「えぇ子や」
『・・・あの、兄さん』
「うん?」
機械の向こうでもわかるどもった声。何かを言いたそうで、しかし彼は何も言わず言葉を飲み込む。その音すら鮮明に。
『・・・なんでもないです。じゃぁ、待ってるんで』
ガチャン
ツー・・・ツーツー。
一方的に切れた電話、直ぐにまたかけ直せば今度はあの声ではなく無機質な機械音が永遠と流れ続ける。それを確認するのもまた、彼の日常となっていた。
「・・・ほんま、えぇ子やのぉ」
朝から笑いが、止まらない。
スタート、ワールドエンド 05
「どういうつもりだ」
何か言ったか、そう考えるよりも早く。老獪な紳士の張り詰めた声が背中に刺さる。
東城会本部、幹部会につれてこられたその帰り道、彼は呼び止められた。
「・・何がですか?」
「どういう、つもりだ」
もう一度、今度は明確な意味を含んだ同じ言葉が。真島の腹を抉る。明らかな怒気、にやりと唇を深めた。
「・・・別に、何も?」
「"別に"も"何も"もねぇ。俺を嘗めてんのか?真島」
「まさかっ。風間の親父を嘗めるやつなんて、いるわけあらしませんわ」
「・・・・」
暖簾に腕を押すように、ひらりとかわす彼。風間は、潜んでいる眉間の皺をさらに寄せた。このまだ三十路にもなっていない彼が、今までであったどんな人間より厄介なことに気づいたのは、つい最近だった。
「・・・・一馬はどうした」
「親父さんが大人ししろ言うたから。今日も家にいてますよ」
「電話が繋がらねぇのは、なんでだ?」
「さぁ?電話線、抜けてるんとちゃいます?」
どんよりと光る片瞳、濁りきった底に映る、我が子のような存在。始めてあったとき接点なんてまるでなかった筈なのに、今やこの男が子の生活を把握しきって、尚且つ情報を遮断している。
確かに自分が言った、安静にしろと。だがその期間はこんなにも長くなかった。あの子はとても律儀だから、今唯一の接点であるこの男のいうことをきちんと守っているのだろう。怒る相手は子ではない、へらへらと笑うこの男だ。
「そうや。今度俺、組持たせてもらえるんですよ」
「・・・嶋野から聞いた」
「あ、そうですか?それで俺、どうしても欲しいヤツがいるんですけど・・・」
「駄目だ」
「即答です・・か。名前もゆうてないのに」
肩をすくめ、息をつく。なんてことのない会話のはずなのに、隙を一切見せない。見せれない、隙を見せたが最後。食われる。東城会で指折りのヒットマンと言われた男の鋭い眼光が、真島を貫く。
「・・・ずるいわぁ」
「あぁ・・?」
「親父さん、アイツの昔しっとんねやろ?」
「・・・・」
「そないに大事なら、この世界に入れんかったらよかったのに。アイツは俺だけやないで?直に、俺以外にも目ぇつけられる」
「・・・・」
「そやろぉ?親父さん」
しかし正論を突かれてしまえば、風間ででもどうしようもなかった。子が熱望したからしぶしぶ了承した世界、本当は見て欲しくなかった。知って欲しくなかった。この手が赤い血で汚れきっていること、そしていずれは気づくだろう。この真っ赤な手で、この両親の命をも奪ったことを。
「贖罪ですか?それ、いつでも引き金引ける銃を隠し持ってるのと同じでしょ」
「・・・ッ」
「まぁ俺にゃ関係ないですけどね。アンタのこと、親父からよう聞いてるんで」
「・・・そりゃ、脅しか?」
「まさか恐れ多い。ただ、少し、時間が欲しいだけなんで」
にやりと、笑みを深めた。
あぁ狂犬、文字通りだ。一度喰らいついたら離さない、その毒牙にまさに掛かろうとしている子を、むざむざ巣の中に放り込めるわけがない。だがこの狂犬の恐ろしいのは、そのために使える頭があることだ。ただの気違いではない。
「真島ァ!!」
「っ!お、親父ィッ!?」
遠くで聞こえる、旧知の声。けれど動かない。憎むべきものを見るように、男はただ彼を見る。
「お前こんなとこにおったんか!探しとったでェ!!」
「あ。俺もう今帰ろうと・・・」
「何言うてんねや!今から飯食いに行くさかい!お前も来い!!」
「えー!?俺今日は寄るところが」
「あ!?んなの後回しじゃ!」
嶋野はちらりと男を見るも、さらりと視線をそらした。旧知だからわかる、相手の機嫌。声をかけるべきではないと判断したのか、彼の肩を掴み強引に連れて行く。
「・・・じゃぁ、俺これで」
動かない、動けない男を前に彼は笑みを浮かべる。それは勝者が見せるモノであり、立ち竦む男はぎゅうと、ただ拳を握り締めることしかできなかった。
一馬、この男に嵌るな。
坂道の先にあるのは、悠久の奈落だけだ。
無理やり連れてかれた彼の声が、笑いが、鼓膜に残り続けた。
来るなら一報を入れてくれといってから数日。気が付けば視線は毎日、電話機のほうへ向けていた。
気まぐれを絵に描いたような人は電話でさえ気侭に己がままに。何回か鳴らして切れることを恐れた桐生は、電子音がなる度に鼓動を高鳴らせ慌てて受話器を取った。
「今日は・・・来るんですか?」
『当然や。なんや?なんかあるんか?』
「いえ・・・」
その言葉に心底安堵する自分がいる。もし来ないという日の電話なら・・・そんな電話を受けた日はいまだ嘗て一度もないけれど、ゼロではない確率は、常に自分の心に恐怖の影を静かに落とした。
相手は知ってか知らずか、無言の後に思い出したように口を開く。
『―――そういやまだ阿呆がなんや報復かしらんお前のことしつこう聞いてるらしいから、今日も線引っこ抜いとき。もしもの時のためにな』
「・・・わかりました」
『えぇ子や』
「・・・あの、兄さん」
(早く、早くきてくれますか?)
『うん?』
溢れる感情が、思いもかけない言葉を生み出した。言ってはいけない言葉の分別ぐらい付いている。飲み込んだ言葉に窒息しそうになりながらも、何とか言葉を摩り替える。
「・・・なんでもないです。じゃぁ、待ってるんで」
ガチャン
ツー・・・ツーツー。
そっけなく、切ってしまう電話。直ぐに後悔が心を占めてだけど彼の電話番号を知らない彼にはもう、どうしようもない。受話器を元の場所に戻して、呆然と呟く。
「・・・兄さん」
断絶した世界で、彼が外であり今の青年のすべてだった。
スタート、ワールドエンド 06
玄関口の直ぐ隣、壁にもたれ掛かりながら膝を曲げ座り込む。
いつ来てもいいように、ブザーが鳴って直ぐに鍵を開けられるように。そうしてもうどれ位経つか。
「・・・・・」
ちらりと、彼は壁時計に目を向ける。時刻は23時を過ぎた、もうすぐ日付が変わろうとしているのに。今部屋にいるのは彼一人だけだった。
「・・・・・」
昔なら、それは当たり前のことで当然のことで。しかし今部屋を見渡せば、冷めた二人分の料理がいつ食べられるのかと、ラップをかぶせられた状態で置いてある。料理だけではない、碗があり皿があり箸があり。明らかにそこは一人ではなく、二人の空間だった。
「・・・・・」
自分の領域が、ここまで居心地が悪いものだなんて思ったことはなかった。一人の自分がいるに値する、一人きりの場所最後の領地。それがここだったはずなのに、いつの間にか部屋がやけに広く、静かに感じるようになってしまっている。
「・・・兄、さん」
すべての原因である人は、今日来ると声だけを残して現れなかった。あのときの声は確かにそういったはずだ、来ないなんて一言も言わなかったし気まぐれでも約束を破る人ではなかったはず。大丈夫、きっときてくれる、きてくれるはずだから。
今にも発狂しかない自分の心を必死に言い訳で取り繕う、けれども待てども待てども。扉の開く気配は一向に見えない。
「・・・兄さん」
秒針が時を刻む音が、耳を劈く。両手で耳を塞いでも、心臓の音がそれとリンクして強制的に脳へと刻んだ。
時が経つ、今日が終わる、彼のいない日が生まれる。
そして自分は一人で、これからもずっと・・?
「っっ!!」
理解したくない現実に目を見開いて、そしてぎゅうと目を瞑る。
一人でも平気なように立てるように、恩人に恩を返して独り立ちできるように入ったこの世界で出会ったのは、信じられないほどずっと側にいてくれる男。邪険して、入れないようにしていた心の中に気が付けば居座って、占領してしまった。
「・・・真じ・・ま、兄」
この部屋はまさに、自分の心の表れ。すっかり準備できてしまった二人分の空間に、今は一人ぼっち。今更、今更いなくなられても。この開いた胸はどうしようもなくて埋める方法も知らなくて。
「ごろう・・・さんッ」
助けてよ、あの時みたいに。
「桐生、ちゃん?」
・
・
・
「桐生ちゃん、桐生ちゃん」
「っ!!?」
「どないしたん。鍵も開けっ放しで」
想い過ぎた幻聴かと、けれど二度目の声で桐生は弾かれたように目を開く。飛び込んできたのは、同じように驚いた表情を見せる真島の姿。
「部屋真っ暗やさかい、てっきり寝たもんかと思ったわ・・」
「・・・・・」
「時間遅れて悪かったのぉ。親父に捕まって今まで宴会に強制召喚されとったんや」
「兄さん・・・」
「それでこれ、土産に美味いジェラート買ってき・・・っ?」
「・・・・・兄、さん」
「桐生ちゃん?ひょっとして泣いとら・・・」
ガコンッ。
「ッ・・・!」
言葉よりも早く、桐生の手は真島を捕らえ胸に飛び込んで。体勢の取れていなかった彼は後ろに倒れこむように、玄関に背中を打ち付けた。彼の手にしていた白い小さな箱は床に落ち、箱の中身が、隙間からフローリングの床に流れ出る。
「俺を、一人にしないでくださいっ」
「っ!?な、なんかあっ・・」
「俺を、放っていかないで下さい・・・ッ!」
泣いているのかと、聞く必要なんてなかった。じわりと肩に伝わるそれは間違いなく桐生の流した涙。震える手は孤独の証。もうすぐ二十歳になろうかという彼は、この一人の部屋恐怖に身を浸していた。
「・・・ごめん」
「っ・・」
「ほんま、ごめんな」
・・・いろいろ目測を見誤ったのかもしれない、だが結果的にはこれで動く舞台がある。何より今突き動かされる感情の前には、目測などほんの些細なことでしかなくて。
「・・・かずま」
自分よりもまだ少し狭い肩に、手を回す。不意に呼ばれたことのなかった名前を呼ばれ、涙に潤ませた瞳が、真島をじっと見つめる。
ぞくりと、心が歓喜の声を挙げた、自然と笑みが深まる。
「・・・兄、さん?」
ほんの一瞬に、薄く開いた唇を重ねた。びくりと驚きに震える肩を、回した左手で押さえ込む。逃げれないように、逃がさないように。
「ぁっ・・にィ、さッ」
「もう、俺のもんになっとき・・・な?」
そして右手でそっと、鍵をかけた。
もう逃げ場は、どこにもない。
← →
PR