めでたし。めでたし。
パラリ、ページをめくって静かに閉じる。パタリと軽い音が鳴れば、物語はそこで終わり。ついさっき読み終えた話を反芻する。みんなが幸せになれるかなれないか。前者が八割で後者が二割で。物語は大抵誰も彼もが幸せになれるように組まれている。けれども、幸せになれてもなれなくても。パタリと閉じればそこで終わり。
めでたし。めでたし。
くるくるくるくる泡になった人魚姫。泡になり。海に溶け。紅い靴を履いて。百年の眠りについて。眠り姫は死ななかったけれども。幸せになれたけれども。いつか、いつの日か幸せになるまで。ずっと、百年。待って待って待ち続けて。
考えてみれば、いつも不幸なのは女の人ばかり。最後は幸福になれたとしても。ずっとそれを待ち続けるばかり。
(王子様は幸せなのに)
けれども、唯一、幸福の王子だけが、何もかもを人に与えて死んでしまった。
(身を削って。命を削って。金色もいつの間にか鉄の色)
それに怖くなって、本を置くと走り出した。ソファーに座っている人を見つけて、ぽんっと膝の上に飛び乗った。随分勢いをつけたのに、彼は欠片も姿勢を崩さなかった。ただ、おやっと不思議そうな顔をした。突然飛び乗ったのに、怒らないのもいつも通り。どうやら新聞を捲っていたらしいのに、何も言わないのもいつも通り。
「おじさんは、人にあげるばっかりね」
そっと手を伸ばす。指を無骨な頬に触れさせてそう言えば、訝しげな表情が返った。急にどうしたと聞く声は心配そうで、何でもないのとゆっくりと首を振った。
そう、お姫様を助けるのはいつも王子様で。貧しい者を病める者を助けるには、魔法が使えなければ身を削るしかなくて。この世界は悲しいほどに現実で。物語ではなくて。
お姫様は一人じゃないから。助けなくてはならない人は無数にいるから。
だから、幸福の王子は幸せにはなれない。
(鉄色さえも削って、削って、削り過ぎた跡には何も)
「ねぇ、おじさんは」
辛くないのと聞こうとして、言葉を飲み込む。少女はお姫様で、彼は勇者で。彼女の王子様で。どこにいても、何があっても助けてくれて。ずっとそう。百年たっても。茨に囲まれても。助けてくれることを知っていて。だから、助けられる立場のものは、そんなことは聞けはしない。彼は笑って、嘘を答えるだろうから。
彼女は、お姫様だったから。
だから、自分がツバメになれないことなんて、とうの昔に知っていた。
反 幸 福 論
ルビー一つ運べない。この手は幼すぎて飛ぶことすらできない。
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その日は月の綺麗な日だったから。
だから、軽く殺し合いでもしようかと思った。
多分、それは殺したい相手が自分より先に死んでしまいそうな、いなくなってしまうような、そんな根拠の無い予感に駆られたせいかも知れない。
それとも、やっぱり月が綺麗だったせいかもしれない。
そんなことは、まぁどっちでもよかったのだけれども。
だから、相手の家を目指して、酔ったような足取りで道を歩いた。理由にしたはずの月は途中で隠れ、暗闇が濃く辺りを覆っていた。帰りは雨が降るかも知れないと思い、なおさら急いだ。肩をぽんぽんとバットで叩く。見慣れた道だった。酒を飲みに行くため歩いたり。意味なく向かったり。土産を持っていったり。来るなといわれているのに会いに行ったり。何度も繰り返し歩いた道だった。けれども、途中、冗談のように道は遮られていた。
白い線が、一本。灰色の道路を横切るように引かれている。
黒く塗りつぶしたような闇の中でも、それは酷く目立った。思わず、その直前で立ち止まる。一種後、子供の落書きかとそう思い、踏み越そうとした瞬間だった。
「動かないで」
月は見えなかった。雲は霞んでいた。それでも、不思議とそれは見えた。
それだけが、見えた。
黒光りする、銃口。白い手に握られたリボルバー。
気づいたときは、それは随分近くにあった。しかし、止まる必要などなかった。そんな脅しは聞かないで、問答無用に近寄り、バットを一振りすればそれで済んだ。けれども、わざわざ立ち止まったのは、ただ純粋に驚いたからだ。銃口を向けてきた相手が、あまりに意外だったからだ。
まず、銃口を握っている白い指に目がいった。長い黒髪が僅かになびく。細い肢体が、闇の中に優美な線を描いていた。十七、八を超えるか超えないかの少女だった。甘やかさの中に、強さを感じさせる顔立ち。その頬の白くすべらかな線と大きな瞳は、今も昔も変わりない。
見慣れているはずなのに、まるで別のものに見えるその姿。
「その線を、越えたら撃つから」
哀願する響きはそこにはなかった。ただ、淡々と事実のみを語る。少女が手に持っているのは、安物のリボルバーだった。握りにくいグリップ、黒く光る銃身、耐久度の低いシリンダーを持った粗悪な武器。使い捨ての、弾が出るだけの壊れやすい銃。それでも、これだけ近くで狙い撃つには十分だった。細く白い指はしなやかで、その向こうの目が、まるで猫のように光っていた。
まるでドラマのワンシーンのようだ。
それも、酷く喜劇的な。
「なんやぁ、桐生ちゃんのとこの遥ちゃんやないかい? 一体どないしたんや?」
「―――――とぼけないで」
口調は冷たかった。一端のやくざでも、自分にこんな口をきく人物はいない。一体、いつの間にこの少女はここまで育ったのか?こんな風に育ったのか?そう思ったら、酷く愉快で、面白かった。
「おじさんの、ところに行く気なら帰って」
「どうしてや?」
そう言って、所々へこんだバットを肩の上で弾ませる。それに、少女はちらりと道路に引かれた線を見た。真っ直ぐに、チョークで引かれた白線。まるで子供の落書きのようだ。ここから先は自分の領地だと、歪んだ線を引く、子供の遊び。何の意味も無い国境。それでも、向けられている銃口は本物だ。
ここと、ここが境界線。踏み越えれば戦場だ。
「今日は、薫さんが、死んで三日目だから」
少女の声に、感情は無かった。その声は、静かに凍っていた。
ふと思いをはせる。そういえば、すっかり忘れていた。覚えていたはずなのに、気がつけば記憶から零れ落ちていた。
あの女性が死んで三日目。
些細なことで逆恨みしたヒットマンの、流れ弾から、大事な男を庇って三日目。
最期に笑って、取り乱した顔を叱り付けて、礼を言ったというのだから、あの女らしい話だった。
「ああ、そうやったな……誰も彼もが、桐生ちゃんを一人にしてよう死ぬわ」
ぼんやりと呟く。ほんまになぁと言いながら、ぶんとバットを振る。それに、少女は頷いた。
「そうね、だから、今のおじさんは死ぬことに惹かれてる」
手に持った銃口が揺らがない。その指は重さを感じないかのように固まったまま。まるで冗談のように、少女が銃を構える光景は続く。
「今のおじさんは簡単に死ぬことへ傾いてしまうの。だから、真島のおじさんは桐生のおじさんに会わないで。このまま、帰って」
「だから、どうしてや?」
「あなたからは、血の匂いがするもの」
さらりと少女はそう言った。
鉄錆びの、紅色。滴る肉の色。
そんなものは、この少女には分からなかったはずだというのに。
「何や、そんなことまで、分かるようになってしもうたんか?」
尋ねる。少女は答えなかった。何も言わなかった。
それが答えだった。少女は、大切に育てられた。それこそ、ガラスの箱に仕舞われているかのように。閉じ込められているかのように。大切に大切に育てられた。血に触れないように。汚れないように。歪まないように。その体に万が一でも傷などつくことのないように。健やかに優しいままで育つように、祈るように大切にされた。けれども、目の前で自分を守って傷つく人がいれば。あるいは、箱の周りが血で汚れれば。
その肌が汚れなくても、紅色の匂いも、色も覚える。
錆びた、色の紅。普通の子供として育つには、彼女はあまりに色々なものを見すぎた。
その果てが、この光景なのか。とそう思う。
撃鉄の降ろされた、リボルバーを握って、戦場に立つように立っている。
「今、あなたがおじさんを殺そうとしたら、きっとおじさんは死んでしまうから」
「何やぁ、桐生ちゃん。そんなにへこんどるんか?」
「うん。きっと、自分でも気づいてないけど。すごく、すごく疲れてる。おじさんを、止めるものはもうないから。薫さんは死んでしまった。東城会も、今は安定してる。私は――もう育ってしまった」
それは、自嘲的な響きだった。そう言って、自分の体に少女はちらりと目を走らせた。育った足、手、腕。女の形に、あと少しで辿り着く体。幼さを失った体は、あと少しで育つことを止める。
いつまでも子供の腕だったのなら、銃口など構えられなかった。
「育ったなぁ。リボルバー、構えられるくらいにな」
「『一人でも、生きていける』くらいに、だよ」
揶揄する響きに答えた声は、欠片も揺らがない。
真っ直ぐにこちらを睨む瞳は、落ち着き過ぎていて逆に恐ろしい。感情がそこにない。静かな湖面のようだ。欠片も揺らがない、感情を握り潰して、殺している。機械のようなその表情が気に入らなくて、軽く尋ねた。
「桐生ちゃんは、嬢ちゃんのモンやないで?」
「そうだよ。おじさんは、あなたのものでも、私のものでもない。薫さんのものだった。でも、今は誰のものにもなれない」
一瞬だけ、声に悲しさが滲んだ。哀れんでいるのか、悲しんでいるのか。自分のことをか、彼のことをか。その心は分からなかった。ただ、ほんの少しだけ唇を噛み締めた。その動作だけが、昔の強いけれども弱かった少女の面影を引き戻す。
「なれないんだよ」
守ると誓った者を守れなかったのならば、最早、彼は孤独になるしかないのだ。
そのことを嘆きながら、徐々に少女の顔から表情が消えていく。リボルバーを必死になって構える腕。ほんの一瞬だけ、その白い指が、痛々しいものに見えた。
「ああ――――」
あまりにも、孤独な、その姿。
愛しているのに、愛されているのに。本当の意味で、愛されないことを知っている。
「嬢ちゃんは、女になってしもうたんやなぁ」
ゆっくりと、呟く。それに少女は答えた。淡々と。嘆きも、誇りもせず。変わったものは、変わってしまった。それに、何も感じていないかのように。
「そう、だから私が守らないといけない」
鉄の軋む音がする。リボルバーがゆっくりと鳴く。そんな気がした。それは幻聴だったけれども。合わせるように、バットをもう一度肩にぶつけた。
「そうか――――――」
ぽんっと軽い音。肉を打つ、硬い音。目の前にいるのは、あの少女ではなかった。そのことを確認する。小さな、かわいらしい、傷つけてはいけない生き物ではなかった。ただ、こちらを殺すつもりで立っていた。迷うことなく、そこにいた。
小さく、呟く。
「なら、本気でいかせてもらうわ」
重く曇った空は、灰の色に滲む。風が遠くで渦を巻いている。水を孕んだ空気が、徐々に強くなる。
やがて、最初の一滴が地に落ちる。まるで涙のように、静かに落下する。
白線が滲む。じわりと水滴の中に拡散する。
それが合図だった。男は、踏み越しては、行けない線をあまりに軽く踏み越した。そして、少女は躊躇わなかった。
銃声が鳴り響く。終幕を告げる、ベルのように。
何かに別れを、告げるかのように。
サタデー・ナイトスペシャル
安物の拳銃と、どうしようもない愛情
だから、軽く殺し合いでもしようかと思った。
多分、それは殺したい相手が自分より先に死んでしまいそうな、いなくなってしまうような、そんな根拠の無い予感に駆られたせいかも知れない。
それとも、やっぱり月が綺麗だったせいかもしれない。
そんなことは、まぁどっちでもよかったのだけれども。
だから、相手の家を目指して、酔ったような足取りで道を歩いた。理由にしたはずの月は途中で隠れ、暗闇が濃く辺りを覆っていた。帰りは雨が降るかも知れないと思い、なおさら急いだ。肩をぽんぽんとバットで叩く。見慣れた道だった。酒を飲みに行くため歩いたり。意味なく向かったり。土産を持っていったり。来るなといわれているのに会いに行ったり。何度も繰り返し歩いた道だった。けれども、途中、冗談のように道は遮られていた。
白い線が、一本。灰色の道路を横切るように引かれている。
黒く塗りつぶしたような闇の中でも、それは酷く目立った。思わず、その直前で立ち止まる。一種後、子供の落書きかとそう思い、踏み越そうとした瞬間だった。
「動かないで」
月は見えなかった。雲は霞んでいた。それでも、不思議とそれは見えた。
それだけが、見えた。
黒光りする、銃口。白い手に握られたリボルバー。
気づいたときは、それは随分近くにあった。しかし、止まる必要などなかった。そんな脅しは聞かないで、問答無用に近寄り、バットを一振りすればそれで済んだ。けれども、わざわざ立ち止まったのは、ただ純粋に驚いたからだ。銃口を向けてきた相手が、あまりに意外だったからだ。
まず、銃口を握っている白い指に目がいった。長い黒髪が僅かになびく。細い肢体が、闇の中に優美な線を描いていた。十七、八を超えるか超えないかの少女だった。甘やかさの中に、強さを感じさせる顔立ち。その頬の白くすべらかな線と大きな瞳は、今も昔も変わりない。
見慣れているはずなのに、まるで別のものに見えるその姿。
「その線を、越えたら撃つから」
哀願する響きはそこにはなかった。ただ、淡々と事実のみを語る。少女が手に持っているのは、安物のリボルバーだった。握りにくいグリップ、黒く光る銃身、耐久度の低いシリンダーを持った粗悪な武器。使い捨ての、弾が出るだけの壊れやすい銃。それでも、これだけ近くで狙い撃つには十分だった。細く白い指はしなやかで、その向こうの目が、まるで猫のように光っていた。
まるでドラマのワンシーンのようだ。
それも、酷く喜劇的な。
「なんやぁ、桐生ちゃんのとこの遥ちゃんやないかい? 一体どないしたんや?」
「―――――とぼけないで」
口調は冷たかった。一端のやくざでも、自分にこんな口をきく人物はいない。一体、いつの間にこの少女はここまで育ったのか?こんな風に育ったのか?そう思ったら、酷く愉快で、面白かった。
「おじさんの、ところに行く気なら帰って」
「どうしてや?」
そう言って、所々へこんだバットを肩の上で弾ませる。それに、少女はちらりと道路に引かれた線を見た。真っ直ぐに、チョークで引かれた白線。まるで子供の落書きのようだ。ここから先は自分の領地だと、歪んだ線を引く、子供の遊び。何の意味も無い国境。それでも、向けられている銃口は本物だ。
ここと、ここが境界線。踏み越えれば戦場だ。
「今日は、薫さんが、死んで三日目だから」
少女の声に、感情は無かった。その声は、静かに凍っていた。
ふと思いをはせる。そういえば、すっかり忘れていた。覚えていたはずなのに、気がつけば記憶から零れ落ちていた。
あの女性が死んで三日目。
些細なことで逆恨みしたヒットマンの、流れ弾から、大事な男を庇って三日目。
最期に笑って、取り乱した顔を叱り付けて、礼を言ったというのだから、あの女らしい話だった。
「ああ、そうやったな……誰も彼もが、桐生ちゃんを一人にしてよう死ぬわ」
ぼんやりと呟く。ほんまになぁと言いながら、ぶんとバットを振る。それに、少女は頷いた。
「そうね、だから、今のおじさんは死ぬことに惹かれてる」
手に持った銃口が揺らがない。その指は重さを感じないかのように固まったまま。まるで冗談のように、少女が銃を構える光景は続く。
「今のおじさんは簡単に死ぬことへ傾いてしまうの。だから、真島のおじさんは桐生のおじさんに会わないで。このまま、帰って」
「だから、どうしてや?」
「あなたからは、血の匂いがするもの」
さらりと少女はそう言った。
鉄錆びの、紅色。滴る肉の色。
そんなものは、この少女には分からなかったはずだというのに。
「何や、そんなことまで、分かるようになってしもうたんか?」
尋ねる。少女は答えなかった。何も言わなかった。
それが答えだった。少女は、大切に育てられた。それこそ、ガラスの箱に仕舞われているかのように。閉じ込められているかのように。大切に大切に育てられた。血に触れないように。汚れないように。歪まないように。その体に万が一でも傷などつくことのないように。健やかに優しいままで育つように、祈るように大切にされた。けれども、目の前で自分を守って傷つく人がいれば。あるいは、箱の周りが血で汚れれば。
その肌が汚れなくても、紅色の匂いも、色も覚える。
錆びた、色の紅。普通の子供として育つには、彼女はあまりに色々なものを見すぎた。
その果てが、この光景なのか。とそう思う。
撃鉄の降ろされた、リボルバーを握って、戦場に立つように立っている。
「今、あなたがおじさんを殺そうとしたら、きっとおじさんは死んでしまうから」
「何やぁ、桐生ちゃん。そんなにへこんどるんか?」
「うん。きっと、自分でも気づいてないけど。すごく、すごく疲れてる。おじさんを、止めるものはもうないから。薫さんは死んでしまった。東城会も、今は安定してる。私は――もう育ってしまった」
それは、自嘲的な響きだった。そう言って、自分の体に少女はちらりと目を走らせた。育った足、手、腕。女の形に、あと少しで辿り着く体。幼さを失った体は、あと少しで育つことを止める。
いつまでも子供の腕だったのなら、銃口など構えられなかった。
「育ったなぁ。リボルバー、構えられるくらいにな」
「『一人でも、生きていける』くらいに、だよ」
揶揄する響きに答えた声は、欠片も揺らがない。
真っ直ぐにこちらを睨む瞳は、落ち着き過ぎていて逆に恐ろしい。感情がそこにない。静かな湖面のようだ。欠片も揺らがない、感情を握り潰して、殺している。機械のようなその表情が気に入らなくて、軽く尋ねた。
「桐生ちゃんは、嬢ちゃんのモンやないで?」
「そうだよ。おじさんは、あなたのものでも、私のものでもない。薫さんのものだった。でも、今は誰のものにもなれない」
一瞬だけ、声に悲しさが滲んだ。哀れんでいるのか、悲しんでいるのか。自分のことをか、彼のことをか。その心は分からなかった。ただ、ほんの少しだけ唇を噛み締めた。その動作だけが、昔の強いけれども弱かった少女の面影を引き戻す。
「なれないんだよ」
守ると誓った者を守れなかったのならば、最早、彼は孤独になるしかないのだ。
そのことを嘆きながら、徐々に少女の顔から表情が消えていく。リボルバーを必死になって構える腕。ほんの一瞬だけ、その白い指が、痛々しいものに見えた。
「ああ――――」
あまりにも、孤独な、その姿。
愛しているのに、愛されているのに。本当の意味で、愛されないことを知っている。
「嬢ちゃんは、女になってしもうたんやなぁ」
ゆっくりと、呟く。それに少女は答えた。淡々と。嘆きも、誇りもせず。変わったものは、変わってしまった。それに、何も感じていないかのように。
「そう、だから私が守らないといけない」
鉄の軋む音がする。リボルバーがゆっくりと鳴く。そんな気がした。それは幻聴だったけれども。合わせるように、バットをもう一度肩にぶつけた。
「そうか――――――」
ぽんっと軽い音。肉を打つ、硬い音。目の前にいるのは、あの少女ではなかった。そのことを確認する。小さな、かわいらしい、傷つけてはいけない生き物ではなかった。ただ、こちらを殺すつもりで立っていた。迷うことなく、そこにいた。
小さく、呟く。
「なら、本気でいかせてもらうわ」
重く曇った空は、灰の色に滲む。風が遠くで渦を巻いている。水を孕んだ空気が、徐々に強くなる。
やがて、最初の一滴が地に落ちる。まるで涙のように、静かに落下する。
白線が滲む。じわりと水滴の中に拡散する。
それが合図だった。男は、踏み越しては、行けない線をあまりに軽く踏み越した。そして、少女は躊躇わなかった。
銃声が鳴り響く。終幕を告げる、ベルのように。
何かに別れを、告げるかのように。
サタデー・ナイトスペシャル
安物の拳銃と、どうしようもない愛情
気がつけば、彼女が料理をするようになったのはいつからだっただろうか。
子供は、親の知らないところで成長するというのは本当だった。そう嘆くように呟いたとき、伊達にそんなもんだと疲れた顔で肩を叩かれたのは記憶に新しい。今、遥はガスコンロの上にフライパンを置いていた。その傍には、合わせ終わった調味料と、切り終わった野菜と肉。慣れた動作で、それをフライパンに移すと炒めていく。いつの間にそんなことができるようになったのか。そう問い掛けると、嬉しそうに声を立てて笑った。
「ずっと前だよ。隠れて練習してたの」
高い笑い声が響く。ひどく大人びているというのに、声は普通の子供のものと同じ高さだった。エプロンを結び、少しだけ爪先立ちで料理を作っていく。柔らかな湯気が立ち上り、ジュージューという音が続く。穏やかな昼下がりだった。まるで、一年前の事件が嘘だったかのような。
ずっと、二人だけでここで静かに暮らしていたかのような。
そんな錯覚に陥って、後ろからその姿を見つめる。
白くて丸い頬は甘い輪郭を描き、人の肌というより何故か雪を思わせた。
触れれば、溶ける。そんな気がする。
ここにあることが、まるで奇跡のような。
(まだ小さい)
けれども。
(いつの間にか、大きくなった)
一年、まだ経っていない。それでも、子供は育つことに不意に気づく。少しずつ、少しずつ、緩やかに彼女が育っていくことでそれを知る。時が着実に積み重なっていく。
今はまだ小さな後姿を見ながら、育った姿を脳裏に描く。
やがて手が伸びて、足が伸びて、あいまいな、ただ優しいばかりの輪郭が削れて。花が咲くように、蛹が破れるように。あるいは、子犬がしなやかな獣になるように。少女は変わっていく。
いつか、育ちゆく。
彼女のように。
かつて自分の愛した女性の面影が揺れる。長い髪と、細く、けれども凛とした立ち姿と。その光景は切なく、あまりに儚く。僅かに目を逸らせば、光と共に消えていく。振り向いて、笑う。その姿を、思い出そうとして、うまく思い描けない。
そのことに、眩暈を覚えた。
「どうしたの、おじさん?」
視線を感じたのか、遥が振り向いた。それと同時に、重なっていた残像は音も立てずに霧散する。子犬のような大きな目がこちらを見る。一瞬、言葉に詰まり、けれども淀みなく答えた。
「いや――遥も大きくなったなと思ったんだ」
そう言うと、ふふっと彼女は笑った。絶え間なくフライパンを揺すりつつ、小さく胸を張る。
「そうだよ。背だって随分伸びたんだから」
笑顔を返すと、彼女も微笑んだ。同時に、何か油が跳ねる音が響いた。彼女は笑みを消すと、慌ててフライパンに向き直った。火を弱めて、胡椒を手に取る。その姿は慣れきっており、安定感がある。フライ返しを動かす様子も、堂に入ったものだった。そんな彼女の成長が嬉しく思えて目を細める。
「待っててね、もう少しでできるから」
柔らかな声が告げる。
甘い声が嬉しげに言う。
『待っててね、もう少しで―――』
ぐらりと、景色が揺れた。
どこかの酒場で。
緩やかな橙色の灯りの中で。
満たされきった幸福な場所で。
かつて、同じ言葉を、聴いたことがあった。
(失って、失って、失って)
全て空っぽになった先に、この小さな後姿だけが残った。
やわらかく、温かく幼い姿。唯一残された大切な家族だった。
けれども、不意に失った者と背中が重なる。
誰一人として守ることのできなかったこの手を。
擦り抜けて行った儚い姿が。
そのせいで、思案に沈む。後姿を見つめながら思う。
(やがて手が伸びて、足が伸びて)
幼い姿が失われて。
いつか自分以外の誰かを見つけて、生きて、生きていけるまで。
(俺は、お前を守っていけるだろうか?)
小さな後姿に思う。
やがて、この手を離れて、彼女が生きていけるまで。
まるで祈るように、願うことはひとつだけだ。
(お前が、生きて、生きて、幸せになれるように)
そのためならば、この身など。
壊れたとしても構わなかった。
幸 福 論
ただ、幸せにと、まるで祈るように。
晩秋の風は冷たく、空は澄み切ってどこまでも高い。その青い空に向かって、黄色く染まった銀杏並木が、梢を揺らしていた。風が吹くたび、黄色い葉がさらさらと音をたて降り注ぎ、まるで別世界にいるような気分になる。
桐生一馬は、銀杏の木の下で、人を待っていた。すぐに、待ち人は現れた。
「おじさん!」
黄色いカーテンの向こうから走ってくる女性。白いスカート、青いセーター、揺れる髪。一瞬、由美と見間違うほど、母親によく似た、可愛い娘。
「ゴメンね、遅くなっちゃった」
すぐ目の前に立つ遥は、もうすっかり大人の顔だった。薄い化粧と、つやつやと輝く唇。
「おじさん、元気だった?」
「ああ」
桐生が短く答えると、遥はにこっと微笑んだ。その時、ようやっと追いついたのか、遥の後ろに大男が立った。
「遥。速いでホンマ」
かけられた声に遥が振り返る。そこには、郷田龍司が、あのスーツ姿で立っていた。
「だって、おじさん待たせちゃ悪いでしょ?」
遥は軽く言う。それから、桐生に向き直り
「彰がぐずっちゃって、家出るの遅くなっちゃったの。ほら、彰、ご挨拶」
遥に促され、龍司が一歩桐生に近付く。両手に抱きかかえたそれは、間違いなく赤ん坊だった。壊れものを扱うように、龍司はそっと、赤ん坊の顔を桐生に向ける。
「ほれ、彰。おじいちゃんやで」
言われて、桐生はその顔を覗き込んで・・・
「!」
次に見えたのは、天井だった。薄暗い天井。次に、今見ていたのが夢だと理解する。
「・・・何だったんだ、今のは」
小さく呟く。鮮明な、オールカラーの夢。あれでは、龍司と遥が結婚しているみたいではないか。しかも子供まで・・・。
桐生は頭を一つ振った。タバコでも吸うかとベッドを降りる。部屋を出て、ふと、遥の部屋をのぞいてみた。
引き戸を少し開けて覗くと、遥は布団を蹴って、何もかけずに眠っていた。寒いのか、小さな手足をひきつけて、丸くなっている。
そっと部屋に入って、桐生は布団をかけなおしてやった。黒い髪に触れて、少し微笑む。遥はまだ十歳だ。あと十年は夢の世界のようにならない。あと十年は、こんな穏やかな生活が続くはずだ。
「頼むから、あんな男と結婚しないでくれよ」
小さく言って、桐生は親馬鹿な自分に苦笑しつつ、部屋を後にした。
遥「おじさん、何だか私お姫様みたい!」
桐生「そうか、泡風呂が気に入ったか。」
遥「違うよ、バブルバスって言うんだよ?龍司のおじさんが言ってたもん。」
桐生「そ、そうなのか。」
遥「龍司のおじさん、次はワイン風呂の素をくれるって言ってたよ。楽しみだなぁ♪」
桐生「ワイン風呂??…未成年でも入れるのか?」
遥「え~?入れると思うけど…。龍司のおじさん、新しいお家には大きなお風呂作ってくれるかなぁ。」
桐生「遥は大きい風呂が良いのか?」
遥「うん!だって私がもっと大きくなっても、ずぅっとおじさんと一緒に入れるでしょ?(天使の微笑み)」
桐生「遥…。(いつまで一緒に入ってくれるのやら…)」←もはや父親気分
遥「それに、大きなお風呂だったら龍司のおじさんとも入れるしね!(ニッコリ)」
桐生「……龍司?(眉ピクリ)」
遥「うん!龍司のおじさんは狭いお風呂が嫌いなんだって。…あ、龍司のおじさんの家のお風呂、凄いんだよ!!テレビで見た温泉みたいで…」
桐生「…………龍司と風呂に入った事あるのか…?」
遥「?…うん。」
桐生「……………………遥、俺は先に上がって一発龍司を殴ってくるから、お前はいつものように100まで数えてから出るんだぞ。」
遥「…う、うん?」
桐生「あの野郎…ウチの遥と風呂だ!?100年…いや、1000年早いっっ!!!!」(ヒートゲージ満タン)
遥「……三人で仲良く一緒に入りたいだけなんだけどなぁ。(ブクブク)」
真島のおじさんちのお風呂も大吾のお兄ちゃんちのお風呂も広かったなぁ…。
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